A.江戸時代まで
【質問1】亜細亜小東洋図についてWeb竹島問題研究所の活動に期待…
亜細亜小東洋図についてWeb竹島問題研究所の活動に期待している。岐阜県立図書館にも初刊本があるようだ。大学図書館にもかなりあるだろうから、他も確認するべきだ。
【回答】
「亜細亜小東洋図」は、水戸藩の地理学者長久保赤水により作製され寛政元年(1789)刊行の『唐土歴代州郡沿革地図』に収録されています。本年(平成19年)6月に県総務課職員が島根県邑南町で安政4年(1857)版を確認した際、寛政元年版の全国の所在も調べており、国立国会図書館のほか、宮内庁書陵部、東京大学、東京都立中央図書館(加賀文庫)など十数機関に所蔵があるようです。
安政4年版は、Web竹島問題研究所のトップページに写真へのリンクを掲載しています。写真の「亜細亜小東洋図」は、個人蔵の絵図です。この絵図では隠岐諸島の北西に、松島(現在の竹島)と竹島(現在の鬱陵島)が描かれ、朝鮮の青色ではなく、日本領を示す茶色の彩色があります。国立国会図書館所蔵の初版本(寛政元年)にも同様の色で塗りわけてあります。今後予算の許す範囲で、他の機関の所蔵する初版本の絵図について調査する予定です。
また、長久保赤水が作製した有名な日本図に「改正日本輿地路程全図」がありますが、この地図についても、本年7月に江津市教育委員会からの連絡に基づいて調査した弘化3年(1846)版(個人蔵)で、竹島、松島が隠岐国と同じ黄色に彩色されていたことが分かりました(写真)。これまで一部の研究では、「改正日本輿地路程全図」の初版本などにおいて両島が無彩色であることをもって赤水が両島を朝鮮領としたという主張がみられましたが、「亜細亜小東洋図」の発見により、この主張に根拠のないことが確認できたといえます。
(事務局:総務課)(2007年11月)
【質問2】「亜細亜小東洋図」により長久保赤水が竹島松島を日本領…
「亜細亜小東洋図」により長久保赤水が竹島松島を日本領と考えていたことはほぼ確実と思われる状況となっているが、水府明徳会で「大日本史」編纂に使った資料をまだ相当数保管しているようである。大日本史地理誌草稿での隠岐国の記述が判れば長久保赤水の意図は完全に判明することになるので、竹島問題研究所から確認してはどうか。
【回答】
ご意見は、長久保赤水の「改正日本輿地路程全図」(1779年)では竹島松島に彩色が施されておらず日本の領土外とされているとの主張があることに関連して、同じく赤水の作成した「亜細亜小東洋図」(1789)では日本と同じ色に彩色されている、他方、水戸藩の日本史編纂事業の成果である『大日本史』の「志」(地理志)の隠岐国の部分に、隠岐国には島前・島後等のほかに松島・竹島があってこれ(隠岐国)に属する(隠岐国...<中略>...凡四島、分曰島前、島後<分註>隠州視聴合記、隠岐国図、○属島一百七十九、総称曰隠岐小島<分註終>別有松島、竹島、属之)という記述があり、この地理志は赤水が草稿を執筆したとされるので、この記述が後年の編集加筆でなく赤水自身の草稿にあることが確認できれば、赤水が間違いなく松島(今日の竹島)を日本領だと考えていたことになる、というご指摘であろうと思います。
明治39-40年に出版された『大日本史』の巻308、志65「國郡24山陰道3」29-30丁は、次のとおりです。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/769990/30(外部サイト)
ここで、「別有松島竹島属之」の次にある分註にみえる「隠岐古記」は赤水の没後に著された文献のようなので、「別有松島竹島属之」が赤水自身の認識でなく後世の加筆である可能性なしとしません。
御指摘の水府明徳会の所蔵資料については、戦前に刊行された『彰考館図書目録』がありますが、これには大日本史の草稿らしきものは載っておりませんでした。このため、Web竹島問題研究所の研究協力員を通じて財団法人水府明徳会の東京レファレンスルームに照会しましたが、地理誌は目録にないとのことでした。なお、国立公文書館に赤水を著者とする『大日本地理志』(明治の写本)がありますが、巻1-5(総説と畿内五国の部分)のみで、山陰道の記述部分がありませんでした。引き続き調査したいと思いますので、皆さまからの情報の提供を期待します。
(事務局:総務課)(2007年12月)
【質問3】朴世堂の『鬱陵島』についてネット上で議論されているが、…
