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実事求是〜日韓のトゲ、竹島問題を考える〜

第11回

林子平の「三国接壌図」に対する韓国側の誤解

 

5月2日付の「朝鮮日報」は、世宗大学校の保坂祐二氏の論文を紹介し、「日本、米との領土紛争に"独島=朝鮮領地図"を使用」と報じた。報道によると保坂氏は、江戸幕府がアメリカと小笠原諸島をめぐって領有権を争った際、フランス語版の林子平の「三国接壌図」を根拠とした。これは欝陵島と竹島を「朝鮮領」とした「三国接壌図」を公式の地図としたので、19世紀当時、すでに幕府は竹島を朝鮮領としていた、と言うのである。

だが保坂氏の主張には歴史的根拠がない。江戸幕府は1861年11月、英米各国公使に対し、外国奉行水野筑後守と目付服部帰一を小笠原島調査に向かわせる旨、通達したが、駐日米公使のハリスはその返書で、小笠原島を日本の属領とし、同島に居住するアメリカ人の権利を求めただけで、領土問題にはなっていないからだ。それは同年10月、外国奉行水野忠徳が幕府に提出した書付(「伊豆国附島々其外へ御用のため差遣され候につき見込の趣申上候書付」)に、「小笠原島の儀、御国属島の儀と蘭書等にも相見へ、外国人ども弁知罷り在り候」とあるように、海外では小笠原島が日本領として認識されていたからである。

それは1853年6月、小笠原島に立ち寄ったペリー提督の『日本遠征記』でも確認ができる。ペリーは翻訳された林子平の『三国通覧図説』を引用し、小笠原島の最初の発見者を日本人としているからだ。保坂氏が主張するように、江戸幕府がフランス語版の「三国接壌図」を使い、小笠原諸島を日本領としたというのはフィクションの世界である。

同様に、「三国接壌図」には「竹島が朝鮮領と明記されている」とする保坂氏の主張にも根拠がない。「三国接壌図」には、竹島が描かれていないからだ。保坂氏は、「三国接壌図」に描かれた竹嶋に「朝鮮ノ持也」の文言があることを根拠に、欝陵島と竹島が朝鮮領にされたと解釈した。だがその竹嶋には、「此嶋ヨリ隠州ヲ望/朝鮮ヲモ見ル」と記されたもう一つの付記がある。これは林子平が「三国接壌図」を作図する際、その中心に置いた長久保赤水の『日本輿地路程全図』に由来する文言で、齋藤豊仙の『隠州視聴合記』からの引用文である。そこに林子平が改めて「朝鮮ノ持也」と注記したのは、『日本輿地路程全図』では欝陵島を日本領として認識していたからで、注記の対象は欝陵島だけになるからだ。

さらに「三国接壌図」と長久保赤水の『日本輿地路程全図』を比較すると、林子平の「三国接壌図」には今日の竹島が描かれていない。それは林子平が「全形を挙げず」とするように、「三国接壌図」では『日本輿地路程全図』の全てを写してはいないからである。それを保坂氏が、「三国接壌図」に描かれた欝陵島の右上にある小島を竹島とするのは、文献批判をしないまま「竹島」と独断しただけのことで、文献的根拠があってのことではない。

現に「三国接壌図」の欝陵島は、1711年に朴錫昌が提出した「欝陵島図形」の系統を引くもので、小島は「竹嶼」とするのが妥当である。それを保坂氏は「三国接壌図」では竹島を朝鮮領としたとし、竹島問題研究会の最終報告書を批判するが、それは当たらない。

この保坂氏の主張に対し、領南大学校の独島研究所の金和経所長は、「三国接壌図は国家間の領土紛争で公的な資料として活用され」、「歴史的資料として大きな意味を持つ」とコメントしている。だがそれは文献批判を怠った保坂氏の主張に盲従する、妄言である。

(下條正男)


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