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杉原通信「郷土の歴史から学ぶ竹島問題」

第6回渡海禁止後の竹島(鬱陵島)


元禄6(1693)年に安竜福、朴於屯が鳥取藩へ連行された後、江戸幕府は対馬藩に命じて、3年にわたる竹島に関する外交交渉を朝鮮王国と行わせました。その交渉が難航していることを、対馬藩の元藩主、宗義真(そうよしざね)から報告された幕府は、鳥取藩や松江藩に竹島との所属関係の有無等を確認したうえで、元禄9年正月28日竹島渡海禁止を決定しました。対馬藩の宗義真は江戸城で全老中が見守るなか、渡海禁止決定の奉書を受け取り、鳥取藩の江戸留守居吉田平馬は老中の一人である戸田山城守宅に呼び出され、同日奉書を受け取っています。
鳥取藩はすぐ渡海許可書の本書を地元から届けさせ、2月9日幕府に提出しています。この年の5月、元禄6年に連行された安竜福が仲間10人と再び隠岐に姿を現し、6月には鳥取藩内へ姿を現しました。帰国後安竜福が語った内容が、朝鮮の『粛宗実録』に記載されていますが、そこには竹島、松島で漁をしていた日本の漁師たちを追いかけながら来日したとあります。すでにこの年の初め、幕府が渡海を禁止し、鳥取藩も渡海許可書の本書を幕府へ返納した中で、5月に日本人が竹島、松島で漁をしていたことは考えられず、『「竹島問題に関する調査研究」最終報告書』に載る鳥取県立博物館の鳥取藩政史料の精査でも竹島渡海に関する古文書は見つかっておりません。
さて、渡海禁止が命じられて以降の竹島渡海はどうなったでしょうか。禁止後作成された数種の隠岐国絵図では、福浦(現在の島根県隠岐の島町)部分に、「竹島への渡海、この湊で風待ちをする」という記載があるものがあります。禁止以前の70年余大谷、村川家に雇われて毎年8、9人の隠岐の住民が竹島渡海を経験していたとすれば、その後も熟知した海路を、竹島まではともかく松島(現在の竹島)あたりまで出漁した可能性はありますが、今のところ確認できる史料はありません。日朝交流史研究の碩学森克巳氏が1950年『史淵』45号(九州大学史学会)に掲載された論文「近世に於ける対鮮貿易と対馬藩」に「対馬藩自ら密貿易の取り締まりに当ったが、また同時に幕府の力も借りていた。享保の頃、松江藩の人々が対馬より竹島へ渡航したのを幕府が禁止していることなどその一例である」としていますが、論拠とされる「長崎県南高来郡神代村鍋島家文書」には、現在のところ該当文書にあたるものが見つかっていません。
天保4(1833)年、浜田の八右衛門なる人物が自分の持ち船で竹島、松島近くを通って越後方面へ物資を運搬する間に、竹島の豊かな物産に心を動かされました。浜田藩家老岡田頼母(おかだたのも)等に藩財政救済をめざす行動として松島への渡海と偽って竹島への上陸を決行しました。隠岐からの出発で、従来は天保4年一度の行為と考えられていましたが、海士(現在の島根県隠岐郡海士町)の渡部円太夫なる人物が天保4、5、6年隠岐に八右衛門が来たと書いていますので複数回の竹島渡海が推測されます。八右衛門の行動はまもなく露見するところとなり、天保7年大坂奉行所に逮捕され尋問されることになりました。地元の浜田藩では証拠隠滅と自分の責任を痛感した家老岡田頼母等が切腹し、関係者が次々逮捕され、八右衛門も江戸へ移され厳しい取り調べの後処刑されました。最終的な責任は浜田藩主松平周防守家にもおよび、浜田から棚倉(たなくら、現在の福島県)にお国替えとなりました。この一連の出来事を「天保竹島一件」といいます。