朴世堂の『鬱陵島』についてネット上で議論されているが、原文は漢文なのでなかなか正確には読み下せない。読み下し文と現代語訳についてWeb竹島研究所で検討してほしい。
【回答】
朴世堂の『鬱陵島』については、Web竹島問題研究所の研究スタッフにおいても研究しておりますが、正確な現代語訳を公表するには精査も必要であり、今後、漢文の研究者の協力も得ながら解読を進めたいと考えています。
なお、関連記事が当ホームページの「実事求是」第1回に掲載されています。
(事務局:総務課)(2008年1月)
【質問4】竹島啓発資料(概要版パンフレット・ウェブ版)の「歴史…
【回答】
御指摘ありがとうございました。早速訂正しました。
江戸時代に竹島へ渡航していた米子の大谷家については、古くは大屋と名乗っていたこと、大谷と書くようになってからも「ヲゝヤ」(鳥取県立博物館所蔵『竹嶋之書附』所収文書、享保9(1724)年)、「オホヤ」(鳥取県立博物館所蔵『竹島考』、文政11(1828)年)とフリガナを振った史料があるので、オオヤと読むのが歴史的には正しいと思われます。なおこれらの史料は竹島問題研究会最終報告書の資料編に収録されています。
(事務局:総務課)(2008年1月)
【質問5】大于島(竹嶼)と小于島(観音島)の地図確認、との報道が…
大于島(竹嶼)と小于島(観音島)の地図確認、との報道がなされたが、この二つの地図を1699年と1702年と判定した根拠は何か。また、1702年の地図について、左側の地図の詳細(特に地名と方位)および右側の文書に何が書かれているのか教えてほしい。また、これら1699、1702、1711年の地図について、地図以外に何か付属した文献があるのかどうか、先方(所有者)に確認もお願いしたい。
【回答】
大于島、小于島の載る地図「鬱陵島図形」についての質問にお答えします。この二枚の地図のことは、Web竹島問題研究所では、鬱陵島にある独島博物館の企画展「武陵桃源を探し求めて--東海の島から」(2007年8月)の図録によって知りました。図録によれば、報道(「石島は独島説否定-最古の鬱陵島絵図2枚確認」『山陰中央新報』2007.11.27PDF)された絵図のうち1699年と推定したものは国立中央図書館所蔵、1702年と推定したものは三陟市立博物館所蔵です。三陟市立博物館所蔵の絵図に書かれた鬱陵島周囲の地名、島の絵の右側に書かれた文字については、当サイトにもリンクのある"Dokdo-or-Takeshima?"において後述のビーバーズ氏が詳しく紹介しています。
方位は図の下が北、図の左が東です。小于島と大于島は、図の左側に描かれています。小于島、大于島に続いて時計回りに卯(方角の東)、苧田、倭船倉、巽(たつみ、東南)、楮田、桶仇味(仇味は邱尾・亀尾ともあり、浦や河口の意味か)、午(方角の南)、都蔵仇味、萍卓仇味、沙汰仇味、酉(方角の西)、待風所、黄土窟、待風仇味、乾(方角の西北)、窟、孔窟、玄石仇味、子(方角の北)、錐峯、天底仇味、帷竹巌、艮(うしとら、北東)、龍巌とあり、小于島に返ります。図の右側に見える文字は「鬱陵島図形周回僅百余里」、続いて「営将一□」「倭学一名」「軍官二名」「営吏一名」など、鬱陵島に赴いた者の一覧だと思われます。新聞に載った写真では切れていますが、その更に右側に、「......香板一立長三尺八寸広一尺一寸厚二寸」「篁竹□□」「可支魚皮□□」...「朱土六升」など鬱陵島から持ち帰った産物の一覧が書かれています。
『朝鮮王朝実録』のなかの「粛宗実録」の粛宗25(1699)年7月15日の条に「江原道越松(地名)の萬戸・田会一(人名)が鬱陵島を捜討して帰り、待風所や地形を図にし、土地の産物である篁竹、香木、土石等を進上した」とあります。また、粛宗28(1702)年5月28日の条に「三陟の営将・李浚明(人名)、倭譯・崔再弘(人名)が鬱陵島から帰り、島の図形と紫檀香、青竹、石間朱、魚皮等を献上した。鬱陵島は二年間隔で周辺の営将が輪番で捜討に出かけており、今年は三陟の番であった」とあります。これらの記述と絵図の記述に関連性が認められるので、これらの図は1699年、1702年のものまたはその写しと我々は推測しています。
