実事求是~日韓のトゲ、竹島問題を考える~
第71回
保坂祐二氏が「韓日関係特別講演」で語った虚偽の歴史(下)
『勅令第41号』(1900年)の石島を独島と解釈した世宗大学の保坂祐二氏は、独島は日本が竹島(独島)を島根県の隠岐島司の所管とする五年前から韓国領だったとした。
だがそれは石島の発音が独島に近いという理由だけで、確かな証拠があってのことではなかった。石島を独島とするのであれば、『勅令第41号』が1900年10月25日に公布され、欝陵島が何故、欝島郡に昇格したのか、その経緯にも言及する必要があったのである。
2. 『勅令第41号』の石島と保坂祐二氏の解釈の誤り
1900年10月25日、大韓帝国が『勅令第41号』を公布した発端は、当時、英国が所管していた海関を通すことなく、日本人が欝陵島で木材伐採をしていたことにあった。そこで東莱からは税務司の羅保得(E.Raporte)が加わり、日韓共同の調査を欝陵島で行った後、大韓帝国が欝陵島を欝島郡に昇格したのである。その時、大韓帝国では『勅令第41号』を公布して郡庁を台霞洞に置き、行政区域を「欝陵全島と竹島、石島」としたのである。
その行政区域は、内部視察官の禹用鼎の復命を基に、内部大臣の李乾夏が議政府会議に提出した『欝陵島を鬱島郡と改称し島監を郡守に改正することに関する請議書』(以下、『請議書』)によって定められたのである。その李乾夏が提出した『請議書』では、欝陵島を「該島の地方は縦可八十里で、横為五十里」(注1)としていた。だがそれは、欝陵島一島の疆域だったのである。
朝鮮の十里は日本の一里(約4km)にあたり、欝島郡の疆域は縦(南北)32km、横(東西)20kmだったことになる。独島はこの欝陵島から90km近くも離れている。この事実は、欝島郡の行政区域である「欝陵全島と竹島、石島」には含まれていなかったということになる。それを保坂氏は、石島の発音が独島に近いとう理由で、「欝陵全島と竹島、石島」の石島を独島としたのである。だがそれは以下の理由で、誤りであった。
第一の理由
内部大臣の李乾夏は、その『請議書』で欝陵島の疆域を「該島の地方は縦可八十里で、横為五十里」としていた。これは欝島郡の行政区域(「欝陵全島と竹島、石島」)も、「縦可八十里で、横為五十里」の中にあったことになる。
それに李乾夏が「縦可八十里で、横為五十里」とした欝陵島の疆域は、1711年に欝陵島捜討使の朴錫昌が、「周回僅可二百余里、自東至西八十余里、自南至北五十余里」とした『欝陵島図形』に記された欝陵島の疆域である。その『欝陵島図形』には独島が描かれていない事実は、「欝陵全島と竹島、石島」には独島が含まれていなかったということである。
それに内部大臣の李乾夏が欝陵島の疆域を「該島の地方、縦可八十里で、横為五十里」としたのは、朴錫昌の『欝陵島図形』系統の「欝陵島図」が、その後の欝陵島地図の基図となっていたからである。朴錫昌の『欝陵島図形』は『輿地図』、『広輿図』、『海東地図』等の地図帖に収録され、鄭尚駿の『東国大地図』(18世紀中期)や『我国総図』(18世紀後期)等に描かれた欝陵島の基図となっていた。内部大臣李乾夏が「縦可八十里で、横為五十里」としたのは、それが当時の欝陵島に対する標準的な地理的認識だったからである。
その朴錫昌の『欝陵島図形』に独島が描かれていないように、内部大臣李乾夏が「該島、地方が縦可八十里で、横為五十里」とした欝陵島の疆域には、欝陵島から「百余里」(注2)も離れた独島は含まれていなかったのである。
第二の理由
保坂氏は、石島の発音が独島に近いという理由で、『勅令第41号』の中の石島を独島とした。だがそれは文献批判をすることなく、『勅令第41号』を恣意的に解釈したからである。
内部大臣の李乾夏の『請議書』を基に『勅令第41号』が公布されたのは、李乾夏が『請議書』でも「本部視察官禹用鼎と東莱の税務司の視察録を参互調査」したとするように、視察官禹用鼎と税務司(羅保得・E.Raporte)の視察録を基にしたからである。
欝島郡の行政区域が1900年10月25日、『勅令第41号』の第二条で「欝陵全島と竹島、石島」とされたのは、日韓が同年6月1日から6日にかけ、共同調査を欝陵島で実施していたからである。その欝陵島調査には釜山領事館の領事官補赤塚正助と内部視察官の禹用鼎が従事し、その禹用鼎と東莱の税務司が提出した視察録を李乾夏が「参互調査」して作成したのが『請議書』である。
