実事求是~日韓のトゲ、竹島問題を考える~
第78回
竹島(歴史)問題に対する日韓の異なる視点
1905年1月28日、閣議決定を経て日本領に編入された竹島(韓国名、独島)は、現在、日本と韓国の係争の地となっている。それは1952年1月18日、「サンフランシスコ講和条約」が発効して敗戦国日本が国際社会に復帰する三か月程前、韓国の李承晩大統領が公海上に「李承晩ライン」を設定して、そこに竹島を含めたからだ。
そのため「クリティカル・デート」(決定的期日)は、一般的に1952年1月18日とされているが、現在に至るまで、竹島問題は未解決のままである。それは歴史に対する日韓の認識が違い、同じ歴史的事実でもその解釈が全く異なってしまうからだ。
韓国では1905年の竹島の日本領編入を「日本による朝鮮侵略の最初の犠牲の地」としているが、日本では無主の地だった竹島を先占したとしている。それは韓国側では、日本は竹島を侵略したとする歴史認識を前提にして文献や古地図を演繹的に解釈する傾向があるのに対して、日本側では史料批判を行ない、そこから帰納的に結論を導き出すという違いに由来している。
1.日本海呼称問題と韓国の歴史認識
事実、それは日韓の間で問題になっていた日本海の呼称問題を見れば分かることだ。韓国では1992年頃から日本海の呼称を問題として、日本海は韓国が2000年前から使ってきた東海に改めるべきだと主張していた。それも国際水路局が『大洋と海の境界』を刊行した1929年当時、日本に侵略された朝鮮半島は植民統治下にあったので、東海の正当性を主張することができなかった。その間違った歴史を清算して、日本海は東海とするか日本海と併記すべきだとし、国連地名標準化会議や国際水路機関で問題としていた。
だが朝鮮半島で日本海を東海と称するのは1946年頃からのことで、戦後だった。それまでの東海は朝鮮半島の沿海部の呼称であったため、日本の侵略や植民統治とは関係がなかった。そのため2020年、国際水路機関の総会では日本海の単独表記が決まり、東海の単独表記や日本海との併記を求めた韓国政府の主張は退けられた。
2.「反正」という韓国の歴史認識
韓国が過去の歴史を問題とする時は、間違った過去を清算するといった発想に基づいている。日本海の呼称を問題にしたのは朝鮮半島特有の「反正」という現象である。これは竹島問題も同じである。独島(竹島)は1905年に日本領にされたが、それ以前は韓国領だったという歴史認識が前提になっていた。そこで韓国では、敗戦国の日本が国際社会に復帰する前に竹島を韓国領に反(かえ)したとしているのである。「反正」は、正しい状態に戻すということだからだ。
この「反正」は、日本と朝鮮半島との違いを特徴づける文化現象である。これは日本と朝鮮半島は同じ儒教文化圏に属していたが、歴史的にその社会体制が大きく異なっていたことに起因している。儒教文化圏には地方分権的な「封建制」と中央集権的な「郡県制」の社会体制があり、朝鮮半島は中央集権的な「郡県制」であった。唯物史観では、資本主義社会の前段階を「封建制社会」としているが、儒教文化圏にはその「封建制社会」とは異なる中央集権的な「郡県制」が存在した。「郡県制」は律令制を基にした法家思想の社会だが、「封建制」は儒家思想に由来する社会であった。
かつてエズラ・ヴォーゲルは韓国、台湾、シンガポール、香港を「アジアの四小龍」と称した。この内、韓国と台湾は日本の植民統治を受けていたが、シンガポールと香港はイギリスの植民地だった。シンガポールと香港は中継貿易の拠点としての歴史を持つ都市国家だが、日本の植民統治以前の韓国と台湾は中央集権的な「郡県制」であった。その中央集権的社会に地方自治が導入されて、市場経済に移行したのは日本の植民統治時代だった。だが日本の植民統治に対する韓国と台湾の評価は対照的である。台湾では日本の植民統治を肯定的に捉えるのに対して、韓国では反日感情が強いからだ。
3.反日感情と竹島問題
