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1.論点整理
序章
島根県は竹島(韓国名・独島)の県編入百周年を機に、2005年3月に「竹島の日」条例を制定した。そこでうたわれた啓発事業の一環として、竹島の領有権問題の現状を把握する目的で、6月には「竹島問題研究会」を発足させた。県内外の研究者10人からなる研究会は現在、05年度末の中間報告、06年度末の最終報告を目指し、歴史、国際法の観点からの検証を重ねている。以下、昨年末の第5回会合までに整理した論点を記す。
周知の通り、今日の竹島問題は1952年1月18日、韓国政府がいわゆる「李承晩ライン」を設定したことから始まった。だが、日韓の国交正常化交渉の時期(52-65年)と重なったため、両国は「覚書」を通じて互いの主張を繰り返すにとどまった。その覚書による対話も、65年に同問題を「棚上げ」にし、「日韓基本条約」が締結されると、途絶えてしまった。
当時の日本政府の主張は、次のように要約できる。
- 1618年、幕府の許可を得た鳥取藩の米子の大谷、村川両家が漁労活動のため、鬱陵島に渡海した。同島のほか、当時、松島と呼ばれた現在の竹島も日本領と認識していた。
- 1905年の閣議決定を経て、竹島が島根県に編入された。それは「国際法」的にも、合法だった。
- 島根県に編入後、日本側は実効支配を行ってきた。
- 第2次世界大戦後の日本領土を規定した1952年のサンフランシスコ講和条約の発効により、竹島は日本領土として残った。
ところが、韓国政府の見解は違った。次のように主張した。
- 歴史的に、現在の独島は「于山島」と呼ばれ、15世紀に成立した「世宗実録地理志」や「東国輿地勝覧」などにも、「于山島」の記録がある。
- 安龍福が17世紀後半、日本に渡り、鬱陵島と于山島を朝鮮領と認めさせた事実が「粛宗実録」に記録されている。
- 1906年、島根県官吏が竹島と鬱陵島を視察した際、欝島郡守の沈興澤が「独島は欝陵島に属す」と報告している。
- 第2次世界大戦後、連合国最高司令官総司令部の指令で、独島は韓国領土とされた。
日韓両国は、そのような論拠に基づき、それぞれが「歴史的にも、国際法的にも、自国の領土」と強調した。だが、その後、日本側から新たな主張がされることはなかった。
竹島問題が再燃したのは、国連海洋法条約が発効した1994年。新たな「日韓漁業協定」を締結する必要に迫られたことによる。その際に問題となったのが、排他的経済水域の基点をどこに置くかだった。そこで、韓国は96年、竹島に接岸施設を建設し、実力支配をより確実にしようとした。
一方、日本政府は竹島問題が外交問題化することを避け、竹島問題を棚上げして、99年に新「日韓漁業協定」を締結した。
こうした経緯から、日本国内で竹島問題は徐々に風化する傾向に。その流れを食い止めようと、島根県が2005年春に制定したのが、竹島の日条例だった。
だが、これに対して、韓国側は反発し、強硬な姿勢を取った。盧武鉉大統領は、日本の歴史教科書と竹島をめぐる認識の誤りを正すためとし、直属の機関を発足させ、広報活動を活発にした。05年6月には、英文で「独島・6世紀以来、韓国の領土」を発表し、あらためて次の4点を主張している。
- 独島が韓国領土になるのは、512年。歴史的に、于山島、三峯島、可支島、石島と呼ばれてきた。
- 安龍福の活躍で、鬱陵島と独島は朝鮮領になった。
- 1900年の「勅令第41号」で、独島は欝島郡の所属になった。一方、日本も1877年の地籍編さんの際、太政官が竹島を日本領土から外した。
- 1946年の連合国最高司令官総司令部指令で、独島は朝鮮領となった。
しかし、これらの主張には、疑問点がある。竹島問題研究会が日韓両国政府の主張やこれまでの研究を半年間にわたって考察する中でも、「検討・検証の必要がある」と思える課題が、いくつか浮上した。
