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石見銀山の歴史

  1. 石見銀山の歴史「灰吹」法による銀の精錬
  2. 国際的分野において果たした役割
  3. 国内において果たした役割
  4. 鉱山技術と生産方法
  5. 公害問題と労働環境
  6. 調査と保護の歴史

(世界遺産登録推薦書から引用。なお、原文の一部を修正しています。)

1.石見銀山の歴史

1)発見

文献史料によると、石見(いわみ)銀山は1527年に発見され、それ以後本格的に開発が開始された。14世紀初め頃に地表に露出した自然銀を採掘したとの伝承もあるが、明確ではない。

銀鉱山の開発を開始したのは、当時、日本最大の貿易港であった博多の豪商神屋寿禎(かみやじゅてい)である。寿禎は、中国・朝鮮への主要な輸出品であった銅を入手するために、石見地方の東隣に当たる出雲地方に向けて日本海の沿岸を航行していた際に、南の山に霊光を発見して銀山の存在を知ったとされている。

 

2)鉱石の搬出と鞆ケ浦(ともがうら)の繁栄

開発当初、寿禎は銀山から直線距離にして約6km西方に当たる鞆ケ浦の港へと銀鉱石を搬出し、本拠地があった博多へと船で送り出した。これによって、鞆ケ浦には多くの家屋が建ち並び、繁栄したと伝えられている。また、文献によれば、この頃、石見銀山近隣の日本海沿岸には中国や朝鮮の船が来航したことが知られる。

 

3)開発者神屋寿禎の地位

神屋寿禎が銀山を開発した16世紀前半において、石見地方を守護職として支配していたのは戦国大名大内(おおうち)氏であった。大内氏は、石見地方の西に接する周防(すおう)・長門(ながと)地方を中心に勢力を誇った日本国内でも有数の大名であった。また、大内氏は博多を拠点として中国・朝鮮と貿易を行ったことでも知られる富裕な大名であった。神屋寿禎は大内氏の保護の下に活躍した豪商であり、中国貿易とも深く関わっていた。

 

4)灰吹(はいふき)技術の伝来と増産

1533年に神屋寿禎は博多から石見銀山へと技術者を送り込み、朝鮮から伝来したとされる灰吹法の技術を用いて現地で銀精錬を行わせるようになった。このことによって銀の生産量が飛躍的に増大し、1530年代後半には、生産した銀の一部を成す大内氏への毎年の献上銀が16kgから80kgへと急増したことが記録されている。

 

5)銀山開発に伴う軍事的緊張

大内氏は石見銀山とその周辺の地域に代官を派遣して支配していたが、さらにその外側の地域には、大内氏の指揮下にはあるものの、自立性の強い封建領主たちが存在した。彼等は、しばしば独自の政治的・軍事的行動を起こす存在でもあった。1530年代末から1540年代にかけて、彼等は大内氏の銀山支配をたびたび脅かした。石見銀山の中心にある山吹城(やまぶきじょう)をはじめ、その周辺にある矢滝城(やたきじょう)・矢筈城(やはずじょう)・石見城(いわみじょう)などは、彼らの動きから銀山を守備するための軍事施設であった。

 

6)技術先進地

石見銀山は、16世紀の日本において銀製錬及び精錬の技術的先進地であった。記録によると、既に1540年代には石見銀山に技術力の高い製錬及び精錬技術者の職人組織があり、国内の他の鉱山で採取された鉱石の鑑定が行われていたことが知られる。

≫『製錬』鉱石から金属を取り出す

≫『精錬』金属から不純物を取り除き純度を高める

 

7)支配の交替

1550年代に内紛によって大内氏が滅亡すると、石見地方の東方の出雲(いずも)地方を本拠地とする戦国大名尼子(あまご)氏が石見銀山に侵入し、大内氏に代わって銀山の支配権を掌握した。尼子氏の支配は約5年間継続したが、1562年には石見地方の南に隣接する安芸(あき)地方の大名毛利(もうり)氏が争乱状態にあった石見地方を軍事的に制圧し、石見銀山の支配権を確立した。このような戦国大名の石見銀山を巡る争奪の過程において、銀山の支配権を奪取するのに重要な軍事的役割を果たしたのが矢筈城や山吹城であり、これらの城を巡って激しい攻防が繰り返された。この戦闘の結果、1561年には毛利軍が銀山地区に侵入し、これを手中に収めた。

銀山を制圧すると、毛利氏は1562年に天皇・室町(むろまち)幕府などに対して石見銀山を寄進し、生産した銀の一部を献上するとともに、自らも生産した銀の多くを軍事費として用いた。

 

8)銀・関連諸物資の搬出入と温泉津(ゆのつ)・沖泊(おきどまり)

毛利氏は、石見地方を制圧した後に、石見銀山から西へ直線距離にして約9kmの位置に当たる温泉津や沖泊に家臣を置き、石見銀山とその周辺地域の支配を行った。これを契機として、16世紀後半には銀山から中継地である西田の町を経由して温泉津・沖泊に至る街道が整備され、銀の搬出のみならず、銀山で必要とされる消費物資・生産用物資の搬入が行われるようになった。

温泉津は温泉地であるとともに、日本海沿岸の船舶交通の寄港地としても有名な場所であった。16世紀後半には既に集落が存在し、17世紀初頭には宿泊施設・商業施設を含む繁華な町に発展していた。

