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清水常太郎の「朝鮮輿地図」について

 

『朝鮮輿地図』

 

先般、神戸市在住の知人金慶海(キムキョンヘ)氏が、所属される兵庫朝鮮関係研究会の機関誌を送ってくださった。金氏とは先年鳥取県庁国際課が企画した日韓交流のゆかり発掘事業として、明治期の開化派朝鮮人政治家朴泳孝(パクヨンヒョ)の山陰地方での足跡調査でご一緒し知己を得た関係である。

 氏は『大阪朝日新聞』の明治27(1894)年7月5日付けの広告欄に、清水常太郎作成により『朝鮮輿地図』(図1)が発刊し、その題字は朴泳孝が書いたこと、価格は30銭という記事が掲載されていることを発見された。氏はすぐ地元の神戸市立中央図書館に『朝鮮輿地図』のコピーがあることを確認し、題字とその左横に推薦文と思われる簡単な文章と「玄々居士朴泳孝」の署名があるのを目にされた。

 朴泳孝の研究者として、金氏は本図も見ておく必要があると考えられ、上京して国会図書館で閲覧されたそうである。そして本図の内表紙に「此図ハ前年金玉均氏カ本国ヲ去ル時携帯シ来レル。彼邦無二ノ明細分間大絵図ニシテ、氏生前シバラクモ座右ヲ離サゞリシガ、先般上海ニ航スルニ及テ何思ケン当地ノ或貴顕ノ方ニ遣シ置ケリ(以下略)」とあるのも見つけられた。日本人の清水常太郎(光憲)がひとりで作成したと思っていた『朝鮮輿地図』に、朴泳孝、さらに彼と開化派の独立党の同志として活躍し、共に明治初期の日韓の鬱陵島問題にもかかわった金玉均(キムオッキュン)が関係していたことは驚きであった。

 金慶海氏に感謝しつつこの問題を少し追及してみたい。

 

 

 

 

家族について書かれた書簡

 

 まず朴泳孝と金玉均のことについて略記しておく。朴泳孝は1861年、水原の名門朴家に生まれ、若くして政治家の道に入り、当時の朝鮮国王哲宗の娘泳恵翁主と結婚(彼女は3ケ月後死去)するなど将来を嘱望されていた。明治15(1882)年朝鮮国内で民衆の暴動が起こり、日本の公使館も襲撃を受ける壬午(じんご)軍乱の後、謝罪のために日本へ派遣された修信使の正使として来日した。日本に滞在した約4ケ月間に彼は井上馨外務卿等日本の要人と積極的に交流し、近代化が急速に進んでいる日本の文物に接して帰国した。当時の朝鮮には中国の清国との関係重視を唱える親清派、ロシアとの接触を重視する閔(びん)氏一族を中心とする政治勢力等があったが、朴泳孝は日本との関係を重視する同志を結集した。そして明治17(1884)年12月、日本公使竹添進一郎の支援を受けて、金玉均等と甲申(こうしん)政変と呼ばれる政治的クーデターを断行。いったん政権を確保したが清軍の出動により日本に亡命した。「政変関係者の家族みな暴殺に」と当時の新聞は記すが、朴の母親、姉は殺害され、父は自殺、妻も入水自殺している。(図2:父母の殺害を伝える書簡)


朝鮮政府は日本政府に亡命者の逮捕、引き渡しを要請したが、日本では彼等を庇護すべきの世論が強く、福沢諭吉、勝海舟等はその論陣の中心となるだけでなく彼等に積極的に資金援助をおこなった。朝鮮側は日本の対応に反応して刺客を派遣して朴等を狙うようになり、朴も東京で襲撃を受けたことがあった。彼は山崎永春という日本名で各地を転々としながら身を守ったが、福沢諭吉と親交のあった鳥取県米子の町長、渡辺駛水(はやみ)の提供した米子町内の民家でかなりの長期間過ごしたことがわかっている。明治27(1894)年日清戦争が勃発し、日本の勝利で朝鮮での権益を拡大した。この年のうちに朴は10年ぶりに帰国したが自分の支持基盤の希薄さを知ると再び来日し、神戸に朝日塾という私塾を開設し、日本での勉学を目指す朝鮮の若者の支援に尽力した。その資金の獲得に各地で講演や自分の揮ごうした書の販売を積極的におこなった。明治36(1903)年には山陰地方に出向き、鳥取、倉吉、米子、松江、津山等で支援者に温かく迎えられている。松江市では福岡世徳市長等の臨水亭での歓迎会、松江一中(現在の県立松江北高校)での講演等で3日間を過ごしており、自筆の書も1枚1円で30円分を販売出来たという。明治43(1910)年日韓併合になると帰国し、政治家に復活し活躍した。現在韓国では親日一偏の売国奴的政治家という評価があるが、伊藤博文や井上馨等とも激論を交わし朝鮮国の将来を真剣に模索した民族主義派的人物として評価の見直しをもとめる声もある。