詳しくは、次ページ以降で記すが、例えば、韓国側は現在の竹島を于山島とし、歴史的に鬱陵島の属島だったとする根拠として、「東国文献備考」にある「輿地志によれば、鬱陵島と于山島は、于山国の地であり、于山島はいわゆる日本の松島(現在の竹島)だ」との記述を挙げる。
だが、東国文献備考の下地になった「彊界考」には、「輿地志によれば、于山島と鬱陵島は同じ島」と記されている。
こういった疑問点の多くは、かつての日韓両国政府の"論争"でも指摘されなかった。竹島問題研究会は引き続き、客観的な事実の究明に努め、そのよりどころにした史料・文献も併せ、論点を整理した結果、成果を明らかにしていきたい。
古代から近世へ
竹島(韓国名・独島)の領有権問題の来歴を振り返る時、どうしても避けて通れない1人の朝鮮人がいる。その名は、安龍福。韓国側では、日本側に鬱陵島と竹島を朝鮮領と認めさせた「英雄」。対する日本側では、後に領有権問題を複雑化させる一因となった「偽証」の多い人物との見方がある。相反する評価は、同島をめぐる両国の主張、見解の大きな隔たりと深くかかわる。
鬱陵島の帰属先が論争の発端
安龍福が歴史に登場するのは、江戸時代前半の1690年代。舞台は、竹島の西北約90キロにある鬱陵島で幕を開けた。同島はかつて于山国と称し、512年に新羅に帰属。高麗、朝鮮へと引き継がれたが、朝鮮半島を襲う倭寇の巣くつになるのを恐れた朝鮮王朝が1417年、入島・居住を全面禁止する「空島政策」を取った。
一方、日本では、鬱陵島を竹島と呼んだ。米子の商人・大谷甚吉が1600年代初め、鳥取藩に渡海を願い出て、江戸幕府が大谷家と同じく米子の村川家に限って許可。両家はアワビやワカメなどを採るため、年交代で同島に渡るようになった。大谷甚吉の位牌には「竹島渡海開基」とある。
一見、平穏だった同島に、異変が起こるのは1692年。鳥取藩士・岡島正義の「竹島考」や米子の大谷九右衛門の「竹嶋渡海由来記抜書控」によると、同年3月末、年番だった村川家の船が近付くと、多くのアワビが干され、漁具や漁船がなくなるなど、何者かが漁をしている痕跡があった。
そうこうするうち、朝鮮の漁民と遭遇。村川家の船頭は、同島は日本の領土であり、2度と渡らないよう、申し伝え、権益が荒らされた証拠として、朝鮮の漁民たちがつくった干しアワビや味噌麹などを持ち帰った。
そして、1年後の93年。安龍福との運命的な出会いが訪れる。大谷家の船頭たちが前年の村川家に続き、鬱陵島で漁をする朝鮮人を発見。その中にいたのが、安龍福と朴於屯という人物だった。強い警告を発したのに、再び朝鮮人と遭遇したことに強い危機感を持った大谷家の船頭は、2人を隠岐島経由で米子に連れ帰り、鳥取藩に訴えることにした。
鳥取藩から裁定を求められた江戸幕府は同藩に対し、2人に鬱陵島に渡らないよう厳命した上で、長崎への移送を指示。日本側の朝鮮外交の窓口だった対馬藩が2人を引き継ぎ、藩主・宗義倫の書簡で、同島への渡海禁止の周知、徹底を朝鮮王朝に強く求めた。同王朝も、2人を「罪人」として、厳しく罰する方針を示した。
しかし、朝鮮王朝と対馬藩は互いに、鬱陵島が自国領と譲らず、折衝は難航。朝鮮王朝内の政権交代で、当初は融和策だった対日外交の姿勢が強硬策に転じたことも、問題を複雑化させた。
対する対馬藩でも、藩主の義倫が病没する不測の事態が発生。朝鮮側が示した文献を基に、藩内に鬱陵島は朝鮮領とする声が台頭した。そこで、同藩は95年10月、新藩主の襲名と参勤交代を機に、幕府に鬱陵島は朝鮮領とし、交渉の打ち切りを打診。幕府は96年1月28日付で、鳥取藩に鬱陵島への渡海禁止令を発し、対馬藩に同方針の朝鮮王朝への伝達を命じた。
