B.明治〜第二次世界大戦末まで
【質問1】「改正日本與地路程全図」(1779年刊行)についての杉原…
「改正日本與地路程全図」(1779年刊行)についての杉原先生のコメントを拝見しましたが、それより百年ほどのちの清水さんが1894年に作った「朝鮮與地図」はごらんになられたでしょうか?これでは、「竹島」(朝鮮のよびなは独島)が日本領土とは見えませんが?
【回答】
ご指摘の地図は、大阪の清水常太郎が編集し、大阪の中村芳松が刊行した1894年(明治27)の「朝鮮輿地図」(外部サイト)(竹島問題関係の外部サイト「竹島問題」http://www.tanaka-kunitaka.net/takeshima/(外部サイト)へリンク)です。江原道の東側に、竹島と松島が記されております。しかしながら、この地図に書かれている竹島と松島は現在の鬱陵島、竹島にはあたりません。経緯度と位置から、竹島はアルゴノート島(架空の島)、松島はダジュレー島(現在の鬱陵島)にあたります。
アルゴノート島というのは、イギリスの探検家コルネットが1789年に鬱陵島を「発見」して乗艦の名前にちなんで付けた呼称、ダジュレー島というのは、フランスの探検家ラ・ペルーズの艦隊が1787年に同じく鬱陵島を「発見」した際、第一発見者の乗員の名前にちなんで付けた呼称です。どちらも鬱陵島のことでしたが、測量の関係で異なる経緯度とされたため西洋の海図・地図上で鬱陵島が二島に描かれることになりました。その後西洋人が江戸時代の日本地図で日本海に竹島、松島の両島が描かれているのを見て、このアルゴノート島に竹島、ダジュレー島に松島という名称を与えました。その結果、西洋の海図・地図では鬱陵島が松島と呼ばれることになってしまいました。
この「朝鮮輿地図」に書かれた松島の位置は、朝鮮北東端の豆満江河口(東経130度58分)に近くあり、現在の竹島の位置(東経131度52分)とは遠く離れております。また地図に記された松島は現在の鬱陵島の形に似ております。したがって、この地図に描かれている松島は、現在の竹島ではなく、現在の鬱陵島であることが分かります。このような地図が刊行された背景として、明治以降日本では欧米作製の海図や地図に基づき、地図が作製されたことが考えられます。
(元竹島問題研究会委員島根大学法文学部准教授:舩杉力修)(2007年9月・10月)
【質問2】竹島問題の資料として、日韓併合前の、大韓帝国が作成した…
竹島問題の資料として、日韓併合前の、大韓帝国が作成した地理書「大韓地誌」を加えて下さい。この地理書に、大韓帝国の領土・領海の範囲が緯度・経度で記されています。この緯度・経度と竹島の緯度・経度を比較すると、明らかに竹島は大韓帝国の領域ではありません。
【回答】
このたびは貴重なご意見を頂きありがとうございました。ご指摘の通り、この文献は竹島問題を検討するにあたって重要な文献です。なお、この文献については、1954年2月10日付けの見解で日本政府が韓国政府に指摘したことがあり、近年では下條所長が『竹島は日韓どちらのものか』(2004年、文藝春秋、p.115)のなかで改めて論じています。
ご指摘の『大韓地誌』は、1899年歴史学者・玄采が記した本で、東限を東経130度35分としており(資料1)、竹島(東経131度52分)は入っておりません。また1907年独立運動家・張志淵の『大韓新地志』においても、東限を東経130度58分(豆満江口)としており、竹島は入っておりません。
竹島を韓国領とする主張のなかに「これらはいずれも民間人が出した書籍で、国家の領有意識とはなんら関係がありません」との指摘がありますが、いずれの本も韓国で地理教科書として使用されていたこと、『大韓地誌』は、韓国政府の学部編輯局長・李圭桓の序文が付いた学部推薦図書であったこと、『大韓新地志』は学部の検定を受けたこと、などについて私どもは注目しています。
また、『大韓地誌』の巻頭には学部編輯局が刊行した『大韓全図』(1899年)が収録されています。この地図には、韓国側が独島と主張する「于山島」が、鬱陵島の東側に記されているものの(資料2)、その位置は鬱陵島に近接していることから、鬱陵島の東2kmに位置する竹嶼(竹島=チクトウ)であることが明らかです。さらに、『大韓地誌』所収の「江原道図」でも、鬱陵島の東側すぐ脇の島に「于山」と記されており(資料3)、この島は竹島ではないことが確認できます。「于山」の位置関係は、同じく学部による『大韓輿地図』(1900年頃)でも同じです。このように、韓国政府が発行した地図に竹島は記されていません。こうしたことから、私どもは、韓国側は1905年以前に竹島を自国領として認識していなかったと考えております。
今後引き続き資料編の刊行が予定されており、韓国側の史料についても収録する計画です。その際上記文献についても収録する方向で検討したいと思います。このたびはありがとうございました。
(元竹島問題研究会委員島根大学法文学部准教授:舩杉力修)(2007年9・10月)
資料1『大韓地誌』(総論、位置)
資料2『大韓全図』
資料3『大韓地誌』所収「江原道図」
【質問3】皇城新聞1906年7月13日の「鬱島郡の配置顛末」という…
皇城新聞1906年7月13日の「鬱島郡の配置顛末」という記事の発見は重要だと思うので連絡する。
【回答】
皇城新聞については、竹島が島根県の所管となったことを聞いた鬱島郡守の政府への報告に関する記事(「鬱倅報告内部」1906年5月9日)等が知られていますが、今回発見されたのは、鬱陵島が1900年に大韓帝国政府の勅令により鬱島郡へ昇格した経緯が書かれている記事です。
韓国側は同勅令にある「石島」が独島(竹島)とであると主張していますが、記事に記載されている数値が鬱島郡の範囲を示すものであれば、竹島は含まれておらず、韓国側の主張は崩れます。
今回の資料の発見は、山陰中央新報でも大きく報道されており(2008.2.22記事PDF)Web竹島問題研究所でも注目しています。
今後、これに関連する資料が発見されることを期待しています。
(副所長:杉原隆)(2008年2月)
【質問4】1877年の太政官決定文書の解説をしっかりすべきである。…
1877年の太政官決定文書の解説をしっかりすべきである。研究者の方は理解しているかもしれないが、一般者から見ると解らない。
【回答】
「竹島外一島」を本邦無関係とした太政官の決定文書については、研究者の間で意見が分かれており、疑問をもたれることはもっともです。杉原通信第8回をご覧ください。
要するに、明治新政府が地籍(土地台帳のようなもの)の整備に際して島根県に照会をした時、島根県は江戸時代の認識で鬱陵島を竹島、現在の竹島を松島として山陰の西部の所属にすべきかと回答しました。これに対して政府は、ヨーロッパ起源の地図にある島名つまり鬱陵島を松島と呼んでいた当時の状況にそって、鬱陵島である竹島・松島が日本と無関係だとしたのです。明治初期の政府関係文書、民間人の「松島開拓願」はすべて松島を鬱陵島としていますので「竹島外一島」の「ほか一島」が松島であっても、その松島は鬱陵島のことで現在の竹島のことではないということです。
(副所長:杉原隆)(2008年2月)
【質問5】《このページの質問2》で『大韓地誌』の説明があるが、…
《このページの質問2》で『大韓地誌』の説明があるが、それによると、大韓地誌には、(1)大韓帝国の領域(緯度/経度/東限)(2)朝鮮半島全体図(大韓全図)(3)各道説明(江原道/慶尚道)があるようである。(1)(2)はよく目にするが(3)は見たことがない。韓国側が記述を出していないところを見ると、韓国側に不利な内容になっていると想像するが、どうか。また、大韓地誌には、1899年、1901年、1905年、1906年版があるようだ。それぞれの版で(1)(2)(3)がどのような記載になっているのか。
【回答】
大韓地誌は、250ページほどの本で、第一篇総論(第一課位置幅員海岸、第二課地勢地質、第三課気候物産など)に続き、第二篇京畿道、第三篇忠清北道、以下各道の説明で構成されています。第十二篇が江原道で、その第三課海湾島嶼に鬱陵島に関する記述があります。また、巻頭に「光武三年十二月十五日学部編輯局刊行大韓全図」があり(四つ折にした紙が貼り付けてある)、第二篇以下各道の記事の前にその道の地図が(これも折込みの形で)貼り付けられています。