最後にご質問で言及のあった1711年朴昌錫の「鬱陵島図形」(「所謂于山島海長竹田」とあり于山島が今日の竹島ではありえないことを示す絵図)について補足します。我々は日ごろ数々の研究成果をご提供くださる在韓国のアメリカ人ゲーリー・ビーバーズ氏からソウル大学校奎章閣で見つけたとして送ってもらいました。この絵図にも図の横に文が記されています。「辛卯五月十四日、自倭船倉、移舟待風所、拙書一句、以標日後、刻立卯岩、木於方上、萬里滄溟外、将軍駕桂舟、平生伏忠信、峻険自無漫捜討官折衝将軍三陟営将兼水軍検節制使朴昌錫、軍官折衝朴省三、金壽元、元倭学朴命逸」です。私の直訳では「1711年5月14日、倭船倉より風待ちの場所に船を移す。拙い詩句一首を書き以って後日の標識にしよう。東側の立岩に刻んだが、真上には樹木がある。「遠く離れ来て青々とした外海がある。将軍たちは堅固なかつらの木船に乗せてもらい、日ごろから国王への忠誠心を持っているので厳しいなどと思うことなく広々とした気持ちに満ちている。役職氏名」になります。この3図の所蔵機関に関連資料があるかどうかを照会する件については、今後の課題とさせていただきます。
(副所長:杉原隆)(2008年3月)
【質問6】『熊野大社誌略』(大正14年7月5日発行)のなかに、御…
『熊野大社誌略』(大正14年7月5日発行)のなかに、御祭神である素戔嗚尊の御事歴として「御子教養日韓併治と云う大業は須臾(すべからく)も素尊の念願を離れない、そこで此熊野宮を根城とし隠岐島磯竹島の渡津として澎洋たる日本海の荒波を蹴破って屡(しばしば)韓国に往復なされ...」との文章があった。この文中の隠岐島磯竹島とは竹島のことであろうか。古事記には根国訪問となっているので、明治43年の日韓併合を考えると、時代的に結び付けたのかと思われるが、どうか。
【回答】
磯竹島とは鬱陵島のことです。日本では古く鬱陵島を竹島または磯竹島、現在の竹島を松島と呼んでいました。現在の竹島に「竹島」という名称が与えられるのは1905年の領土編入時であり、それ以前に「竹島」と呼ばれることはありませんでした。この島が、松島から竹島へ呼称が変わるいきさつや、鬱陵島もまた松島と呼ばれる時期があったことについては、Web竹島問題研究所ホームページの「杉原通信」第7回・第8回をご覧ください。
さて、鬱陵島を竹島または「磯竹島」と呼ぶようになったいわれについては諸説あります。ご指摘のスサノオノミコトの子、五十猛(イタケル、イソタケル)命と結びつける話もあります。例えば、江戸時代17世紀後半に多々良(南宗庵)一竜が編んだ『残太平記』巻之七には、次のような話が載っています。
○罪人遠嶋流刑評定之事永禄十二年十二月織田信長卿京都ニ在テ罪人刑罰ノ評定アリ。近年三好残党所々ニ隠テ悪行ヲ作者甚ダ其数多シ。罪ノ重キハ剣罪ニ行ハレ軽キハ助テ追放セラル。其中ニ殺シ難ク赦シ難キ者ヲバ遠島流刑ト定メ給フ。然レ共其配所亦難易ノ嶋アリ。<中略>偖又隠岐国ノ商人ヲ呼テ五十猛嶋ノ事ヲ問給ヘバ隠州ヨリ七十里ニハ近ク覚ヘ候。東西九里ニテ、大竹如芦シゲク生テ竹ノ中ニ路アリ人不住一ノ岩屋アリ。内ノ広サハ一町四方モ有ベシ。人若シ是ニ望メバ色黒キ一眼ノ人長一丈ニ過、竹ノ葉ヲ衣トシテ鉄棒ヲ振テ追出ル......此大人ハ素盞烏尊ノ御子五十猛命此嶋ニ住給フト云伝ヘタレバ神ニテ在スラント思ハレ候......偖テハ此嶋モ流人ヲ可渡所ニハ非ズ。<後略>
五十猛命は出雲神話では高天原を追放された父須佐之男命(すさのおのみこと)に従って朝鮮の地に降り、そこから船で渡った神で、大地に樹木を植え、種を播いた山林保護の神です。平成18年に竹島問題研究会の委員が鬱陵島へ渡り調査しましたが、朝鮮では珍しい樹木の繁茂する緑の島でした。現在の熊野大社は須佐之男命を祭神にしますが、ある時までは五十猛命も祭っていたと関係者から聞きました。五十猛命を祭神とする神社は島根県の簸川郡から大田市に集中してあります。特に大田市には五十猛町という地名があり、新羅神社もあります。日韓併合を云々するのはご推察のように時勢に合わせた表現だと思いますが、磯竹島(鬱陵島)を神話のスサノオノミコトや五十猛命と結びつける話は江戸時代からあったことになります。
(副所長:杉原隆)(2008年4月)
【質問7】シーボルトの地図がArgonautを"竹島"と記し…
シーボルトの地図がArgonautを"竹島"と記し、Dageletを"松島"と記した原因は、単純に長久保赤水などの日本図とヨーロッパの地図に当てただけのように説明されていることが多いが、『三国通覧図説』の外国語版が1832年に出ていることなどから、林子平の地図との関係もあるのではないか?
