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杉原通信「郷土の歴史から学ぶ竹島問題」

第8回明治9年の太政官文書−竹島外一島之儀本邦関係無之について−


この前は現在の竹島が松島と呼ばれたり、リャンクール島と呼ばれたことがあったこと、現在の鬱陵島も竹島や松島と呼ばれたことがある少々ややこしい話をしましたが、ご理解頂けましたか。

今回はこれに関して竹島問題の専門家の先生たちが論争されている「竹島外一島之儀本邦関係無之(たけしまほかいちとうのぎほんぽうかんけいこれなし)」についてお話ししましょう。

現在続いている竹島問題論争の一つの論点ですので、私も一方に偏らない立場でお話したいと思いますので、皆さんも考えてみてください。

少し復習しておきますが、江戸時代の大半、日本では現在の鬱陵島を竹島、現在の竹島を松島と呼んでいました。江戸時代中期の1780年代後半、2隻の外国船が日本海に現れ、鬱陵島を正しい位置で測量した船は「ダジュレー島」、鬱陵島の位置を測量上間違えてより朝鮮に近い場所とした船は「アルゴノート島」と命名し、それがヨーロッパの海図、地図に登場しました。

これを見た、その後混乱を惹起する重要な人物がいます。ドイツ人医師でオランダ商館に雇われて長崎に来たシーボルトです。彼は高野長英などに洋学を教えると共に、遊女お滝さんとのロマンスの中で日本で最初の女性医師となるお稲さんを残しました。帰国後シーボルトは、間違った位置の鬱陵島である「アルゴノート島」に竹島、正しい位置の鬱陵島である「ダジュレー島」を松島とする「日本図」を作成しました。西暦1840年のことです。

一方この時期、江戸時代から松島と呼ばれていた現在の竹島を測量した船がありました。1849年フランスの捕鯨船リャンクール号です。彼らはこの島を「リャンクール島」と名付けて去りました。その結果、朝鮮半島と隠岐の間に竹島(実在しない鬱陵島)、松島(正しい鬱陵島)、リャンクール島(現在の竹島)が描かれる地図が登場することになりました。江戸時代最後の慶応3(1867)年外国通の勝海舟が監修した「大日本国沿海略図」は、それを示す代表的な地図です。

さて、いよいよ時代は明治期に移りました。明治4(1871)年明治政府は廃藩置県を断行しました。政府は新しく生まれた府県とさまざまな問題で意見交換する必要がありました。明治9年、政府内の内務省は恐らくは地租改正等のための地籍の確認の必要からでしょうが、島根県に「竹島」の所属について意見を求めてきました。

M9地籍編纂伺

島根県は明治9年10月16日伺いの形で県令佐藤信寛代理の県参事境二郎の名で内務卿大久保利通に回答しました。「竹島外一島地籍編纂方伺(たけしまほかいちとうちせきへんさんかたうかがい)」と題する島根県が提出した伺いの骨子は、「竹島」を「山陰一帯ノ西部ニ貫付スヘキ哉ニ相見候」、つまり山陰地方の西部の所属にすべきだとし、この島へ江戸時代米子の町人大谷、村川家が渡海した状況を説明しています。その説明の文言は大谷、村川家文書からの引用であることもわかっています。また享保期の絵図を参考に作ったとする「磯竹島略図」なる図を添付しています。

これに対し「竹島外一島之儀本邦関係無之儀ト可相心得事」とする内務卿大久保利通代理、内務少輔前島密の名で返答が明治10年4月9日付けで発せられました。すなわち、「竹島外一島」は日本領でなく、日本と関係がないことと心得よと指示する内容と読み取れるものでした。この返答は当時の政府機関である太政官の決裁を得たものでした。