その韓国側に反日感情が高まる契機となったのが1952年1月、韓国の李承晩大統領が「李承晩ライン」を設定して竹島を韓国領として、日本との外交問題が生じたからである。歴史的事実としては、竹島は1905年1月28日の「閣議決定」で無主の地とされ、それを日本が先占したとして、1905年2月22日の「島根県告示第40号」で隠岐島司の所管になっていた。
それが日本の敗戦で状況が変わったのである。ソ連と中国の同意と支援を受けて北朝鮮が韓国に侵攻して朝鮮戦争が渤発し、韓国では日本との国交正常化を図ることになった。その日韓の国交正常化交渉の本会談は1952年2月15日から始まるが、交渉に臨む韓国政府には課題があった。戦後、朝鮮半島から日本への密航者が後を絶たず、朝鮮半島には朝鮮経済の80%とも言われる日本側資産が残されていた。GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の報告書によると、その額は52億5千万ドルとされている。
そこで韓国の李承晩大統領は「李承晩ライン」を宣言して竹島を韓国領とすると、以後、それを外交カードとしたのである。韓国政府は「李承晩ライン」を越えた日本漁船を拿捕抑留し、1953年12月12日には「漁業資源保護法」を制定して、日本漁船員を拿捕抑留する法的根拠としていた。日韓が国交正常化する1965年までに3929名の日本人漁船員が拿捕抑留された。そこで日本政府が漁船員達の解放を求めると、韓国政府は密航者に日本居住の法的地位を与え、財産請求権の放棄を求めて人質外交を行なったのである。
日韓は1965年6月、「日韓基本条約」を締結したが、日本は朝鮮半島からの密航者に法的地位を与え、朝鮮半島に残されていた日本側資産の財産請求権を放棄した。さらに日本政府は無償3億ドル、有償2億ドルと民間融資3億ドルの経済協力支援を行なった。
韓国政府が「李承晩ライン」を設定したのは1952年1月18日、「サンフランシスコ講和条約」が発効する3か月前だった。この時、韓国政府が「李承晩ライン」を宣言したのは、「サンフランシスコ講和条約」の草案では「済州島、竹島、欝陵島」とあったが、最終案では「済州島、巨文島、欝陵島」として、竹島が抜けていたからである。
4.竹島問題と国連海洋法条約
その韓国政府は1954年の夏ごろ、竹島を武力占拠した。日本政府は1954年9月25日、韓国政府に対して竹島問題を国際司法裁判所に付託すべく提案すると、韓国の外交部は10月28日、「竹島は、日本侵略の犠牲となった最初の韓国領土であった」。「日本が同一の方法で侵略を反覆するのではないか」懼れているとして、国際司法裁判所への提訴を拒否した。この外交部の声明以来、韓国では「日本が独島の奪取を狙うことは、韓国の再侵略を意味する」とする歴史認識が醸成されて、日本側が竹島問題に言及すると日本を侵略国家として、感情的に反発することになるのである。
1965年6月22日、竹島問題を未解決のままにして「日韓基本条約」が締結されると、竹島問題に動きはなかった。それが1994年、「国連海洋法条約」が発効して、「排他的経済水域」(EEZ)の中間線を画定する必要が生ずると、その基点をどこに置くかで再び竹島が脚光を浴びることになった。そこで韓国の金泳三政権が1996年2月、竹島に接岸施設の建設を発表し、日本政府が抗議したことから竹島問題が再燃することになった。
だが韓国側の反日感情が強まると、日韓は竹島問題を棚上げして「日韓漁業協定」を結び、日本海の好漁場に日韓の共同管理水域を設定していた(図1)。共同管理水域では不法漁撈をする韓国漁船を取り締まることができず、日本の漁民達は深刻な被害を受けていた。
(図 1 )「排他的経済水域」の共同管理水域(黄緑部分)
5.「竹島の日」条例と島根県議会
そこで島根県議会は2005年3月16日、「竹島の日」条例を制定して、「竹島の領土権確立」を求めたのである。これに韓国政府は、これまでの「静かな外交」から対日攻勢に外交方針を転換した。韓国政府は条例の成立を見据えて「東北アジアの平和のための正しい歴史定立企画団」を法制化し、2006年9月には改組して、政策提言機関である「東北アジア歴史財団」の活動を始めている。これに島根県は2005年6月、「島根県竹島問題研究会」を発足させ、ボランティアによる研究活動を始めていた。