八右衛門が逮捕され尋問を受けている天保7年6月ごろ、山陰地方の石見路を旅して宿屋の主人から竹島の話を聞いたり、益田の高角神社(たかつのじんじゃ、柿本人麿神社)に詣でた19歳の青年がいました。伊勢国の須川村(すがわむら、現在の三重県松阪市)出身の松浦武四郎です。武四郎は日本の人口3000万人の時に500万人が伊勢神宮に参拝したという「文政のおかげ参り」の時代、伊勢街道で幼少期を過ごし日本全国に関心をもちました。津藩の学者平松樂斎(ひらまつらくさい)の私塾で3年間学び学問的視野を広げた後、16歳の時全国へ遊学に旅立っています。武四郎はその後特に北海道の各地を歩き、数多くのアイヌ人の生活等北海道事情を報告し続けました。彼は一方でロシアの進出等北方の領土にも関心を持っていました。
その武四郎が愕然としたのが、天保11(1840)年イギリスが中国の清王朝にアヘン戦争と呼ばれる武力行使を行い、香港を奪い、広州等5つの港を開港させたことです。イギリスのさらなる東方進出を考えて彼は憂慮しました。「去夏外国船(墨夷赤狄)東西に滞船し、国事が杞憂すべき状態にある」、「竹島は朝鮮と我が国の間にあり、人が居住していないのでここに外国船が集まり、山陰の諸港に出没すればその害は少なくない」、「蝦夷、樺太、伊豆七島等に比して、竹島はあまりにも知られていない」と、竹島の存在に注目する記述しています。そして安政元(1854)年に『他計甚麼雑誌』、元治2(1864)年『多気甚麼雑誌』、明治3(1870)年『竹島雑誌』と、雑誌名を活字の上で変えながら竹島に関する啓蒙を目的とする冊子を作り、知識人や志士に配布しました。武四郎は志士が竹島に渡り、平時には島を開墾し有事の時は日本の最前線を守ること、また「日本の有志の士がかの地に渡り、外国船と誠信を通じ、世界の情勢を探知すれば得策となることこの上ない」とも考えていました。武四郎は多くの友人を持ちましたが、そのひとりに吉田松陰がいました。吉田松陰が残した書簡には武四郎の竹島開拓論に賛同すると記したものがあります。松陰の影響で長州藩萩城下の松下村塾でも安政5(1858)年には、竹島について議論が始まっています。そして万延元(1860)年、松下村塾で学んだ桂小五郎(木戸孝允)、村田蔵六(大村益次郎)は連名で長州藩主に「長門国萩より東北に当たり竹島あり」の書き出しで始まる「鬱陵島開拓に関する建言書」を提出しました。しかし外国との和親条約や通商条約が結ばれた激動の幕末から明治維新期に松浦武四郎が提案し、長州藩士が企図した竹島開拓は実現しませんでした。この海域への関心を持ち続けながら武四郎は明治21(1888)年71歳でこの世を去りました。
松浦武四郎が制作した3種類の「竹島雑誌」には引用文献が掲載されていますが、代表となる文献は松江藩の学者金森建策の『竹島図説』です。金森建策は備中出身で、西洋の事柄に精通した学者でしたが、松江藩士の経歴や業績を記す「列士録」によると蘭学教授御用として松江藩に仕えました。嘉永2(1849)年隠岐の周辺に数多くの外国船が姿を見せました。嘉永6年(1853)年ペリーが浦賀に出現する直前のことです。松江藩は隠岐へ大砲や藩士を配置して警備にあたりました。
この緊迫した時、建策は藩主松平斉貴(まつだいらなりたけ)に竹島の図一枚とその説明書である『竹島図説』を提出しました。竹島(鬱陵島)の図は原図に近いものが国立公文書館と米子市立山陰歴史館にあります。この竹島の図について、建策は『竹島図説』の序文に自分が作って藩主に提出したと書いています。ところが図に書き込まれている地勢等の説明文は14年前処刑された浜田の八右衛門が書いた竹島の図の書き込みと全く同じであることがわかりました。犯罪者で処刑された八右衛門の竹島の図は、八右衛門の名ではこの世に陽の目を見ることは出来ないと考えた建策が自分の名の下で後世に伝えてやったのだと私は考えています。松浦武四郎も3種類の竹島雑誌にそれぞれ竹島の図を載せています。彼は金森建策の竹島の図を引用していますから、書き込みは八右衛門のものに遡ります。
竹島渡海が禁止された後、竹島に関心を持った八右衛門、金森建策、松浦武四郎については史料が少ないので研究が遅れており、今後の史料発掘と研究の発展が待たれます。


(主な参考文献)
・森須和男『八右衛門とその時代-今津屋八右衛門の竹嶋一件と近世海運-』石見学ブックレット3浜田市教育委員会2002年
・矢富巖夫「浜田藩竹島事件」『歴史読本スペシャル(特集御家騒動)』1989年2月特別増刊号新人物往来社
・岸本覚「幕末海防論と『境界』意識」『江戸の思想』9号ぺりかん社1998年
・杉原隆「八右衛門、金森建策、松浦武四郎の「竹嶋之図」について」『「竹島問題に関する調査研究」最終報告書』竹島問題研究会島根県2007年
・『松浦武四郎全集』松浦武四郎伝刊行会1967年
・山本命『北海道名付け親松浦武四郎』(シリーズ十樂選よむゼミ14号)伊勢の國・松坂十樂2007年
・『松浦武四郎記念館図録』松浦武四郎記念館
・『吉田松陰全集』山口県教育会編纂大和書房
・『竹島関係文書集成』(国立公文書館内閣文庫所蔵「外交記録」)エムティ出版1996年

渡海制禁達書

図1竹島渡海禁制の達書元禄9年正月28日米子市立山陰歴史館
浜田市図(森須図)
図2渡海して逮捕された八右衛門が尋問中に書いた方角図
〔右図:朝鮮竹嶋渡航始末記島根県浜田市立図書館所蔵〕〔左図:右図を元に森須和男氏が作製した方角図『石見学ブックレット3八右衛門とその時代』浜田市教育委員会2002年〕


 


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