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実事求是〜日韓のトゲ、竹島問題を考える〜

第34回

事実無根。韓国の「独島の日」について

 

 韓国では10月25日を「独島の日」としている。これは大韓帝国政府が1900年10月25日、欝陵島を欝島郡に昇格させた『勅令第41号』を根拠とするからである。勅令の第二條には、欝島郡の管轄区域が「欝陵全島と竹島、石島」と定められていることから、韓国側ではその石島を独島とし、10月25日を独島が韓国領となった「独島の日」としたのである。それも「独島の日」は、竹島の島根県編入百周年を記念し、島根県議会が「竹島の日」条例を制定したことに対する対抗措置で、島根県と姉妹提携をしていた慶尚北道では、10月を「独島の月」と定めている。

 だが『勅令第41号』の石島を独島とする「独島の日」や「独島の月」に、歴史的根拠はない。当時、日本では竹島をリャンコ島と称したが、韓国側がリャンコ島を独島とするのは、日本人に雇われた欝陵島民がリャンコ島で海驢猟を始める1904年以後だからである。その独島の島名が、4年前に成立した『勅令第41号』の石島の島名に影響を与えたとする韓国側の主張は、荒唐無稽である。

 そこで韓国側は、欝陵島民は全羅道の漁民出身者が多いので、当然、近くのリャンコ島にも渡り、漁撈活動をしたというのである。それも全羅道の発音では、石(トル)と独(トク)が近いことから、全羅道方言の影響で石島が独島になった、と主張するのである。

 だがこの全羅道出身の漁民が独島近海に出漁し、全羅道方言から石島が独島になったとする‘音位転換論,は、奇弁である。それは1900年当時、欝陵島の産業は農業を主としていたからである。欝陵島が郡に昇格する四ヵ月程前、現地に派遣された視察官の禹用鼎は、欝陵島の「男女共に千七百余口、火田を起墾して七千七百余斗落と為す」とし、その産物を「大・小麦、黄豆、甘藷」と伝えているからだ(注1)

 一方、『韓国水産誌』(1910年刊)によると、欝陵島に本格的な漁業が起こるのは、明治36年(1903年)、近海でイカの好漁場が発見され、明治38年(1905年)に「日本居住者に見習い」、欝陵島の「中等以下の農民は、悉く烏賊漁を営むに至」ってからである。『勅令第41号』が公布された1900年当時、農業に従事していた欝陵島の島民は、竹島に渡って漁撈活動をすることはなかったのである。

 韓国側ではこの歴史の事実を無視し、欝島郡の管轄区域にある石島の石をトルと読み、それは独島(トクト)に違いない、としたのである。だが『韓国水産誌』では、欝陵島の部落である石門洞と亭石浦をそれぞれ「ソクムンドン」、「チョンソクポ」とハングルで表記している。欝陵島には全羅道出身者が多く、石は全羅道の方言でトルと固有語(訓読)で読まれたとするが、部落名の石は漢字語(音読)のソクが使われていた。これは欝島郡の管轄区域である「欝陵全島と竹島、石島」も例外ではなく、欝陵全島は「ウルルンチョンド」、竹島は「チクト」といずれも音読である。

 それを石島に限って「トルソム」と固有語(訓読)で読み、「トルト」(トル(訓)+ト(音))と、韓国語でも稀な「湯桶読み」で読ませるとすれば、それは詭弁である。欝陵島の部落名では石を「ソク」と音読したように、石島は「ソクト」と音読すべきである。それは独島(トクト)も音読だからである。「勅令第41号」の石島だけを例外的に固有語(トル)で読ませ、欝陵島から90キロ近くも離れた独島とするのは牽強付会。僻説である。

 韓国では『勅令第41号』にある石島を独島とし、それを「独島の日」の根拠とするが、文献や史料によって実証されたものではない。欝陵島には全羅道出身者が多く、石の全羅道方言が独島の発音に近いといった、奇想天外なものばかりである。このように韓国側の解釈が恣意的なのは、『勅令第41号』では、石島の位置が緯度や経度で表示されていないからである。そこで『勅令第41号』を金科玉条とする韓国側は、第二條の石島を独島にしようと、あれこれ理屈を考えたのであろう。