その禹用鼎の報告書(『欝島記』)には、島民から聴取した欝陵島の疆域が「全島長可為七十里、広可為四十里、周廻亦可為一百四五十里」と記されていた。それを「参互調査」した李乾夏が、『請議書』では「該島の地方、縦可八十里で、横為五十里」とし、『勅令第41号』の第二条では、欝島郡の行政区域を「欝陵全島と竹島、石島」としたのである。欝島郡の行政区域とされた「欝陵全島と竹島、石島」は、「該島の地方、縦可八十里で、横為五十里」の中にあったのである。
それは日韓共同の欝陵島調査が、欝陵島一島で終わっていたことと関係している。釜山領事館の領事官補赤塚正助は、欝陵島調査の結果を『欝陵島山林調査概況』(注3)にまとめ、そこでは欝陵島の全容を描いた地図とともに、次のように復命しているからである。
欝陵島は韓国江原道に属したる島嶼にして、松島又は竹島と称し〔分註〕東経一三〇度八分二秒、北緯三七度五分、(中略)、東西凡六哩強、南北凡四哩強、周囲凡二十哩
赤塚正助は、欝陵島の疆域を目測して「東西凡六哩(約9,6km)強、南北凡四哩(約6,4km)強、周囲凡二十哩(約32km)」とし、調査対象の欝陵島を地図に描いたのである。その欝陵島地図に描かれているのは、欝陵島本島と「竹島」、「島牧」、「空島」の三島である。禹用鼎も『欝島記』で述べているように、日韓の欝陵島調査の対象は欝陵島一島で、船で欝陵島を一周して終っていたからである(注4)。そのため欝陵島調査では独島には行っておらず、独島に関する記述は、禹用鼎の『欝島記』にも赤塚正助の『欝陵島山林調査概況』にもないのである。その独島を、欝島郡の行政区域に含めるのは無理がある。
第三の理由
内部視察官の禹用鼎は、欝陵島の疆域を「全島長可為七十里、広可為四十里、周廻亦可為一百四五十里」とし、領事官補の赤塚正助はその欝陵島を描いて『欝陵島山林調査概況』に残していた。その欝陵島地図には欝陵島本島と「竹島」、「島牧」、「空島」の三島が描かれている。この三島の内、「竹島」と「島牧」は、1882年、高宗から欝陵島の踏査を命じられた検察使李奎遠が作図した『欝陵島外図』に由来する小島で、いずれも欝陵島の附属島嶼である。この内、「竹島」は朴錫昌の『欝陵島図形』で「所謂于山島」とされていた小島で、欝島郡の行政区域(「欝陵全島と竹島、石島」)の中の竹島がその竹島である。
だが赤塚正助は、李奎遠の『欝陵島外図』だけでなく、朴錫昌の『欝陵島図形』系統の地図にも知見があったようである。赤塚正助が欝陵島地図に描いた「空島」は、当初、朴錫昌の『欝陵島図形』では「穴岩」としていたが、その後、朴錫昌の『欝陵島図形』系統の地図では「孔岩」と表記された奇岩で、島ではない。その「孔岩」を赤塚正助が「空島」としたのは、韓国語音を借りて「孔岩(コン・アム)」を「空島(コン・トウ)」と表記して、島に見立てたのであろう。
もう一つの「島牧」は欝陵島の北東、船板邱尾近くにある小島で、李奎遠の『欝陵島検察日記』と『啓本草』では「島項」と表記されている。この「島牧(ソム・モク)」も、韓国語音で読めば「島項(ソム・モク)」と近い発音になる。
ここで重要なことは、欝陵島の附属島嶼は、1882年に作図された李奎遠の『欝陵島外図』によってその名称が変わっていたことである。赤塚正助の欝陵島地図で「竹島」、「島牧」とした二島は、李奎遠の『欝陵島外図』から始まる島名で、その「竹島」は欝島郡の行政区域とされた「竹島」である。それに李奎遠の『欝陵島外図』では、欝陵島の東西を「仮量為六十里」として、南北を「仮量為五十里」とし、欝陵島の周廻を「仮量為一百四五十里」(注5)とした欝陵島の附属島嶼を描いていたのである。欝陵島調査をした禹用鼎も欝陵島の周廻を「可為一百四五十里」とし、赤塚正助は李奎遠の『欝陵島外図』に由来する島名を使って欝陵島地図を描いていたのである。それは欝陵島調査の対象が欝陵島一島だったからで、その赤塚正助の「欝陵島地図」に独島が描かれていないのは、独島は欝陵島の附属島嶼ではなかったからである。
第四の理由
李奎遠は欝陵島踏査に赴く直前、高宗から「松竹島芋山島は欝陵島の傍らに在り、その相距たる遠近何如」、「必ず図形と別単を以て詳細を録達せよ」(注6)と命じられていた。
『欝陵島外図』と『欝陵島内図』はその図形にあたり、『啓本草』が別単の写しである。高宗の問いには、その『啓本草』で「松竹于山等の島、僑寓の諸人、皆傍近の小島を以てこれに当てる」と答え、松竹島芋山島を傍近の小島と復命したのである。