Web竹島問題研究所では、(A)「光武五年五月廣文社新刊」という標題紙のある本(光武5年は西暦1901年)、(B)「光武九年七月博文社」という奥付のある本、(C)「光武十年丙午後四月」の跋のある本を見ております。このほか、(D)景仁文化社「韓国地理風俗誌叢書」Vol.30にCと同じ跋文のある本が影印版で収録されています。
A、B、Cの各本は全体のページ数も異なり、例えば漢城(ソウル)の説明部分でBに「鉄路停車場」に関する記述が加わるなど内容も同一ではありません。しかし、鬱陵島に関する記述は、ABCDともに同一です。鬱陵島と于山の描かれた大韓全図、江原道の地図、慶尚北道の地図も(本によって脱落があるものもありますが)確認しえた範囲では同一です。第十二篇江原道第三課の鬱陵島鬱陵島に関する記述は、次のとおりです。「沿岸に松島、沙島、無路島、猪島、竹島などの群島が羅列しているが、皆、渺少な(小さい)沙磧地である。獨(ひとり)欝陵島は東の海にあるやや大きい島で、島の中央に在る一峯を中峯と名づける。樹林が鬱蒼としていて、規木や香木等が有名である。」(原文は漢諺交)
この記述に于山島のことが出ていないことは、ご推察のとおりです。韓国の独島博物館の大韓地理の解説文ではこの記述について、「島嶼の説明には概略的表現で鬱陵島についての説明だけをしている」としています。
しかし、第一篇総論の大韓国の位置(東限)についての記述、および、巻頭の学部(大韓国文部省)刊の大韓全図や本書江原道、慶尚北道の地図の「于山」が鬱陵島近傍の竹嶼であることから判断して、上記江原道の鬱陵島に関する記述は、たんに概略的な説明だから"独島"(竹島)に言及しなかったということではなく、韓国において1900年当時、竹島についての認識がなかったことを示しているといえるでしょう。
なお、Web竹島問題研究所では、ご指摘の1899年の版を確認しておりません。大韓地誌には著者玄采による光武3年(1899年)12月25日付けの「大韓地誌跋」があるので、あるいはこの跋文をもって1899年の本とされるのかもしれません。当サイトの読者からの情報を期待します。
(事務局:総務課)(2008年3月)
【質問6】竹島は歴史上韓国の領土だ。三国時代からの記録によると…
竹島は歴史上韓国の領土だ。三国時代からの記録によると明確に韓国のものだ。日本は1905年に不法に占領した。過去を謝罪するのが両国の未来のためにも必要だ。ここは韓国の江原道だ。
【回答】
竹島問題をめぐって、さまざまな主張が行われることは当然です。ご意見ありがとうございます。ただ、問題の解決のためには、事実に即して議論をする必要があると思います。今日、竹島(独島)は三国時代から韓国領だという議論が行われますが、三国時代からというのは、12世紀中葉に編まれた朝鮮の史書『三国史記』新羅本記にある智証王13年(西暦512年)の于山国帰服を指します。しかし、この本には、「十三年六月于山国帰服歳以土宜為貢于山国在溟州正東海島或名欝陵島」つまり于山国は鬱陵島だ(于山国は溟州の真東の島にあり欝陵島ともいう)とあるだけで、竹島(独島)のことは何も書かれていません。この于山国と竹島(独島)を関連づけたのは18世紀後半に編まれた『東国文献備考』という本です。同書には、鬱陵、于山は皆于山国の地、于山は則ち倭の所謂松島なりという記述があります。この記述は、18世紀の人がそのように考えたということであって、御意見にあるように「三国時代からの記録」によって韓国領だというわけではありません。そこで、そのことを踏まえた上で、この記述が生まれる背景やその意味について検討し、議論を深めていく必要があろうと思います。1905年の編入が「不法」だという御意見についても、竹島(独島)が韓国領だったことが前提になります。さまざまな史料によってそうであったのかどうかを検証する必要があります。なお、韓国における現在の行政区画上の所属は、江原道ではなく慶尚北道とされているようです。
(事務局:総務課)(2008年4月)
【質問7】韓国側は、安龍福以来倭の松島は鬱陵島に次ぐ島である于山…
韓国側は、安龍福以来倭の松島は鬱陵島に次ぐ島である于山島であるとしてきたが、勅令第41号で、鬱島郡所管の島が鬱陵島、竹島(第二島)、石島とされると、今度は第二島ではない石島を独島であるとした。これは矛盾であり、この矛盾を突くべきである。
【回答】
韓国は1905年の日本による領土編入以前に、1900年の大韓帝国勅令第41号「鬱陵島を鬱島と改称し島監を郡守と改正する件」で「石島」を鬱島郡の管轄区域として定めた、石島は独島(竹島)であるという主張が行われるわけですが、ご意見は、このことに関し、韓国では「鬱陵島のほかに于山島があり韓国の歴史的な地図にも出ている、その于山島が独島(竹島)だ」とか、「于山島=独島(竹島)は鬱陵島の付属島嶼だ」という主張をしているのではなかったか、そこでは第一が鬱陵島で第二が独島だったのではないか、一方、大韓帝国勅令第41号には「...郡庁位置は台霞洞に定め区域は鬱島全島と竹島石島を管轄する事」とあって第一が鬱陵島、第二が竹島、第三が石島となっている(第二の「竹島」は鬱陵島東沖合約2キロメートルにある小島-竹嶼-だとされる)、いつの間に順位が下がったのか、独島は鬱陵島に次ぐ島、第二の島だとしてきた以上、勅令の第三の島を独島だとするのは矛盾であり認められない、という指摘であろうかと存じます。ご教示ありがとうございました。この矛盾はおっしゃるとおりだと思います。石島を独島(竹島)のことだとする主張には多くの疑問が出されていますが、ご意見は、そのような疑問をさらに深める重要な指摘だと考えます。なお、実事求是10「石島=独島説の誤謬」、下條正男「独島呼称考-韓国政府版「独島:6世紀以来韓国の領土」批判-」『人文・自然・人間科学研究』第19号(2008年3月拓殖大学発行)もご覧ください。
(事務局:総務課)(2008年6月)
【質問8】アメリカの議会図書館に、鬱陵島の隣島に于島と書かれた…
アメリカの議会図書館に、鬱陵島の隣島に于島と書かれた地図があるようだ(http://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2008/06/1800s-map-of-korea-jeop-yeok-jeondo.html?showComment=1212594900000(外部サイト))。これは三陟博物館と韓国中央図書館の鬱陵島圖形の大于島小于島と関係があるのではないか。
【回答】
貴重な情報をご提供くださりありがとうございました。ご教示いただいたブログ上で地図を確認しました。三陟市立博物館と韓国国立中央図書館所蔵の「鬱陵島圖形」の「大于島」「小于島」と関係があるというのは、(1)大于島、小于島が鬱陵島沿岸の小嶼(たぶん竹嶼と観音島)であることは間違いない、他方(2)朝鮮全図で鬱陵島の東側に于山島または于山という島を描く地図についてその于山島(于山)が独島だという主張とそれも竹嶼だという主張が対立していた、(3)今回紹介された米国議会図書館所蔵の地図は朝鮮全図でありながら鬱陵島の東側に描かれた一島を「于島」と表記しているので1の鬱陵島図形と2の多数の朝鮮全図をつなぐ役割を果たす、つまり2の類型の于山島も1で明らかなとおり竹嶼だということになる、だから重要だ、というご指摘だろうと思います。すでにビーバーズさんの発見にかかる「海長竹田/所謂于山島」と記した小嶼を描く鬱陵島図や、周囲に10朝鮮里の目盛が入っていて于山までの距離感がわかる青丘図など多くの朝鮮地図によって鬱陵島の東側に描かれた于山島(于山)が竹嶼であることが明らかになっていますが、今回ブログに掲載された地図により、18世紀以降の朝鮮地図にある于山が独島ではなく竹嶼であることが、また別の角度から裏付けられたということでしょう。
(事務局:総務課)(2008年6月)
【質問9】中央日報だったと思うが、日露戦争当時の日本の地図に竹島…
中央日報だったと思うが、日露戦争当時の日本の地図に竹島を日本領と異なる色で描いているものがあり、韓国では有力な証拠と取り上げられている。事実だとすると、やはり韓国側の有力な証拠となりうるのだろうか?