ただ、事態は収拾するどころか、思わぬ方向に展開し、混迷の度を深める。原因は96年5月、隠岐島に突如、再び姿を現した安龍福の言動だった。これにより、鬱陵島の帰属先をめぐる論争が、現在の竹島の領有権問題に飛び火する。
海士町の旧家・村上家で2005年春見つかった古文書によると、安龍福は鬱陵島と、当時松島と呼んだ現在の竹島を朝鮮領とし、鳥取藩に認めてもらうよう訴訟するのが再来日の狙いと説明。同藩に追放され、帰国後に取り調べを受けた安龍福は、粛宗実録によれば「松島は即ち于山島、此れ亦我が国の地」(松島は于山島で、朝鮮領だ)との訴えを、日本側も認めたと供述した。
矛盾、偽りはらむ証言
だが、証言は、矛盾や偽りをはらむ。まず、隠岐島へ来る前、鬱陵島で多くの日本人を見つけて「領土侵犯」としかったとするが、既に江戸幕府は同島への渡海を禁じており、遭遇は考えにくい。鳥取藩主と対面し、鬱陵島と現在の竹島は朝鮮領とした将軍家の書き付けを対馬藩主が奪ったとし、それを幕府に抗議すると言うと、同藩主の父親が来て中止を懇願したという話も疑わしい。
なぜなら、当時、鳥取藩主は参勤交代で、国元には不在。その後帰藩したが、幕府の「訴えは長崎で扱うこととし、長崎に送るか又は帰国させるよう」指示を受けており、鳥取藩主は接見しなかった。また、対馬藩主・宗義倫が2年前に病没したため、父親の宗義真は新藩主の後見人として、江戸に滞在し、その後国元の対馬に帰国しており、鳥取で安龍福と会いようがない。
1度目の来日の際も、安龍福は鬱陵島へ渡った目的を「官命でアワビを採りに来た」と言ったかと思えば、「アワビやワカメを採って稼ぐため」と発言。帰国後は「嵐に遭い、漂着した」と変えるなど、供述が二転三転している。
ところが、朝鮮では「粛宗実録」(1728年編さん)に収められた安龍福の証言が独り歩きし、空島政策を破った「罪人」が「英雄」として扱われるようになる。その大きな原因は、朝鮮で1770年に編さんされた「東国文献備考」の「輿地考」の解釈にある。
韓国側は、そこにある「輿地志に云う、鬱陵、于山、皆于山国の地。于山は則ち倭の所謂松島(現在の竹島)なり」との記述を盾に、より以前の15世紀の「世宗実録地理志」や「東国輿地勝覧」といった文献の中から、「于山島」の名称を探し出しては、現在の竹島と于山島が同じ島であるとし、自国領になった起源の古さと、その正当性を強調する。
その結果、最終的には、于山国が新羅に編入された512年から、現在の竹島は自国領だったと主張する。
首ひねる「于山島=竹島」説
確かに、東国文献備考の輿地考に引用され、安証言の約40年前の1656年にできた輿地志に「于山島が松島だ」と書いてあれば、韓国側の論は成り立つ。だが、輿地志は現存せず、確認できない。その上、東国文献備考自体、編集のずさんさが当時から指摘され、疑問点が多い安龍福の証言に基づく別の文献を参考にした形跡もある。
また、于山島の名が最初に登場する「太宗実録」(1431年編さん)には、1417年に同島に人が住んでいたとある。韓国側が現在の竹島と同じ島とする三峯島の傍らには、小島が存在し、そこにも1474年に2家族が住んでいたと。だが、今、竹島と呼ぶ島に人が住むのは難しく、于山島と同じ島か、疑問を抱かざるを得ない。
一方、日本側の主張、見解も究明が必要な課題を抱える。その1つが、鬱陵島と現在の竹島が鳥取藩に帰属した時期を問い合わせた江戸幕府に、両島が同藩に属さないとした1695年12月25日付の回答だ。現在の竹島が当時、同藩に属さないと考えられていたとしても、日本領との認識がなかったとは言えず、ましてや朝鮮領とする証明にはならないが、今後検証を深めたい。
近世から近代へ
1868年。明治政府の樹立で、日本は近代国家として歩み始める。そこで浮上したのが、主権の根幹をなす領土の画定。その必要に迫られた政府が取った政策の1つが、竹島(韓国名・独島)を日本領に編入した1905年1月28日の閣議決定であり、2月22日付の島根県告示第40号だ。