沖泊の港は温泉津港の北側に当たり、16世紀後半には鞆ケ浦に代わって銀の搬出港となっていた。この頃、温泉津では大量の米が陸揚げされ、伝馬を使って銀山へと運ばれた。

沖泊港の南側に位置する岬の先端には、1570年に城が築かれた。この城は沖泊を含め温泉津湾の全体を守備し、銀山の物資搬出入を維持する上での軍事的機能を果たした。

9)内乱時代の終息と銀山支配

1580年代になると、戦国大名毛利氏は戦乱の日本を統一する事業を推進していた豊臣(とよとみ)氏の支配下に入った。これにより、石見銀山は毛利氏の支配を基礎としつつ、豊臣氏の支配を受けることになった。

1590年代末頃の銀山及び温泉津付近の地域では、採掘・製錬及び精錬・店舗営業・輸送・漁業などの諸活動に対する課税が銀で行われ、地域社会に滞留する銀を毛利氏が吸収する課税制度が確立していた。その課税量は、1600年に年間銀約3,680kgに達した。

豊臣氏の最有力大名であった徳川家康(とくがわいえやす)は1600年に内戦に勝利し、政権を掌握した後に国内の金銀鉱山を接収した。その結果、石見銀山の支配権も豊臣氏及び毛利氏から徳川氏(=江戸幕府)へと移行した。

 

10)江戸幕府による経営

徳川家康は鉱山支配に有能な大久保長安(おおくぼながやす)を奉行として重用し、石見銀山の支配に当たらせた。この頃に開発され、盛んに銀を産出した代表的な間歩(まぶ)が大久保間歩、釜屋(かまや)間歩、本(ほん)間歩などである。従来、銀山には複数の山師が存在し、彼等は自らの資本を用いて銀生産のための経営を行い、その対価として銀山の支配者に対して上納銀を納めていた。17世紀、江戸幕府による支配の時代になると、石見銀山では、山師の民間資本単独による経営と、これに加えて奉行所(後の代官所)から公的資本が投入される経営との2種類の経営が行われた。この導入された後者の方法により生産量がさらに増加した。例えば、1600〜1602年頃、徳川氏から釜屋間歩を中心として経営を請け負っていた山師安原伝兵衛(やすはらでんべえ)は、年間13,500kgにも上る上納を一人で行い、徳川家康に褒賞された。

 

11)銀山の繁栄

最盛期頃の石見銀山とその周辺の様子は、1619年に作成された古絵図にも描かれている。銀山は柵に囲まれ、出入口には番所が設けられるなど、厳しく監視が行われていた。また、山吹城とその山麓に存在した銀蔵(かねぐら)を中心として、谷筋に沿って街路・町並みが展開し、繁華な場所を形成していたことが知られる。一説には、各地から人々が集住して人口が数万人にも達したと推定されている。このような多くの人口を養うために、温泉津においては大量の米穀をはじめとする食料のほか燃料や製錬材料などが陸揚げされ、街道を経て銀山へと搬入された。温泉津は、銀山における消費と生産を支える重要な港町としての役割を果たした。

17世紀初めには、オランダ人・イギリス人が日本に来航し、彼らを交えて対外貿易はますます盛んとなった。同時に、日本国内の戦乱が終息するのに伴って、各領国に中心的な城下町が整備され、経済活動が活況を呈することにより銀の需要はますます増大した。一方、石見銀山とその周辺地域の政治的秩序は安定し、山吹城をはじめ銀山の周囲に存在した山城は順次撤去されていった。

 

12)銀山の空間的拡大と支配

銀山の繁栄は銀山柵内(さくのうち)の東側に当たる大森地区の建設へと発展し、17世紀中頃には銀山を囲っていた柵が撤去された。大森地区の整備とともに、支配の中心地も山吹城の麓に当たる銀山地区から大森地区へと移動して行った。

当時、銀山とその周辺の支配は、中央の江戸幕府から派遣された代官によって行われた。代官の中には18世紀前半の井戸平左衛門(いどへいざえもん)のように甘藷(かんしょ=さつまいも)の栽培を奨励し、領内の人々を飢饉から救った人物もいた。彼は、後に大森地区にある井戸神社に祀られ、今日においても地域の人々に広く敬われている。

代官の下には、宗岡(むねおか)・阿部(あべ)・河島(かわしま)家など地域で成長した役人がおり、現在でも武家屋敷が残っている。

 

13)銀山の衰退

石見銀山における銀生産は、1620〜1640年代頃を最盛期としてその後は減少に向かう。坑道が深くなるのに従って作業困難となり、出水対策などで投資がかさみ採算が悪化した。そのため、1691年には坑道総数92のうち63が休山したのをはじめ、1729年には坑道総数129のうちの74が、1823年には坑道総数279のうちの247がそれぞれ休山状態にあるなど、石見銀山は衰退の一途を辿るようになった。17世紀後半には年間平均1,000〜2,000kgの銀生産を維持していたが、19世紀半ばには100kg台にまで減少し、これに代わって徐々に銅の生産が増加するようになってくる。

 

14)生活保障されていた銀山労働者

銀鉱石の採掘は、経営者である山師に契約雇用された鉱夫らによって行われた。

また、鉱山労働者の保護施策として、鉱山病で生活ができない者に対する米の支給や、保養薬としての味噌の支給、その子どもに対する養育米の支給などがあった。こうした施策は鉱山労働という特殊な状況の中で生まれたものであったが、その後の社会保障制度の先駆けと言えるものでもあった。

