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第9回賢明な利用を語る会

テーマ:宍道湖・中海の今昔を語る

 2008年(平成20)年度第3回シリーズの第1回(通算9回目)の「賢明な利用を語る会」を、平成20年6月21日(土)にサンラポーむらくも(松江市)で開催しました。

 今回は、50年以上前の宍道湖・中海について、調査をされている方の発表や写真、地形図などを参考に、かつての湖と現在の湖を比較し、変化した部分とその原因を考えることで、今後の活動に役立てることを目的に開催しました。

 会場には、昔の風景写真などを多く展示していたので、この写真を見ながら、参加者の方々から幼少の頃の宍道湖のお話をお聞きすることができました。

 

 1.主催:島根県自然環境課、県立自然館ゴビウス、(財)ホシザキグリーン財団

 2.日時:平成20年6月21日(土)午後1時30分〜午後3時30分

 3.参加者数:39名

 4.会場:サンラポーむらくも(松江市殿町)

 5.内容

 (1)事例発表

 ○「中海・宍道湖のモバ採り〜里湖におけるモバ採りと物質循環中海における事例を中心に〜」

 発表者:島根野生生物研究会平塚純一氏

 ○中海・宍道湖の今昔

 発表者:NPO法人自然再生センター理事増田広利氏

 (2)情報交換会

 テーマ:写真から振り返る宍道湖・中海〜記録を残す・生かす意味〜

 進行:野津登美子(財団法人ホシザキグリーン財団普及啓発課長)

 (3)会場展示

 宍道湖・中海の今昔資料(絵はがき、写真、地形図)※掲載した写真は、展示した写真の一部です。

会場展示写真

昔の写真

 昔の宍道湖周辺の風景写真

昔の写真

昔の宍道湖周辺の風景写真

写真を見ながら語らう参加者

昔の写真を見ながら語らう参加者

 【事例発表1】

 ○「中海・宍道湖のモバ採り〜里湖におけるモバ採りと物質循環中海における事例を中心に〜」

 (発表者:島根野生生物研究会平塚純一氏)

 (はじめに)

 現在、宍道湖や中海の再生について取り組みが様々な方面からなされていますが、再生にはかつての様子がきちんと分かっていることが必要です。ラムサール条約の理念である「ワイズユース(賢明な利用)」において、過去の湖での物質循環が、その理念にかなったものであったことについて今一度見直していただければと思いお話しいたします。

 

※モバとは

 中海以外の地域では「モク」と呼ばれることもあり、水草や海草といった沈水植物の呼び名のひとつ。中海ではアマモやウミトラノオなどが代表的。この沈水植物が、中海・宍道湖の湖の生態系や人間生活特に農業において非常に役立てられていたことが平塚氏の調査によって分かっています。

 

(中海の地形の変遷について)

 昭和29年に測量した湖底図から計算すると、水深3メートルまでのところが中海全体の2割でした。しかし、現在の湖底図(平成13年測量のもの)を見ると、全体の1割にまで減っていることが分かります。

 続いて大正年間などの水産試験場の資料などをもとに、かつての中海の藻場の位置の推定図を作成してみました。沿岸の大部分がアマモ場だったことが分かります。アマモは、だいたい水深3メートル程度までしか生息することができません。当時の記録や聞き取りによると中海では「アマモ」が繁茂し、岩礁地帯の褐藻ではウミトラノオなどが見られたそうです。

 

(中海の「モバ」〜その種類と量について〜)

 当時、海草は肥料として非常に珍重され、海草をとる漁業形態が成立していました。中海では「モバ」と呼んでおり、全国的には「モク」と呼ばれています。中海で一番多かったのはアマモで、この地域では「カヤモバ」と呼ばれているものです。量的に最も多く、肥料藻として明治時代の資料にも記述が残っているほどですが、肥料としては二級品で割と安価でした。一方の褐藻類ではウミトラノオが中心で、こちらは高級品として扱われていたそうです。

 

(モバの採集方法と流通について)

アマモは、「モバ桁」と呼ばれる道具を用いますが先端が着脱式になっています。ウミトラノオは「挟み竹」と呼ばれる道具で採集していました。挟み竹は全国でも見ることができますが、このモバ桁は中海特有のものです。