ここで問題は「竹島外一島」が何を指すかです。

この時期の太政官の承認文書は「太政類典」や「公文録」と呼ばれる文書に載ってます。文面は島根県が提出した説明資料添付になっていますが、その読み方で研究者に意見の相違が生じています。「磯竹島一ニ竹島ト称ス、隠岐国ノ乾位一百二十里許ニ在リ、周回凡十里、山峻険ニシテ平地少シ」で始まる冒頭の部分は、つづく植物、動物等この島の物産からみて現在の鬱陵島のことに間違いありません。続いて「次ニ一島アリ松島ト呼フ、周回三十町許、竹島ト同一線路ニ在リ隠岐ヲ距ル八拾里、樹竹稀ナリ亦魚獣ヲ産ス、永禄年中伯耆国会見郡米子町商大屋甚吉航シテ越後ヨリ帰リ台風ニ遇ウテ此地ニ漂流ス」とあります。すなわち、「竹島外一島」の外一島は「松島」らしいということになります。そこで、次に「松島」が何を指すかが問題となります。一つの考え方は、松島は江戸時代の松島つまり現在の竹島とあるとし、結果的には竹島である鬱陵島と松島である現在の竹島の両方とも日本領ではないと決定したとするものです。この文章の別の読み方は、大屋甚吉が漂着したのは竹島だから竹島も松島も鬱陵島を意味し、結果的には明治政府が竹島外一島無関係としたのは鬱陵島だけのことで、この時期リャンクール島と呼ばれている現在の竹島には論及していないとするものです。すでに述べましたように、幕末から鬱陵島が竹島、松島と一島二名の混乱があり、特に明治初期には松島は鬱陵島を指す記述が多くみられます

磯竹島略図明治9年には青森県の武藤平学と千葉県の斎藤七郎兵衛等がそれぞれ別々に「松島開拓願」という鬱陵島での伐木事業等の許可を外務省に提出していますし、明治10年には島根県出身の士族戸田敬義は鬱陵島を竹島とし「竹島渡海願」を提出しています。鬱陵島に近いウラジオストックへ貿易事務官として派遣されていた瀬脇寿人は「松島ハ巨樹沢山繁茂致シ居候」として開拓願を認めるよう政府に求めています。明治15年来日した修信使朴泳孝が鬱陵島へ日本人が渡海することについて外務卿井上馨に抗議しますと、翌明治16年3月31日に内務省は全国の各府県長官宛てに「(前略)日本称松島、一名竹島、朝鮮称蔚陵島ノ儀ハ従前彼我政府議定ノ義モ有之、日本人民妄ニ渡航上陸不相成(以下略)」の訓令を出していることはWEB竹島問題研究所ホームページ「調査研究成果・報告」に掲載の私の拙論「清水常太郎の朝鮮輿地図について」で述べたとおりです。また、最近研究者のお一人から明治14年島根県令境二郎(明治9年県参事として内務省に伺い書を出しだ人物です)の名で内務卿、農商務卿に「日本海内松島開墾之儀ニ付伺」なる書状が提出されていた事実を教わりました。内容は島根県那賀郡(なかぐん)浅井村の士族大屋兼助という人から松島開墾願いが出ていることについての対応の伺いです。ここでいう松島は文面から鬱陵島であることは明白です。これに対して内務省と外務省との間で文書の往復がなされていますが、そこでは「朝鮮国蔚陵島即竹島松島之儀ニ付」のような文言が担当者によって使われています。当然「鬱陵島すなわち竹島とも松島とも呼ばれている島」を意味します。

明治9年地籍という歴史にも関係する内容の質問に、島根県は江戸時代の史実を中心に「竹島外一島」で伺い書を作成、提出しました。これに対し内務省の指示は、島根県が用いた「竹島外一島」の文言をそのまま利用しているものの、明治初期の現状を反映し「竹島とも松島とも呼ばれている島(鬱陵島)は日本領ではない」を意味するものであった可能性が大です。しかしそれをすべて皆さんに認めてもらうには、関係の文書・地図等の分析をさらに進める必要があるでしょう。この問題が「竹島問題」の論争の一つであることは当然だと思います。


この件につきましては「竹島外一島之儀本邦関係無之について」再考-明治十四年大屋兼助外一名の「松島開拓願」を中心に-(平成21年11月6日掲載)をご覧ください。


(主な参考文献)

川上健三『竹島の歴史地理学的研究』古今書院1966年

田村清三郎『島根県竹島の新研究』島根県1996年

内藤正中『竹島(鬱陵島)をめぐる日朝関係史』多賀出版2000年

塚本孝「竹島領有権紛争の焦点」(講演メモ)2007年

 『「竹島問題に関する調査研究」中間報告書』2006年

 『「竹島問題に関する調査研究」最終報告書』2007年

 「外務省外交史料館所蔵外交記録」


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