【回答】
このたびは興味深い意見をありがとうございました。ご意見は、鬱陵島が「松島」と呼ばれることになったこと(「杉原通信」第7回、第8回参照)に関連して、隠岐と朝鮮半島の間の日本海に2島を描くのは長久保赤水「改正日本輿地路程全図」の竹島・松島だけではなく、林子平の『三国通覧図説』の「朝鮮琉球蝦夷并ニカラフトカムサスカラツコ嶋数国接壌ノ形勢ヲ見ル為ノ小図」(竹島問題研究会最終報告書所収の出雲市個人蔵写本参照)も2島を描いている、シーボルトは子平図を見ていたはずであるから「日本図」で西洋の地図にあるアルゴノート島・ダジュレー島を各々竹島・松島と名づけたのは単に赤水図に依拠したのではなく子平図を参考にしたのではないか、というご指摘であろうと思います。
シーボルトが持っていた資料の目録が出版されており(復刻版:『シーボルト収集図書目録』郁文堂1936,科学書院1988)、それを見ると「三国通覧図記」が出ていますし、ご指摘のように子平図はクラップロート訳が1832年にパリで出版されているので、シーボルトが子平図を承知していたことは確かです。しかし、日本海の2島のうち隠岐に近いほうの島を林子平の上記"接壌図"では「竹嶋」と記しているのに対しシーボルトの日本図では「Matsusima (I. Dagelet 37°25′ N.B. 130°56′O.L.) 」と記しています。朝鮮半島寄りの島については、子平の接壌図では名称がなくシーボルトの日本図では「Takasima (I. Argonaute 37°52′ N.B. 129°50′ O.L.) 」となっています。また、シーボルトがTakasima、Matsusimaに経度緯度を付記したのは、日本図の左上に本州の牡鹿半島以北を部分図として配置した関係でこれらの島を本来の経度に描けなかったためですが、部分図で隠れてしまう島を位置をずらし注記を付けてまで掲載したのは、シーボルトがこれらの島を日本図に描かなければならない島つまり日本の領域を構成する島として認識していたからかもしれません(子平図で「竹嶋」に「朝鮮ノ持也」と記していることと相容れません)。以上のことから、シーボルトは子平図を承知していたものの、「日本図」を作成する上で参考にしたとまでは言えないと考えます。
(事務局:総務課)(2008年6月)
【質問8】韓国の箕城面旧山里待風軒で発見された朝鮮時代の文書「捜…
韓国の箕城面旧山里待風軒で発見された朝鮮時代の文書「捜討節目」と「完文」というものがあり、独島を巡察していたことを示すと報じられている。重要な資料ならWeb上で公開しているはずなのにそうしていないところをみると、竹島(独島)とはまったく関係のない文書であると思うが、どうか。現在これらの文書は蔚珍市にあるとのことだが、調べているか。
【回答】
貴重な情報をありがとうございます。御教示いただいた報道(「19世紀朝鮮官吏の独島巡察文書を発見」『中央日報』ウェブ版2005.8.15)によれば、捜討節目と完文に当時の役人が「鬱陵島を」定期的に巡察していたとの内容が記されている由で、捜討節目(1823?)には鬱陵島を巡察する捜討使と兵士が蔚珍郡待風軒に滞在しながら良い天気を待ち9村の村民からもてなしを受けたとの内容が盛られている、朝鮮時代に鬱陵島に官吏を派遣していた事実は朝鮮王朝実録にもあるが19世紀の状況に関する記述は初めてだ、云々とあります。同記事はまた、王朝実録に粛宗時代の捜討のほか正祖時代の捜討使が「カジド(現在の独島)」を視察したと記されており、こうした事実から考えて19世紀にも朝鮮の王朝が「鬱陵島はもちろん独島まで」実質的に管理していたことが分かる、という文書発見者のコメントを伝えています。
この記事から知られることは、発見された19世紀の文書に記されていることが「鬱陵島の」巡視であり、独島(竹島)を管理していたというのは文書発見者の推察であることです。また、文書発見者がそのように推察する根拠としているのは正祖時代の捜討使がカジドを視察したこと、そのカジドが独島だという説明のようです。