 

15)大森地区の町並み景観

大森地区の町並みは1800年の大火でかなりの部分が焼失したが、行政命令によって防火の工夫を施しつつ、街路に沿って町家が建ち並ぶ旧来の景観を取り戻した。街路に沿って銀山経営・金融業などを営んだ富裕な商人の屋敷をはじめ、中小の商人・職人の屋敷、武家屋敷などが建ち並び、その背後には寺院が配置されるなど、大森地区は多様な身分・職種の人々が混在して成り立っていた。

 

16)近代化と休山

1866年、石見地方の西の地方の大名であった毛利氏が江戸幕府に反抗し、石見地方に軍事侵攻して石見銀山に進駐した。その後、1868年に江戸幕府が倒れると、1869年に石見銀山は新政府によって個人経営者へと払い下げられた。1887年には私企業である藤田組(ふじたぐみ)が経営を開始し、石見銀山は大森鉱山と呼ばれるようになった。1895年には清水谷(しみずだに)に西洋の技術を導入して製錬所が建設されたが、1年半余りで閉鎖された。代わって要害山の西麓に当たる柑子谷(こうじだに)に製錬所が建設され、銅を主力に金・銀の製錬及び精錬が開始された。しかし、第一次世界大戦後の銅価格の下落と安価な輸入銅の影響により、1923年には休山に追い込まれた。その後、1942年の第二次世界大戦下の金属需要により再開発が試みられたが、1943年の台風被害により中止された。

2.国際的分野において果たした役割

1)銀輸出の歴史的前提

朝鮮王国の記録によれば、15世紀後半から16世紀初頭の石見銀山の開発以前に、日本は既に東アジアにおける銅・鉄を中心とする金属資源の供給国であった。この供給経路に乗って、石見銀山の銀が東アジアへと搬出されて行った。

 

2)朝鮮王国への石見銀の大量流入

1526年に石見銀山が本格的に開発され、銀が増産されると、1530年代末頃には朝鮮王国との交易手段として銀が大量に用いられるようになった。

朝鮮王国にもたらされた銀は、同王国と直接行う公貿易において綿布と交換された。戦国時代の日本においては、綿布は軍用品として需要が高かった。一方、朝鮮王国内に持ち込まれた銀は中国から輸入される唐物など高級品との交換にも用いられ、中国北東部の遼東を経て中国へと流入していった。

当時、日本から朝鮮王国に流入する銀の量は膨大で、1542年には日本国王使が一回に約1,350kgもの銀を持ち込んで交易を求めている。この銀の量は、東アジアを除く当時の世界の年間銀産出量の推計が90,200kgであったことと比較しても、相当の量であることがわかる。その当時、日本国内において本格的に稼働していた銀鉱山は石見銀山だけであったから、朝鮮王国に持ち込まれた銀のほとんどは石見銀であったことが窺える。

 

3)西欧人の日本来航とキリスト教伝来

1540年代になると、中国の福建省・広東省・浙江省の船が日本へと来航し、日本銀が中国南部へと流出するようになった。中国船の来航に伴い、香辛料を求めて1510年にはゴア、1511年にはマラッカへと到達していたポルトガル人が、1543年に日本の種子島へと到達した。

さらに、1549年にはイエズス会の宣教師であったフランシスコ・ザビエルが日本に到達し、東アジアの東端の地においてキリスト教の布教を開始した。

 

4)銀王国日本を代表する石見銀山

1552年、インドのゴアに滞在していたザビエルは、ポルトガルのシモン・ロドリゲス神父に宛てて、スペイン人が日本のことを「銀の島」と呼んでいると書き送っている。当時、品質の良かった石見銀は銀山が所在する佐摩(さま)村の名にちなんで「ソーマ銀」と呼ばれ、東アジアの交易においては最も信用度が高かった。

実際に、16世紀半ばから後半にかけて、欧州で作成された「バルトロメウ・ヴェリュ世界図」、「フェルナン・ファズ・ドラード日本図」、「オルテリウス=ティセラ日本図」などの東アジア地図の中には、記入されている数少ない地名として、石見銀山を「銀鉱山王国」又は「銀鉱山」と図示したものが見られる。当時の西欧人が日本を「銀王国」と見なした背景には、石見銀山から産出する大量で良質の銀が存在したことが窺える。

 

5)東シナ海交易=倭寇(わこう)世界への西欧人参入

16世紀の対中国貿易では私的な貿易が禁止されていたが、東シナ海域では密貿易集団である倭寇を中心に中国や琉球(りゅうきゅう)の商人が活躍し、これに新たにスペイン・ポルトガルの商人が参入することとなった。

 

6)中国による日本銀の吸収

中国における銀需要は既に15世紀から高まっており、中国国内では慢性的に銀の価値が高くなっていた。

その背景には、15世紀前半に江南地域から土地税の銀納化が進展したこと、官俸・軍俸の銀支給が開始されたこと、これに伴って1442年には北京に全国の銀収益を管理する太倉銀庫ができたこと、1421年の南京から北京への遷都の後に中国の北部地域と南部地域の経済が一体化し、遠隔地取引が発達展開することにより、決済手段として銀が用いられるようになったこと、などの情勢があった。このように、銀を基軸として政治・経済体制が整備されることにより、中国国内の銀需要は急速に増大した。

