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実事求是〜日韓のトゲ、竹島問題を考える〜

第36回

尖閣諸島問題と日本の対応

 

 2010年9月7日、尖閣諸島沖で起こった中国漁船による衝突事件は、中国の伝統的な覇権主義を復活させてしまったようである。中国では新たに王朝が成立し、国力が増強すると近隣諸国に武力侵攻しては服属させ、周辺諸国との間に冊封体制を確立するという歴史を繰り返してきた。現在、急激に国力を増した中国は、それに類した動きを見せており、それは第二次世界大戦直後にも繰り返されたものでもあった。

 第二次世界大戦が終結し、1949年に中華人民共和国が建国すると同時に、中国共産党は東トルキスタン(現在の新疆ウイグル自治区はその一部)を攻め、チベットを制圧した。そして今、中国は尖閣諸島や南沙諸島の領有を主張し、韓国との間では韓国側の排他的経済水域内にある離於島(海面下4,6mの暗礁・中国名、蘇岩礁)を巡って、鍔迫り合いを続けているからだ。

 だがここで確認しておかねばならないことがある。南沙諸島は1938年に日本が領有を宣言して新南群島と命名し、敗戦まで台湾の高雄市の一部であった事実。尖閣諸島は1895年1月14日、閣議決定によって日本領に編入され、以来、日本が実効支配を続けている、という事実である。

 その尖閣諸島に対し、中国や台湾が関心を示すことになるのは1971年6月、沖縄返還協定が日米両国政府の間で結ばれ、その沖縄諸島の中に尖閣諸島が含まれていたからである。台湾政府は同月、外交部声明を通じて「該列嶼は、台湾省に附属して中華民国領土の一部」とすると、中国政府も同年12月、尖閣諸島は「台湾の附属島嶼である。これらの島嶼は台湾と同様に、昔から中国の不可分の領土の一部である。日米両国政府が沖縄返還協定の中で、我が国の釣魚島などの島嶼を返還区域に組み入れることは不法」であるとし、「中国人民は、必ず釣魚島など台湾に付属する島嶼をも回復する」とする声明を発表した。

 今日、中国政府が沖縄諸島を第一列島線とし、台湾や尖閣諸島を「核心的利益」と捉えているのは、1971年12月31日の外交部声明が今も生きているからである。中国側にとって、尖閣諸島の奪還は究極の目的なのである。

その外交懸案は、一昨年の中国漁船の衝突事件を機に、一挙に前進した感がある。この時、日本としては中国の伝統的な外交姿勢を見極め、戦略的な対応をとる必要がある。

 そこで本稿では、尖閣諸島が「中華民国領土の一部」、「昔から中国の不可分の領土の一部」であったのかどうか、中国側の文献を通じ、歴史的側面から検証するものである。そしてその必要性は、眼前に迫っている。

 

1、中国側の歴史認識とその来源

 

 現に1月31日、日本政府が尖閣諸島を含め日本の排他的経済水域内の39の無人島に命名すると、中国国家海洋局は3月3日、尖閣諸島の岩礁を含め71の島嶼に名称を付け公表するなど報復的姿勢を示している。それも藤村官房長官が無人島の命名を公表した翌日、1月17日付の中国共産党の機関紙「人民日報」が、尖閣諸島をチベットや台湾と同じく、中国が安全保障上、譲ることのできない国家利益としての「核心的利益」とし、「古来中国の固有の領土である」とした歴史認識を示したことは注目に値する。これは尖閣諸島の日本領編入以前、尖閣諸島は中国領であったとする論理で、竹島問題で、韓国側が日本は日露戦争の最中、竹島を侵奪したとする論理と同じだからである。

 さらに3月15日、那覇検察審査会の決定により、漁船衝突事件の中国人船長が強制起訴されると、中国外交部の劉為民報道官は「尖閣諸島及びその附属の島嶼は古来中国の固有の領土である」。「日本には同海域でいかなる公務を行なう権利はなく、日本側が中国国民に対して採用するいかなる司法手続きも違法であり、無効である」と主張。その翌日には、国家海洋局所属の海洋調査船二隻が尖閣諸島付近の日本の領海内に侵入した。その海洋調査船は、日本の海上保安庁の巡視船の問いかけに対し、「この海域で巡航任務を行なっている。釣魚島を含むその他の島は中国の領土である」と答えている。この時も、「古来中国の固有の領土」という歴史認識が、行動原理の根底にあった。