【回答】
ご指摘の資料は、本年(2008)5月に韓国の通信社が伝えた『尋常小学国史絵図』下巻、学習社(柳沢文憲)昭和14年発行(昭和3年初版)というものです。表紙には、小堀鞆音監修、尾竹竹坡・尾竹國觀・中村孝也監修並画とあります。この本の40ページにある「日露戦役要図」「日本海海戦図」で「リヤンコルド島(竹島)」が「朝鮮」と同じ青色(本州九州などは赤色)に彩色されているということのようです。
竹島は、日本海海戦の年(1905年)の1月に領土編入の閣議決定が行われ2月に島根県知事が島根県所属を告示しており、韓国併合(1910年)後も行政区分的に「朝鮮」に属したことはないので、この絵を画いた人がこの本の出版当時に、または歴史地図として日露戦争当時に、竹島が「朝鮮」に属していると思って青色に彩色したとすれば、それは間違いだということになります。
韓国での報道でこの『尋常小学国史絵図』を国定教科書だとしているものがありますが、副読本(資料集・図版)であって教科書ではありません。表紙に名前のある大学教授や画家が監修して民間人が発行したものです。要するに、間違った認識を示す絵が見つかったということであって、その当時竹島が「朝鮮」に属していたとか日本政府がそのような認識を有していたということではありません。
(事務局:総務課)(2008年7月)
【質問10】韓国では日本が竹島を正式に編入した当時、すでに外交権…
韓国では日本が竹島を正式に編入した当時、すでに外交権を剥奪されていて反論できる状況ではなかったから、国際法に則った編入ではないという主張がある。この点についてどう考えるか?
【回答】
編入時の国際情勢、日韓関係の評価は、竹島問題の重要な論点の一つですので、少し詳しく見てみたいと思います。質問者はすでにご存知のことだろうと思いますが、このコーナーの読者のために事実関係を摘記しておくと、次のとおりです。日本は、1904年8月の第1次日韓協約で日本政府が推薦する外国人を外交顧問として送り込んだ上、1905年11月の第2次日韓協約によって韓国(当時の国号は大韓帝国)を保護国にしました。第2次日韓協約は、日本政府が今後韓国の対外国関係を監理指揮すること(第1条)、日本政府の代表者として京城に統監を置くこと(第2条)などを規定しました。竹島領土編入の閣議決定は1905年1月ですから、両日韓協約の間の時期に当たります。翌1906年3月、神西(ジンザイ)第三部長を長とする島根県の調査団が竹島を訪れ、調査団は鬱陵島にも立ち寄りました。鬱陵島の沈興澤郡守は江原道に報告を送り、「本郡所属独島は本郡の外洋百余里にあるが...日本官員一行が官舎に到来して、独島は今日本領地である、故に視察の途次に来島した、と自ら語った」としました。道は政府に報告を送り、政府(議政府参政大臣)は道に対し「...独島領地の説は全属無根(注.全く根拠が無い)であり該島の形便(注.状況)と日本人がいかに行動するかを更に調査して報告する事」と指令したとされています。
この経過をめぐり、当時の政治情勢と竹島の編入を結びつける立場から、日韓協約は1910年の併合に至る前段階の措置であり竹島も朝鮮半島侵略の一連の動きの中で強奪されたというような議論が行われます。鬱陵島の郡守の報告に対して当時の韓国政府は日本人の行動を更に調査して報告せよと部内に指令するだけで日本に対して抗議したという記録がありませんが、これについても、外交権が奪われていたから(保護国化は諸外国との外交関係が自分で処理できなくなるということであって"日本に対する関係"までなくなるということではありませんが)または国全体が併合されようとしていた当時の状況からして、抗議し得なかったという話になるのだろうと思われます。しかし、この議論は、竹島が韓国(朝鮮)領であったことが前提になります。朝鮮の古地図等に出てくる「于山」が竹島のことだという主張は朝鮮古地図自体によって否定されていますし、1900年の大韓帝国勅令に出てくる「石島」が竹島のことだという主張も証明されていません。沈興澤は「本郡所属独島」と述べることによって「独島」が1906年の時点で鬱島郡に属するという認識を示したわけですが、独島という島名が韓国(朝鮮)の文書に現れるのはこれが最初です。そもそも竹島が韓国(朝鮮)領であったことがないのであれば、侵略の一環として奪ったという主張も成り立たちません。
以上のことを踏まえて日本による領土編入の有効性の問題を考えると、次のようなことがいえると思います。すなわち、近代国際法上、歴史的な権原に基づく主張(昔から自分の領土であったなど)は不確実なものであり、実効的支配(国家権能の平穏かつ継続した発現)に基づく競合する領有権主張が登場すればこれが歴史的権原に優越する可能性がある、韓国は竹島が歴史的に韓国(朝鮮)領だったと主張するが20世紀より前にはこの島に対する知見さえなかった、沈興澤報告によって1906年の時点で独島という呼称を与えこれを鬱島郡所属とする認識が行われたことがわかるが同島に対して実効的な支配を及ぼしたことはなかった、他方、日本は竹島に対し17世紀における日本人の活動に由来する歴史的な権原を持っていたが、1905(明治38)年の領土編入措置(領有意思、領有意思の公示)および種々の行政権行使(実際の占有・実効的支配)を通じて同島に対する領有権を近代国際法上も確実にした--ということです。
(事務局:総務課)(2008年7月)
【質問11】独島は歴史的に日本領土というページを翻訳機を通じて…
独島は歴史的に日本領土というページを翻訳機を通じてかろうじて読んで意見を申し上げる。日本で江戸・明治期に鬱陵島と独島を認識したのは明らかだ。しかし二つの島を朝鮮領として認識していたという幾多の証拠がある以上、独島を認識していたという証拠だけで実效支配したという主張は全然成り立たない。日本側の主張を読んで見れば、他国の領土を侵略する破廉恥な行動を実效支配という単語で遁甲をさせている。1905年以前、日本のどの記録に日本政府次元で独島を日本領として認識した資料があるというのか?日本国家次元では皆独島を韓国領として記録したし、その代表的な事例が日本海軍の朝鮮東海岸図と1894年と1899年の朝鮮水路誌だ。
【回答】
韓国からご意見をいただきありがとうございます。翻訳ソフトを使用して島根県の啓発資料をお読みのようですが、島根県のホームページに概要版パンフレットの韓国語版や、外務省のパンフレット(外部サイト)へのリンクが出ていますのでご覧ください。