 島根県側では近世から大根島周辺の中海を中心に採集がされており、採集は漁業権を持っている漁師が行っていました。採集した藻は自家消費が中心で、一部鳥取県に販売していたそうです。一方の鳥取県側では近世より大量に収穫され、採藻船組合も存在しました。大型の採藻船や、日帰りのほか宿泊を伴う採集もありました。

 

(中海周辺地域での農業におけるモバ肥料への依存度について)

 中海沿岸域でのモク肥料への依存度は地域によって異なります。モク肥料の使い方は島根県側と鳥取県側では異なります。島根県側では水はけの悪いところで使用しており、モバは干してから入れたりしていました。一方、鳥取県側はモクを乾燥させずに濡れたまま入れています。つまりモバの塩分除去はしていないことが分かります。

 弓ヶ浜半島は綿花栽培が商品作物として確立していますが、それにもモクが関係しています。モクは一般の肥料のおよそ15分の1の価格で購入できることから、綿花栽培において大量に施肥することが可能となりました。弓ヶ浜半島のある村落の肥料使用実態では、モバが使用肥料全体の8割も占めていますが金額では全体の半分にも達しません。

 島根県側のモク採集量の統計資料を見ると、特に大根島付近での依存度が高かったことが分かります。鳥取県側ではだいたい1万トンの単位で使用されています。自家消費は含まれていないので、もっと大量に使用されていたことが推測できます。

 では、中海全体でモクはどのくらい採集されていたかを試算したところ、おそらく島根県と鳥取県をあわせてだいたい10万トンはあったのではないか、と思われる資料がでてきました。この量が採集可能かどうかについても試算してみました。中海のモバのエリアとか今のアマモ群落から試算してみますと、中海の面積なども考慮して15万〜30万トンの生産が可能だったと思われます。

 

 (湖沼におけるモバの物質循環について)

10万トンという莫大な量を採集していたわけですから、当然湖の物質循環に大きな影響を与えていたと思われます。流域から流入する大量の栄養塩を一次生産者、つまりモクが利用します。そしてモク採りが、水域から陸域へ栄養塩を定期的・定量的に除去することにつながり、水質浄化に大きな貢献があったと思われます。

 モバによる栄養塩除去の効果について調べてみたところ、リンの除去は全体の20%程度という結果でした。参考までにシジミは漁獲量のおよそ5%程度と試算できました。

 湖沼生態系におけるモク採りの機能というのは、水質浄化により直接的にモバへの依存度が高い底生魚や貝類など水産資源の安定供給にも役立っていたと思われます。

 

(「里湖(さとうみ)」湖沼のバイオマニピュレーションシステムについて)

 私はモバ採りをとりまく一連の流れや環境について、最近よく言われている「里山」というシステムに非常に似ているのではないかと思っています。そこで私は、中海のモバ採りを中心とした環境を「里湖」と呼ぶことを提唱しています。里山は持続的人為的に物質循環システムが保たれています。中海宍道湖はモバを肥料として用い、一部地域ではヘドロも施肥に利用しており、当然魚介類も利用しているわけです。生活や文化などあらゆる場面においてバイオマニピュレーションが成立している環境こそが里山、里湖と呼ぶことができるのだと思います。

 里山を肥料供給源とすると、通常農地の2〜3倍の面積が必要となります。対して里湖ではおよそ4分の3程度の面積で十分であることから、里山よりもかなり効率が良いということができます。また、農地がモクを利用していたことを考慮するとさらに農地面積は広がると考えられます。

 

(里湖システムの崩壊とその原因について)

持続可能なシステムとして里湖は成立していたわけですが、高度経済成長とともにこれが崩壊します。その原因として、農業の近代化による化学肥料や農薬、除草剤の導入と普及がモクの価格を低速させたと思われます。

 また、モク採りの衰退と同時進行的に、中海の沈水植物帯が急速に衰退し消滅します。さらに干拓事業が進むことでほぼ完全に消滅しました。沈水植物がなぜ減少したのかについて聞き取りを行ったところ、かなりの人が除草剤の使用との因果関係を指摘しました。実際導入の時期と衰退の時期は一致しています。