直接的なきっかけは、隠岐島在住の中井養三郎が04年9月29日、内務、外務、農商務省に求めた竹島の領土編入と貸し下げの願い出だった。中井は03年5月に、竹島でアシカ漁を開始。だが、間もなく過当競争による乱獲の弊害が出始めた上、領有権の不明確さによって、他国とのトラブルなど、不測の事態を招く恐れもあった。
願い出を受け、明治政府は、竹島を他国が占領したと認められる形跡がない点を確認。さらに、中井の漁業会社が同島に小屋を構えていることをもって、国際法上の占領の事実とした。この2つの点から国際法上の「先占」の法理により、領土編入に踏み切った。その後、島根県は県告示後の06年3月、松永武吉知事の命令で県調査団を竹島に派遣する。同行した奥原碧雲が記した「竹島及鬱陵島」所収の竹島渡航日誌によると、一行は精力的に視察、調査を行っている。
竹島の領有権確立までに曲折
ただ、1905年の竹島の領有権確立までには曲折があった。1870年に、朝鮮視察から帰国した外務省の佐田白茅は「竹島松島朝鮮附属ニ相成候始末」という表題の報告を行うが、竹島(現在の鬱陵島)はともかく、松島(現在の竹島)については明確な根拠がないとしている。
そして、地籍編さんのため、内務省から76年に竹島(現在の鬱陵島)に関する照会を受けた島根県は「山陰一帯ノ西部ニ貫付(所属)スベキ哉」と回答したものの、同省が最終的な判断を仰いだ太政官は、同島と外一島を「本邦関係無之」とし、日本領ではないとの認識を示した。外一島とは、現在の竹島とみられる。
島名も混乱した。例えば、鬱陵島について、一時、内務省は竹島、外務省は松島と別々の呼称を使用した。鬱陵島は江戸時代から竹島と呼ばれてきたが、長崎の出島のオランダ商館付きの医師として来日し、医学をはじめ、日本での洋学の発展に貢献したシーボルトが欧米に伝えた日本地図で、鬱陵島を松島と記したのが原因だった。
一連の騒動の背景の1つには、鎖国政策を敷き、約260年間続いた江戸幕府が倒れ、明治維新という激動を経たことによる外交の混乱があるとみられる。江戸時代に日朝外交を担った対馬藩が長崎県に編入。1690年代の鬱陵島をめぐる交渉の経緯や帰属先が、一時的に不明確になってしまった。
そういった事態を収拾するため、外務卿の寺島宗則が1880年に鬱陵島の現地調査を命じ、軍艦天城を派遣。調査の経緯を著した北澤正誠の「竹島考証」によると、明治政府に対して「松島は鬱陵島」と報告し、朝鮮領であることを確認した。
ここで問題となるのが、北澤が鬱陵島の(調査の基点とした場所から見て)北側にある小島を指し、鬱陵島とともに朝鮮領の「竹島」との結論を下した事実である。
だが、その島は現在の竹島とは異なる。なぜなら、現在の竹島は鬱陵島の東南にある。位置関係から見て、北澤の言う竹島は、鬱陵島から約2キロ離れた海上にある竹嶼(韓国名・竹島)と考えるのが妥当だ。
「石島」は「独島」か
これに対し、韓国側は明治政府の閣議決定や島根県告示が行われた5年前の1900年10月25日、大韓帝国政府が出した「勅令第41号」によって、日本より一足早く、現在の竹島の領有権を確立したと説く。勅令は、鬱陵島を欝島郡に昇格し、郡守の常駐を決めた上で、その行政区域を「欝陵島と竹島、石島」と定める内容だった。韓国側は、その石島こそ、今の独島だと主張する。「石」と「独」の発音が似ているとの理由だ。だが、かつて于山島と呼ばれた島が現在の竹島であるとともに、石島も、独島もまた、同じ島であると特定するには、さまざまな疑問を解消しなければならない。竹島問題研究会で、15世紀から20世紀初めの韓国の古地図約60点を分析したところ、17世紀までは、于山島を鬱陵島であるとしたり、現在の竹島の位置とは反対方向の鬱陵島西側の朝鮮半島との間に描いたケースが多数あった。