竹島(独島)を朝鮮領だと認識していた幾多の証拠がある、日本海軍の朝鮮東海岸図と朝鮮水路誌が代表例だとのことですが、これらの資料に竹島(独島)が朝鮮領だと書いてあるのでしょうか。「朝鮮東海岸図」(1876年)は、当サイトにもリンクのある田中邦貴さんのサイトに写真(外部サイト)が載っています。それをご覧になるとわかるとおり、この海図はロシア海軍の発行した「 Восточнаго Берега Полуострова Кореи 」(朝鮮半島の東岸)の翻訳です。この海図上で、竹島は「メ子ライ礁、オリウツ礁」(子はネと読みます)として描かれており、凡例(「注意」)にメ子ライ礁は1854年快軍艦オリウツ号が発見したとあります。(日本の海軍水路寮がロシアの海図を文字だけ仮名に置き換えて出版するというのは今日風に言えば海賊版を出すようなものですが、当時はそのようなことがよく行われました。)一般に、海図は航行の安全のために海岸線、島嶼、水深などの情報を記載したもので、表題も対象となる地域の代表的な地理的呼称が付けられます。朝鮮東岸図という表題であるからといってこの図に描かれた地域が朝鮮に政治的法的な意味で属することを示すわけではありません。この海図にはロシアのウラジオストク周辺も詳しく描かれていますし、原題ではもっと端的に「朝鮮半島」東岸とされています。『朝鮮水路誌』(1894年、第二版1899年)についても同様のことが言えます。この本は海軍水路部が発行したものですが、実は英国の『ChinaPilot』(中国水路誌)の翻訳です。『朝鮮水路誌』(外部サイト)の目次を見ると第四編に「日本海ノ岩嶼」とあり、本文ではp.255以下に「日本海」という見出しの下、「リアンコールト列岩」「欝陵島(一名松島)」「ワイオダ岩」という三つの島の記事が載っています。リアンコールト列岩というのが竹島で、この項の「此列岩ハ洋紀1894年佛國船リアンコールト号初テ之ヲ発見シ」で始まり「其位置ハ実ニ函館ニ向テ日本海ヲ航行スル船舶ノ直水道に当レルヲ以テ頗ル危険ナリトス」で終わる記述は『ChinaPilot』第4版1864年第15章の「日本海」のLIANCOURTROCKSの項の記述と同じです。水路誌もまた航行者に水路上の情報を提供するための冊子で、「朝鮮」水路誌という題だからその冊子に掲載された地域が朝鮮の領土だということではありません。
さて、ご覧になっている概要版パンフレットにあるとおり、日本人は江戸時代に政府の公認の下で竹島(独島)において漁猟を行っており、実地の知見に基づく詳細な絵図も作成されましたし(米子市立山陰歴史館の図、鳥取県立博物館の図)、明治時代にはこの島における日本人のアシカ漁などの活動を政府が追認することにより改めて国際法上の領土編入手続を採りました。ご意見では「他国の領土を侵略する破廉恥な行動」とされていますが、それでは、韓国の人が朝鮮王朝時代に竹島で活動をしていた記録があるのでしょうか。我々も勉強しますので、お互いに資料に基づき、事実に即して議論を深めたいと思います。
(事務局:総務課)(2008年8月)
【質問12】絶海の孤島を自国に編入する場合の国際的に認められた…
絶海の孤島を自国に編入する場合の国際的に認められた手続き(宣言・通知等)が当時存在したのか。あったのなら、当時の日本がどのように処置したのかを明確に内外に知らしめることで、国際的な説得力を高めることができる。
【回答】
伝統的な国際法上の領土取得方法の一つに「先占」があります。わが国は1905年1月28日の閣議決定で竹島の島根県への編入を決定し、同年2月22日、名称、所管を島根県知事が告示しましたが、閣議決定文には、先占の法理により領土編入を行ったという趣旨の文言がみえます。先占の要件は、対象となる土地が無主地であること、国家が領有意思をもって当該土地を実効的に占有することです。竹島に対しては、1905年の時点で韓国を含め他国の領土権は確立しておらず、閣議決定と島根県告示、その後の官有地台帳への搭載、あしか漁の許可、国有地使用料の徴収などの行政権行使等により、国家の領有意思とその表示、実効的な占有の要件も満たしています。実効的な占有を重視する考え方は、今日、国際判例を通じて示された「国家権能の平穏かつ継続的な表示」(行政権・司法権の行使など主権者としての行為を他国の抗議を受けることなく繰り返し行うこと)という権原としていっそう強調されており、この権原によっても日本の竹島に対する領土権が確立しています。17世紀に日本人が政府公認の下に魚採地として利用していたことから日本は歴史的な権原を持っていましたが、歴史的な権原をこれらの近代国際法上の権原により置き換え、確実にしたわけです。
(事務局:総務課)(2008年9月)
【質問13】日本は竹島の領有権主張をもう止めるべきだ。1904年…
日本は竹島の領有権主張をもう止めるべきだ。1904年、日本政府に竹島の領土編入を申請した島根県の中井養三郎も「この島を朝鮮の領土と信じて」韓国政府に貸下申請を行うつもりで上京した。中井から申請を受けた内務省地理局では、「韓国領地の疑いある莫荒たる一個不毛の岩礁を収めて、環視の諸外国に我が国が韓国併呑の野心あることの疑いを大ならしむ」と言って却下している。当時の日本の内務省は竹島は韓国領であると公式に確認したのだ。他にも2回ほど竹島は日本とは関係ない島だという明治政府の記録もある。しかし、1905年外務省政務局長だった山座円次郎が、「時局が領土編入を急に要求する。望樓を建てて、無線あるいは海底電線を設置すれば敵艦の監視上、とても緊要にならないか」と語った。当時の日本政府が日露戦争の勝利のために、竹島を戦略的要衝地とするために強奪したということだ。要するに、日本は時の国際情勢を利用して、韓国領である竹島を「無持主島」「先占」の論理で島根県に不法編入したのだろう。未だにこの時の歴史的事実を隠し続けて日本の固有領土だとこじつけているのは本当に恥ずかしい。
【回答】
ご意見にある編入時のいきさつは、竹島漁猟合資会社の文書綴『行政諸官庁往復雑文書綴従明治三十八年』にある「事業経営概況」の記述が元になっているものです。この文書の記述については、統監府に出願しようとしたと書いてある(中井養三郎が上京した1904年には朝鮮の統監府はなかった)など不明な点がありましたが、近年奥原碧雲が中井から聴取して書いた「竹島経営者中井養三郎氏立志伝」が再発見され、事実関係がいっそう詳しく明らかになっています。島根県竹島問題研究会の最終報告書の記事をご覧ください。なお、質問文中「莫荒」とされているのは「●爾」(●はくさかんむりに最。さいじ=小さいこと)、「緊要」は「究竟」(くっきょう=都合がよい)です。また、「竹島は日本と関係ない島」云々については、「杉原通信」第8回をご参照ください。
(事務局:総務課)(2008年9月)
【質問14】韓国は、戦前よりはるか昔から竹島のことを無人島化、…
韓国は、戦前よりはるか昔から竹島のことを無人島化、もしくは無関心だったように見受けられる。なのに、戦後突然、最近は特に、何故今更、竹島にこだわるのかが分からない。Newsでは、竹島は韓国にとっては、とても大切な歴史ある領土と説明していますが、無人島で、無関心だったのではないか?戦前は?