 高度経済成長による生活向上に伴う家庭排水の増加なども原因の一つだと思われます。

 里湖システムの崩壊が湖沼生態系にどのような変化をもたらしたのでしょうか。一次生産者として大量にあった「モバ=沈水植物」の消滅により、植物プランクトンが爆発的に増大します。それにより、「透明度が低下→沈水植物の光合成がもたらす水深の深い場所への酸素供給量が減少→底生動物の減少」が連鎖的に起こります。また、水深の浅い場所は植物プランクトンを摂取する二枚貝類に覆い尽くされ、アサリなどの水産有用種の増加を阻害しています。湖の透明度の長期変化をグラフ化したところ、アマモ群落の減少時期と透明度が急激に下がっている頃がほぼ一致していることが分かりました。

 

 (宍道湖でのモク採りについて)

 採藻船の写真や資料などは残っていますが、主に行われていたのは宍道湖の西側で東側ではあまり見られませんでした。宍道湖は中海と比較して塩分濃度が薄いので淡水性の水草だったと思われますが、今のシジミの漁場であったおよそ8割は水草が繁茂していたと推測できます。宍道湖西岸の植物群落はヒシやガマが中心で、ヨシはあまり多くありませんでした。宍道湖ではヒラタ舟を用いてモク採りに使われていました。

 かつての宍道湖の沈水植物について、聞き取りによりますと宍道湖では淡水性水草のシャジクモが繁茂していました。湖岸から約500メートル付近や水深3メートル付近には沈水植物帯が見られたことが分かっています。

 宍道湖のモク採りの主体は西部でしたが、自家消費が中心であったため中海のような販売まではやっていませんでした。これは琵琶湖と同じなのですが、斐伊川の河口ではヘドロなどのようなものも肥料として使用していたことが分かっています。

 宍道湖での沈水植物帯の消滅と影響について見てみますと、1957年から1958年頃にかけて急速に消滅しているようです。その因果関係について除草剤の導入をあげた方が多いです。またコイやフナなどの減少についてもあげられました。

 ところが中海との大きな相違点があります。沈水植物帯の減少により中海同様植物プランクトンが増加し、砂泥域が拡大しました。シジミの漁獲量は昭和30年代に増加したことが分かりました。

 

(まとめ)

 里湖システムといっても、湖の環境によってはまったくの悪影響ばかりではなく、宍道湖のようにヤマトシジミの増加という良い影響を与えてくれたものもあります。以上で発表を終わります。ありがとうございました。

【事例発表2】

 「中海・宍道湖の今昔」(発表者:NPO法人自然再生センター理事増田広利氏)

(はじめに)

 大正13年と現在の松江市と米子市の地図をそれぞれ比較しております。松江市の地図の山陰本線の位置をご覧ください。大正と現在で位置は変わっておりませんので、かなり埋め立てられていることが分かります。

 今回の話ではかなり浚渫や埋立についてでてきますが、そのことをこの場で良いとか悪いとか言うつもりはございません。ただ単に昔はど

うであったかということで聞いていただきたいと思います。

 

(宍道湖と中海の位置関係について)

 まず中海と宍道湖の異なる汽水環境について説明します。中海と宍道湖は大橋川でつながっています。大橋川はほとんど水位差がありません。日本海側の潮位差は時間によって30-40cm程度変わりますので、潮位が上がれば日本海から、下がれば宍道湖中海から水が流れます。どちらが親でどちらが子か、といった非常に密接な関係があります。

 安来では干拓と干陸の二つの部分がみられます。干拓とは水面より上に埋め立てることをいい、干陸とは水面より下、つまり常にポンプで水を吸い上げなくては水没してしまうところをいいます。それらの様子を写真でいくつかご覧いただきます。

 米子市はかつては「米子町」でした。街の大きさも今よりずいぶん小さいです。先ほど見ていただいた干拓、干陸はこのあたり(スライド)になります。埋め立てした土はどこから持ってきたかというと、米子湾のあたりからです。

 

(写真で比較する中海の今昔)

 鳥取県側では個人が写真機を持って歩くと言うことはございませんでした。これからご覧いただく写真は、旅行に出かけたときに撮影したものや、絵はがきとして残っているものです。

 こちらの写真は大山から写したものですが、志賀直哉の「暗夜行路」に出てくる「大山の影絵」と呼ばれるものです。この写真を見ていただきますと弓ヶ浜半島が写っていることが分かります。海から街までの間はほとんど家がないことも分かります。