一方、外務省は「竹島の日」条例が成立すると「竹島は日本固有の領土」・「韓国が不法占拠」とし、文部科学省では2006年度版「地理」・「公民」の教科書に竹島を載せ、『防衛白書』には 竹島問題が記載されることになった。
この動きに中国では2005年4月、2006年度版「地理」・「公民」の教科書を歪曲教科書として反日暴動が起こり、2006年には韓国が竹島を侵奪した方法に倣えば尖閣諸島を侵奪できるとした。これに同調したロシアは2005年6月、北方領土問題を領土問題から歴史問題として、北方領土問題を解決済みとした。
2007年、島根県竹島問題研究会が「第一期最終報告書」作成して外務省に提出すると、外務省はそれを参考にして2008年2月、小冊子「竹島問題を理解する10のポイント」を刊行した。この時、韓国側では「独島は歴史的・地理的にも国際法上において韓国固有の領土」とし、日本側では「竹島は、歴史的事実に照らしても、かつ国際法上も明らかに日本固有の領土」として互いに譲らず、日韓は類似の主張を続けて今に至っている。
6.韓国側の論拠とその問題点
その韓国側の竹島研究では、6世紀(512年)から竹島は韓国領だったとし、『世宗実録地理志』と『新増東国輿地勝覧』に載せられている于山島は独島(竹島)だとした。それは1696年6月、鳥取藩に密航した安龍福という人物が「于山島は独島(竹島)」だとして、鳥取藩主と談判して欝陵島と独島を朝鮮領にしたと、供述していたからだ。その後、1770年に編纂された『東国文献備考』では、その分註に「欝陵島と于山島は于山国の地」、「于山島は倭の松島(現在、竹島)」と記されていることから、韓国側ではそれを根拠に文献と古地図に登場する于山島を独島(竹島)とした。さらに独島は1900年10月25日の「勅令第41号」で、すでに石島として欝島郡に所属していたとした。それは日本が竹島を島根県隠岐島司の所管とした1905年2月22日の5年も前のことだった。韓国側が「竹島は、日本侵略の犠牲となった最初の韓国領土」とする理由がここにある。
(1)独島は6世紀から韓国領の問題点
だが韓国側が于山島を独島(竹島)とする論拠は唯一、「于山島は倭の松島(現、竹島)」として、「欝陵島と于山島は于山国の地」とした『東国文献備考』の分註にあった。しかし韓国側が竹島は6世紀(512年)から韓国領だったとする『三国史記』を確認すると、于山国の疆域は「地方百里」とされ、『三国遺事』では「周回二万六千七百三十歩」としていた。この「地方百里」と「周回二万六千七百三十歩」は、于山国は欝陵島一島だったということで、于山国には竹島(独島)が含まれていなかったことを示している。これは『東国文献備考』の分註には問題があったということである。事実、後述するように、分註の輿地志からの引用文の「于山島は倭の松島」は、書き換えられていたのである。
(2)『世宗実録地理志』の読み方
さらに韓国側では、『世宗実録地理志』の「蔚珍県」条に「于山島と欝陵島の二島があって、二島はそれほど離れていない。よく晴れた日には望み見ることができる」とあると、欝陵島からは実際に竹島が「見える」という地理的与件を根拠に、その于山島を竹島としたのである。
だが『世宗実録地理志』等を基に編纂された『新増東国輿地勝覧』では、その「見える」先の島には「峯頭の樹木と山根の沙渚」があって、朝鮮半島(蔚珍県)から見た欝陵島のことだった。これは『世宗実録地理志』の「望み見ることができる」を、欝陵島から竹島が「見える」と解釈することはできないということだ。それは「地誌」と「地理志」には読み方があって、朝鮮半島から欝陵島が「見える」と読まなければならないからである。
(3)『世宗実録地理志』と『新増東国輿地勝覧』の于山島