18世紀以降になると、于山島を鬱陵島の東側に置いてはいるが、同島のすぐ近くに描いている。その表現は、勅令第41号の発令と同時期に大韓帝国で刊行された「大韓輿地図」(1898年)や「大韓全図」(1899年)でも、変わらない。
さらに、「朝鮮現勢便覧(1935年版)」などでは、領土の東限は「慶尚北道鬱陵島竹島」とし、位置は「東経130度56分」とされた。それは、韓国が李承晩ラインを引く際、意見を求めた歴史学者・崔南善の著書「朝鮮常識問答」(1948年初版)でも、同様だ。
一方、現在、日本で竹島、韓国で独島と呼ぶ島は「東経131度52分」にあり、経度が大きく食い違う。ところが、同じ「朝鮮常識問答」でも、後年の版で示された領土の東限を見ると、経度は初版の際のままにもかかわらず、地名だけが「慶尚北道鬱陵島独島」と修正されている。
1882年に朝鮮の国王・高宗から、長らく「空島政策」を取った影で分からなくなった鬱陵島の実態調査を命じられた李奎遠の報告や地図でも、現在の竹島は出てこない。高宗が関心を寄せた松竹島と于山島について、李奎遠は鬱陵島近くの小島だと復命した。
また、現在の竹島は勅令第41号が出された1900年当時、日韓両国でリアンクール島やリャンコ島などと呼ばれており、石島、独島との呼称は使われていない。鬱陵島の郡への昇格を進言した禹用鼎も、同島を一周しただけで、現在の竹島には行っていないことが分かっている。
「于山島は竹嶼」が自然な見方
以上の点を総合すると、▼勅令第41号の石島▼大韓全図や大韓輿地図などに描かれた于山島、李奎遠の報告した于山島▼領土の東限とされた竹島はいずれも、北澤正誠が鬱陵島近くの小島と記した現在の竹嶼であると理解するのが、自然だ。韓国側の古地図の「海東地図」や「朝鮮輿誌」などで、鬱陵島の横に描かれた「所謂于山島」も、竹嶼を指す。
韓国側は、1905年の明治政府による竹島の領土編入は、10年の日韓併合に至る過程の中で行われたとし、「侵略の第一歩」とする。だが、その歴史認識の前提条件である勅令第41号の石島が、現在の竹島、独島であるとする説は立証されておらず、検証を要する。
近代から現代へ
「歴史的にも、国際法的にも、わが国の領土だ」。日韓両国は竹島(韓国名・独島)の領有権を訴える際、奇しくも同じ言葉で、自らの正当性を説く。その2つのポイントのうち、国際法の観点で重要な意味を持つのが、第2次世界大戦後の動きだ。
1945年9月2日。降伏文書への調印により、第2次世界大戦での日本の敗戦が決まった。占領統治国である米国は間もなく、「日本の主権は本州、北海道、九州、四国及び外辺諸小島に限る」との対日政策を発表。竹島は、日本により保持される「外辺諸小島」に含められるか定かでなかった。
さらに、46年1月29日付のSCAPIN(連合国最高司令官総司令部指令)第677号で、日本の行政権が及ぶ範囲から、鬱陵島や済州島とともに、竹島を除外。日本漁船の操業水域を指定した45年9月27日のいわゆる「マッカーサーライン」に続き、46年6月22日付のSCAPIN第1033号でも、竹島を線の外に置き、日本の船舶及び乗組員に対し、同島の12カイリ以内への接近を禁じた。
重要な意味持つ国際法の原則
しかし、領土の最終決定は、平和条約によるのが国際法の通則だ。
指令第677号では、45年7月26日のポツダム宣言で「われらの決定する諸小島に極限する」とされた日本の主権の及ぶ範囲について、同指令が連合国側の最終決定に関する政策と解釈してはならないと強調。指令第1033号でも、「日本国家の管轄権、国際境界線、または漁業権の最終決定に関する連合国側の政策の表明ではない」と断っていた。
