杉原通信「郷土の歴史から学ぶ竹島問題」
第14回明治前期鬱陵島へ渡った日本人
すでに第8回目の「杉原通信」で私の考えを披瀝しましたが、鬱陵島が竹島と呼ばれたり、松島と呼ばれていた頃、この島に渡った日本人のことについてお話しましょう。
嘉永6(1853)年のぺリーの浦賀来航から鎖国政策がくずれ、明治新政府の誕生によって海外雄飛の機運が高まると、渡海禁止であった鬱陵島へ再び日本人が姿を見せるようになりました。日本人の渡海を確認するために、鬱陵島検察使として島に渡った李奎遠(りけいえん)という人物は、島の海岸で「大日本帝国松島槻谷(けやきだに)」と墨書され、明治2年2月13日の日付けと、「岩崎忠照建立」とある長さ6尺(1,8メートル)の標木を発見しています。また李奎遠は日本人6、7人にも出会い、彼等の住む仮小屋も見ました。
明治9(1876)年「日朝修好条規」が締結されて、仁川、釜山、元山の3港が開港し、続いて「日朝通商章程」、「日本人漁民取扱規則」、「日本人民貿易規則」等具体的な決まりも確定すると、日本から朝鮮半島や鬱陵島等の島嶼へ経済活動に出かける人々も増加しました。隠岐に残る八幡才太郎氏の回想録「竹島日誌」(昭和46年作成)には、同氏の縁戚である八浦屋(やほや)の主人について、明治20年代後半頃、家屋の屋根材に用いる杉の皮を定期的に朝鮮へ売りに行き、その帰路に現在の竹島でアワビ漁をしていたと書かれています。
また明治10年頃、鬱陵島を開拓する願いが青森県の武藤平学、千葉県の斎藤七郎兵衛、島根県の戸田正義等から提出されました。政府からウラジオストックに派遣されていた貿易官瀬脇寿人は、それを容認してやるべきだと提言しています。なお瀬脇の明治9年12月18日の日記には、2、3年前石州の漁師柴田太平等7人が大風のため鬱陵島へ漂着し、7人のうち2人は3年間居住して帰国したが、外の5人は残留していると思われる、という記載もあります(写真1)。明治10年代には、鬱陵島での伐木を事業にしようと来島する日本人が年々増えました。山口県から渡島する人が際立って多く、山口県文書館には「明治17年蔚陵島一件録」等この時期の鬱陵島関係の資料が多く所蔵されています。
明治15年に修信使として来日した朝鮮の朴泳孝が、日本人の鬱陵島進出に抗議したことは、私の研究報告「清水常太郎の朝鮮輿地図」でふれました。これに対して明治政府は各府県に実情の調査を命じました。
山口県では横谷佐一なる者が「松島景況書」(明治16年)と題して、約400人の日本人が8組の組織で伐木事業をしており、そのうち5組が山口県勢であると報告しています。
明治政府は一挙に日本人を帰国させる方策をとり、越後丸なる船を明治16年10月鬱陵島へ派遣しました。たまたま島にいたのは山口県人134人、福岡県人33人、島根県人29人、広島県人18人、愛媛県人14人、長崎県人9人、大分県人3人、岡山県人2人、鳥取県人1人、鹿児島県人1人の総勢244人でした。彼等は強制的に帰国させられましたが、罪に問われることはありませんでした。
写真2欝陵島検察日記(ソウル大学奎章閣所蔵)
(主な参考文献)
・李奎遠「鬱陵島検察日記」ソウル大学奎章閣所蔵
・下條正男『竹島は日韓どちらのものか』文春新書2004年
・木京睦人「明治16年『蔚陵島一件』」『山口県地方史研究』88号2002年
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