しかし、中国国内における銀生産は一般に低調であった。このような事情の下に、16世紀には石見銀山の開発が契機となり、日本の銀が大量に中国へと吸収されることとなった。

 

7)海禁政策及び16世紀〜17世紀中国における銀経済への影響

16世紀半ばまでの中国では、貿易を独占するために、政府が海禁政策をとって貿易活動を制限していた。銀の流通を介して著しく盛んとなった交易活動に対して、1550〜1560年代にかけて中国が海禁政策を強化すると、日本人や中国人のみならずスペイン人やポルトガル人の一部も加わって構成された倭寇の海賊活動が最盛期を迎える。その結果、1567年に中国明朝は展海令を発し、海禁令を解除するに至った。

その結果、さらに多くの銀を吸収した中国においては、広大な領域内における遠隔地取引、税制、強大な官僚制など、政治・経済の体制が銀本位制によって支えられることになり、これが明朝(1368〜1644)から清朝(1644〜1912)へと引き継がれていくこととなった。

 

8)東アジアにおける金銀比価の平準化と銀の道の形成

16〜17世紀初頭の東シナ海を舞台とする交易において、日本は中国の生糸・絹織物・銅銭・陶磁器など高度に発達した手工業製品を輸入し、中国・朝鮮に対して銀・金・銅・硫黄などの鉱業産品を輸出した。また、東シナ海域では東南アジアの香木・香料・胡椒・砂糖などが取引されるなど、交易圏が東アジアから東南アジアへと拡がりをみせていた。

大量の銀の流通は、金に対する銀の価値を相対的に低下させるとともに、銀高であった中国と他の東アジア諸国との間における金銀比価の平準化をもたらした。

また、このような16世紀後半の東アジアにおける交易の発展は、アメリカ大陸から太平洋を越えてもたらされる新たな銀流入の経路をも形成した。

以上のように、16世紀における石見銀山の開発と石見銀の流出は、日本〜朝鮮〜中国、日本〜中国の間に「銀の道」を形成する契機となり、東アジアにおける銀という経済的価値の交流と共有をもたらしたのみならず、異なった東西の文明を結びつける宗教や芸術などの文化的な価値の交流をも促した。

3.国内において果たした役割

1)大内氏の対外交易を支えた石見銀

15〜16世紀における日本最大の対東アジア貿易港は、九州の北端にあって東シナ海と日本海へと通ずる博多であった。戦国大名の大内氏は、博多を中心に中国の明王朝や朝鮮王国との貿易を展開した。16世紀前半期においては、石見銀山とその周辺地域は大内氏によって支配されていた。

博多の貿易商人であった神屋寿禎は1526年に石見銀山を「発見」すると、その銀鉱石を銀山から全長約7.5kmの街道を経て鞆ケ浦の港へと運び、博多に向けて搬出した。その背景には、石見銀山と博多を含み、本州西部から九州北部に至る広い範囲の領土を支配した大内氏の勢力があった。1530〜1540年代における大内氏の対外貿易は、この石見銀山産出の銀によって支えられ、大量の石見銀が東アジアへと流出していった。

 

2)西欧人の来航と技術・文化の到来の契機となった石見銀

石見銀山から東アジアへの銀流出が契機となって、1543年にはポルトガル人が日本に鉄砲をもたらした。それ以後、日本は銀を用いて火薬の原料である硝石を輸入する一方、短期間のうちに鉄砲製作技術を習得して国内生産に成功した。このことが戦術に変化をもたらし、諸大名が割拠して内乱状態にあった日本国内の政治的統一への動きを加速させた。

また、1549年にはフランシスコ・ザビエルがキリスト教布教のために初めて日本を訪れた。それ以後、半世紀以上にわたってイエズス会の宣教師らが布教のために日本を訪れ、キリスト教が日本国内に急速に広まっていった。

これらのことは、日本人がそれまで持っていた南アジアから東アジアを中心とする仏教的世界観に変化をもたらすこととなった。

 

3)戦乱期の地域権力を支え天下統一に影響を与えた石見銀山

16世紀前半に石見銀山を支配した大内氏は、内紛の末1557年に滅亡する。大内氏に代わって混乱する石見地方を平定・継承したのは、石見の隣国において戦国大名として成長をとげつつあった毛利氏であった。毛利氏は1562年に石見銀山を含む石見地方の全域を平定し、温泉津の港とこれに通じる街道を銀の搬出路として整備した。これ以後、毛利氏は急速に本州西部に当たる中国地方を平定して成長を遂げた。

1570年代、内乱期の日本にあって最も優勢な大名であった織田信長(おだのぶなが)は、天下統一を目指して、首都があった京都地方に軍事的に進出し、さらに西方に勢力を拡げていた。信長は、新兵器の鉄砲を積極的に導入する一方、統一事業を阻む一部の仏教勢力に対抗するためにキリスト教の布教を容認した。石見産の銀を戦費として用いた毛利氏はこの仏教勢力と提携し、織田信長と10年にわたって軍事的に対抗した。

このように、石見銀山の支配権は、戦国大名の実力形成と領国支配の拡大においてとりわけ重要な役割を担っていた。

また石見銀山をはじめ国内鉱山の銀生産が増加した同時期において、九州地方ではスペイン・ポルトガルの船が多く来航して交易活動が活発になっていた。この地方では、大友(おおとも)・有馬(ありま)・大村(おおむら)など交易活動に熱心な大名らがキリスト教に改宗し、1582〜1590年には4人の少年使節を欧州に派遣してローマ教皇に拝謁させるなど直接交流も行われた。

