日本遺産の町・益田/益田氏400年の栄華
海に国境のなかった中世、産物や水運、
天然の良港に恵まれた益田では
東アジアとの交易が盛んに行われ、
独自の文化が花開きました。
繁栄と平和を支えたのは、領主・益田氏。
日本遺産に認定された益田では、
中世の面影に出合えます。
七尾山・住吉神社の山門
一級河川・高津川と、益田川が町の中心部を流れる益田市。鮎が遡上(そじょう)する恵み豊かな川は下流域に広大な平野や良港をつくり、中国山地から材木や銅などの鉱物資源を運ぶ水運の役割を果たしてきました。産物は国内のみならず中国や朝鮮半島、東南アジアとの交易品になり、中世にはヒトやモノが盛んに交流していたといいます。
高津川
江戸時代の幕開けまでの約400年間、この町を拠点に勢力を拡大したのが領主・益田氏です。益田川に近い七尾山に居城・七尾城を築き、山全体を要塞としていました。中腹に建つ住吉神社へ上がると、石州瓦の家並みを一望。往時、海外へ開かれた活気ある町を眺めていたであろう領主の気分に浸れます。
住吉神社から眺めた町並み
大小の領主が勢力を競っていたこの時代、益田氏は山口の大内氏やその重臣・陶(すえ)氏と巧みに結び、益田の平和を保ちました。居館・三宅御土居(みやけおどい)は東西190メートル、南北110メートルにもおよび、その権勢を誇るよう。毛利元就との和睦では、舶来のトラ皮の敷物を送ったり、豪華な料理でもてなしたりして政治手腕や経済力を見せつけ、重用されるようになったといいます。
関ヶ原の戦いで西軍についた益田氏は山口に去り、益田の町は江戸時代に再開発されませんでした。そのため、直線と曲線が入り交じった街路など、地形や古代の道路などを生かして中世に築かれた町割りが今も残っているのです。
三宅御土居跡
再現された中世饗応(きょうおう)の食
繁栄と平和を築いた益田氏は代々、文化の理解者でもありました。寺社を手厚く保護し、時宗・萬福寺の創建や地域の氏神・染羽天石勝(そめはあめのいわかつ)神社の本殿を再建。ゆかりの寺には、東アジアとの交易品とされる壺や、中央の影響を取り入れた仏像が残されています。
益田氏が再建した染羽天石勝神社
国の史跡・名勝に指定されている二つの寺院の庭園にも、益田氏が深く関わりました。鶴をかたどった池と亀島を中心に、山の裾野を取り込んで奥行きを感じさせる医光寺の庭園。中央に須弥山(しゅみせん)石を立て、心字池や石組がなだらかな広がりを見せる萬福寺の庭園。いずれも、室町中期に活躍した画聖・雪舟の代表作です。
七尾城から移築された医光寺総門
医光寺の庭園
萬福寺の庭園
大内氏の保護下にあった雪舟を招いたのは、戦乱の時代に数々の武勲を立てた15代当主・兼堯(かねたか)。厚遇を受けた雪舟は兼堯が没するまで益田で過ごし、二つの名園をつくりました。またこの時、雪舟は「益田兼堯像」も描いています。兼堯の品格ある姿を見事に捉えた名作は、年の近かった兼堯と雪舟の親交を物語るよう。晩年、再び益田に戻ったと伝えられる雪舟にとって、益田氏との縁を結んだ益田は特別な地だったのかもしれません。
雪舟筆「紙本着色益田兼堯像」(益田市立雪舟の郷記念館蔵)
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