 これは米子城の船着き場だったところの写真で、石と松、中海が見えます。そこは現在「錦公園」となっており、完全に埋め立てられています。

 これは採藻船が写っている写真です。中海の粟島神社などが見える場所から撮影した現在との比較です。現在では防波堤も設置されていることが分かります。

 続いて大正時代ころのものと思われる米子湾のところですが、背の高い建物は製氷所です。今はもうありませんが、ここが良好の漁場であったことが推測できます。

 続いて境水道大橋付近から撮影した写真の比較です。場所の特定にはこの写真で見える造船所が昔と今で位置が変わっていないことをもとに行いました。

 昭和22年の写真には、境港のあたりに突き出た部分があります。この突き出た部分の埋立によって、日本海から中海に流入する水の流れが反時計回りに変わり、水の汚れが進んでいきます。この埋立がどんどん広くなる時期と水の汚れが進む時期が一致しています。ですから、必ずしも中海を締め切ったから水質が悪くなったかどうかということには疑問があります。

 昭和28年頃の弓ヶ浜半島の写真です。浅かったのでよい海水浴場であったようです。

 

(中海の浚渫について)

 では埋立はどのように進められてきたのかについて説明します。昭和22年の原図に埋め立てられた年代によって色をつけています。順々に埋め立てられていることが分かります。また鳥取県側だけではなく島根県側も次々に埋め立てられていることが分かります。

 ところで実際にどのくらいの量を浚渫したのかを調べるために国土交通省の資料を借りて解析したところ、およそ3000万立方メートルの土を浚渫したことが分かりました。

 これは浚渫を進めている頃の写真です。これは、汚れを浚渫によって除去することを紹介しているのではなく、浮いている「浮泥」を吸い取って処理場へ運んで処理していたことを説明する写真です。中海は深い所はかなり水が汚れています。表面の水とともに汚れを吸い取って、泥と水を分離して処理するという仕組みのものです。

 近代の中海の浚渫区域はどこがどのように浚渫したかについて地形図を見ると、平成はわずかで、錦公園あたりや安来の辺りがずいぶん浚渫されたことが分かります。

 

(写真から見る宍道湖の今昔)

 それでは宍道湖の話にうつります。山陰本線の場所は現在の位置と変わっていません。そうなると山陰本線よりこちら側(宍道湖側)は全て埋め立てたということになります。浚渫に必要な土は湖から出して埋立ています。また、宍道湖大橋もありませんし、松江市役所の辺りも埋め立てたことが分かります。

 これは嫁が島の写真です。この写真を見ると嫁が島はとても遠く見えます。それは今ほど岸が近くなかったからです。この写真からも山陰本線から宍道湖に向けた側がかつては湖だったことが分かります。

これは藻を撮っている写真です。写真の様子からかなりの量が採れていたのかなと思います。

これは大橋川の写真ですが、向かって右に見えるのがかつての船着き場の様子です。

 

(自然再生推進法と中海・宍道湖〜自然再生センターの役割について〜)

 自然再生センターの紹介をさせていただきたいと思います。自然再生推進法(外部サイト)という法律がありまして、全国各地で再生協議会というものが立ち上がっていますが、これはほとんどが官公庁主体です。

中海は民間主体で、島根大学の先生が大勢参加しているほか、全てボランティアで行っています。基本理念では、専門家、地域住民、NPOやNGO、土地等の使用者、行政、関連団体などが連携をとって進めることになっています。

それでは、自然再生協議会とはどのようなことをするのでしょうか?様々な連携の中でかつての自然に再生していこうというものです。中海・宍道湖は、たとえは悪いですが汚れているのだから取り組みやすいと言うこともできます。つまり汚れていればいるほど成果が出やすい、ということです。

全国に自然再生協議会が20ありますが、中海が一番最後に誕生しました。先ほど申し上げましたように、ほとんどがわずかなところを点々と取り組んでいるわけですが、自然再生センターでは中海・宍道湖全体について取り組んでいこうとしています。

 

(まとめ)

 最初の話に戻りますが、宍道湖と中海はつながっています。どちらか一つがきれいになれば良いというものではありません。両方ともきれいになっていかないといけないことがこの図で分かるかと思います。

最後にちょっと驚くような写真ですが、松江城のかつての写真です。大政奉還後の松江城はまるで廃屋のようなお城になっています。それを地域の人が手直しをして今のような形になっています。松江城は国宝になっても良いと思うのですが重要文化財のままです。米子にもお城がありますが、このようなかたちでは残っておりません。一説によりますと薪として売り払ったという話もあるようです。

