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実事求是~日韓のトゲ、竹島問題を考える~

第72回

「独島研究」34号所収の崔長根氏の論考に対する批判


 韓国の嶺南大学校独島研究所が刊行する『独島研究』第34号に、崔長根氏の論考「竹島問題研究会の独島領有権捏造の煽動と日本政府の同調」が載せられていた。そこでは「独島は韓国領」を前提に、島根県竹島問題研究会と私に対する批判が延々と綴られていた。崔氏は巻頭の要約で、その論考の概要を次のように述べている。

 

竹島問題研究会は2005年に成立し、島根県の支援を受けている。竹島問題研究会の代表的な人物は下條正男だ。結論的に下條正男が主導して、島根県が動いたのだ。下條は領土問題に対するナショナリストだ。下條には独島問題を本質的に解決しようとする考えはない。独島を日本の領土として確保したいだけだ。下條は歴史学者として目的を達成するため、独島が日本の領土だとする論理を捏造した。下條は捏造した論理で島根県を動かし、そして日本政府に圧力をかけ、独島政策を積極的に推進するようにした。その結果、外務省は独島を日本の固有の領土とし、また1905年に編入して、日本の領土であることを再確認したとした。文部科学省はこのような事実を義務的に小、中、高等学校で教育するよう教科書を改訂した。ナショナリストの下條によって、日本の未来世代の独島教育の歪曲が始まった。(237~238頁)

 

 崔長根氏は、「竹島は韓国領ではない」とした私を論難することで、「独島は韓国領」と反証したつもりなのだろうか。それも個々の私の論稿ではなく、島根県竹島問題研究会の「中間報告書」と「最終報告書」に載せた私の巻頭言だけを読んで「独島が日本の領土だとする論理を捏造した」とし、私をナショナリストと断じたのである。それに竹島問題研究会のメンバーによる調査研究はボランティアで行なわれている。「島根県の支援は受けている」とするのは誤りである。さらに閣議決定で竹島を「隠岐島司ノ所管」とした事実に対しては、島根県と日本政府の見解には違いがあった。島根県では、基本的に日本政府のように「我が国は竹島を領有する意思を再確認しました」とはしていない。

 それに私が竹島問題に関わったのは1996年2月、韓国政府が竹島に接岸施設の建設を発表し、日本政府が抗議したことから韓国内が騒然としていた時である。その際、韓国側の研究者との論争を行なって、「竹島は韓国領ではない」事実を明らかにした。崔氏はその事実には触れずに、何故、下條は「独島が日本の領土だとする論理を捏造した」と断じたのだろうか。本稿は、その批判のための批判をした崔長根氏の論考の誤りを糺すものである。

1. 竹島問題研究会の10年前からはじまった韓国側との論争

 それは1996年2月、当時、韓国のソウル日本人学校に通っていた娘から「何か日本が悪いことしたの」と聞かれ、竹島を韓国領とする韓国側の文献を読んだことからはじまった。韓国側が竹島を韓国領とする論拠としていた文献の解釈に、誤りを見つけたからだ。そこでその事実を論稿にまとめ、日本の『現代コリア』誌を介して韓国の月刊誌『韓国論壇』(1996年5月号)に寄稿したところ、拙稿は「竹島が韓国領という根拠は歪曲されていた」と題して掲載された。これに韓国の国防大学校教授の金柄烈氏等が反論(1)し、その金氏との論争は奉職していた韓国の大学から契約更新を拒まれた1998年まで続いた。

 その論争で明らかにしたのは、これまで韓国側が竹島を韓国領とする際、その論拠としてきた『世宗実録』「地理志」と『東国文献備考』に対する文献解釈の誤りである。『世宗実録』「地理志」の「蔚珍県」条には、「于山武陵二島。在県正東海中」〔分註、二島相去不遠。風日清明則可望見(以下略)〕とあることから、韓国側ではその于山島を独島(竹島)と見なして、独島は韓国領としていた。