カジド(可支島)というのは、『正祖実録』正祖18年(1794)6月13日の条に登場する地名で、同年4月に鬱陵島の捜討に赴いた一行が鬱陵島の周囲を検分している際、可支島に転じて可支魚2首を捉えた旨が記されています。この記述について、韓国の学者崔南善氏が「鬱陵島と独島」連載第19-21回『ソウル新聞』1953年8月31日-9月2日で可支島は独島だと主張したいと述べたことから、韓国において広くそのような議論が行われます。崔南善氏は、その理由として「他の島嶼には少なくとも人間が住んでいるけれども、独りカジだけの棲息処でありその繁殖地として有名な場所はトクソム(独島)だからである」としました。しかし、正祖の時代に鬱陵島に人は住んでおらず、アシカはかつては鬱陵島にも棲息していました。日本の記録(鳥取藩池田家文書「竹嶋之書附」など)に鬱陵島の物産として海驢(みち)が出てきますし、このページの質問5(2008年3月分の質問)への回答にあるように朝鮮古地図にも鬱陵島の物産として「可支魚皮」が出ています。韓国でよく引用される『東国文献備考』(1770)の鬱陵島に関する記述中にも「海中に大きな獣がいる、牛形・赤い眼・角無し、海岸に群がって寝そべり人が独りで来るのを見ると害をなし多数の人に遇うと逃げて水に入る、カジという」(海中有大獣牛形赤眸無角群臥海岸見人獨行害之遇人多走入水名可之)とあります。カジドは鬱陵島中の地名であり、現在の竹島ではないと解されます。
Web竹島問題研究所では、報道された捜討節目、完文という文書を確認していませんが、竹島(独島)に関する記述がないこと、さらに正祖実録のカジドに関する記述から鬱陵島への巡察と竹島を結びつける議論についても根拠がないことは間違いないと考えています。
(事務局:総務課)(2008年5月)
【質問9】日本は1905年の島根県告示が独島(竹島)が日本の領土だ…
日本は1905年の島根県告示が独島(竹島)が日本の領土だという証拠と主張している。しかし、19世紀に日本がアメリカとの小笠原群島問題の際に提出した地図には独島(竹島)が韓国の領土だと明示されている。これについて説明を願いたい。
【回答】
ご意見ありがとうございます。韓国で質問にあるような見解が発表されたので、改めて事実関係を調べてみましたが、19世紀に日米間で小笠原諸島の領有権を争った事実そのものが存在しないことを確認しました。伝えられるところによれば、韓国での議論は、(A)アメリカのペリー提督が日本に開国を求めて来航した際、小笠原諸島の帰属が問題となり、日本は、林子平の三国通覧図説を示してアメリカ側の主張に反駁したというものです。さらに、(B)三国通覧図説の絵図では竹島が朝鮮領となっているので、それをアメリカとの外交交渉に用いた以上、三国通覧図説の絵図は日本政府が公的に認めたことになる、という議論だと承知しています。
(A)の話は、林子平の各種の伝記に登場するエピソードでありながら小笠原諸島の領有の経緯を扱った学術文献には全く出てこないことに疑問を持ち、この話の来歴を辿った人がいます。その方の研究によれば、『河北新報』に掲載された林子平を題材とする新聞小説が元ネタだそうです(若松正志「小笠原諸島の領有と林子平恩人説の展開」『日本史研究』536,2007.4,p.103)。この新聞小説の連載第44回(1924年11月16日)には、次のような話が載っています。「...ペルリが来航した時、先づ小笠原島に入りピールアイランド殖民政府といふものを置き、自国の領地だと称して日本政府にその確認を求めた。...幕府では頗る窮迫したが、偶仙台の林子平が天明中に著述した三国通覧図説に小笠原島の地図と説明が乗せてあり、これを独逸で翻訳公刊したものがあると聞き、辛うじてそれを求めてペルリに提示した...」。ペリーの記録は、1856年に米国上院文書(33dCong.2dSess.Ex.Doc.No.79)として議会に提出されその後単行本として版を重ねた『ペリー艦隊日本遠征記』を始めとして、同じく上院に海軍長官が提出した報告書(33dCong.2dSess.Ex.Doc.No.34)、ペリーの秘書官R・ピノーの日誌、同じく中国語通事S.W.ウィリアムズの日誌などがあります。これらには、上記のような話が出ていないばかりか、ペリーは小笠原寄港後香港に赴き、そこで英国政府の代表に対し、三国通覧図説(クラップロートによる訳本)を引用してボニン諸島という名称が日本に由来するものであることを説き、英国の「発見」に基づく領有主張を退けています。1853年12月つまり「日米和親条約」締結交渉が行われる前年のことです。無論、ペリーが日本での幕府との交渉で小笠原を要求したとか幕府が林子平を引き合いに出して反駁したというような記録は、日本側にもありません(『大日本古文書』など)。
(B)の三国通覧図説の絵図で竹島が朝鮮領となっているかを検討するまでもなく、そもそも(A)の話は新聞小説に端を発した俗説であって、史実ではないのです。
(事務局:総務課)(2008年7月)
【質問10】政府及び島根県の主張は、現竹島は日本固有の領土との前提…
政府及び島根県の主張は、現竹島は日本固有の領土との前提に立った上でのものと思うが、歴史的事実として元禄9年に徳川幕府及び鳥取藩が旧竹島(鬱陵島)と松島(現竹島)は領地でないとしていること、また明治政府も明治10年に旧竹島と松島は日本領土でないと決定している。この事実についてはどのようにお考えか?