【回答】
韓国では新羅の時代から朝鮮領土だったとか15世紀以来の文献や地図に「于山島」の名前で掲載されているといった主張が行われていますが、我々は、19世紀までの時期において韓国(朝鮮)では竹島に対する具体的な知見もなかったと見ています(質問文中に「無人島化」とありますが、韓国が意図的に無人島にしていたということではありません)。一方、1906年に鬱陵島の郡守が、鬱島郡の所属する江原道に「本郡所属独島は本郡の外洋百余里にあるが...日本官員一行が官舎に到来して、独島は今日本領地である、故に視察の途次に来島した、と自ら語った」と報告しています。これは「独島」の名称が韓国の記録に現れる最初であり、この時点では領有意思があったものと思われます。ただ、まもなく1910年に韓国は日本に併合され、国家としての存在がなくなりました。そのようなことから、韓国では、竹島が植民地支配の一環として奪われたという主張をしています。
このことについて、このページの《質問10への回答》をご参照ください。
なお、日本統治下において、日本人に雇われて鬱陵島の住民が竹島へ漁業に赴いたことがあり、終戦後、日本人の竹島での活動が休止した間にも竹島での操業を行っていたようです。
(事務局:総務課)(2008年9月)
【質問15】実事求是10に、「勅令第41号が裁可される前日、内部大臣…
実事求是10に、「勅令第41号が裁可される前日、内部大臣李乾夏が提出した請願書に「該島地方は縦八十里、横五十里たるべし」とあるように、その中に竹島(竹嶼)と石島も含まれていたということである。」とあるが、勅令第41号の起案書や請願書には地図は添付されていないのだろうか。
【回答】
「勅令第41号」の請議書に、地図が添付されていたかとのご質問に対し、お答えします。結論から申しますと、地図は添付されておりません。
しかし、「勅令第41号」の第二條で欝島郡の行政区域に加えられた石島が、今日の竹島(独島)でないことは明らかです。「勅令第41号」の公布に繋がる内部大臣李乾夏の「欝陵島を欝島と改称し、島監を郡守に改正するに関する請議書」は、1900年6月、欝陵島に派遣された視察官禹用鼎等の視察録を基にしており、禹用鼎が残した『欝島記』では、欝陵島の疆域を「周廻亦可為一百四五十里」としているからです。この事実は、極めて重大です。
禹用鼎が欝陵島の疆域を「周廻亦可為一百四五十里」としたのは、1882年5月、高宗の命を奉じ、欝陵島を踏査した李奎遠の『欝陵島検察日記』・『啓本草』等を踏襲しているからで、李奎遠は欝陵島の疆域を「一百四五十里許」、「周回仮量為一百四五十里」とし、欝陵島開拓の必要性を奏上しています。そこで高宗は、それまで渡海を禁じていた欝陵島の開拓を命じますが、同時にそれは欝陵島の疆域が定まった時でもありました。
ここで問題になるのは、李奎遠が「周回仮量為一百四五十里」とした中に、今日の竹島が含まれていたのかどうかです。それを知る手がかりは、同行した画員劉淵■(■は示すへんに古)
の『欝陵島外図』の中にあります。この『欝陵島外図』も、李奎遠によって高宗に奏上されますが、そこには「勅令第41号」に登場する竹島(竹嶼)と、後に鼠項島となる島項の二島が描かれているだけで、今日の竹島は描かれていません。
従って、禹用鼎が欝陵島の疆域を「周廻亦可為一百四五十里」とする時、当然、今日の竹島はその域外にあったことになります。事実、禹用鼎の調査は欝陵島島内での聞き取りが主でした。最大の遠出と言えば、6月4日に船で欝陵島を一周したのが全てです。
内部大臣李乾夏の請議書に地図が添付されていなくても、請議書の基になった禹用鼎の『欝島記』が欝陵島を「周廻亦可為一百四五十里」とし、現在の竹島に渡っていない以上、「勅令第41号」の第二条に記された石島は、島項を指していたとするのが妥当です。
韓国側では、欝陵島の島民が今日の竹島を独島と呼称したため、「勅令第41号」の第二條では、発音が近い石島と表記されたと主張しています。ですが1900年当時、リャンコ島と呼ばれていた竹島が、独島と呼称されたのは1904年以後。日本人に雇用された欝陵島の島民が、リャンコ島でのアシカ猟に従事してからのことです。独島の呼称が「勅令第41号」の石島に影響したとする韓国側の主張は、荒唐無稽な臆説に過ぎません。1900年の「勅令第41号」でも、竹島は韓国領ではなかったのです。
(所長:下条正男)(2008年11月)
*実事求是10*
https://www.pref.shimane.lg.jp/soumu/web-takeshima/takeshima04/takeshima04-2/takeshima04_q.html
【質問16】朝鮮の書物・地図などの中に、朝鮮の国境の東端が鬱陵島…
朝鮮の書物・地図などの中に、朝鮮の国境の東端が鬱陵島であることを示しているものはないのか?韓国側の日本の資料の研究に比べ、日本側の朝鮮の資料の研究が少ないように思われる。
【回答】
韓国政府に宛てた1954年2月10日付けの日本政府見解の中で、政府は、玄采『大韓地誌』(1901年)が韓国の領土の東限を東経130度35分とし、太白狂奴『韓国通史』(1915年)が同じく東経130度50分としていると指摘しています。竹島は、東経131度52分ですから、竹島が入っていません。玄采は学部(当時の韓国の文部省)の職員、太白狂奴は日本からの独立を目指して上海に亡命した人物であったので、竹島を韓国領だと認識していたなら入れないはずはなかっただろうということです。『大韓地誌』については、このページの《質問5への回答》とこのページの《質問2への回答》をご参照ください。そのほか、同じ2007年9・10月分の回答に、張志淵『大韓新地志』(1907)が東限を東経130度58分としている、竹島問題研究会中間報告の「論点整理」には、崔南善『朝鮮常識問答』(1948)が130度56分としているとの指摘があります。なお、ご質問が19世紀以前の朝鮮の古文献や古地図についてであれば、私どもは「于山」は現在の竹島(独島)ではないと考えていますので、総じて鬱陵島(又は鬱陵島近傍の竹嶼)までしか記されていないといえます。
(事務局:総務課)(2008年12月)
【質問17】ロシアの国立図書館に、1889年のコルベット艦…
ロシアの国立図書館に、1889年のコルベット艦Vitjazによる鬱陵島の詳細図があるようだ。この地図中になにか竹島が韓国領土でないことを更に裏づけるような情報は無いのか。また、1902年にアメリカの戦艦NewYorkが竹島を測量しているが、その頃の航海日誌などはないのか。1857年のロシアの朝鮮東岸図はPallada号の測量結果に拠ったものだが、Pallada号の航海日誌などは調べているか。
【回答】
貴重な情報をありがとうございます。パルラダ号の航海日誌は、ロシア海軍発行の雑誌『モルスコイ・ズボルニク』15巻1号(1855年)に掲載されたものが日本海軍水路部発行の『水路雑誌』8号(明治16年7月)に翻訳紹介されています。竹島に関する記述もあります。『モルスコイ・ズボルニク』誌は、マイクロフィッシュで復刻されており国内の図書館にも所蔵があるようですが、Web竹島問題研究所ではまだ確認しておりません。同誌には丹念に見ていけばほかにも関連記事が載っている可能性があります。ロシア国立図書館の地図、アメリカ軍艦の航海日誌の調査を含め、今後の課題とさせていただきます。
(事務局:総務課)(2009年2月)
【質問18】野口保興著『韓国南満州』明治43年刊の1ページに、…
【回答】
Chambersはロンドンの有名な出版社名なので、この出版社の出した辞典によるという意味でしょう。例えば、『Chambers' encyclopaedia』新版第3巻1889年p.476 Coreaの項には、「アジア東岸の王国で半島を成し北緯34度30分から43度、東経124度30分から130度30分にわたる」云々とあります。ただし、この記述は朝鮮半島についてであって島嶼を含んでいないと考えられます。済州島も範囲外です。