 だがそれは、実際に欝陵島から独島が見えるため、その地理的与件で「風日清明則可望見」(よく晴れた日には望み見ることができる)を解釈して、于山島を独島(竹島)としていたのである。『韓国論壇』で明らかにしたのは、『世宗実録』「地理志」が編纂された際には、編集方針を定めた「規式」が存在した事実である。その「規式」では、欝陵島のような島嶼の場合、その島嶼を管轄する地方官庁からの方角と距離を記すことになっていた。

 これは「于山武陵二島。在県正東海中」〔分註、二島相去不遠。風日清明則可望見(以下略)〕を読む時は、蔚珍県の「正東」の方角に于山島と欝陵島の二島があり、その二島は「相去不遠」(互いに遠く離れておらず)、よく晴れた日には蔚珍県から見える(距離にある)と解釈するのである。すると問題になってくるのが于山島の存在である。そこで独島(竹島)を韓国領とする研究者達は、欝陵島からは竹島が「見える」地理的与件に依拠して、「風日清明則可望見」を欝陵島から独島が「見える」と解釈したのである。

 だが実際の欝陵島と竹島は90km近く離れている。それを「相去不遠」(互いに遠く離れておらず)とするのは不自然である。それに『新増東国輿地勝覧』の「八道総図」や「江原道図」の于山島は、朝鮮半島と欝陵島の間に描かれているからだ。これらの事実は、「相去不遠」とされた于山島を独島と即断してはならない、ということである。

 ではその于山島はどのような島だったのか。それを知る手掛かりは、『世宗実録』「地理志」の本文(于山武陵二島。在県正東海中)に続く分註にある。漢籍では、本文の下に分註があれば、そこには本文を説明する情報や典拠が記されているからだ。『世宗実録』「地理志」の于山島の場合、その典拠とされているのが「太祖時、聞流民、逃入其島者甚多」とした記述で、それは『太宗実録』の「太宗十七年二月壬戌条」である。それを『世宗実録』「地理志」の分註で「太祖時」としているのは、『世宗実録』「地理志」が草稿の段階にあったためで、明らかな誤植(2)である。その事実は、『世宗実録』「地理志」を底本編纂された『新増東国輿地勝覧』で確認ができる。そこでは「太宗時、聞流民、逃入其島者甚多」と修正されているからだ。

 『世宗実録』「地理志」と『東国輿地勝覧』の本文に「于山島」が表記されていたのは、いずれも『太宗実録』(「太宗十七年二月壬戌条」)(3)を典拠としていたからである。そこでは、欝陵島に赴いたはずの按撫使の金麟雨が「于山島より還る」と復命し、その于山島には「戸凡そ十五口男女併せて八十六」人が住んでいた。当時、朝鮮では欝陵島にも「十五家」が入島していたとされ、于山島と欝陵島の区別が難しかったのである。そのため『世宗実録』「地理志」を底本に編纂された『新増東国輿地勝覧』では「一説于山欝陵本一島」(4)として于山島を欝陵島と同島異名の島とし、「見える」は「規式」に従って、蔚珍県から欝陵島が「見える」としたのである。これについて当時の論争相手であった金柄烈氏は、「『新増東国輿地勝覧』はそうかもしれないが」(5)と反論したが、それは朝鮮時代の地誌が「規式」に基づいて編纂されていた事実と分註に対する知見を欠き、歴史研究の基本である文献批判を怠ったからである。

2.改竄されていた『東国文献備考』(「輿地考」)の分註

 『太宗実録』(「太宗十七年二月壬戌条」)で、「戸凡そ十五口男女併せて八十六」人が住むとした于山島は、1696年、日本に密航した安龍福が鳥取藩によって追放された後、朝鮮側で「松島は即ち于山だ」と供述したことで、松島(竹島)にされてしまったのである。それも安龍福の供述は、『東国文献備考』の「輿地考」の分註(「輿地志云、欝陵于山皆于山国地、于山則倭所謂松島也」)に取り入れられ、竹島を韓国領とする論拠にされてしまうのである。さらに『東国文献備考』(「輿地考」)の分註は、欝陵島に対比され「于山欝陵本一島」とされていた于山島を「倭所謂松島」と改竄したものだった。金柄烈氏との論争では、その事実を明らかにしたのである。