 

朴と金の顔写真

 

 一方、金玉均は1851年忠清道天安に生まれ、若くして科挙の文科に合格し政治家の道を歩みはじめた。明治15年、朴泳孝が修信使の正使として日本に来た時、金玉均は随行員でなく政府関係者の一員として一緒に来日し、朴の帰国後も長らく日本に留まり多くの日本人の知人を得た。帰国後のクーデターも行動派の金が首謀者とされ、日本へ亡命後朝鮮国から関係者引き渡しを迫られた日本政府は金を代表者として国外退去を命じたが、彼が受け入れなかったので小笠原諸島へ流罪にする形で対処した。明治27年3月、金はすでに日本国内での生活を許されていたが、アジアの現況打破を中国の政治家李鴻章との面談に求めて、彼の居住する上海(シャンハイ)に向けて日本を離れた。『朝鮮輿地図』の内表紙に「(金玉均氏)上海ニ航スルニ及テ何思ケン当地ノ或貴顕ノ方遺シ置ケリ」はこの時のことを言っている。上海に到着した金はすぐ本国の閔氏が派遣した刺客によって殺害された。金は日本を離れる時、恐らくは日本人の誰かに肌身離さずもっていた『朝鮮輿地図』を手渡した。李鴻章との接触が死を賭ける困難をともなうことを予感しており、長年自分をかくまってくれた日本、すでに避けられない時局にあった日清戦争直前の日本に、戦場になる可能性のある朝鮮半島の地勢を教えて去った可能性がある。(図3:朴と金の顔写真)

 朴泳孝、金玉均は竹島問題にかかわる明治初期の鬱陵島問題も関わっている。鬱陵島は朝鮮の史料で于山島と共に紀元512(日本の歴史では聖徳太子が推古天皇の摂政になるのが紀元593年)年、朝鮮に当時あった新羅国に征服された。その後も朝鮮の属島としての記録が継続するが、税金や軍役を忌避する国民が逃げ込む場所になった為に、15世紀初頭から入島を禁止する空島(くうとう・島をからにする)政策をとった。その無人島の状態にある鬱陵島へ17世紀初頭、現在の鳥取県米子(よなご)の町人大屋甚吉が漂着、友人村川市兵衛と幕府の許可を得て、70年余りこの島の産物獲得に渡海した。元禄5(1692)年鬱陵島で朝鮮人との出会いがあり、幕府は対馬藩に3年間にわたるこの島の問題について朝鮮国と外交交渉をさせたが、結局元禄9年日本人のこの島への渡海を禁止した。しかしこの島の豊富な物産を求める日本人はあとをたたず、今津屋八右衛門のように処罰を受けた者がいるにもかかわらず渡海者は続き、幕末には長州藩の吉田松陰、木戸孝允等の鬱陵島開拓論が出る始末であった。明治期に入っても明治9年に青森県人武藤平学、千葉県人斎藤七郎兵衛、翌年には島根県士族戸田敬義から開拓や渡海の願いが日本政府に提出されている。

 一方朝鮮政府も日本人の鬱陵島渡海を認知し、特に明治14(1881)年江原道観察使からの7名の日本人による伐木行為の報告を受けると、李奎遠なる人物を鬱陵島検察使として島に派遣すると共に、日本政府へ礼曹沈舜澤の名で抗議した。

 

明治16年訓令

 