(事務局:総務課)(2009年2月)
【質問19】杉原通信第8回において、"竹島外一島之儀本邦関係無之"…
杉原通信第8回において、"竹島外一島之儀本邦関係無之"という太政官の文書に関連して、明治16年に内務省が各府県長官に宛てて出した通達に「日本称松島一名竹島朝鮮称蔚陵島ノ儀ハ」とあること、及び、島根県からの「日本海内松島開墾之儀ニ付伺」をめぐり明治14年に行われた内務省外務省間往復文書に「朝鮮国蔚陵島即竹島松島之儀ニ付」とあることが紹介されている。この〔松島=竹島=鬱陵島という〕認識は、外務省北沢正誠が編纂した『竹島考証』の認識つまり「然ルトキハ今日ノ松島ハ即チ元録十二年称スル所ノ竹島ニシテ古来我版図外ノ地タルヤ知ルヘシ」と同じであり、1882年2月16日付け外務卿井上馨から太政大臣三条實美への「朝鮮蔚陵島の件」や韓国の国史編纂委員会の「韓国史データベース」に掲載されている1900年6月12日付け在釜山領事官補赤塚正輔の「鬱陵島調査概況及び山林調査概況報告の件」(外部サイト)においても確認できる。明治14年の内務省外務省往復文書とそのもとになった島根県令境二郎の「日本海内松島開墾之儀ニ付伺」を原本とともにもう少し詳しく解説していただきたい。
【回答】
このQ&Aコーナーの読者のために簡単におさらいをすれば、明治9(1876)年10月に島根県が内務省に「竹島外一島地籍編纂方伺」を提出したのに対し、内務省は太政官の決裁を受けた上、明治10(1877)年4月に竹島外一島は本邦無関係と心得よという返答をしました。ここでいう竹島は鬱陵島を指すことが文脈から明らかで、ほか一島は島根県の提出した添付資料から「松島」であることが知られます。もし松島が現在の竹島のことであれば、当時の政府はこの島を本邦無関係と判断したことになるというのが問題の所在です。
質問者ご指摘の、明治14(1881)年の内務省外務省往復文書は、島根県からの「日本海内松島開墾之儀ニ付伺」の写しともども、外務省外交史料館所蔵の文書綴り『朝鮮國蔚陵島へ犯禁渡航ノ日本人ヲ引戻處分一件自明治十四年七月至明治十六年四月』外務省記録3-8-2-4(3門8類2項4号)に含まれています。
この内務省外務省往復文書は、堀和生「一九〇五年日本の竹島領土編入」『朝鮮史研究会論文集』24(1987.3)pp.97-125が初めて紹介しました。堀論文は、松島が現在の竹島であることを前提に、「...内務省が竹島と松島を版図外とした先述の太政官の指令書きを付して、外務省に欝陵島の現状を照会したことがあった。それに対して、外務省は何ら全く異論を申したてていない。」としてこの往復文書を挙げています。これに対し、塚本孝「竹島領有権紛争の焦点-国際法の見地から」平成19年10月17日島根県高等学校地理歴史・公民科教育研究会研究大会講演(『竹島問題に関する調査研究報告書平成19年度』島根県2008.7pp.71-82に収録)は、外務省の回答文中に「朝鮮国の鬱陵島すなわち竹島松島のことについては」とあるので「松島」は現在の竹島のことではなかろうとしました。
いずれの主張が正しいにせよ、広く検討が行えるように、外交史料館の前述の文書綴りにある一件文書--内務権大書記官西村捨三発外務書記官あて照会(明治14年11月29日)、同別紙甲号(太政官指令、明治10年3月29日)、同別紙乙号(日本海内松島開墾之儀ニ付伺、明治14年11月12日)、外務省の返信起案文書(明治14年12月1日付け、11月30日起草)--を、準備ができしだいWeb竹島問題研究所ホームページに掲載したいと思います。
(副所長:杉原隆)(2009年4月)
【質問20】平凡社『世界大百科事典』17巻(2007.9改訂新版)…
平凡社『世界大百科事典』17巻(2007.9改訂新版)の竹島の項目に「1881年に朝鮮で独島の呼称ができたといわれ」とある。平凡社発行の『朝鮮を知る事典』(2000.1新訂増補版)にも同様の記述がある。1881年に独島の呼称ができたというのは本当だろうか。
【回答】
御指摘の記述について出版元に尋ねたことがあります。調べたがこの記述の根拠・出典は分からなかったとのことでした。「独島」の呼称は韓国の記録では1906年の鬱島郡守沈興澤報告、日本の記録では1904年の軍艦新高の日誌(堀和生「一九〇五年日本竹島領土編入」『朝鮮史研究会論文集』24(1987.3)が初めて紹介)が最も古いとされていますので、1881年というのは何かの間違いだろうと思われます。出典(韓国のこの本でそう主張されているなど)が分かれば検証も可能ですが、それも不明とあっては反論のしようがありません。世界大百科事典の竹島の項目には、竹島問題という小見出しの下に「1618年伯耆国の大谷・村川両家が江戸幕府から竹島を拝領し漁場を開拓した.92-93年ころ,朝鮮からの出漁が盛んになったため,幕府は対馬藩主の宗氏を通じて出漁禁止を申し入れた.これに対し朝鮮では竹島は自国の領土であると主張し交渉は決裂した.」という記述もあります(執筆者は別の人)。この記事では、「竹島」が鬱陵島のことであることを断っていないので、江戸時代に、現在の竹島(韓国でいう独島)に朝鮮から出漁し日朝交渉が行われたように見えます。竹島に関する正しい知識の普及のため、いっそうの啓発活動が必要だということでしょう。
(事務局:総務課)(2009年5月)
【質問21】1900年の「大韓帝国勅令第41号」は領域主権を主張…
1900年の「大韓帝国勅令第41号」は領域主権を主張したものと言えるのであろうか。どの島のことか不明確なままそれを拠り所として領域主権を主張しているとは思えない。国際法を理解しているなら1905年に日本が行ったように「無主地の先占」など根拠を示すのではないか。「大韓帝国勅令第41号」を根拠として領域主権の主張が可能とする論があるなら、どのような論理が展開されているのか知りたい。
【回答】
駐日韓国大使館の「獨島に対する大韓民国政府の基本的立場」には、「20世紀に入って大韓帝国は、光武4年(1900年)「勅令第41号」により、石島、即ち獨島を鬱陵郡の管轄下におく行政措置を通じてこの島が我が国の領土であることを明確にした。1906年、沈興澤鬱島(鬱陵島)郡守は島根県の官民で構成された調査団から、獨島が日本に領土編入されたことを知り、直ちに江原道観察使に「本郡所属獨島が...」と上申書で報告した。これは大韓帝国が「勅令第41号」(1900年)に基いて獨島を正確に統治範囲内として認識・管理していたことを示す証拠である。」とあります。また、北東アジア歴史財団の「日本外務省の独島領有権主張に対する反駁文」には、「「大韓帝国勅令第41号(1900年)」を通じ、独島の行政区域を再編する等韓国の独島に対する領有権は確固たるものであった。従って、1905年当時、独島は無主地ではなかったため、日本の独島編入措置は、国際法上、不法である。」「大韓帝国勅令第41号(1900年)は、それ自体が、独島に対する韓国の実効的支配の証拠を明確に示している。」とあります。同じ機関の英文パンフレット「Dokdo: Korean Territory Since the 6th Century」(2006)には、「韓国は勅令第41号により欝陵島の行政レベルを郡に格上げし、欝陵郡庁が欝陵島並びに竹島及び石島に管轄権を持つことを確立した。(中略)勅令は官報にも掲載されたので、日本は当時、韓国が独島に領土権を持つことを知らなかったとは主張し得ない」という趣旨の記述があります。
これらの議論を法的に整理すれば、勅令の石島が"独島"(竹島)であることを前提に、また韓国が歴史的な権原を有することを前提に、勅令で行政管轄を定めることによって"独島"に対する領有権を確立した、"独島"は無主地ではなかったから日本による領土編入は無効である、という主張のように見えます。しかし、上記二つの前提が証明されていません。また、仮に勅令の石島が"独島"であるとしても、勅令の前後に韓国が竹島に対して何らかの占有の所為を行ったことが証明されていない(主張もされていない)ことから、勅令によって竹島に対する韓国の領有権が確立したとは言えません。