1582年に織田信長が死んで後、毛利氏は、信長の遺臣で天下統一を目指した豊臣秀吉(とよとみひでよし)に政治的に従属し、統一事業に参画した。豊臣秀吉は全国の主要鉱山を手中に収めたが、石見銀山については、毛利氏の支配を通じて共同支配を行った。また秀吉は、経済力があった貿易港堺(さかい)などの主要都市や鉄砲の生産地を支配し、大量の鉄砲を用いて統一戦争を推進した。

豊臣政権は土地所有制度・税制・軍役を整備し、石見銀山や後発の金銀山から産出される豊富な金銀に裏付けられた経済力のみならず、支配下の諸大名の軍事力も加えて国内平定を進め、1590年には日本国内の戦乱を収束することに成功した。

 

4)国内後発金銀山開発への技術伝播と国内支配体制の安定

既に1542年に石見銀山に次いで開発が始まった生野銀山へ、石見から鉱夫・製錬及び精錬技術者などが移住して開発に携わっていた。石見銀山の技術が石見銀山の東約200kmの距離に位置する生野銀山へと伝播し、16世紀後半における生野銀山の発展をもたらす端緒となった。

その後も、日本国内の政治的統一が進むのに伴って、石見銀山の技術が各地の金銀山へ一層伝播していった。1595年には佐渡(さど)金銀山に石見の鉱山経営者が移住し、技術の移転が行われた。佐渡は日本海に浮かぶ島で、17〜19世紀の日本において最も多くの金銀を産出した鉱山の島であった。

17世紀の初頭、豊臣政権下の最有力大名であった徳川家康は同政権に代わって新政権である江戸幕府を樹立し、国内政策の多くを継承するとともに、さらにそれらを整備拡充していった。

その一環として、江戸幕府は石見銀山をはじめ日本国内の金銀鉱山の多くを支配下に置いた。これに伴い、鉱山経営者・技術者の国内での交流はますます盛んとなった。例えば、佐渡金銀山には石見銀山の地役人が往来するとともに、石見の山師らが移動して開発に携わり、それ以後、佐渡金銀山は江戸幕府を経済的に支える主要な鉱山として発展した。

このような鉱山開発によって、江戸幕府は金銀を大量に入手することとなり、これを背景に日本史上初の統一的貨幣制度を整備した。この貨幣制度は、約2世紀にわたり世界経済と国内経済の関係が大きく制約された時代において安定した国内支配体制を支える重要な基盤となった。

多額の戦費を必要とする天下統一事業をはじめ、それに続く国内諸制度の整備、高額決済手段としての銀を必要とする対外貿易や隔地間取引の活発化は、石見銀山の開発に先導された日本国内鉱山の開発と大量の金銀生産に裏付けられたものであった。

 

5)16〜17世紀以降の日本文化への影響

このような政治・経済的な動向は新興の大名・商人など多くの富裕層を生み出し、彼らを保護者として、西洋文化の影響をも受けて絢爛豪華な独特の文化を開花させた。城郭建築や御殿建築をはじめ、金銀彩色の障壁画・歌舞伎・茶の湯など日本文化を代表するものとして今日の世界に広く知られている有形無形の文化遺産は、それ以前の時代における文化的蓄積と東西の文化交流を踏まえて、16世紀後半から17世紀初めにかけて生み出されたものである。

4.鉱山技術と生産方法

16〜17世紀に石見銀山が銀生産を飛躍的に増大させ、その産銀が東アジアのみならず世界においても大きな役割を果たすようになった背景には、石見銀山固有の良質な銀鉱床の存在と、日本の自然環境及び歴史的風土に根ざした日本的な鉱山技術及び生産体制があった。

 

1)鉱床の特徴

南北に細長く島嶼が弧状に連続する日本列島では、活発な火山活動により様々な鉱床が形成された。石見銀山には福石(ふくいし)鉱床と永久(えいきゅう)鉱床の2つがあった。初期に開発された仙ノ山(せんのやま)頂部の福石鉱床は、細脈が多数分布し、高品位の銀を含有する鉱染鉱床であった。また、仙ノ山の低位に位置する永久鉱床は、銅鉱物を含有する板状の鉱脈鉱床であった。

 

2)採掘技術の変遷

鉱山の生産技術は、探鉱・採鉱・選鉱・製錬・精錬の5つの工程から成り立っている。

石見銀山における初期の採掘は、世界中の初期の鉱山に認められるように、地表に露出した自然銀の採取から始まった。その後、16世紀前半には近くの銅鉱山の技術者を招いて露頭掘りが始まり、さらに露頭から地下に延びる鉱脈をそのまま掘り進む段階を経て、17世紀初頭には鉱脈の走行に直交して坑道を掘り、そこから鉱脈を追跡する技術にまで到達した。この段階では、正確な測量技術を必要としたほか、土留め・照明・排水・通気の技術が欠かせず、唐箕(とうみ)と呼ぶ農機具を転用した送風装置や、揚水ポンプが導入された。

採掘作業は、必要最小限の労働集約的な作業空間を確保して行われた。また、18世紀の文書によると、一つの坑道では鉱石を掘る1〜6名の「銀掘(かねほり)」、運搬役である1〜3名の「手子(てご)」が一つの小集団を組んで作業を行っており、極めて小規模な組織の下に採掘作業が行われていたことが窺える。