 だが欝島郡の管轄区域が「欝陵全島と竹島、石島」とされたのには、根拠がある。1900年10月24日、『勅令第41号』の「勅令案」を議政府会議に提出した内部大臣李乾夏の請議書には、欝島郡の疆域が明記されているからである。その10月22日付の『欝陵島を欝島と改称し島監を郡守に改正することに関する請議書』では、欝島郡の範囲が「該島地方は縦八十里で、横五十里」と記されている。それも内部大臣李乾夏の請議書は、「本部視察官禹用鼎と東莱税務司の視察録」が参考にされていた。『勅令第41号』の第二條で、「欝陵全島と竹島、石島」と定められた管轄区域には、明確な基準があったのである。

 その『勅令第41号』(第二條)の根拠となった「視察官禹用鼎と東莱税務司の視察録」は、内部大臣李乾夏が視察官の禹用鼎を欝陵島に派遣し、現地で審問させた報告書である。視察官禹用鼎の『欝島記』によると、当時、欝陵島では日本の木材伐採業者と島監の間で樹木乱伐を巡る確執があった。そこで1900年6月1日から5日間、日韓合同の審問が行なわれた。内部大臣李乾夏はその視察録を参考に、「挽近、外国人が往来交易し、交際上」必要との見地から、欝陵島を郡に昇格させる「勅令案」を議政府会議に提出したのである。

 その請議書の中で、内部大臣李乾夏が縦八十里(約32km)、横五十里(約20km)としたのは、欝島郡となる欝陵島の疆域である。それも「縦八十里、横五十里」の表記は、1711年に捜討使朴錫昌が作図した『欝陵島図形』と同じで、欝陵島一島(注2)を指している。この事実は、『欝陵島図形』に描かれていない竹島(独島)は、欝島郡の疆域外にあったということなのである。現に独島(竹島)は、欝陵島の東南約90kmに位置し、当時の大韓帝国の表記に従えば、欝陵島からは二百二十五里も離れているからである。

 それに禹用鼎の欝陵島視察は欝陵島を一周しただけに止まり、竹島(独島)には渡っていなかった。禹用鼎の『欝島記』によると、「輪船、多日留泊すべからず、石炭また乏しきを告ぐ」状態で、燃料に余裕がなかったからである。独島にも渡らず、その存在にすら言及していない島嶼を、欝島郡の管轄区域に含めることはない。

 それは視察官禹用鼎の欝陵島派遣の目的が樹木乱伐の審問にあり、管轄区域の画定ではなかったからである。従って欝陵島に対する禹用鼎の知識は、現地で得た情報が基になっていた。『欝島記』(「後録」)で、欝陵島を「長さ七十里と為すべく、広さ四十里と為すべし。周廻、概ね一百四五十里を下らず。またこれ、居民の称する所」とするように、現地の居民から得た知識であった。内部大臣李乾夏はその禹用鼎の報告を受け、欝島郡の管轄区域を定めたのである。その中で、禹用鼎が欝陵島の周廻を「概ね一百四五十里を下らず」(56km〜60km)としたのは、1882年、欝陵島検察使の李奎遠が復命した欝陵島の疆域と重複する。その李奎遠が復命した「周廻一百四五十里」の中には、竹島(独島)は含まれていなかった。独島は、大韓帝国の領土外にあったからである。

 それは視察官禹用鼎が欝陵島に派遣される前年、大韓帝国では玄采訳輯の『大韓地誌』(1899年刊)が刊行され、大韓帝国の疆域は「東経一二四度三十分に起り一三〇度三十五分に至る」とされているからだ。「東経一三一度五十五分」(注3)に位置する竹島(独島)は、当然、大韓帝国の版図外にあったのである。

 では『勅令第41号』に記された竹島と石島は、欝陵島のどの島嶼を指しているのであろうか。これを欝陵島開拓の契機となった検察使李奎遠の『欝陵島外図』(図1)で確認すると、そこには欝陵島の東側に、竹島と島項の二島が描かれている。

実事求是34-1

(図1)李奎遠『欝陵島外図』

 その内、竹島は『勅令第41号』で「区域は欝陵全島と竹島、石島を管轄する事」とされた竹島である。この竹島は欝陵島の東約2キロに位置し、1711年、捜討使の朴錫昌が描かせた『欝陵島図形』(図2)では「所謂于山島」と付記された竹嶼である。「所謂于山島」とされた竹嶼は、その後、朝鮮では于山島となり、1881年、北澤正誠が『竹島考証』で竹嶼を「竹島」(注4)としてからは、竹島(チクト)とも表記されることになったからである。