では『世宗実録地理志』と『新増東国輿地勝覧』の本文に記された于山島とは、どのような島だったのか。その于山島は『世宗実録地理志』と『新増東国輿地勝覧』の分註に引用されていた『太宗実録』の「十七年二月壬戌条」の于山島である。同条では、欝陵島に派遣された金麟雨が「于山島から還る」と復命していたため、編者達には欝陵島と于山島の判別ができなかったのである。それは『新増東国輿地勝覧』の分註で、「一説として于山島と欝陵島を同じ島である」としていることでも分かるのである。これらは『世宗実録地理志』と『新増東国輿地勝覧』に対する文献批判をしていれば明らかにできるが、于山島を竹島とする前提で文献を解釈している限り、事実は見えてこないのである。
(4)改竄されていた『東国文献備考』の分註
その韓国側が于山島を竹島としたのは、『東国文献備考』の分註に「輿地志に云う、于山欝陵皆于山国の地、于山は則ち倭の所謂松島なり」(図2)とした記述があるからだ。だが輿地志の原典を確認すると、そこには「一説于山欝陵本一島」(図3)とあって、于山島に対比されていたのは欝陵島である。これは『東国文献備考』が編纂される過程で、輿地志からの引用文が「欝陵島」から「于山島は倭の松島」に書き換えられていたということである。
(図 2 )『東国文献備考』の分註 (図 3 )『東国輿地志』「一説于山欝陵本一島」
(5)安龍福の偽証
その輿地志からの引用文が書き換えられたのは、1696年6月、鳥取藩に密航した安龍福という人物が帰還後の取り調べに、「松島は即ち于山だ。これもまた我国の地である」と供述していたからである。安龍福の証言によると、彼は鳥取藩主と直談判して、欝陵島と松島(現在の竹島)を朝鮮領にしたというのである。それは日本に密航してきた際、安龍福が『新増東国輿地勝覧』の東覧図である「江原道図」を所持し、そこに描かれていた于山島を松島としていたからである。
だが『新増東国輿地勝覧』の中の于山島は、その分註に「一説于山欝陵本一島」とあるように、欝陵島と区別のできない于山島だった。それに安龍福が鳥取藩に密航する5か月前の1月28日、江戸幕府は鳥取藩に対して欝陵島への渡航を禁じ、欝陵島は日本領ではないと伝えていた。そのため鳥取藩では安龍福が密航してくると、幕府の命に従って安龍福を放逐したのである。これは安龍福が鳥取藩の藩主と談判して欝陵島と松島を朝鮮領とした事実はなく、後述するように、「江原道図」に描かれていた于山島も松島(現在の竹島)ではなかったということなのである。安龍福の供述は、偽証だったのである。
(6)安龍福の密航事件以後の于山島
この安龍福の密航事件を契機として、朝鮮では欝陵島に捜討使を派遣することになった。1711年、捜討使となった朴錫昌は『欝陵島図形』を提出し、欝陵島の疆域を「周回僅可二百余里、自東至西八十余里、自南至北五十余里」(図4)として、欝陵島の東2キロほどの小島に「海長竹田/所謂于山島」(図5)と表記していた。その「海長竹田」は張漢相の『欝陵島事蹟』では「海長竹」(図6)とされ、『欝陵島図形』の「所謂于山島」は後に于山島とも表記されるのである。
(図 4 )朴錫昌『欝陵島図形』の一部 (図 6 )張漢相『欝陵島事蹟』「海長竹」
(図 5 )朴錫昌『欝陵島図形』、丸枠内「海長竹田 / 所謂于山島」、右、丸枠「海長竹田 / 所謂于山島」の拡大
鄭尚驥の『東国地図』にも于山島が描かれているが、その于山島は朴錫昌の『欝陵島図形』に由来する(図7)。その朴錫昌の『欝陵島図形』は、1882年、欝陵島検察使となった李奎遠の『欝陵島外図』にも踏襲され、そこでは于山島を竹島(竹嶼)と表記し、新たに欝陵島の北東には島項が描かれていた(図8)。
(図 7 )朴錫昌『欝陵島図形』の疆域を踏襲した地図帖『海東地図』所収「欝陵島」
右、鄭尚驥『東国地図』の欝陵島部分、朴錫昌『欝陵島図形』由来の于山島
(図 8 )李奎遠『欝陵島外図』と島項部分(赤枠内)、下に「所謂于山島」由来の竹島
(7)「勅令第41号」の石島
1900年10月25日、欝陵島が欝島郡に昇格した際に「勅令第41号」が公布され、欝島郡の行政区域は「欝陵全島と竹島、石島」とされていた。韓国側ではその石島が独島(竹島)だとしているが、それは独島と石島の発音が近いという理由だけで、確証があったわけではない。