 

3)選鉱技術と鉱石の特徴

選鉱から精錬に至る作業は、採掘地点や坑道出口近くに設けた吹屋と呼ぶ作業場で行われた。

採掘した鉱石の選鉱は、粗選別した鉱石を笊(ざる)で水洗いした後によく乾燥させ、「要石(かなめいし)」と呼ぶ平らな石の上で手作業で丁寧に粉砕し、それを「ゆり鉢」に入れて水中でゆすって鉱石と銀成分を含まない通常の石とに比重選鉱した。

石見銀山の福石鉱床は軟い鉱染鉱石であり、比重選鉱により容易に銀の品位を高めることが可能であったため、開発初期の銀の増産に大きく貢献した。

 

4)製錬及び精錬の技術と資材

酸化鉱の福石鉱床と硫化鉱の永久鉱床では、製錬及び精錬の工程が異なった。銅を含まない酸化鉱では、鉛と銀の合金を作り、灰吹きによって鉛を分離して銀を回収した。硫化鉱の場合には、焙焼脱硫の後に溶解して硫化銅混合物を作り、鉛・銀合金と銅を分離した上で灰吹きを行った。

製錬の過程で使用する炉は、地表面をわずかに掘りくぼめて地床とし、その上に粘土を貼って構築する伝統的な方法によって造られたものである。規模は径が数10cm程度のものから約1mにも及ぶものがあり、平面形には方形と円形の2種類があった。

製錬及び精錬では、炉を構築するための粘土、燃料となる多量の木炭、送風装置・製錬道具となる木製品・鉄製品などが必要であった。また、銀を溶融して濃縮する段階の造滓材として、マンガンや方鉛鉱などを用いた。これらの資材は、すべて石見銀山及びその周辺の地域から入手することができた。特に鉄製の道具類は、銀山の南方に位置する砂鉄を利用した国内有数の鉄生産地から豊富に受給できた。

 

5)鉱業廃棄物の再利用

採掘の過程では、銀を含まない石屑、比重選鉱の揺り滓の細かな石、製錬段階で排出される鉱滓などが発生した。これらの鉱業廃棄物は、その形状及び性質に合わせて、作業場周辺の道の舗装材や作業施設の土地を嵩上げするための整地材料として再利用された。

 

6)精錬技術「灰吹法(はいふきほう)」

石見銀山では、銀を回収する最終段階の精錬において灰吹法が用いられた。記録によると、灰吹法は1533年に博多の貿易商人であった神屋寿禎とともに博多から現地に赴いた2人の技術者、宗丹(そうたん)と慶寿(けいじゅ)によって開始されたとされている。

日本における銀精錬の開始は銅精錬とともに7世紀にまで遡るが、当時の精錬技術の詳細については未だ明らかになっていない。銅精錬にはその最終段階に鉛を使って銅混合物から銀を抜き取る行程があることから、銀精錬の場合においても鉛を使った精錬法が実施されていた可能性が高い。

石見銀山では、このような日本在来の伝統的技術を前提として、16世紀の朝鮮半島に系譜がある技術を導入して灰吹法が成立した。この技法は、鉄鍋に入れた骨灰を使って含銀鉛から銀を抽出するというものである。灰吹法はこの地の生産条件を踏まえて応用的な技術にまで洗練されたものと考えられ、このことによって石見銀山における大量の銀生産が可能となったのである。

石見銀山で確立された独特の灰吹法技術は国内の他の金山や銀山に伝えられ、日本における金銀の大増産を導いた。したがって、石見銀山はこのような日本の金銀大増産の先駆的な役割を果たした鉱山であるといえる。

灰吹法が石見銀山において採用された事実は、鉄鍋が据えられた炉跡などの遺構をはじめ、骨灰の入った鉄鍋及び鉄製火箸などの遺物の出土により明らかとなった。また、精錬途中で形成される銀鉛合金や、製品である灰吹銀などの実物についても、科学的調査によって証明されている。同時に、これらの調査により、炉内の温度管理や炉に投入される材料の調合などが緻密かつ適確に行われていたことが判明しており、豊かな経験に基づく高度な技術が存在したことが明らかとなっている。

因みに、銀精錬法にはメキシコや南米で採用された水銀アマルガム法がある。石見銀山においても、江戸時代初頭(17世紀初頭)に水銀アマルガム法を試行したと見られる記録が残っている。しかし、この方法は、日本国内において水銀が高価かつ稀少であった反面、鉛・灰・木炭など灰吹法に必要な材料の入手が容易であったことから定着しなかった。その結果、16世紀に石見銀山から始まった灰吹法が17〜19世紀半ばの日本における精錬の基盤技術として存続することとなった。

 

7)経営上の特徴

このような製錬及び精錬に関する一連の作業は、坑道近くの平坦地に建てられた建物で行われた。仙ノ山では1,000ヶ所もの平坦地が確認されており、発掘調査によって、これらの作業場が職住一体の下に機能していたことが明らかとなっている。

坑道とそれに近接して造成された作業場は、山師と呼ばれる鉱山経営者から成る小集団毎に経営された。16世紀代においては、山師たちは戦国大名の庇護の下に運上金を納めることによって経営を保証された。こうして、彼らが行う小規模な経営体が集積され、大量の銀生産が可能となった。