実事求是34-2

(図2)朴錫昌『欝陵島図形』

欝島郡の管轄区域とされた「欝陵全島と竹島、石島」の内、竹島が現在の竹島(チクト、竹嶼)とすると、残る石島は、李奎遠が『欝陵島検察日記』等で「ただ叢竹あるのみ」とした島項(観音島・鼠項島)である。この島項は、李奎遠が『欝陵島外図』に描き、『欝陵島検察日記』等で竹島(竹嶼)と共に「二小島あり」とした内の一島で、欝陵島の東北、観音崎から数十メートルにある。その島項は、朴炳渉氏が『韓末期の竹島=独島漁業と石島』(注5)に掲載した1909年水路部刊行の海図306号「竹邊灣至水源端」所収「鬱陵島(松島)」(図3)と、1910年『韓国水産誌』第二輯の本文では、「鼠項島」(注6)とされている(注7)

実事求是34-3

(図3)海図306号「竹邊灣至水源端」所収「鬱陵島(松島)」(部分)(1909年刊行、鬱陵島は1908年測量)

【付記】

 石島が鼠項島と表記されたことに関して、私見では次の通り解釈している。漢文では反切という漢字の発音表示法があり、それが用いられたとする見解である。「海図306号」では鼠項島を[SomokuSomu]と表記しているので、これを反切の表示法に従って読むと、[SomokuSomu]の鼠[S(o)]の最初の母音oと、項[(m)oku]の最初の子音mが除かれ「S(o)(m)oku」は「Soku=石」となる。『勅令第41号』では石島と表記されたが、朴炳渉氏が掲げた「海図306号」では、漢字音で竹島とされた竹島が竹嶼(TeiSomu)と訓読で表記がなされているように、石島は反切を用いて、訓読で鼠項(「s(o)(m)oku」)と表記したものとすれば、石「s(o)(m)oku」島が鼠項島[SomokuSomu]と表記された説明がつくからだ。

 朴炳渉氏は『韓末期の竹島=独島漁業と石島』と題し、石島を独島と主張する中で、私が「鼠項島の日本語読みが、石島の韓国語の音読[ソクトウ]と発音が近似しているという理由で石島は観音島であると主張した。しかし鼠項島は[ソコウトウ]と音読されたのではない」。(中略)「海図306号に[鼠項島SomokuSomu]と記され、[ソモクソム]と呼称された」とし、「石島を鼠項島とした下條の主張は根拠のない牽強付会といえよう」と論難している。

 だが私は、鼠項島の日本語読みが、石島の韓国語の音読[ソクトウ]に近似している、としただけである。それが韓国語では[鼠項島SomokuSomu]と記され、[ソモクソム]と呼称されているからといって、鼠項島を日本語で「ソコウトウ」と読んだことが、どうして牽強付会となるのであろうか。朴炳渉氏が根拠とした「海図306号」では[鼠項島SomokuSomu]と表記しているので、それを漢文では伝統的な反切で読み、漢字音で呼称すれば石島「ソクトウ」となるではないか。朴炳渉氏の批判は、為にする批判である。

 事実、朴炳渉氏が批判した拙稿『独島呼称考』では、視察官禹用鼎が竹島には渡っていない事実や『勅令第41号』で「欝陵全島と竹島、石島」とされた欝島郡の管轄区域が「縦八十里、横五十里」であることを根拠に、石島は独島でないことを明らかにしている。朴炳渉氏が反駁するのであれば、私が「鼠項島の日本語読みが、石島の韓国語の音読[ソクトウ]と発音が近似している」とし、鼠項島を日本語で「ソコウトウ」と読んだことではなく、私が文献と史料を挙げ、石島が独島でない事実を実証した事実をこそ問題にすべきである。

 だがその前に、前掲の海図306号や韓国農商工部水産局編刊の『韓国水産誌』第二輯所収の「欝陵島全図」(図4)に、独島が描かれていない事実を確認し、その上で反論してほしいものである。

実事求是34-4

(図4)1910年刊『韓国水産誌』第二輯所収「欝陵島全図」(部分)