 その『東国文献備考』(「輿地考」)の分註が改竄されていた事実は、韓国側にとっては于山島を「倭所謂松島」とする唯一の文献には、証拠能力をなかったということである。

 『東国文献備考』は、申景濬の『疆界誌』を底本として1770年に編纂されたが、その『疆界誌』は、李孟休が編纂した『春官志』を謄写したものだった。しかし申景濬は、李孟休が于山島を欝陵島としていた部分を書き換え、「一つは則ち倭の所謂松島にして、けだし二島は倶にこれ于山国なり」として、于山島を松島(竹島)としていたのである。

 だが安龍福が、欝陵島で見たとする于山島は、安龍福の供述によれば欝陵島の北東にあって、欝陵島よりも頗る大きな島だった。しかし松島は欝陵島の南東に位置し、欝陵島に比べて遥に小さな岩礁である。それに安龍福事件後、于山島は欝陵島の東2kmの竹嶼のこととされ、その地理的認識は鄭尚驥や金正浩によって踏襲されていた(6)。

 于山島を「倭所謂松島」とした『東国文献備考』(「輿地考」)の分註は、安龍福の供述に依拠して、原典の『春官志』では欝陵島とされていた于山島を松島(竹島)としていたのである。この「改竄説」について、論争相手の金柄烈氏は反証することができなかった。

 崔長根氏は『独島研究』(34号)で、下條は「独島が日本の領土だとする論理を捏造した」として、「日本の未来世代の独島教育の歪曲が始まった」と臆断しているが、崔氏はその不都合な事実には沈黙している。私が報告書などで「竹島は韓国領ではなかった」とするのは、于山島を松島(竹島)とする唯一の文献である『東国文献備考』(「輿地考」)の分註が改竄されていた事実を明らかにし、『世宗実録』「地理志」の「見える」を地理的与件で欝陵島から竹島が見えるとした韓国側の解釈の誤りを明らかにしているからである。

 

 

 注1. 金柄烈氏との論争は『独島論争』として、タダメディアから 2001 年に刊行された。

 注2. 『世宗実録』「地理志」の「蔚珍県」条では、外にも「智証王十三年」とすべきところを「智証王十二年」としている。

 注3. 『太宗実録』の「太宗十七年二月壬戌条」には次のように記されていた。

 按撫使金麟雨還于山島。献土産大竹水牛皮生苧綿子検朴樸木等物。且率居人三名以来。其島戸凡十五口男女併八十六。

 麟雨之往還也。再逢颶風、僅得其生」。

 于山島には、「凡十五口男女併八十六」が居住するだけでなく、「大竹水牛皮生苧綿子検朴樸木等物」があった。

 この于山島を竹島とすることはできない。

 注4. 『世宗実録』「地理志」、『高麗史』、『東国輿地勝覧』の編纂に関わった梁誠之は、『東国輿地勝覧』では

 「一説于山欝陵本一島、地方百里」とし、『高麗史』(「地理志」)では、「一云于山武陵本二島。相去不遠。

 風日清明則可望見」として、于山島に対して明確な知見を持っていなかった。また『東国輿地勝覧』に収載さ

  た地図は、梁誠之の地図を基にしているが、于山島は朝鮮半島の蔚珍と欝陵島の間に描かれている。

 注5. 1998年9月号の『韓国論壇』(165頁)で、金柄烈氏は「『新増東国輿地勝覧』は陸地から欝陵島の樹木を歴歴

 見えると解説できるかもしれないが、『世宗実録』「地理志」と『高麗史地理志』は二つの島だけが島の形態

 を近くに見ることができると解釈する以外にない、極めて正確な記録である」と反論していた。

 注6. 安龍福の供述以前の于山島と対比されていたのは欝陵島である。それが安龍福の証言を経て松島とされた于山

 島は、1711年、欝陵島捜討使の朴錫昌が復命した『欝陵島図形』以後、欝陵島の東二キロほどにある竹嶼の

 名となった。鄭尚驥の『東国大地図』と金正浩の『大東輿地図』はそれ踏襲して、竹嶼を于山島と表記し ている。

(下條正男)


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