江戸幕府の成立後においては銀山経営は幕府の直接支配を受けることとなり、幕府が経営する坑道も生まれた。しかし、その他の坑道経営は依然として山師たちによって行われた。

石見銀山は、17世紀初頭の最盛期を過ぎると良鉱が乏しくなり、坑道が深く長くなって作業も困難となり、操業を停止する坑道が急増した。坑道が深くなるにつれて付属する作業の負担が大きくなったが、近年まで地元で歌い継がれた「石見銀山巻き上げ節」や「鉱山唄」と呼ばれる独特の歌は、坑内における厳しい排水作業の様子を伝えている。

また、地元では、銀山の鉱石が枯渇することがないように祈って歌った「さんや」と呼ばれる山唄が残され、祝いの席などで歌い継がれている。

 

8)燃料の供給

石見銀山の特徴は、製錬及び精錬作業に用いる燃料の供給機構にも見ることができる。それは、地の利を生かした効率的で循環型の性質を持っていたことにある。

銀の製錬及び精錬過程においては、大量の木炭を必要とする。石見銀山では、銀山柵内での土石流災害を防止するために製炭が禁止され、代わって御囲(おかこい)村と称する周囲の村々から木炭を供給する体制が作られた。このように、銀の製錬及び精錬に必要な燃料である木炭の原料の樹木については、伐採場所が政策的に管理されていた。我が国の湿潤で温暖な気候に恵まれて、これらの樹木は再生を繰り返し、資源が枯渇することはなかった。

 

9)労働集約型・環境負荷の少ない循環型の鉱山

以上のように、近代化以前の石見銀山における鉱山技術と生産方法は、わが国の自然環境の中で、人力に依拠した小規模開発に支えられたものであった。しかも、それは環境負荷の少ない循環型の生産方法でもあった。こうした鉱山開発の在り方は、大規模な畜力・動力を用いた労働節約型生産形態の西欧型鉱山開発とは対照的である。その点において、石見銀山は東アジアにおける循環型開発の鉱山を代表する遺跡であると言える。

 

10)近代化と技術

既に18世紀の石見銀山では銀生産が減少し、これに代わって銅の生産が盛んになっていた。明治時代に入ると、日本各地の鉱山では欧米の技術者を雇用して西欧的な鉱業技術が導入されるようになった。石見銀山においても、1887年から民間会社の近代技術による再開発が始まった。新しい鉱業技術は、それ以前の日本の伝統的技術の到達点を基礎として受け継がれたものであった。

鉱石の採掘も旧来の坑道開発の延長線上において行われ、1895年頃の採掘は地下150mから300mにも達した。これに伴って、大量の地下水や湯が沸き出して、一時操業が困難な状況となったが、発電所の建設や電動式ポンプの導入により克服された。

5.鉱害問題と労働環境

1)石見銀山の鉱害問題

石見銀山は、他の鉱山に比べて鉱害問題がほとんど発生しなかった鉱山として特筆される。その最大の理由は、石見銀山を形成する主要な鉱石鉱床が硫化物をほとんど含まなかったという点にある。

鉱害に関する唯一の事例は、明治時代に在来の技術における製錬が行われた地点で発生した煙害による賠償問題である。石見銀山の中でも、仙ノ山の山麓付近にある永久鉱床は硫化鉱物を含んでいたことから、この鉱床の開発が本格化した江戸時代後期には硫化鉱物を製錬する焙焼作業の過程で亜硫酸ガスが発生し、煙害の発生があったものと推測される。

しかし、このことが今日の環境保全に悪影響を与えている可能性は全くない。

また、石見銀山ではおよそ400年にわたって鉱山開発が継続されたにも拘わらず、大規模な環境破壊が発生しなかったことも注目される。坑道の規模や経営の在り方からも明らかなように、比較的小規模な開発行為が集積され、環境に与える影響が小さく、常緑樹と広葉樹を含む二次林の樹勢の回復力にも恵まれて、操業が停止した後の自然環境の再生が容易であった。とりわけ江戸時代には製炭を禁止することによって森林資源の利用が強く規制され、森林伐採による土石流などの発生を極力防止する制度が採られていたことが自然の回復を助けた。

 

2)石見銀山の労働環境

狭くて暗い坑道掘りが進むと、坑道内においては崩圧・不通気・湧水・滞留油煙・粉塵などの問題が発生した。中でも鉱山労働者を悩ませたのは、坑内作業によって生ずる「気絶(けだえ)」や「ヨロケ」などと呼ばれる塵肺などの特有の疾患である。石見銀山においても、このような鉱山病が深刻な問題として認識されていた。そのため、代官所は医師を招聘して鉱山病の解説書を作成し、6条から成る対応策を提示している。これによって、坑内環境の改善や製錬時における鉛の飛散対策が図られ、鉱山病に有効とされたウメの栽培が行われた。石見銀山で作成された解説書は、幕府が経営する国内各地の諸銀銅鉱山へと伝えられ、鉱山病対策の手本とされた。

6.調査と保護の歴史

1)石見銀山調査研究の端緒

アメリカ人の地質研究家であるライマンが、日本調査旅行記である「Reportofprogressfor1878and1879」を著したのは1879年のことである。わが国地質学史の黎明を告げる彼の著作には石見銀山に関する記述が見られ、当時の鉱山の稼働状況や鉱質などが紹介されている。