 さて本題に戻ろう。視察官の禹用鼎が欝陵島に渡る以前から、欝陵島には二つの属島が存在する事実が知られていた(注8)。それは1899年9月23日付の『皇城新聞』(「欝陵島事況」)の記事でも確認ができる。同紙の「欝陵島事況」では、「その附属する小六島中で最著のものは、于山島・竹島」(注9)とし、欝陵島の六つの属島の中で、于山島と竹島の二島が顕著、とされているからである。これらは、禹用鼎の欝陵島視察以前から、二つの属島の存在が認識されていたことを示す証左である。

 『勅令第41号』で欝島郡の管轄区域が「欝陵全島と竹島、石島」とされたのは、視察官禹用鼎が欝陵島で得た欝陵島に関する知識が基になっていた。それは捜討使朴錫昌や検察使李奎遠が確立した欝陵島像で、禹用鼎はそれを踏襲し、欝陵島を「周廻一百四五十里」(56km〜60km)の島としたのである。欝陵島の海岸線は56.5kmである。禹用鼎が現地民から得た欝陵島一周の知識は、ほぼ正確だったのである。

 さて以上、述べてくると、『勅令第41号』の石島は、竹島(独島)とは全く関係がなかったことは明らかである。大韓帝国はその疆域を「東経一二四度三十分に起り一三〇度三十五分に至る」とし、『勅令第41号』の勅令案を作成した内部大臣李乾夏は、欝島郡の管轄区域を欝陵島一島である「縦八十里、横五十里」としていたからである。いずれの疆域にも竹島(独島)は含まれていない。『勅令第41号』の石島は欝陵島の東北、観音崎近くの島項だったからである。

 その『勅令第41号』の公布から六年後、石島が独島でなかった事実が確認される出来事が起こっていた。リャンコ島が竹島と命名され、島根県に編入された翌年(1906年)3月27日、島根県関係者が竹島視察に赴いた時のことである。視察後、俄かに天候が悪化したため、一行は急きょ欝陵島の道洞に避難し、翌朝(3月28日)、欝島郡守の沈興澤を表敬訪問した。その折、島根県側から「竹島が今、日本の領地となった」との情報を得たのである。

 欝島郡守の沈興澤は、これを3月29日付で江原道観察使署理春川郡守の李明来に「本郡所属の独島は、外洋百余里の外に在るが(中略)今、日本の領地となった」と急報し、欝島郡所属の独島が「日本領になった」と、報告したのである。江原道観察使署理春川郡守の李明来は、これを4月29日付の「報告書号外」で議政府賛政大臣の朴斉純に注進すると、朴斉純は、5月20日付の指令第三号で、「独島領地の説は全く無根である。該島の形便(地理的状況)と日本人の行動をさらに調査し、報告せよ」との指示を、李明来に与えた。

 だがそのほぼ二ヶ月後、1906年7月13日付の『皇城新聞』(注10)には、「欝島郡の配置顛末」と題する記事が載った。それは、統監府から内部に対し、欝島郡の設置の顛末を問い合わせる公文で、内部からは「郡庁は霞台洞にあり、該郡所管の島は竹島・石島で、東西が六十里、南北が四十里。合わせて二百余里」と、統監府に回答されたとする内容であった。それも内部の回答には、『勅令第41号』には記述されていない補足があった。欝島郡の管轄範囲を「東西が六十里、南北四十里。合わせて二百余里」とした部分で、それは伝統的に欝陵島一島の疆域を示す表記であった。

 朴錫昌が『欝陵島図形』で欝陵島を「周廻二百里」とし、李奎遠が1882年の『欝陵島検察日記』で欝陵島の西東を「仮量六十里」、北南を「仮量五十里」としたのと同じ表現である。従って、内部の回答で、「該郡所管の島は竹島・石島で、東西が六十里、南北四十里。合わせて二百余里」とした事実は、沈興澤が「本郡所属の独島は、外洋百余里の外に在る」とし、独島を欝島郡所属とした報告を全面的に否定するものであった。

 沈興澤は独島を、「外洋百余里の外に在る」とし、欝島郡の外洋に在るとしているが、内部では欝島郡を「東西が六十里、南北四十里。合わせて二百余里」として、欝島郡を欝陵島一島と認識していたからである。