 ではこれほどまでに中国側を強気にさせる歴史認識は、どこに由来しているのだろうか。その論拠となっているのが、井上清氏が1972年に刊行した『尖閣列島-釣魚諸島の史的解明-』である。井上氏はその序文で、「尖閣列島は、日清戦争で日本が中国から奪ったものではないか。そうだとすれば、それは、第二次大戦で、日本が中国を含む連合国の対日にポツダム宣言を無条件に受諾して降服した瞬間から、同宣言の領土条項に基づいて、自動的に中国に返還されていなければならない。それをいままた日本領にしようというのは、それこそ日本帝国主義の再起そのものではないか」と述べている。

 これは1971年12月の中国外交部の声明とも共通した認識で、中国側では最大限、井上清氏の著書を利用しているのである。現に尖閣諸島で衝突事件が起こると、中国外交部の姜瑜報道官は9月15日、井上清氏の著書を根拠に、「尖閣諸島は中国領」と強調した。井上清氏が『尖閣列島-釣魚諸島の史的解明-』を執筆した動機は、次の二点の実証にあったからである。


(1)釣魚諸島はもともと無主地でなく、明代から中国領であった。

(2)(日本の尖閣諸島)領有が日清戦争の勝利に乗じた略奪である。


 これに類した見解は台湾や中国にもあったが、日本人学者の研究ということで、早くから中国語に翻訳され、中国側では珍重されている。では尖閣諸島を中国領とした井上清氏の見解には、歴史的根拠があったのであろうか。尖閣諸島を巡って緊迫した状況が続く中、中国側の歴史認識を検証してみることにした。

 

2、中国側の主張の問題点

 

 中国側が、尖閣諸島を中国領とする根拠は、琉球国(現在の沖縄県)に冊封使が派遣された明代と清代に、尖閣諸島を航路の指標としていた事実にある。それも明代から中国領であったとする論拠は、航海案内書である『順風相送』(1403年)に、尖閣諸島の一つである釣魚嶼の名が見えるからである。

そこで中国側は、尖閣諸島が歴史的に中国領であったことを主張するため、明代以来、琉球国に派遣された冊封使達の記録を証拠としてきた。尖閣諸島(釣魚嶼・釣魚台)の名は陳侃『使琉球録』(1534年)、郭汝霖『重編使琉球録』(1562年)、汪楫『使琉球雑録』(1683年)、徐葆光『中山伝信録』(1719年)、周煌『琉球国志略』(1756年)、李鼎元『使琉球録』(1800年)、齋鯤『続琉球国志略』(1808年)等に登場し、徐葆光の『中山伝信録』と周煌の『琉球国志略』には、釣魚嶼、黄尾嶼、赤尾嶼が描かれた「針路図」が付されているからである。

 さらに陳侃の『使琉球録』では、久米島(沖縄県久米島町)を「すなわち琉球に属するものなり」とし、汪楫の『使琉球雑録』では久米島と赤尾嶼の間を「中外の界なり」としている。そのため井上清氏や中国側は、それを根拠に、尖閣諸島を中国領と断じたのである。そこに2005年秋、中国の古本市で『浮生六記』の逸文とされる「海国記」が発見され、その中に「十三日辰刻、釣魚台を見る」との記述があることから、中国側ではこれを尖閣諸島が中国領であった鉄証(確固たる証拠)とした。中国側の解釈では、「海国記」は『浮生六記』の主人公が1808年、冊封使の齋鯤に同伴して、琉球に渡った記述と見ているからである。