ところが保坂氏は、高宗の発言内容がさも歴史事実であるかのように語り、「高宗が于山島の名称を一時的に松島に変えた」としたが、その事実はない。欝陵島を踏査した李奎遠は、欝陵島の付属島嶼を『欝陵島外図』に描いたが、そこには独島がなかったからだ。『欝陵島外図』に描かれているのは、『啓本草』では「有二小島、形如臥牛、而左右回旋、勢若相抱、一曰竹島、一曰島項、只有叢竹而己」とし、『欝陵島検察日記』でも「南便洋中、有二小島」とした竹島と島項である。欝陵島の付属島嶼とされていたのは、竹島と島項である。欝島郡の行政区域(「欝陵全島と竹島、石島」)の竹島は、その竹島である。
だが欝島郡の行政区域(「欝陵全島と竹島、石島」)には島項ではなく、石島が載っている。そのため独島を韓国領とする人々は、石島を独島と解釈したのであろう。だがその解釈には何ら根拠がないのである。それに石島を独島と解釈する前に、検討しておくべきことがあったのである。
それは欝島郡の行政区域(「欝陵全島と竹島、石島」)は漢語で表記されているが、島項は、島の形が「臥牛」のように見えることから李奎遠がそれを「牛の首(項・うなじ)」に見立て、韓国語音を漢字に借字して島項(ソム・モク)としていた事実である。「ソム・モク」は韓国語では牛の首の意味がある。 それにその島項を「ソム・モク」と読むことは、海図306号「竹邊灣至水源端」(1909年刊行)で確認ができる。そこでは島項を鼠項島とし、鼠項島の傍らには英字表記で「SO MOKU SOMU」として、読み方を示しているからだ。
そのため韓国語音を漢字に借字した島項(ソム・モク)を、漢語として欝島郡の行政区域に記載するためには、漢語に直す必要があった。それには方法があった。韓国語音で表記された島項(鼠項)を、「反切」によって島項の漢字二字を一音の漢語にすることである。それには鼠項(SO MOKU)の鼠(SO)の最初の声母Oと、項(MOKU)の最初の頭子音Mを除き、鼠項(SO MOKU)からO Mを除くのである。すると残るのがSOKU(石)である。反切を使って「SO MOKU」を読むと、島項(鼠項)は「SOKU(石)」の島、漢語の石島となるのである。
『勅令第41号』の第二条で、漢語によって表記された欝島郡の行政区域(「欝陵全島と竹島、石島」)には島項(鼠項)はなかった。だが韓国語音を漢字に借字した島項(鼠項)は、漢字文化圏では常識であった反切を使って漢語にすれば、石島となるのである。この事実は、「欝陵全島と竹島、石島」の石島は独島ではなく、島項だったということである。
さて以上、四つの理由からの結論である。『勅令第41号』の第二条で、欝島郡の行政区域とされた「欝陵全島と竹島、石島」の石島は、独島ではなく島項(観音島)だったということである。この事実は、1900年10月25日に公布された『勅令第41号』には、独島は含まれていなかったということなのである。保坂祐二氏は、『弘益財団』主催の「韓日関係特別講演」で、その不都合な事実を隠蔽すべく、虚偽の歴史を語っていたのである。
注1.『奏本』第四十七冊、「光武四年十月二十四日議政府会議」六一三頁
注2.議政府外事局、『各観察道案』 I (奎章閣)、光武十年四月二十九日付の江原道観察使署理春川郡守李明来が上申した「報告書号外」に引用
された、欝島郡守沈興澤報告書では、欝陵島からの距離を「本郡所属独島が在於外洋百余里」としていた。
注3.駐韓日本公使館記録第十一巻、所収「欝陵島山林概況」137頁~143頁。
注4.禹用鼎『欝島記』によると、合同調査は,「六月一日、與日領事、会同調査(中略)、翌日(四日)、会同更搭輪船、巡察全島(中略)、越六
日、上午十時、草草勘簿、仍搭輪船回棹」までの5日間に亘って行なわれ、4日には会同して更に輪船に搭って全島を巡察した。だが独島には
渡ってい ない。それは合同調査の対象が欝陵島での木材伐採だったことと、「輪船不可多日留泊、石炭亦告乏」といった事情からである。
注5.大韓公論社『独島』所収、『啓草本』147頁。同所収、『欝陵島検察日記』の「高宗十九年五月十日条」にも「水路足為一百四五十里許」
136頁。
注6.『高宗実録』(巻十九)「高宗十九年四月七日条」に、「召見検察使李奎遠、辞陛也。教曰鬱陵島近有他国人物無常往来。任自占便之弊云
矣。且松竹島芋山島、在鬱陵島之傍而其相距遠近何如」
(下條正男)
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