【回答】
元禄時代に、当時日本で竹島と呼んでいた鬱陵島をめぐる日朝交渉(対馬宗家が担当)に関連して、幕府からの照会を受け鳥取藩が返答した文書中に、竹島、松島(現在の竹島)が因幡国・伯耆国の所属でない旨の記述があることは事実です。しかし、当時問題となっていたのは竹島(鬱陵島)への日朝両国民の出漁であり、松島については参考情報として言及されたものでした。竹島(鬱陵島)への鳥取藩米子の町人の渡海は、結局中止されることに決まりましたが、元禄9年の「竹島渡海禁止」は松島(現在の竹島)には全く言及していません。その後、天保竹島一件といって天保年間にその竹島(鬱陵島)に渡海することを浜田藩の八右衛門という人物が、浜田藩主で幕府の筆頭老中であった松平周防守康任(まつだいらすおうのかみやすとう)に申し出たことがありました。浜田藩は「竹島は日の出の地(日本のこと)と定めがたいからいけない」としつつ「松島へ渡海してはどうか」と示唆しました。八右衛門は実際には竹島(鬱陵島)へ渡海し処罰されましたが、八右衛門の裁判記録にも「松島へ渡海の名目で竹島へ渡り」とあります。当時は鎖国でしたから、国外へは渡航できません。竹島(鬱陵島)が日本の地かどうかはっきりしないから渡海不可とされたこととの対比において、松島(現在の竹島)は、むしろ日本の地と認識されていたことがわかります。
次に明治10年の「竹島ほか一島は日本とは関係ない」という太政官決定についてのご質問ですが、質問も多くありましたので「杉原通信」の第8回を利用して現在我々が考える内容を総括して述べさせてもらっていますので、ご覧ください。要するに異国船が日本海に現れるようになって鬱陵島を測量しいろいろと命名する過程で、「松島」という島名が西洋の地図や海図上では鬱陵島に与えられるようになり、その西洋の知識が幕末維新の時期に日本に流入した結果、島名に混乱が起こりました。明治の初めには、鬱陵島を対象に「竹島開拓願」、「松島開拓願」が出されています。その中で現在の竹島はリャンクール島、隠岐ではリャンコ島と呼ばれ続けています。そうしたことから「竹島外一島本邦無関係之」は竹島とか松島と呼ばれている島すなわち鬱陵島は日本と関係がないとする決定の可能性が大と思われるのです。
(副所長:杉原隆)(2008年8月)
【質問11】藪太郎の研究室というサイト…
藪太郎の研究室というサイト(リンク切れにつき閲覧不可)の「鬱陵島の古地図一覧」のページに出ている国立国会図書館所蔵『朝鮮輿志』の「欝陵島図」は白黒か彩色されているのか。また、1711年の地図から派生した、韓国国立中央図書館所蔵『八道輿地図』の「鬱陵島図」とほぼ同じ版木を使ったようなデザインと思われるが、どうか。
【回答】
ご質問にある国立国会図書館所蔵『朝鮮輿志』は、版木ではなく、筆写本です。『八道輿地図』『輿地図』もそうだと思います。ちなみに、ご指摘のサイトに国立国会図書館所蔵として出ている今一つの地図『大東輿地図』は、「當●十二年辛酉古子校刊」と刻まれた刊本ですが、巻十四「欝陵島」は、版木による欝陵島の東に手書きで「于山」島が書き加えられています。さて、ご質問の「欝陵島図」は、『朝鮮輿志』の巻五「黄海道江原道」の27帖表にあります。島の輪郭、山川は、緑色の線で描かれ、文字は墨で書かれています。他の帖では、建物、面(村名)、道路を赤で示し、城壁を茶色に着色しています。この27帖裏には、「周回二百餘里/東西八十餘里/南北五十餘里」「物産/甘■生鰒可支魚大小雑魚/香木栢子木冬栢木楓木檜木.../飛禽/鷹鳥燕鳩/走獣/猫鼠」とあります。ご指摘のように『朝鮮輿志』の「欝陵島図」と『八道輿地図』の「欝陵島図」は、ほぼ同一です。竹島問題に関係する于山についても両者とも「所謂千山島」としています。ただし、後者の「孔岩」を前者では「孔巌」、後者の「楮田洞」を前者では「猪田洞」としています。前者は後者を筆写したものか、前者、後者とも共通の本から筆写したものと思われます。なお、ご指摘の1711年の絵図(奎章閣所蔵「鬱陵島図形」)との関係は未検討です。
(事務局:総務課)(2008年12月)
※●はうかんむりに丁、■はくさかんむりに雨+ふるどり
【質問12】あるブログ上のゲーリー・ビーバーズ氏の記事によると、…
あるブログ上のゲーリー・ビーバーズ氏の記事(外部サイト)によると、蔚珍の待風所にあった鬱陵島の捜討官の文書を突然焼却してしまったとKBSが伝えている。いったいどのような歴史的文書が証拠隠滅のために焼却されてしまったのか調査するべきである。また、早めに待風所や蔚珍の市役所に残っている「完文」や「捜討節目」やその他検察使の文書の現地調査も必要ではないか?