 だが「海国記」の記述を根拠に、尖閣諸島を中国領とする主張は成立しないのである。冊封使の齋鯤は嘉慶十三年(1808年)閏5月上旬、福州を出帆すると五虎門、●(奚に隹:以下●は同じ字)籠山、釣魚台、赤尾嶼、黒溝洋、姑米山、馬歯山を経て閏5月17日の夜、那覇港に入港している。その齋鯤の文集である『東瀛百詠』の「航海八咏」では、太平港から琉球国の那覇港に入港するまでが詠まれ、台湾付近では「●籠山(山、台湾府の後に在り)」と題する五言律詩を残している。齋鯤はその中で、台湾府の●籠山を「猶是中華界」(猶これ中華の界のごとし)とし、台湾府の●籠山を清朝の疆界としていたのである。

 さらに船が琉球国に近づくと、齋鯤は「姑米山」(久米島)を詠み、その表題の分註では「此山入琉球界」(この山、琉球の界に入る)としている。これは台湾府の●籠山を清朝の領界とした齋鯤が、姑米山(久米島)を琉球の国境と見ていたということで、●籠山と姑米山の間にある釣魚台と赤尾嶼は、必然的に清朝にも琉球国にも属さない無主の地であった、ということになるのである。

それに齋鯤が●籠山を「中華の界のごとし」とするのは、「航海八咏」に続く「渡海吟用西■(つちへんに庸:以下■は同じ字)題乗風破浪圖韻」(渡海、西■の乗風破浪圖に題するの韻を用いて吟ず)でも同様で、「●籠山、中華の界」と記している。齋鯤は、●籠山を清朝の疆界とし、久米島を琉球の疆界と認識していたのである。「海国記」に「十三日辰刻、釣魚台を見る」とした記述があるからといって、それを尖閣諸島が中国領であったとする鉄証にはならないのである。

 

3、台湾府の北限は●籠山

 

 では齋鯤はなぜ、台湾府の●籠山を「中華の界」としたのであろうか。それは『東瀛百詠』の「●籠山」に、「山は台湾府の後に在り」と注記がなされているように、当時、台湾には台湾府が設置され、その「●籠山」が北限とされていたからである。清朝が台湾に台湾府を置くのは康煕二十三年(1684年)。その際、台湾府の疆界は「●籠山」に置かれていた。これを康煕年間に刊行された蒋毓英の『台湾府志』で見ると、「北至●籠城二千三百一十五里」(北、●籠城に至る二千三百一十五里)とされ、康煕三十五年(1696年)刊の『重修台湾府志』【図1】(高拱乾等撰)では、「北至●籠山二千三百一十五里、為界」(北、●籠山に至ること二千三百一十五里、界と為す)として、台湾府の疆界が明記されている。現在の基隆市付近にある「●籠城」と「●籠山」が、清朝台湾府の北限だったのである。齋鯤が『東瀛百詠』の中で、●籠山を「猶これ中華の界のごとし」とし、「●籠山、中華の界」とした根拠はここにある。

 したがって明代の『順風相送』の中に釣魚嶼の名があり、冊封使の記録に釣魚台の名が登場するからといって、尖閣諸島が中国領であった証拠にはならないのである。なぜなら台湾が中国領に編入されるのは、清朝になってのことだからで、事実、明代(1461年)に編纂された官撰地誌の『大明一統志』(「外夷」)では、福建省と台湾の中間に介在する澎湖島も琉球国に属している。明代、台湾はその属領ではなかったのである。

その事実は、清代に編纂された『大清一統志』でも、確認ができる。『大清一統志』では、台湾を「古より荒服の地、中国に通ぜずして東蕃という。明の天啓の初、日本国の人ここに屯聚し、鄭芝龍これに附す。その後、紅毛荷蘭夷の拠る所となる」としているからで、乾隆版の『大清一統志』では、わざわざ台湾を「日本に属す」と明記している。

 その台湾が清朝に編入されるのは、康煕二十三年(1684年)。その台湾に設置された台湾府は、「●籠山」を管轄区域の北限とした。そのため冊封使として琉球国に渡った齋鯤は、台湾を過ぎる際、●籠山を「猶これ中華の界のごとし」とし、「●籠山、中華の界」としたのである。