(事務局:総務課)(2009年10、11月)
【質問22】明治時代の『地学雑誌』に「日本海中の一島嶼(ヤンコ…
明治時代の『地学雑誌』に「日本海中の一島嶼(ヤンコ)」という記事があるようだが、どのような内容なのか。
【回答】
『地学雑誌』13輯148巻(明治34年5月15日)p.251の記事で、内容は、東京発行の各新聞に韓国欝陵島の東南三十里日本国隠岐の西北同里数の海上に未知の一島嶼が発見されたという記事が載った、海図には載っていないが島の存在は確実で現に欝陵島にいた日本人は晴天の日山の高所より東南を望めば遥に島影を認めたという、発見の歴史は一両年前九州辺の一潜水器船が魚族を追って遠く海中に出たところ見慣れない所に一島嶼を発見、周辺は魚族の棲息が頗る多かったが海馬数百群を為して潜水器船をはばんだので引還したという、日韓漁民これを指してヤンコと呼ぶという、想うにこの島はLiancourt rocksに符合する、参照のために朝鮮水路誌第二版(明治三十二年水路部刊行)二六三頁よりリアンコート島に関する記事を抄録する、云々というものです。
明治34年といえば、中井養三郎が"リヤンコ島"でアシカ漁を始める直前の時期に当たりますが、「九州あたり」の漁船が赴くこともあり、その方面の人にとっては未知の島だったということでしょう。地学雑誌は、CD-ROMによる復刻版も出ています。図書館等でご確認ください。
(事務局:総務課)(2009年10、11月)
【質問23】韓国は、竹島編入が秘密裏に行われたと主張しているが、…
韓国は、竹島編入が秘密裏に行われたと主張しているが、竹島編入から2ヶ月も経たない1905年4月15日発行の『地学雑誌』196号に竹島編入の記事が掲載されている。これは、竹島編入が何ら秘密でなかったことの証左であると思うがいかがであろうか。
【回答】
竹島の領土編入は、1905年1月28日の閣議決定による国家の領有意思の確認後、同年2月22日の島根県告示でその領有意思が公示されました。閣議決定と地方庁による告示が竹島についてだけ採られた方式ではなく(1898年の南鳥島の場合のように)当時日本が慣行とした方式であることは、1954年2月10日および1956年9月20日の日本政府見解が指摘していることです。編入は、『山陰新聞』紙上でも報じられました(1905年2月24日付け記事(外部サイト))。島根県の告示や山陰新聞の記事が地方的なものだから「秘密裏」だという主張であるとすれば、まさに御指摘の『地学雑誌』の記事や『日露戦争写真画報』第25号(1905年6月20日)p.35の「ああ竹島」という記事などは、全国的な媒体によるものです。なお、領土取得要件としての領有意思の公示は、対外的に宣言する、告示するなどのように「明示的に」行われるほか、「黙示的に」行われる場合もあります。領土編入後に行われた島根県による実地調査、認可をうけた日本国民による漁業など一連の行為は、実効的占有の証拠であると同時に領有意思の公示にもあたるでしょう。
(事務局:総務課)(2009年10、11月)
【質問24】「沈興澤報告書」について当時の公文書(勅令第四十一…
「沈興澤報告書」について当時の公文書(勅令第四十一号)では「石島」とされていることから、たとえ現地呼称が「独島」であっても正式な問い合わせならば「石島」と記載するのが普通と考えられる。沈興澤は「独島」というのを知らなかったんじゃないか。例えば、「外洋にあり100余里も離れている」という説明は知らないからこそ記載される内容と考えられる。初めから勅令41号でいう石島が独島であり遠くにある島だと知っていたらわざわざ説明等記載することはないと思う。
【回答】
1906年の鬱島郡守沈興澤の報告に「本郡所属独島は本郡の外洋百余里にあるが・・・」とあるのは鬱島郡の設置根拠である1900年の勅令第41号に「・・・区域は鬱島全島と竹島石島を管轄する事」とあったからだ、沈報告は大韓帝国が勅令第41号に基づいて独島を正確に統治範囲内として認識・管理していたことを示す証拠だ、とする議論に対し、御意見は、石島が独島なら政府への報告には法令上の名称である「石島」を用いるはずだ、位置についての説明も要らないはずだ、それだのに独島という呼称を用い、本郡外洋百余里にあるとわざわざ説明しているところをみると、沈興澤報告は勅令とは無関係だ、という御指摘だと思います。勅令の石島が独島でないことの説明が、また一つ補強されました。御意見ありがとうございました。
(事務局:総務課)(2009年12月、2010年1月)
【質問25】竹島の漁業権に関する事務を掌るのは島根県だと思うが、…
竹島の漁業権に関する事務を掌るのは島根県だと思うが、1905年の編入以来、朝鮮人に漁業権が与えられたことはあるのだろうか。
【回答】
島根県は、1905(明治38)年2月22日に竹島を島根県の所管とする告示をした後、同年4月14日漁業取締規則を改正し、竹島でのあしか漁を許可漁業としました。そして、同年6月5日に島根県知事は中井養三郎外3名に対し、あしか漁業の許可をしました。以後、あしか漁業は、数年ごとに2名又は3名の個人に対し許可されました。この間、大正10年の漁業取締規則改正により、竹島周辺海域での海藻介類の採捕(いわゆる根付き漁業)を竹島でのあしか漁業者に限り許可することとしました。
戦後の一時期漁業は中断しましたが、サンフランシスコ講和条約発効後の昭和28年6月に島根県知事から隠岐島漁業協同組合連合会に対し共同漁業が免許され、橋岡忠重外2名に対しあしか漁業が許可されました。その後、共同漁業免許は10年ごとに更新されており、直近では平成15年9月に免許されています(県の取り組みへの意見・要望9への回答参照)。
このように1905年以降現在に至るまで、竹島でのあしか漁業、共同漁業は、いずれも日本人に許可、免許されています。
(事務局:総務課)(2009年12月.2010年1月)
【質問26】4月2日のニュースで以下の内容が報じられていたが、…
4月2日のニュースで以下の内容が報じられていたが、事実だろうか。韓国側は初めて発表したとしているが、そんなに決定的な証拠なら、何故今まで出さなかったのだろうか?≪韓国嶺南大学独島研究所が、帝国陸海測量部が作成した「日露清韓明細新図」を公開した。アジアからヨーロッパ、アフリカまで正確な尺度で精密に描かれているこの地図は1903年に制作され、竹島と隠岐島の間に両国の国境線が描かれている。当時の日本政府が竹島を大韓帝国の領土と認めた。日本の国家機関が制作した地図で独島を韓国の領土と表記したのは初めて。≫
【回答】
この地図にある竹島と松島は、経緯度で示された位置から見て「アーゴノート島」(欝陵島を英国船が測量し誤ったことから西洋の地図に描かれることになった架空の島。杉原通信第7回参照)と欝陵島であり、現在の竹島はこの地図に載っておりません。また、「帝国陸海測量部」という国の機関は存在しません。民間で適宜に作成した地図だと考えられます。なお、この地図につき、平成22年4月29日に開催した第3回竹島問題研究会に関係資料が提供されています。Web竹島問題研究所の「竹島問題研究会の開催状況」のページにある「地図・絵図について最近の研究より」p.5(杉原委員提出)をご覧ください。
(事務局:総務課)(2010年4、5月)
【質問27】改正日本地誌要略字引,大槻修二著,永田方正解,大阪…
改正日本地誌要略字引,大槻修二著,永田方正解,大阪:柳原喜兵衛等,明12(1879)の隠岐の項に、「○松島国ノ西北海上百四十八里ニアリ○竹島同ク洋中二百十二里にあり○居民統屬ナクスム人モナク又何レノ国ニツクト云コトモナシ○海獵場ウミレウノバシヨナリ」とあるが、この松島は現在の竹島なのであろうか?