では、鍵を握る平和条約で、竹島はどのように扱われたのだろうか。47年3月に作成された対日平和条約の草案は、日本の主権が及ぶ範囲として、本州、九州、四国、北海道の主要島のほか、隠岐や佐渡、対馬などの周辺諸島を含める一方、済州島、巨文島、鬱陵島、竹島は、日本の権利、権原を放棄すると規定。この考え方は49年11月の草案まで、変わらなかった。
草案段階で、朝鮮領から変更
事態が動いたのは、シーボルト駐日政治顧問代理の米国の国務省に対する「竹島の再考を勧告する。この島に対する日本の領土主張は古く、正当と思われる」との提言が発端だった。その結果、49年12月の草案では、日本が保持する領土に竹島を加え、放棄する朝鮮領土から同島を削除する修正が行われた。
同方針は、その後の米国、英国の協議でも踏襲され、51年6月14日付の改訂米英草案で、日本が放棄する領土は「済州島、巨文島、鬱陵島」に。この条文が最終的に「サンフランシスコ講和条約」第2条(a)項となり、9月8日に調印を終え、52年4月28日の発効を待つばかりとなった。
これに対し、48年8月15日に樹立された韓国政府は51年7月19日付で、改訂米英草案を修正し、竹島と波浪島を自国領土とするよう要求。だが、米国政府は「竹島は1905年ごろから島根県隠岐支庁の管轄下にあり、これまで朝鮮の領土として扱われたことはなく、領土主張がなされたとも思わない」として修正要求を拒否した。
対立をあおった李承晩ライン
ところが、韓国の李承晩大統領はサンフランシスコ講和条約の発効する約3カ月前の52年1月18日に突如、日本と朝鮮半島の間の公海上に海洋主権宣言による線引きをしたと、一方的に宣言した。いわゆる李承晩ラインだ。その後、線内に出漁した日本漁船の拿捕を指示した結果、日本の第1大邦丸が拿捕され、漁労長が射殺される痛ましい事件も起こった。
日本側は52年2月に始まった日韓国交正常化交渉の中でも再三、強く抗議したが、韓国側は聞き入れなかった。李承晩ラインは結局、日韓両国による基本条約と漁業協定の締結で消滅した65年6月22日まで継続。日韓漁業協議会によると、同ライン宣言前後から拿捕された漁船の数は328隻、抑留された船員が3929人、死傷者が44人に達し、損害額は当時の金額で90億円を超えた。
その間、韓国は竹島についても、武力占拠に踏み切るなど、実力支配を着々と強化した。国連の主要機関の一つで、国家間の紛争を法的に解決するために設置された国際司法裁判所(本部、オランダ・ハーグ)への提訴によって、領有権問題の解決を目指すという日本側の提案も、韓国側は拒否し、不法占拠を続けたまま、現在に至っている。
これら一連の行為だけでなく、韓国側の主張もまた、国際法に照らし合わすと、説得力を欠いていると言わざるを得ない。例えば、サンフランシスコ講和条約の第2条(a)項で、竹島が日本の放棄する領土に含まれなかった点の解釈を考察してみたい。
「米国は独島(日本名・竹島)を小岩礁と解釈し、条約に特記する必要性がないと判断しただけで、日本領土と認めたわけではない」という韓国側の指摘は、同条約の草案段階で米国に対し、竹島を韓国領とするよう働き掛けたことと矛盾している。
また、韓国側は「1914年の第1次世界大戦の開始以降、日本が奪取し、または占領した太平洋におけるすべての島を日本からはく奪する」「日本は、暴力及び強欲により略取したすべての地域から駆逐される」とした、連合国による43年のカイロ宣言を盾に、竹島は日本領土ではないとする。
だが、竹島は決して日本が他国から奪取した地域ではない。また先に述べたように、領土の最終決定は平和条約によるのが国際法の通則。日本の行政管轄権から竹島を除外したSCAPIN第677号も、サンフランシスコ講和条約の発効により失効した。同条約により日本領土の範囲が確定し、従来どおり竹島が日本領土であることも最終的に確定したのである。
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