国内で石見銀山を顕彰・保存すべく本格的に調査研究を行った山根俊久(やまねとしひさ)は、1932年に『石見銀山に関する研究』を著した。彼の著作は国内における鉱山研究を触発し、やがてわが国の鉱業史・社会経済史研究者として著名な小葉田淳(こばたあつし)は、石見銀山の世界的意義について評価を与えた。

 

2)保護団体の活動

石見銀山遺跡の保護活動は、1957年に大森地区・銀山地区住民が全戸加入の下に「大森町文化財保存会」を結成したことに始まる。この団体は、1970年に文化庁長官表彰を受けるなど、国内における民間の文化財保護団体の模範とされた。また、この団体の活動が、1987年の国による重要伝統的建造物群保存地区の選定にもつながった。「大森町文化財保存会」は、1969年に結成された大森小学校の「石見銀山遺跡愛護少年団」とともに活動を持続しており、住民意識の紐帯となっている。さらに現在では、この他に「石見銀山観光ボランティアガイドの会」、「NPO納川(のうせん)の会」、「石見銀山世界遺産をめざす会」などの市民団体による活動も加わって、石見銀山遺跡保護の官民協働体制を支えている。

大森銀山では、一貫した修理方針の下に、現在までに561棟の伝統的建造物のうち156棟の修理・修景が行われた。1992年には、代官所地役人の旧宅の河島家住宅を復元し、武家屋敷として公開するとともに、重要伝統的建造物群保存地区の拠点となる「町並み交流センター」を開館した。学習会・講演会や住民の意見交流の場として活用され、「ボランティアガイドの会」の活動拠点としても利用されている。1996年には、町並みを火災から護るために重要伝統的建造物群保存地区の全域を対象とする消火栓設備が完成した。「遺跡(sites)」及び「建造物群(groupofbuildings)」の保護に当たっては、常に行政と住民とが共同で進める姿勢が貫かれている。

 

3)資料館開館と文化財指定の動き

山根俊久らの研究を端緒として、地元でも歴史的な文献の調査を中心とする基礎的な研究が活発化した。1976年には、地元民間団体が代官所跡の旧邇摩郡役所を利用して石見銀山資料館を開館した。石見銀山に関する歴史資料や鉱物資料などが収集・保管されているほか、専門の学芸員を配置して展示公開、調査研究及び普及活動が行われている。現在、資料館は入館料を収入源として独立採算の下に運営されている。

文化財指定については、1967年に山吹城跡が県の史跡に指定されたのが最初であり、同年に26haの指定地が大田市により公有化された。続いて1969年には、石見銀山の代表的な採掘跡である6つの間歩と代官所・墓所など14ヶ所が、国内初の鉱山遺跡として国の史跡に指定された。

また、1998年には、重要伝統的建造物群保存地区のうち、大森地区にある熊谷家住宅が最も規模が大きく質の優れた民家建築として重要文化財に指定された。

2002年には、石見銀山遺跡の広域的な保存を目的として、点在していた遺跡を包括するとともに保護措置が万全でなかった区域の追加指定を行い、銀山柵内・港・山城跡を含む総面積約320haの区域が国の史跡として保存されることとなった。また、このことと併行して温泉津の町並み保存も図られた。地元住民の協力の下に1997・1998年に保存対策調査が行われ、2004年に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。大森銀山と同様に、温泉津においても住民の自発的な保存活動が大きく実を結んだ。この保存対策調査の段階で結成された「温泉津町並み保存を実現する会」は、現在も活動を続けている。また、その後、「温泉津ものづくりネットワーク」などの市民団体も結成されており、地域住民により町並みの保全が支えられている。

2005年には「石見銀山遺跡とその文化的景観」の総体を構成する資産として不可欠の銀鉱山跡・港湾・港町をつなぐ石見銀山街道や、羅漢寺五百羅漢、宮ノ前などが国の史跡として一括して追加指定された。これに伴い、地域住民による保全活動がさらに拡大し、仁摩(にま)町内に所在する2つの城跡でも整備活動や見学会を催すなどのボランテイア活動が開始された。

 

4)発掘等の調査の継続と組織体制の整備

考古学的遺跡の発掘調査は、島根県と大田市が1983年から1985年にかけて行った石見銀山遺跡総合整備計画」の策定と同時に開始された。その後、1987年からは大田市によって毎年継続して発掘調査が実施されている。さらに、1996年からは専門的な指導助言機関として「石見銀山遺跡発掘調査委員会」が設置され、島根県と大田市による共同調査が行われている。

それ以来、各専門分野から成る石見銀山遺跡の総合調査が開始され、石見銀山遺跡の実態の解明とともに、その意義付け及び価値評価のための各種の事業が続けられてきた。この委員会は、2002年に調査と整備の両面から指導助言を行う機関として「石見銀山遺跡調査整備委員会」に改組された。

行政組織の体制整備については、2001年に大田市に石見銀山の遺跡名を掲げた「石見銀山課」が設置され、専門職員の配置の下に石見銀山遺跡の調査研究・保存活用を推進するための体制の強化が図られた。また、同年、島根県では「世界遺産登録推進室」が設置され、既に設置されていた島根県の「古代文化センター」、「埋蔵文化財調査センター」などの専門機関とも共同しつつ、石見銀山遺跡の調査研究や整備活用の推進を図ることとなった。島根県と大田市は、現在も共同して遺跡の調査研究や保護活動を行っている。


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