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昔の竹島と日本の関わり

竹島関連年表

(1)江戸時代

 1617年、鬱陵島に漂着した米子の商人・大谷甚吉(おおやじんきち)は、この島の資源に注目し、知人の村川市兵衛とともに江戸幕府に渡海を願い出ました。大谷、村川両家は、幕府から許可を得て、70年あまりの間鬱陵島へ渡り、アワビ漁、アシカ猟などを行いました。

 この間に幕府の許可を得て、竹島での漁猟(ぎょりょう)も始めました。

 このころ朝鮮王朝は自国民を鬱陵島への渡航を禁じる「空島(くうとう)政策」をとっていました。

 

<年表>
できごと

1603年

徳川家康が江戸幕府を開く。

1617年

大谷甚吉が嵐にあい、鬱陵島に漂着

1618年※

 

※1625年との説もあります

鳥取藩伯耆国米子の町人大谷甚吉、村川市兵衛は、幕府から鬱陵島への渡海免許を受けました。

これ以降、両家は交替で毎年1回鬱陵島に渡海し、アワビの採取、アシカの捕獲、樹木の伐採等に従事しました。

1661年

幕府の許可を受けて大谷・村川両家が現在の竹島でも漁猟を始めました。

1693年

『元禄(げんろく)竹島一件』が起きる。

(できごとの概要)

 大谷家の船頭たちは、朝鮮国の渡航禁止の決まりを破って鬱陵島に漁に来ていた朝鮮人のうち、安龍福(アン・ヨンボク)と朴於屯(パク・オドゥン)の2名を鳥取に連れ帰りました。

 鳥取藩からこのことを知らされた幕府は、対馬藩を通じて2名を朝鮮国に帰すとともに、鬱陵島の領有に関して対馬藩に朝鮮国と交渉させました。

 しかし、鬱陵島の帰属をめぐって意見が対立し、交渉は決裂しました。

1696年

(1月)

朝鮮国との鬱陵島の領有に関する交渉がまとまらなかったので、幕府は朝鮮との友好関係を尊重して、日本人の鬱陵島への渡海を禁止することを決定しました。

その一方で、竹島への渡海は禁止されませんでした。

(5月)

安龍福が再び鳥取藩に現れましたが追放されました。

1833年

『天保(てんぽう)竹島一件』が起きる。

(できごとの概要)

 蝦夷地(えぞち)や北陸に物資を運ぶ仕事をしていた浜田藩の八右衛門(はちえもん)は、鬱陵島の豊かな自然のことを知ると、苦しくなっていた藩の財政を救うため、1833(天保4)年、鬱陵島から木材などを持ち帰りました。

 しかし、そのことが幕府に知られ、死罪となりました。

 八右衛門の企(くわだ)てに対して、浜田藩の江戸屋敷は「鬱陵島は日の出の地(日本)とは定めがたいからいけない」としつつ、「竹島に渡海することにしてはどうか」と示唆(しさ)しました。八右衛門の裁判記録にも「竹島に渡海の名目(めいもく)で鬱陵島に渡り」とあります。

 「鎖国政策(さこくせいさく)」のもとで日本から国外への渡海ができなかった江戸時代、鬱陵島が日本の地であるかどうかはっきりしないことから渡海不可とされたのに対して、竹島への渡海なら許されると考えたということは、竹島を日本領と認識していたことを示しています。

 

(2)明治時代

 1900年代になると、竹島におけるアシカ猟が本格的になりました。

 アシカの絶滅を心配した隠岐の中井養三郎(なかいようざぶろう)は1904(明治37)年9月、政府に竹島の島根県への編入と貸し下げを願い出ました。

 明治政府は竹島がこれまで他の国の領土になっていないこと、日本人だけが主体的に漁猟を行っていたことを確認し、竹島の領土編入を決定しました。

 政府の決定を受け、島根県は1905(明治38)年2月22日、竹島の島根県への編入を告示しました。

 以後、竹島におけるアシカ猟は島根県による許可制になりました。

 このことは日本が竹島を自国の領土として実効支配していたことを示しています。

竹島でのアシカ猟の様子の画像

竹島でのアシカ猟の様子(1934 ( 昭和9 ) 年)

 

<年表>
できごと

1903年

隠岐の中井養三郎が現在の竹島周辺でアシカ猟を始める。

 

1904年

中井養三郎がリャンコ島(現在の竹島)の領土編入と貸し下げを政府に願い出る。

 

1905年

(1月28日)

閣議(かくぎ:内閣の会議)で「竹島」と命名、島根県隠岐島司(おきとうし)の所管(しょかん)と決定

島根県告示第40号

島根県告示第40号の画像

(2月22日)

島根県知事が「竹島」の名称と所管を告示(こくじ)

1910年

韓国併合(へいごう)

 

1945年

第2次世界大戦終結

 

 

 

 


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