それは「勅令第41号」が公布されるのに先立ち、李乾夏がその『請議書』で欝陵島の疆域を「縦可八十里、横為五十里」としていたからだ。この欝陵島の疆域は、朴錫昌の『欝陵島図形』に由来し、そこには独島が描かれていなかった。
「勅令第41号」は、日韓による欝陵島の共同調査を経て公布されるが、その共同調査に参加した赤塚正助の「欝陵島報告書」には欝陵島の地図(図9)が添えられていた。そこでは朴錫昌の『欝陵島図形』を踏襲し、李奎遠の『欝陵島外図』で島項とされていた小島を「島牧」としていた。この島項は、李奎遠がその島の形状が「牛の項(うなじ)」(ソモク)に似ていることから韓国語音を漢字に借字して、島項(牛のうなじ)としたのである。赤塚正助が「欝陵島報告書」に添えた地図で「島牧」(ソモク)としていたのは、それが李奎遠の描いた『欝陵島外図』の島項(ソモク)に由来するからである。李奎遠はその島項と竹島(竹嶼)を欝陵島の二つの小島としていた。
(図 9 )赤塚正助「鬱陵島報告書」(挿図)( 1900 年)、赤枠内、「島牧」
1900年10月25日に公布された「勅令第41号」では、欝島郡の行政区域を「欝陵全島と竹島、石島」としていた。その際、李乾夏が『請議書』で欝陵島の疆域を「縦可八十里、横為五十里」としていたのは朴錫昌の『欝陵島図形』に依拠し、日韓による欝陵島の共同調査に加わった赤塚正助の「欝陵島報告書」に添えられていた地図は、李奎遠の『欝陵島外図』を基にしたものだった。この事実は、朴錫昌の『欝陵島図形』と李奎遠の『欝陵島外図』には独島が描かれていなかったように、欝島郡の行政区域である「欝陵全島と竹島、石島」には、独島(竹島)が含まれていなかったということなのである。
では欝島郡の行政区域にされた石島は、どこにあったのだろうか。そのヒントは、「欝陵全島と竹島、石島」がいずれも漢語で表記されている事実にある。その石島の候補となるのは李奎遠が『欝陵島検察日記』の中で欝陵島の「二小島」とした島項と竹島(竹嶼)の内の島項である。島項は韓国語音を漢字に借字したもので、漢語ではなかったからである。だが漢字文化圏には「反切」という文化があるので、それを使えば漢語表記にできるのである。
それに島項の読み方は、海図306号「竹邊湾至水源端」では鼠項島としてSOMOKUSOMUと英字で韓国語音が表記されている。これを反切の方法に従って韓国語音のSO(島)とMOKU(項)の漢字二字の内、SOから字母のOを除き、MOKUからその韻母のMを除いてSとOKUを結ぶと、SOKU(石)となるのである。欝島郡の行政区域とされた「欝陵全島と竹島、石島」の石島は独島(竹島)ではなく、欝陵島の北東にある島項(ソモク)だったのである。
1905年1月28日、日本政府は閣議決定で竹島を「無主の地」とし、それを「占領(先占)」した。それが歴史的事実だったことは1900年10月25日、「勅令第41号」で欝島郡の行政区域とした「欝陵全島と竹島、石島」の中に独島(竹島)が含まれていなかった事実によって確認ができるのである。
終わりに
1954年10月28日、竹島問題を国際司法裁判所に付託すべく提案した日本政府に対して、韓国の外交部は声明で「竹島は日本侵略の犠牲となった最初の韓国領土であった」とし、「日本が同一の方法で侵略を反覆するのではないか」懼れているとして拒否した。
だが竹島は「日本侵略の犠牲となった最初の韓国領土」ではなく、韓国政府が侵奪した、日本の領土だったのである。韓国側が独島は韓国領だとして挙げた論拠には何ら証拠能力がなかったのである。
(1)『三国史記』の于山国に竹島はなかった。
(2)『世宗実録地理志』と『新増東国輿地勝覧』の于山島は欝陵島。
(3)鳥取藩に密航(1696年)した安龍福の証言は偽証。
(4)『東国文献備考』(1770年)の分註は改竄されていた。
(5)「勅令第41号」の石島は島項で、独島ではなかった。
(下條正男)