今は昔、大宅壮一ありけり
昔、昭和30年代、テレビがスタートした時、当時著名な評論家であった大宅壮一が、テレビ出現による世相を鋭く指摘した。その後50年を経た今日の社会を予言したともいえる。
昭和30年代を「昔」と表現することに感慨深いものがあるし、また、大宅壮一といっても、既に若い世代には通じない時代となった。
「予言」の中身を私も明確に把握していないが、「テレビという映像マスメディアの出現が、活字という思考を伴って情報を得る媒体とは異なり、報道される中身を無批判的に受け入れてしまうことに対する危惧、大衆娯楽の質の低さに対する嫌悪」であったように思う。
堅い言い方をすればポピュリズム(衆愚政治)への懸念、思考停止への警鐘といえよう。
それでは、現実はどうか?
街頭インタビューではマイクを向けられた誰もが理路整然と、政治、経済、文化、国際問題に至るまで簡潔に述べてみせる。「一億総評論家」の観がある。そこではテレビのコメンテーターが報道されている指導者などよりも上位に立って、したり顔に語る報道番組と同じ立ち位置で語ってみせる。
民主主義の成熟と観る見方もあろう。それは国民的教養の高さが、テレビにより達成されたという認識にも通じよう。
しかし、果たしてそんなふうに積極的な評価ばかりでいいのかというのが、識者の意見(その中にはテレビメディアに身を置く人も含まれる)であり、私もまた同感である。
街頭インタビューでの発言の多くは、これでもかと繰り返し流される報道番組のコメンテーターの発言による「洗脳」の結果ともいえるからである。そしてそれこそがポピュリズムの典型例であり、繰り返しによる洗脳こそが、ヒトラーが政治を奪取するに至った政治の常道である。勿論今のマスコミはヒトラーのような強力な個性を持ったカリスマの出現を助長している訳ではない。むしろ、すべての指導者の身辺問題を洗いざらい暴露し、ヒーローにはつきものの少しばかりの神秘性までも剥ぎとってしまう。そして新たな指導者もまた2〜3日の祝儀相場に次いで同じ運命を辿る。その繰り返し・・・。
こうした社会こそが、品性に乏しい社会というもので、人々も今少し、気忙しさを置き、じっくり考える思考型をとりもどすべきと思う。そして、そのためにはやはり、書物である。
今一つの娯楽の質の低さについてはいうまでもない。地上デジタルが2年後になったので我が家も先日対応型に買い換えた。少しは良質な番組が映るかと思ったが、何のことはない。放映される中身に変わりはない。(ジョークのつもりです)
発達過程にある子どもの脳への悪影響も大きく懸念される状況にあっては、せめて番組を選択する賢さを教えてやらねばなりますまい。
我が家の敬愛する偉大なるコメンテーターの印象深い表現があります。
「あんまり調子に乗うと、えんまに罰が当たあけん!」(妻の言葉より)
平成21年3月島根県公立小中学校事務職員研究会広報「爽」寄稿
お問い合わせ先
島根県教育委員会
〒690-8502 島根県松江市殿町1番地(県庁分庁舎) 島根県教育庁総務課 TEL 0852-22-5403 FAX 0852-22-5400 kyousou@pref.shimane.lg.jp