【回答】
待風軒の文書を焼いた云々は、突然(最近になって)焼却したということではなく、ブログの記事によると、現在コミュニティーセンターになっているこの建物の人が、以前はもっと文書があったが二三十年前に焼かれたと述べた旨、2007年にテレビ局のリポーターが番組で紹介したということのようです。焼却の事実や経緯が調査できればそれに越したことはありませんが、二重三重の伝聞であり、難しいように思います。また、このページの質問8(2008年5月分の質問)への回答の中で「完文」「捜討節目」には竹島に関する記述がないことは間違いないがまだ文書に当たっていないとしました。関係史料の調査については、引き続き検討課題とさせていただきます。皆様からの情報提供も期待します。なお、このブログの記事に写真のある絵図の文字は「子山嶋」ではなく「小于島」であることがその後判明しています。ご存じのことでしょうが、このコラムの読者のために申し添えます。
(事務局:総務課)(2009年1月)
【質問13】ロシアの国立図書館に、1889年のコルベット艦…
ロシアの国立図書館に、1889年のコルベット艦Vitjazによる鬱陵島の詳細図があるようだ。この地図中になにか竹島が韓国領土でないことを更に裏づけるような情報は無いのか。また、1902年にアメリカの戦艦New Yorkが竹島を測量しているが、その頃の航海日誌などはないのか。1857年のロシアの朝鮮東岸図はPallada号の測量結果に拠ったものだが、Pallada号の航海日誌などは調べているか。
【回答】
貴重な情報をありがとうございます。パルラダ号の航海日誌は、ロシア海軍発行の雑誌『モルスコイ・ズボルニク』15巻1号(1855年)に掲載されたものが日本海軍水路部発行の『水路雑誌』8号(明治16年7月)に翻訳紹介されています。竹島に関する記述もあります。『モルスコイ・ズボルニク』誌は、マイクロフィッシュで復刻されており国内の図書館にも所蔵があるようですが、Web竹島問題研究所ではまだ確認しておりません。同誌には丹念に見ていけばほかにも関連記事が載っている可能性があります。ロシア国立図書館の地図、アメリカ軍艦の航海日誌の調査を含め、今後の課題とさせていただきます。
(事務局:総務課)(2009年2月)
【質問14】Web竹島問題研究所のトップページにリンクのある「亜細亜…
Web竹島問題研究所のトップページにリンクのある「亜細亜小東洋図」の説明文に、「隠岐諸島(地図には「オヤ」とあり)の北西に、松島(地図には「松シ」とあり、現在の竹島)と竹島(地図には「竹シマ」とあり、現在の鬱陵島)を描く」とあるが、何がなにやらよくわからない。この島は昔こう呼ばれていたが今の名称はこうだ、いつごろから今の名称に変わった、というように説明してほしい。
【回答】
「亜細亜小東洋図」は、長久保赤水の『唐土歴代州郡沿革地図』という地図帳にふくまれている図で、写真は、ホームページの説明にあるとおり邑南町個人所有の安政4年(1857年)刊行のものです。この地図には、寛政元年(1789年)刊行の初版、天保6年(1836年)刊行の再版もあります。初版、再版では、山陰地方沖合の日本海に、日本に近いほうから順に「ヲキ」、「松シマ」、「竹シマ」の三島を描いています。「ヲキ」は隠岐のことです。江戸時代には今日の竹島を松島、鬱陵島を竹島と呼んでいたので(「杉原通信」第7回を御参照ください)、松シマ、竹シマは、それぞれ今日の竹島、鬱陵島を指します。安政4年版は版木も別で隠岐をヲヤ、松島を松シとしていますが、これは書き損じであり島名が変遷したわけではありません。今般、出雲市在住の方から天保6年版を見せていただきました。近く写真をホームページに掲載しますのでご覧ください。
なお、寛政元年版、天保6年版、安政4年版とも、松島、竹島を本州と同じ色に彩色していることがポイントです。長久保赤水の「改正日本輿地路程全図」(1779年)では竹島、松島に彩色が施されておらず日本の領土外とされているとの主張がありますが、同じく赤水の作成した「亜細亜小東洋図」では日本と同じ色に彩色されているので赤水が日本領土外だと認識していたことはないと言えます。
(事務局:総務課)(2009年3月)
【質問15】朝鮮の古地図では于山島は鬱陵島の東に描かれているように…
朝鮮の古地図では于山島は鬱陵島の東に描かれているように思う。これは例外なく東に描かれているのだろうか。竹島のある方角である南東に于山島あるいは他の島が描かれた地図があるのだろうか。朝鮮の古地図を見ていると距離や大きさについては正確さを欠くところもあるが、方角は比較的正確に表現されているように思う。もし例外なく于山島が鬱陵島の東沖合に描かれ、南東に島が描かれていないなら、竹島を自国領と認識していなかった証となるのではないだろうか。
【回答】
朝鮮古地図にはさまざまな系統のものがありますが、「于山島」関係では、『新増東国輿地勝覧』の「八道総図」のように時代的に古い絵図で朝鮮半島と鬱陵島の間に于山島を描くものと、18世紀以降の比較的新しい絵図で鬱陵島の東側に于山島を描くものがあります。
前者は、「于山国」が鬱陵島にあったことが伝承の混乱から于山島と鬱陵島があるという記述を生み、その記述を図示した(記述の順番に陸地から近い所に于山島、その先に鬱陵島を描いた)もので架空の島だと考えられます。後者は鬱陵島に巡検使が訪れるようになり鬱陵島についての知識が増進した結果生まれたもので、鬱陵島の東側2kmの沖合にある島(竹嶼)を于山島として描いたものと考えられます。
