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実事求是〜日韓のトゲ、竹島問題を考える〜

第27回

韓国側に見られる歴史研究の特徴

 

 韓国の聯合ニュース(電子版)は6月11日、竹島を不法占拠する韓国側の竹島(韓国名、独島)研究の現状を象徴するような研究結果を報じた。それは「新羅時代、独島を表示した欝陵島地図があった」とするもので、そこには復元された「于山国図」が掲載され、新羅時代の欝陵島地図が朝鮮時代の粛宗の時まで存在したとする鮮于栄俊博士の主張が紹介されていた。

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(復元されたとする「于山国図」)

 鮮于氏は、新羅時代の欝陵島地図が粛宗時代まで伝えられていた根拠として、『粛宗実録』の「粛宗二十年甲戌三月辛卯條」を挙げた。聯合ニュースによると、そこには「新羅図、此島亦有国名」の一文があるため、鮮于氏はその「新羅図」を新羅時代の地図と解釈して、次のように語ったと言う。

 鮮于氏は、「日本と欝陵島の領有権に関連した紛争が発生した朝鮮時代の粛宗の時、領議政の南九萬が『新羅時代、この島(欝陵島)を描いた地図にも国名がある(新羅図此島亦有国名)』とした点を挙げて、欝陵島が朝鮮の領土であると主張する内容が出てくる」として、「これは新羅時代の欝陵島地図が粛宗時代まで伝えられていたとみられる」とした。

 だが、この『粛宗実録』(「粛宗二十年甲戌三月辛卯條」)と同じ記述は、『承政院日記』(粛宗二十年閏五月庚寅條)にも見られる。そこでは欝陵島を日本領とする對馬藩の主張を伝える東莱府使からの報告を受け、朝鮮の重臣等による御前会議の模様が記録されている。その中で、領議政の南九萬による「新羅図、此島亦有国名」の発言は、次のような脈略の中で語られていた。


 「南九萬曰、臣見新羅図、則此島、亦有国名。降新羅納土貢。高麗太祖時、島人献方物。我太宗朝、不勝倭患。遣按撫使、刷出流民而空其地」(臣(南九萬)、新羅の図を見ると、この島(欝陵島)にはまた国名がある。(その于山国は)新羅に降って土貢を納めていた。高麗の太祖の時は、島人(欝陵島の人)が方物を献じ、我(朝鮮の)太宗の時代、倭患(註1)にたえず、按撫使を派遣して、欝陵島に逃げ込んだ流民を刷出(連れ出)し、其の地(欝陵島)を空島にした)


 この『承政院日記』(粛宗二十年閏五月庚寅條)を読むと、南九萬が言う「新羅図」は、新羅の版図(領土)を描いた「新羅図」と解釈することができる。それを「新羅時代の地図」とするのは、文献が読めていないからである。冒頭から南九萬が「臣見新羅図、則此島、亦有国名」としたのは、「此島(欝陵島)」が新羅時代のみならず、高麗の太祖や朝鮮の太宗時代も朝鮮領であったと強調するためで、新羅時代の「欝陵島地図」と読める記述はない。それを鮮于氏は、『粛宗実録』の「新羅図」を新羅時代の地図と誤読し、「于山国図」までも復元して、次のような憶説を披瀝したのである。


 「この「于山国図」は、新羅の異斯夫が于山国を征伐した512年よりも前に描かれたもので、欝陵島と独島の距離は欝陵島人の漁業などを考慮すると、この地図には独島が描かれたはずだ」


 鮮于氏は欝陵島人の漁業などを考慮したと言うが、欝陵島で漁業が興るのは1903年、日本人が欝陵島の近海でイカの好漁場を発見して以後である。現在の欝陵島ではイカ漁が盛んなため、鮮于氏は新羅時代もそうであったと、憶測したのであろう。鮮于氏は、「于山国図」が512年以前に描かれていたと言うが、それを実証する文献的根拠も示していない。

 さらに鮮于氏は、「よく晴れた日、独島は欝陵島から肉眼で見える距離にある。欝陵島の居住民は、独島だけに棲息する海驢を捕まえ、油を確保しなければならなかったため、欝陵島地図に独島を表記しなければならなかった」とし、「于山国図」の東南側に「船舶可泊」と注記された島が独島であるとした。