 先ほど申し上げた自然再生センターにはぜひご参加していただければと思っています。場所は島根大学の白潟サロンにあります。ぜひ地域のボランティアとしてご参加いただきたいと思います。ありがとうございました。

 


【情報交換会】

「写真から振り返る宍道湖・中海〜記録を残す・生かす意味〜」(進行:野津登美子)情報交換会

(進行)

 今日は「漁業と生態系」、「生活と湖岸の変化」という2つのキーワードについて、皆さんの子ども時代の話とあわせてお話を伺いたいと思います。まず、宍道湖の漁獲量の変遷のグラフから魚類の変遷についてお話を伺いたいと思います。

(平塚)

漁獲量のグラフですが、昭和47年にピークがあるのにはいろいろな理由があります。先ほど話をした沈水植物の消滅はもう一つ前のピークにあたると考えています。もう一ついえるのは、昭和30年代までは他の魚種もかなり漁獲していまして、シジミ以外の漁獲量が高いことも分かっていただきたいと思います。それから昭和47年以降でもがたんと減ったりしていますが、これは資源が枯渇したのではなく、シジミの漁獲量を制限したために下がっているように見えるものです。

また、シジミ以外の魚介類も結構食卓に上っていましたが、寒ブナなどは地域によって独特の料理法がありますし、そのほか宍道湖七珍も高級魚でしたがありました。宍道湖七珍について一つ言いたいのは、7つの魚介類を鮮度の良い状態で一度に食べることはかなり限定された時期で、11月くらいしかないということを知ってほしいと思います。

(進行)

こちらは中海の漁獲量の推移ですが、こちらはいかがでしょうか。

(平塚)

これは事業が開始されたこととリンクさせるより、そのピークの前の漁獲量のグラフと比較した方が良いと思います。間違いなく減少はし

ていますが、それはさまざまな要因を加味した方が良いと思います。

(進行)

 宍道湖にはモバというのはいつ頃まであったのでしょうか。

(平塚)

昭和33年頃までは私の記憶ですと沈水植物はかなりあったと思います。また、私の聞き取りでも、ほとんどの方が沈水植物があったとお

話ししてくださいました。後ろに掲示されている写真でも、松江の末次あたりの写真でも沈水植物らしきものが写っていますし、中海での採

集の様子からみても間違いないと思います。

(進行)

次の写真ですが、帆掛船はいつ頃まで宍道湖で使われていたのでしょうか。

(平塚)

この船はマストが着脱できるものでして、エンジンと両用のものです。昭和40年ころまでは使われていたようです。

(進行)

 続いて、そりこ舟の写真を見ていただいておりますが、これは赤貝専用の舟と聞いていますが、そのあたりはいかがでしょうか。

(増田)

 これは確かに昭和30年代のものだと思います。今自然再生センターではサルボウの復活に取り組んでいますが、このそりこ舟の復元に

も取り組もうとしています。もう少ししたら皆さんにお見せできるようになると思います。

(進行)

 続いて、松江大橋から撮影された写真だと聞いていますが漁船がいくつか見えます。これは何を採集しているところでしょうか。

(平塚)

 これは越中網という漁具です。季節が分からないとはっきり言えないのですが、ワカサギやシラウオ、スズキをねらっているものだと思いま

す。これは今でも宍道湖大橋の下で見ることができます。江戸時代から続く古い漁法で、松江藩から許可をもらった漁師しか使うことができ

なかったそうです。さきほどのそりこ舟についてですが、私の聞き取りでは採藻にも使うことがあったと聞いています。

(進行)

こちらは松江市大野町から撮影されたものですが、シジミ漁の舟でしょうか。

(平塚)

 そうだと思います。

(進行)

こちらも大野町の写真だと聞いていますが、また漁具がたくさん写っています。

(平塚)

これはウケといってエビなどをとるための漁具です。向こうに見えるのは定置網です。今では漁具を作る方がいないのでこのような漁法も減ってきています。

(参加者)

 帆掛け船の写真について伺いたいですが、これは漁のために帆を張っているのでしょうか。それとも漁のために帆を張っているのでしょうか。

(増田)