 欝島郡守の沈興澤が、江原道観察使署理春川郡守の李明来に「本郡所属の独島は、外洋百余里の外に在る」と報告して2ヵ月後、内部は『勅令第41号』を根拠に、欝島郡の管轄範囲を「合わせて二百余里」としたのである。この回答で明らかになったことは、「該郡所管の島は竹島・石島」とされた石島は「合わせて二百余里」の範囲の中の島で、「外洋百余里の外に在る」独島でなかった、ということである。

 今日、韓国側ではその『勅令第41号』を根拠に、大韓帝国は日本よりも5年早く独島(竹島)を領有していたと主張し、勅令が公布された10月25日を「独島の日」としている。だがそれは何ら歴史的根拠のない暴挙である。『勅令第41号』の石島は、独島とは関係のない島項(観音島・鼠項島)だったからである。韓国側では、日本の竹島編入を侵略と叫ぶが、歴史的権原がないまま竹島を侵略し、不法占拠を続けているのは韓国なのである。


(注1)『欝島記』では他に「水利は則ち●(くさかんむりに霍、以下●は同じ字)を採るを主と為す」とし、「本島の税、●税を課すを主と為す。(中略)全南、素習水性の民、来たりて採る。毎年抽税五六百円を下らず」とした記述がある。●は若布のことで、全羅南道民は毎年、欝陵島に渡って、採●をしていた。

(注2)捜討使朴錫昌の『欝陵島図形』では、「周回、菫か二百余里たるべし/東より西に至る八十余里/南より北に至る五十余里」と注記され、欝陵島一島の疆域が明記されている。欝陵島の疆域をこのように示すのは、江原道監司柳季聞が1436年に「武陵島牛山、土沃多産、東西南北各五十余里」と上啓したのが早い例で、以後それが踏襲されている。(『世宗実録』世宗十八年(1436年)閏六月甲申條)

(注3)明治38年2月22日の『島根県告示第40号』では、竹島の位置を「北緯三十七度九分三十秒、東経百三十一度五十五分」と明記している。

(注4)北澤正誠は『竹島考証』で「明治十三年天城艦ノ松島ニ回航スルニ及ビ其地ニ至リ測量シ始テ松島ハ欝陵島ニシテ其他竹島ナル者ハ一個ノ岩名タルニ過キサルヲ知リ事始テ了然タリ」としており、以後、竹嶼(Boussole.Rk)は竹島とされた。

(注5)http://www.kr-jp.net/ronbun/park/parkBS-1107j.pdf#search

(注6)張志淵の『大韓新地誌』(1907年刊)の「巻二、海湾及島嶼」では、欝島郡の疆域を「北緯百三十度四十五分乃至三十五分、東経三十七度三十四分乃至三十一分」とする。ここでは緯度と経度が誤って表記されているが、欝島郡の疆域は「東経百三十度四十五分から三十五分」にある、とされている。『大韓新地誌』の付図には欝島は描かれているが、「東経百三十一度五十五分」の独島は描かれていない。

(注7)1910年『韓国水産誌』第二輯の本文では「鼠項島」としているものの、『韓国水産誌』第二輯所収の「欝陵島全図」では「鼠頂島」としている。1909年水路部刊行の海図306号「竹邊灣至水源端」所収「鬱陵島(松島)」には「鼠項島」とあることから、「鼠項島」の表記が正しいと考えられる。

(注8)内務少書記官檜垣直枝の『欝陵島出張復命書』(明治16年11月)には、「欝陵島図」(仮題)が付され、そこには竹島と島項の二島が描かれている。「欝陵島図」では韓国側の地名が漢字で記され、韓国語音のルビが片仮名で振られている。檜垣直枝は、欝陵島を「周回大概十四五里」としているが、これはその前年、欝陵島を踏査した検察使李奎遠と同様の認識で、「欝陵島図」の地名も検察使李奎遠が1882年に作図させた『欝陵島外図』の地名とも多く重複し、日韓の欝陵島像が共通していたことを示している。

(注9)1711年、欝陵島捜討使朴錫昌の『欝陵島図形』には、「所謂于山島」と注記された島以外に、属島と思しき島が5つ描かれている。地名が記されていないため、島嶼なのか判然としないが、後世、『輿地図』『八道輿地図』『八道地図』『海東輿地図』等に踏襲され、金正浩の『青邱図』にも見られる。

(注10)山陰中央新報「『石島=独島』説否定の記述見つかる」(2008年2月22日付)、山陰中央新報は、「杉野洋明」氏の発見と報じている。

(下條正男)


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