 明治15年壬午軍乱に関する条約の批准を終えると、修信使朴泳孝も日本の外務卿井上馨に鬱陵島への日本人渡海を強く抗議した。井上も対応を受諾、三條太政大臣あての「邦人ノ蔚陵島渡航禁止ニ関シ上申ノ件並ニ決済」には、「御発令ノ義モ朝鮮使節帰国相成候上ニ有之候様支度」と、朴等使節団の帰国に合わせて日本国内への指令を発する配慮をしている。中心の訓令文は内務卿から各府県長官宛てに出されたものだが、「日本称松島一名竹島、朝鮮称蔚陵島ノ儀ハ従前彼我政府議定ノ儀モ有之日本人妄リニ渡航上陸不相成候条」としている。(図4:渡海禁止の指令)
一方、金玉均も日本から帰国後明治16年鬱陵島を含む東南諸島開拓使に任命された。鬱陵島へ来島した金は、日本人の進出の背景に島長全錫奎の私欲にからむ問題があることに気がついた。「全錫奎サキニ銭米ヲ貪リ、日本人ニ島長憑票(ひょうぴょう)ヲ与ヘ、其材木偸斫(とうしゃく・切り盗む)過去ヲ許ス」状況を上告し、全の処罰を求めた。しかし金は島で必要な船舶を日本の山口県から雇入れる等、親日的行動も多かった。これに対し日本側も、明治17年鬱陵島と済州島で日本・朝鮮の漁民間の紛争が起こると、済州島の通漁禁止を日本の関係県に命じる等、東南諸島開拓使の金への配慮を怠らなかった。

 明治15年に一緒に日本を訪問し、鬱陵島への日本人進出問題に共に関わり、親日的政党独立党を結成、クーデターに失敗すると共に日本へ亡命した朴泳孝、金玉均がもう一つ共に関係したのが、清水常太郎が編集した『朝鮮輿地図』である。

 金は原図の日本持ち込み者である。原図の特色は、八道、諸州府県郡、兵営・水営、諸鎮、名勝、各邑、山川、岬、港湾、島嶼等を書き込んだ朝鮮半島の全体図に、京城・元山津・釜山浦・仁川・漢江付近の5ヶ所の拡大図と、京城から主な都市への里程表が添えられていることである。また、海上には瓢箪形の島に竹島、丸い形の島に松島と書かれている。竹島内には中峰と猪田川の文字がある。中峰は多くの地図に記載される鬱陵島の聖人峯のことで、猪田川は鬱陵島の植生に竹田等とともに楮(こうぞ)田があるから、猪は楮の誤記と思われる。この竹島、松島の位置については川上健三氏がその著「竹島の歴史地理学的研究」でアルゴノート島を竹島、ダジュレー島を松島とする系統のものであると具体的に説明されている。『朝鮮輿地図』は明治27年7月に発刊され、同月日清戦争も勃発しており、中国や朝鮮の内陸を精緻に記載した民間の地図は他にもあるが、竹島、松島等海上の島は意外に粗雑な認識で記載されている。たとえば同年発行の『実測朝鮮全図』では鬱陵島の西側に于山島を載せる『八道総図』系統の記載であり、同年の炭谷博次郎著の『清国新地図』は現在の竹島の位置に鬱島、そのさらに東に竹島が描かれたりしている。

 さて、明治27年3月『朝鮮輿地図』の原図を日本に残して上海に向かった金は謀殺された。

 その3ケ月余りの後発刊された『朝鮮輿地図』の題字と跋文を朴泳孝が書いたのである。

跋文の頭書には太い字で「紹隆三寶」とあり、その後に二行の細字で「此是佛経語而生此之国民君之三大権也下読之焉」、最後に玄々居士の号と朴泳孝の実名の署名がある。最初の四字は「三寶を受け継ぎ盛んにしょう」で、続いては「三寶とは仏教の経典の仏・法・僧のことだが、現世では国家・民衆・君主それぞれの権利にあたる。その意味をお互いに考えよう」程度の意味で、朴や金が目指す朝鮮での立憲君主制の確立を、『朝鮮輿地図』を見ながら考えて欲しいと呼びかけたのであろう。玄々居士の玄は「はるかなことを思う」の意味で、未来の祖国を考える男との自称である。なお最初の「三寶を受け継ぎ盛んにしよう」と仏教用語を使用しての呼び掛けは、数カ月前に謀殺された同志金玉均への哀悼の心情の発露とも解される。

 さて、最後に清水常太郎についてである。彼は朴泳孝や金玉均と接点のある人物であったか大変興味があるが目下不明である。彼は別名光憲といったこと、明治25、26年頃京都市上京区に居住していたこと、明治25年「高等小学読本字解」、「蓮如上人御一代記図絵」、明治26年「帝国市街全図」、「朝鮮輿地図」と同じ明治27年には「支那地図」、「日清韓三国輿地図」の著者であり、「朝鮮輿地図」の内表紙の中村鍾美堂の広告には、清水光憲先生著として「日本管轄分地図」、「朝鮮地誌要略」、「支那要略」が掲載されているが、それ以外の彼の個人的動向は不明である。

 

(杉原隆)


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