 だがここまで来ると、この荒唐無稽な鮮于氏の主張を報じた聯合ニュースのセンスを疑いたくなる。17世紀末、日本と朝鮮の間で欝陵島の領有権が争われたのは、鳥取藩米子の大谷・村川両家が欝陵島で漁労活動をしていたことが発端である。鮮于氏は「独島だけに棲息する海驢を捕まえ、油を確保しなければならなかった」とするが、欝陵島の倭●(舟へんに工)倉(現在の道洞)では、海驢の油が採取されていた。その場所を1694年、欝陵島捜討官の張漢相が確認し、張漢相も欝陵島で「或は十、或は百。群れを成して穴居」する海驢を目撃している。(因みに竹島(独島)の海驢が絶滅するのは、韓国側が不法占拠して以後である)

 このように見ると、鮮于氏の研究は、文献的根拠を示すことなく、自分の意見と歴史を混同して語るところに特徴がある。それは鮮于氏が復元したとする「于山国図」の解釈でも共通している。鮮于氏はソウル大学奎章閣所蔵の『地乗』から「于山国図」を復元したといい、1800年代に製作された『大東総図』や『八道輿地図』は、「実際に欝陵島に居住する人でなければ描けない地図」とした。その根拠は、この地図が6つの河川を中心に制作されているのは、飲料水の確保が難しい島での生活と関連し、陸地の河川に比べ途方もなく小さな河川に「大川流出」と注記するのは、地図製作のため少しの間、現地調査した外部の人は書かないからだという。それに欝陵島の中峰から島の周辺までの距離が体系的に記されているのは、島に高度な政治体系があった時に調査されたと見なければならない。そのため「于山国図」に先立つ原型があったと見るべきで、それが『粛宗実録』に出てくる「于山国図」だと言うのである。聯合ニュースは、その論拠として、「512年に異斯夫が于山国を征伐した後には、欝陵島に精密な行政体系が存在しなかったためだ」と断言した鮮于氏の発言を挙げている。

 歴史研究では、文献批判や先行研究に対する検討が不可欠である。鮮于氏は「于山国図」を復元する際、ソウル大学奎章閣所蔵の『地乗』を基本とし、『大東総図』や『八道輿地図』等に収録された欝陵島を「実際に欝陵島に居住する人でなければ描けない地図」とした。

 しかしそれらは、いずれも欝陵島捜討官の朴錫昌が1711年に作画させた「欝陵島図形」(写真)が基になっている。鮮于氏が、「于山国図」の東南側に「船舶可泊」とした島も、朴錫昌の「欝陵島図形」から登場した実在しない五つの島の一つで、「船舶可泊」の注記は本来、欝陵島に記されていたものである。現地を知らない者が、転写した結果である。

 また「大川流出」の表現は1694年、欝陵島捜討官の張漢相が現在の南陽洞を流れる河川に使ったもので、「大川流出」の注記は朴錫昌の「欝陵島図形」でも踏襲されている。鮮于氏が根拠とした「大川流出」や「船舶可泊」の説明は、全くの創作である。それに鮮于氏は、「地図の中峰から島の周辺に向かって、その距離が体系的に記されているのは、島に高度な政治体系があった時」の調査とするが、中峰(聖人峯)から海岸線までの測量は、歴代の欝陵島捜討官が行なったもので、欝陵島の高度な政治体系とは無関係である。

 この鮮于氏のように、文献に依拠することなく、空想と憶断で歴史を語る傾向は韓国側の竹島研究には多いようである。竹島の領有権を主張する歴史的権原がない韓国の人々が、「独島は我領土」として疑わない理由も、これと無関係ではない。韓国側では、誤報の認識は無いようなので、敢えて誤謬を指摘することにした。

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(欝陵島捜討官の朴錫昌が1711年に作画させた「欝陵島図形」。後の欝陵島図の原型となる)


(註1)南九萬は、欝陵島の空島政策をとった背景を説いて、「我太宗朝、不勝倭患。遣按撫使、刷出流民而空其地」とし、倭患(日本側)に求めた。だがもともとの『太宗実録』の記述では、欝陵島の空島化は、欝陵島に逃げ込んだ朝鮮の民が(日本人に成りすまし)仮倭となって対岸を襲ったことが端緒とされている。朝鮮政府は、流民(朝鮮人)が欝陵島に住み着くと、島が倭寇の巣窟となることを恐れたからだ。この曲解から事実無根の歴史認識が成立していく過程は、朝鮮半島の文献ではしばしば見られ、今日、歴史問題が絶えない理由の一つとなっている。

(下條正男)


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