 事実、その台湾府の疆域は『台湾府志』所収の「台湾府総図」に描かれ、清朝はそれを基に、官撰の『欽定古今図書集成』(1728年刊)を編纂するのである。だがその『欽定古今図書集成』に収載された「台湾府疆域図」【図2】に、尖閣諸島は描かれていない。描かれているのは、台湾府の北限とされた●籠山までである。嘉慶十三年(1808年)、齋鯤が冊封使として琉球国に渡る以前から、●籠山は台湾府の北限とされていたからである。それが乾隆九年(1744年)に刊行された『大清一統志』【図3】では、台湾府の北限は●籠城となっている。だがその『大清一統志』の「台湾府図」にも、尖閣諸島は描かれていない。これは『海国聞見録』(1793年序)でも同様で、尖閣諸島は、台湾の一部ではなかったのである。

 これらは1895年、日本政府が尖閣諸島を日本領として編入した際、尖閣諸島が無主の地であったことの証左となる。この●籠山および●籠城を台湾の北限とする地理的認識は、中華民国時代に編纂された『皇朝続文献通考』(1912年)や『清史稿』(民国16年・1927年)でも『大清一統志』を踏襲する形で継承され、清朝を経て中華民国となっても、尖閣諸島は台湾の一部になることはなかったのである。

 中国側では、井上清氏の『尖閣列島‐釣魚諸島の史的究明』に根拠に、尖閣諸島を中国領とし、日清戦争に乗じて日本が奪ったものとするが、井上氏の史料操作は杜撰だったのである。井上清氏の著書は、尖閣諸島を中国領とする論拠にはならないのである。

 この井上清氏の研究に対し、早くから論駁していたのが、当時、国士舘大学の助教授であった奥原敏雄氏である。国際法学者の奥原敏雄氏は、その専門の国際法のみでなく、歴史分野でも『台湾府志』と『基隆市志』を根拠に、尖閣諸島が台湾の一部でなかった事実を明らかにしていた。だがその奥原敏雄氏以後、歴史研究に進展はなかった。そのため国際法に依拠して、尖閣諸島を日本領とする日本側と、明代から中国領であったとする歴史認識を根拠とする中国側とでは争点がかみ合わず、井上清氏の著書を金科玉条とする中国の主張を覆すことができなかったのである。

 だが中国側の文献を丹念に読めば、井上清氏の研究は独断であった。それは齋鯤の『東瀛百詠』で、「●籠山、中華の界」として台湾を国境とし、姑米山(久米島)を琉球の国境としているように、日本が編入する以前の尖閣諸島は、無主の地だったからである。中国側には、尖閣諸島の領有権を主張することのできる歴史的権原がないのである。

 したがって中国側が尖閣諸島を「核心的利益」とし、明代から中国の領土であったとする時は、帝国主義的発想による領土的野心に根差した時なのである。これは竹島を不法占拠する韓国側が、逆に日本が竹島を侵奪したとする発想とも近いものがある。

 その点で、中国漁船の衝突事件直後、香港の『亜洲週刊』(9月26日号)が、韓国が侵奪した竹島の例に習い、尖閣諸島を占拠すべきとした事実は検討に値する。日本の領土問題を、自らの領土問題に利用する発想は、関東学院大学の殷燕軍教授が、2010年12月14日付の『青年参考』(電子版)で「中ロは領土問題で協力し、日本に強い圧力を加えるべきだ」と主張し、中国海洋発展研究センターの郁志栄氏が2012年2月21日付の多維綱で、「必要であれば韓国、ロシアなど、日本との領土問題を持つ国と共同で臨むべきだ」とした中にも見られるからだ。

 この状況下で、ロシアのプーチン大統領は北方領土問題の解決を口にした。それは尖閣諸島問題や竹島問題で、日本は身動きが取れないと読んだからである。だがこれこそ千載一遇の好機である。領土問題は、奪った国が動かない限り解決は難しいが、その当事者が自ら動き始めたからだ。私が巻頭で、日本としては中国の伝統的な外交姿勢を見極め、「戦略的な対応」をとる必要があるとしたのは、今が領土問題解決の時だからで、これは竹島問題についても言えることである。

台湾府総図

【図1】『重修台湾府志』(「台湾府総図」)

『古今図書集成』所収「台湾府彊域図」

【図2】『古今図書集成』所収「台湾府彊域図」

 

石印本『大清一統志』所収「台湾府図」

【図3】石印本『大清一統志』所収「台湾府図」

(下條正男)


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