いずれにせよ、現在の竹島とは無関係だというのが我々の認識です。朝鮮古地図に現れた于山島について、詳しくは、『竹島問題に関する調査研究--最終報告書』pp.103-131舩杉力修「絵図・地図から見る竹島(II)1韓国側製作の絵図の分析」をご覧ください。
(事務局:総務課)(2009年3月)
【質問16】高橋公明「合成された地図--山口県文書館所蔵朝鮮八道総図…
高橋公明「合成された地図--山口県文書館所蔵朝鮮八道総図」『東アジア海域史研究における史料の発掘と再解釈ー古地図・偽使史料・文学表現ー』(文部科学省科学研究費補助金研究成果報告書2008年3月刊行)に紹介されている朝鮮古地図の情報を求む。特に山口県文書館のホームページ上の目録に「萩藩当職山内広通と浜崎代官清水親全の命により描いた彩色図絵図」とある『朝鮮八道総図』、同じく「長井半左衛門組九郎右衛門より差出候写也とある彩色図」とされる『朝鮮国之図』の鬱陵島部分をカラー画像で見てみたい。
【回答】
ご質問にある山口県文書館所蔵の絵図については、Web竹島問題研究所でも関心を持っております。朝鮮八道総図については、ご指摘の高橋論文以外に、河村克典「朝鮮漂着民との関連で作成された朝鮮図」『山口県文書館研究紀要』24(1997)pp.1-17が、朝鮮国之図については、河村克典「山口県文書館蔵朝鮮国之図」『山口県文書館研究紀要』25(1998)pp.1-18が、それぞれ詳しく紹介しています。河村論文によれば、朝鮮八道総図には、隠岐の付近に「此湊ヨリ天気定竹嶌エ乗ル凡百五十里余有之ト云」との記事、鬱陵島付近には「元禄六年伯耆国磯竹源左衛門ト云者竹島ヲ見出シ申之由是ヨリ伯耆出雲因幡之猟人参猟仕候所ニ其節朝鮮人も参双方論シ依之江戸御注進相成候所ニ対馬より朝鮮えも段々被取遣り有之終ニ朝鮮之鬱陵島ニ相決シ候事」との記事がそれぞれ記載されている由です。鬱陵島の中にも、山頂からの歩数、新増東国輿地勝覧と同様の記事、今は無人島である旨の記述等があると承知します。また、于山島が鬱陵島の西側に描かれているものの注記はない(朝鮮国之図には于山島そのものが描かれていない)ようです。写真は、今当方からネット提供できるものはありません。
(事務局:総務課)(2009年4月)
【質問17】1957年2月28日の『東亜日報』に載った黄相基の記事…
1957年2月28日の『東亜日報』に載った黄相基の記事(外部サイト)「独島領有権1」の中に、「1727年(英祖3年)、三陟営将李萬協が倭学、崔萬廸ほか98名を率いて4月11日に出発し5月2日に竹邉津に回着したという記録」がでてくるが、これは韓国側が主張していることが聞いたことがない。ひょっとすると鬱陵島図形の様に、何が韓国側に不都合なことがあって隠しているのではないか?
【回答】
黄相基氏が東亜日報に連載した記事は、他の論考と合わせて図書になっております。黄相基『獨島領有権解説』勤労学生社1965。この本のpp.30-31「五韓国の捜討管理と日本の国交厳守」では、御指摘に係る"英祖3年の捜討"の記事の出典として「雍正五年丁未捜討記」と記しています。これは、朝鮮王朝実録のような編纂された記録ではなく単独の文献(文書、記録)だろうと思われますが、目下、これ以上の情報を持ち合わせません。このコーナーの読者から情報を頂戴できれば幸いです。
(事務局:総務課)(2009年10,11月)
【質問18】竹島の帰属問題について、日本の固有の領土であるにも拘…
竹島の帰属問題について、日本の固有の領土であるにも拘らず、韓国が不法占拠しています。Yahoo知恵袋を見ていましたところ、竹島問題について看過できない事項が書かれているのが見つかりましたので、事実を調査してくださいますようお願いします。Yahoo知恵袋のhttp://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1372428033(外部サイト)にありますが、質問者がベストアンサーの下に「質問した人からのコメント」を付けています。そこには、「島根の浜田民俗資料館に幕府が竹島上陸を禁止した立て札があります。何を隠そうそれを発見しその存在を韓国に知らせたのは私です。日本の島じゃないから日本人は竹島に行けなかったのです」、と記載されています。本当に、浜田民俗資料館(正確には浜田市浜田郷土資料館)に、竹島上陸を禁止した立て札が有るならば、誰が何のために置いたのか?などと考えます。
【回答】
この立て札(高札)は、おそらく「天保竹嶋一件」と呼ばれる事件に関するものと考えられます。
「天保竹嶋一件」は、当時、江戸幕府から竹嶋(現在の欝陵島)への渡海を禁じられていたにもかかわらず、浜田の町人今津屋(会津屋)八右衛門が松嶋(現在の竹島)への渡海と偽り、竹嶋渡海を行ったことにまつわる事件です。天保7(1836)年、この竹嶋渡海は幕府に知れてしまい、八右衛門や浜田藩の関係者は死罪などに処せられる訳ですが、この事件に基づき、改めて幕府は竹嶋(欝陵島)渡海禁止の指示を各藩に出し、各藩ではその内容を高札として各地に立てました。
その高札の一つが、現在、浜田市浜田郷土資料館に所蔵されております。
(総務部総務課)(県民ホットライン【提案No.279】平成23年10月17日受付10月20日回答)
【参考】
・杉原隆「天保竹島一件と八右衛門」『杉原通信第12回』
https://www.pref.shimane.lg.jp/soumu/web-takeshima/takeshima04/sugi/take_04g12.html
・福原裕二「20世紀初頭の欝陵島社会」(『北東アジア研究』第21号(2011年3月))
お問い合わせ先
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