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世界に知られた石見銀山

海を渡った石見銀

16世紀〜17世紀の約100年の間には大量の銀が採掘され、大内氏、尼子氏、毛利氏といった戦国大名の軍資金や江戸幕府の財源として使われました。また、石見銀山が佐摩村にあったことから「ソーマ(Soma)銀」と呼ばれ、海外にも数多く輸出され、中国や朝鮮半島などのアジア諸国とポルトガルやスペインなどのヨーロッパ諸国を交易で結ぶ役割の一端を担いました。17世紀前半の石見銀の産出量は年間約1万貫(約38t)と推定され、世界の産出銀の約3分の1を占めていたといわれる日本銀のかなりの部分を産出していたと考えられています。

 

16世紀の銀の流れ1568年(永禄11年)、ポルトガル人の地図製作者フェルナン・ヴァス・ドラードが、インドのゴアで作った「日本図」。
東日本の形が不明確で、列島がいわゆる「エビ形」をしている。石見の位置にポルトガル語で「R・ASMINASDAPRATA(ミナスダプラタ)」=銀鉱山王国=と記載されています。現在、スペイン・マドリードのアルバ公爵家が所蔵しています。

日本にキリスト教を伝えたスペインのフランシスコ・ザビエルは、インドのゴアからポルトガルのシモン・ロドリーゲス神父にあてた手紙に「カスチリア人はこの島々(日本)をプラタレアス(銀)諸島と呼んでいる。(中略)このプラタレアス(銀)諸島の外に、銀のある島は発見されていない。」(『1552年4月8日付けゴア発パレード/シモン・ロドリーゲス宛書翰』)と書かれており、当時日本が世界における銀の一大産地であったことがわかります。

また、海外諸国の文献にも、「福建の唐人が銀を買うために日本へ行き、風に吹き流されて朝鮮にいたった」(『朝鮮中宗実録』)や、「インドのカンパヤの薬品やマラバル・南洋諸島の香料を積んでシナに向かう船は(中略)のちに日本銀を積むのが主要な目的となったため、ナウ・ダス・プラタス(銀船)と呼ばれるにいたった」(『フレデリチ航海記』)と書かれており、石見銀山などの日本銀が大量に海外へ運ばれた様子を知ることができます。

 

古世界地図

 

 

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