【回答】
ご指摘の『改正日本地誌要略字引』は、大槻修二編『日本地誌要略(外部サイト)』1879に対応し、この『日本地誌要略』に登場する用語を辞書のように解説したものです。同書には「・・・西岸ニ福浦アリ、抑(そもそも)此国ハ、日本海中西辺ノ絶島二シテ、其西北洋中二、松島竹島ノ両島アリ、共二朝鮮北方二接近スレトモ、亦居民統属ナク・・・」とあります。隠岐の西北の日本海に竹島松島があるという記述は、伝統的な江戸時代の日本における知識(竹島=欝陵島、松島=現在の竹島)を引き継いでいるようにも見えます。他方、同書巻頭の「大日本国全図」を見ると、朝鮮半島に近接して「竹シマ」次いで「松シマ」が描かれています。その位置は明らかに「アーゴノート島」(前記質問2への回答参照)と欝陵島です。『改正日本地誌要略字引』にある竹島、松島への隠岐からの距離及び『日本地誌要略』の地図から判断すれば、ご質問に係る松島は欝陵島のことである可能性が高いと思われます。
(事務局:総務課)(2010年4、5月)
【質問28】ホームページを見ると、明治9年の太政官文書-竹島外一島…
ホームページを見ると、明治9年の太政官文書-竹島外一島之儀本邦関係無之について、明治14年の松島開拓願いを引き合いに出して、外一島の松島は竹島(Dagelet島)であるとしているようだが、島名が混乱している当時において、都合のよい例を引き合いに出すのは如何なものかと思うし、説得力に欠けるとも思う。第一、外一島は太政官が言い出したものではなく、島根県が書いたものであろう。島根県が地籍伺いを出すに当たって、竹島と松島とが有る以上、松島を除外して出す筈が無いと思う。ならば、竹島外一島は竹島(Dagelet島)とLiancourt島でなければならない。ただ、太政官の回答内容を見ると、1696年の幕府の渡海禁止を論拠にしているだけである。従って、内容は竹島(Dagelet島)についてだけ本邦関係無之としているものだ。松島も含めてしまうと、渡海禁止令との整合性がとれない。それは勇み足、越権行為である。そうではなく、ただ島根県の伺いの鸚鵡返しに竹島外一島之儀本邦関係無之としただけだ。深く考えなかったのは、落ち度といえば落ち度であるが、元々島根県が外一島などという曖昧な伺いを出したのが、ミスを誘う原因で太政官を責められない。これに対して島根県はどうしたのであろうか。竹島と松島の地籍伺いを出したのに、竹島への渡海禁止令を理由に松島まで本邦関係無之とされたのに驚いて、渡海禁止令に含まれない松島についてだけ、再度伺いを出さなかったのか。松島などどうでもいいと思って、そのままにしたのであろうか。
【回答】
重要な論点なので、少し詳しく見てみたいと思います。ポイントは、明治10年の太政官決定が現在の竹島について本邦無関係と決定したかどうかです。一つの考え方(仮にAとします)は、島根県からの「竹島外一島」地籍編纂方伺は竹島と松島に関するものである、これらは江戸時代の日本の呼称による竹島(欝陵島Dagelet)と松島(現在の竹島Liancourt)である、そのことは伺いに添付された絵図に両島が描かれているので明らかである、太政官は当該「竹島外一島」について本邦無関係と決定したのであるから、現在の竹島も本邦無関係と決定された--というものです。別の考え方(B)は、島根県の伺いに添付された説明資料中に、松島の説明に続いて大屋甚吉漂着の記事があるので、伺いにいう外一島の松島も欝陵島のことだ、島根県は結局欝陵島について伺いを出し、太政官も欝陵島について本邦無関係と決定した--というもの、いま一つの考え方(C)は、島根県の伺いでは確かに欝陵島と現在の竹島を念頭に置いていたけれども、内務省、太政官においてはそうでない可能性がある、当時の西洋起源の地図で欝陵島が松島とされていたことや、同島を目的とした開拓願に或るものは竹島、或るものは松島の呼称が用いられていたことから、中央においては竹島=松島=欝陵島という認識が行われていたと考えられる、したがって太政官は現在の竹島については本邦無関係と決定していない--というものです。
ホームページ上の杉原隆竹島問題研究顧問の記事は、上記BまたはCの考え方を補強する材料として、明治14年の島根県・内務省間の伺い・回答および内務省・外務省間の往復文書を紹介しています。内務省・外務省間の往復文書からは中央において竹島=松島=欝陵島という認識が行われていたことが明確に読み取れます。島根県・内務省間の伺い・回答は、明治10年の回答にいう竹島と明治14年の伺い・回答にいう松島を同一視していることから、島根県においても竹島=松島=欝陵島という認識が行われていた可能性を示唆しています。
なお、内務省や太政官が参照し論拠とした史料が「竹島」(欝陵島)をめぐる元禄時代のやり取りに関するものであったことは、ご指摘のとおり、太政官の決定がもっぱら欝陵島に関するものであることの根拠として重要です。また、太政官の決定がもっぱら欝陵島に関するものであるならば何ゆえ太政官の決定で「竹島外一島」という文言が用いられているのかという問題がありますが、これに対しては、稟議書において最初に与えられた標題(件名)が維持されること(ご意見の言葉でいえば「島根県の伺いの鸚鵡返し」)が一つの答えになると思います。竹島問題研究会(第2期)の中間報告では、ご指摘いただいた点を踏まえ、新しく調べのついた関係人物評なども加え、太政官決定の問題を改めて整理する記事が杉原顧問により執筆されています。
(事務局:総務課)(2010年8、9月)
※参考※
第2期「竹島問題に関する調査研究」中間報告書(平成23年2月)
○明治10年太政官指令‐竹島外一島之儀ハ本邦関係無之‐をめぐる諸問題(杉原隆)(PDF687.1KB)
【質問29】T・J・ショーエンバウム「日本とその近隣諸国との領土…
T・J・ショーエンバウム「日本とその近隣諸国との領土及び海洋を巡る紛争の解決に向けて」(http://subsite.icu.ac.jp/ssri/Publications/SummaryFolder/J57SummariesCOE/SchoenbaumJP(リンク切れのため閲覧不可))は、「1905年時点で、竹島は明らかに無主地ではなかったので、韓国政府に通達すべきであった。」と述べている。これは事実誤認と思われる。現在に至るも1905年当時、現竹島を朝鮮が統治していたとの主張は立証されていない。「1905年時点で、竹島は明らかに無主地ではなかった」というのならそれを立証すべきだし、それができないのなら訂正するのが学者としての責任なのではないだろうか。
【回答】
ご教示くださった記事を見ると、この人は、「サンフランシスコ平和条約の草案は竹島を日本が放棄する場所として明記している。この記述は、日本の抗議により本案からは外されたのであるが、アメリカが竹島を日本に編入する意図を持っていたと示すものはない。」とも述べています。最小限、Web竹島問題研究所のサイトにある英文の啓発冊子くらいは読んでから発言していただきたいと思いますが、世の中には韓国の主張やその立場を代弁する文献が溢れていて、それを鵜呑みにしている人が多いということかと思います。
(事務局:総務課)(2010年8、9月)
【質問30】竹島考証第拾貳號松島之議ニ渡邊洪基のところに出てくる…
竹島考証第拾貳號松島之議ニ渡邊洪基のところに出てくる、「又戸田敬義ノ圖・・・二十三里餘トナル[尤曲屈出入ヲ合セ沿岸]去レハ彼松島即チ「タゼラ」島ノ周圍ト異ナル事少々ナラス、」の、戸田敬義ノ圖は、現存するのか。「二十三里餘トナル[尤曲屈出入ヲ合セ沿岸]」がヒントになると思う。そして、「圖中南隅ニ一里半周圍ノ一島ヲ載ス、是于人島ナルベシ、」という文章は、その「戸田敬義ノ圖」について述べているのであろうか。
【回答】
北澤正誠『竹島考證』には、第12号「松島之議二」の前に第4号として戸田敬義の「竹島渡海願」が収録されており、その中に「図面ハ一昨年伯耆ノ一漁師ノ家に求トムルナリ」という記述があります。『竹島考證』にはいくつかの筆写本がありますが、そのうち外務省外交史料館所蔵のもの(分類番号3-8-2-7『朝鮮國蔚陵島ヘ犯禁渡航ノ日本人ヲ引戻処分一件』第5巻)の巻末に「第四号ニ添/島根縣士族戸田敬義願書添/竹島之圖貮葉」と書いた封筒が付いています。封筒中には、甲乙と朱書された二つの「竹島之圖」が入っており、このうち乙がご質問に係る絵図です。同図は、机上に広げた場合、上方が南、左側が東になります。その図の左上の角に小島を描き「此島廻リ壱リ半」とあります。同図は欝陵島を一枚の紙に大きく描いたもので小島が欝陵島と近接して描かれていること、島上に木々が描かれていることから判断して、この小島は、いわゆる竹嶼です。なお、もう一方の甲の絵図には「天保四巳霜月十九日夜求之持主権吉」「明治七年冬借求」と書かれています。また、甲乙両図とも、国立公文書館に「明治十年八月模写ニ折ノ内」と書いた写し(請求記号177-217)があります。
(事務局:総務課)(2010年10、11月)
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