写真から見ると先ほどおっしゃったように、舟を引っ張るために帆を張っているのだと思います。

(参加者)

中海は藻を取り上げることをやめたため、沈水植物が減ったということは分かったのですが、宍道湖はいったいどういう理由で消えたのでしょうか。

(平塚)

直接的な原因は分かりませんが、再生していないところを見るとシジミ漁の関係ということもあるのではないでしょうか。

(増田)

お手元に大正時代と平成の地図をお渡ししていますが、宍道湖がかなり埋めたれられていることが分かります。土はすぐ沖の方から持ってきています。どちらかというと宍道湖は浅くなっている、というよりはむしろ深くなっているということができると思います。

(平塚)

確かに宍道湖が浚渫されたのは事実ですが、宍道湖はやはり浅いです。当時から手をつけられていないところでも、沈水植物がまったく見られないところもあります。

(参加者)

山陰本線のところの埋立の件ですが、宍道湖から土を入れたのではなく、有料道路を造るときに水をどんどん抜いて干して陸を作ったと聞いていますので埋立ではないと思います。それから宍道湖七珍の話ですが、私も子どもの頃にシジミを食べた記憶はあまりありません。逆に食卓にはアマサギやシラウオなどは煮付けにして、エビなども日常のものでした。漁獲量の問題もありましたが、魚介類の金額設定などの問題にも関わるのではないかと思います。

(参加者)

植物について調べています。よく湖岸を注意してみると岸にシジミの殻が打ち上げられています。それは昔からあったものなのか、最近シジミの殻でできた浜ができたのか教えてもらえませんか。

(平塚)

シジミ漁師が選別後にからを決まった場所に捨てているから堆積しているということもありますが、自然にシジミの殻が堆積したところもあるとは思います。沈水植物について申しますと、宍道湖中海は解放水面としては広いですので、確かに陸の方から見ればヨシ帯は広がっていたと思うのです。ただ、そこから先には沈水植物群落が広がっていて湖岸から見えなかっただけだと思います。実際漁師の方もそのように言っていますし。沈水植物があったから育つことのできたヨシ帯もあるので、私は沈水植物についてはそのように見ています。

(参加者)

その意見には私も同感です。先ほど宍道湖の地図を見ていましたら、ずいぶん埋められていることがわかりました。また、今ある岸辺というのは昔ヨシがなかったところではないかなと思っています。そういった意味で、今後はヨシを復元するというよりは創出するといったことになるかと思いますし、そういった後押しも必要なのかなと思いました。それから、このような情報が白潟サロンに行けば見ることができるのでしょうか。情報を取り出すことのできる場所を知っていたら教えてください。

(参加者)

ヨシ帯の再生というよりも、アマモ場の再生の方が宍道湖・中海の自然再生については求められているのではないかという話はとても有益でした。アマモ場というのは瀬戸内海でも稚魚の産卵場として大きな効果を持っていることが知られています。宍道湖や中海でもおそらく先ほどの水生生物や魚類層の回復においては、すごく大きな力を持つと思っています。では、アマモ場の再生というのは宍道湖では可能なのでしょうか。

(平塚)

非常に難しい質問ですね。宍道湖でのアマモ場は塩分濃度が薄いためとても難しいと思います。中海は塩分濃度が高いですので可能だと思います。宍道湖は淡水性の沈水植物が多かったのでちょっと種類が異なります。宍道湖の場合はシジミ漁業の問題もありますし、シジミによる水質浄化ということもありますから一概にはいえないとは思います。部分的な復活というのは必要だと思います。

(増田)

 アマモ場については島根大学の國井先生が中心となって復元に取り組んでおられます。境水道のあたりですのでぜひ見に行ってみてください。

(参加者)

川那部先生の「川と湖の魚たち」という本に、宍道湖と中海というのは日本でも有数の魚類相だと書いてあるのですが、今はどうでしょうか。

(平塚)

かつてと今の「資源としての魚類」の評価が変わってきているので、一概に減ってきているとはいえないと思います。今高額の魚が捕れなくなっていることは事実ですが、かつて高級魚だったスズキは価格が低迷しています。中海でも宍道湖でもたくさん採れます。ただ一ついえるのは底生魚は減少しているといえると思います。


お問い合わせ先

環境政策課宍道湖・中海対策推進室

〒690-8501 島根県松江市殿町1番地
TEL:0852-22-6445