実事求是~日韓のトゲ、竹島問題を考える~
第70回
保坂祐二氏が「韓日関係特別講演」で語った虚偽の歴史(上)
韓国の弘益財団は2022年9月、世宗大学の保坂祐二氏による「韓日関係特別講演」をネット上に公開した。その特別講演は日本人を対象としたもので、これまでに「歴史的事実から見た独島・竹島」、「国際法から見た独島・竹島」、「尖閣諸島問題」等(注1)が公表されている。
そこで保坂氏が竹島問題と尖閣諸島問題について語ったのは、日本政府の外交姿勢を矛盾したダブルスタンダードと批判することで、韓国による竹島の不法占拠を正当化することに目的があったからだ。その講演の趣旨について、保坂氏は次のように整理している。
1.尖閣諸島と独島・竹島比較
1)日本は尖閣諸島を実効支配、韓国は独島・竹島を実効支配。
2)日本は、尖閣諸島問題は存在しないと主張。韓国も独島問題は存在しないと主張。
3)日本は、韓国が独島・竹島を実効支配している現実を無視、韓国が不法占拠していると主張。
4)日本は、尖閣諸島は紛争地域ではないが、独島・竹島は紛争地域だと主張している。そのような二面性のある態度を国際社会は
受け入れていないのが現実。
だが竹島問題と尖閣諸島問題に対する日本政府の外交姿勢は矛盾しておらず、ダブルスタンダードでもない。竹島が韓国に不法占拠され、尖閣諸島が日本領であることは歴史の事実だからだ。それを「日本は、尖閣諸島は紛争地域ではないが、独島・竹島は紛争地域だと主張している」と批判するのは、保坂氏が「竹島は韓国領」とする前提で語っているからである。それも保坂祐二氏は文献批判を怠り、論拠を示すことなく『世宗実録地理志』(「蔚珍県条」)の本文に記された于山島を独島(竹島)としたのである。
だが『世宗実録地理志』(「蔚珍県条」)の于山島を解釈する際は、それに続いて本文を注釈した分註も読まねばならないのである。保坂氏は、本文に記された于山島を独島と解釈したが、その本文の于山島は、分註にある『太宗実録』の記事を典拠としているからだ。そして事実、『太宗実録』の中の于山島は欝陵島のことで、独島ではなかったのである。
では保坂氏が、『世宗実録地理志』(「蔚珍県条」)の于山島を独島(竹島)としたのは何故だろうか。それは保坂氏の講演を聞けばわかることだが、保坂氏には、歴史研究にとっては基本となる文献批判を怠って、文献を恣意的に解釈する傾向があるからだ(注2)。1900年10月25日の『勅令第41号』を根拠に、その欝島郡の行政区域にある石島を独島と解釈したのも同じ理由からであった。保坂氏としては『勅令第41号』の中の石島を独島として、竹島が日本領となった1905年より5年も早く、独島は韓国領になっていたとしたかったのだろう。だがその石島は鼠項島(注3)のことで、独島ではないのである。
そこで今回の「実事求是」では、『世宗実録地理志』と『勅令第41号』に対する保坂氏の文献解釈の誤りについて、明らかにすることにした。
1. 『世宗実録地理誌』と保坂祐二氏の解釈の誤り
保坂祐二氏が于山島を独島と解釈したのは、『世宗実録地理志』の「蔚珍県条」に次のような記述があるからである。
〔本文〕于山武陵二島在県正東海中。〔分註〕二島相去不遠。風日清明則可望見(以下略)
これを保坂氏は「于山島と武陵島の二島は、蔚珍県の正東の海中に在る。二島は互いに遠く離れていないので、よく晴れた日には望み見ることができる」と読んで、「于山武陵二島」を独島と欝陵島としたのである。それはよく晴れた日、欝陵島から見える島は独島の外にないので、その于山島は独島だとしたのである。保坂氏は、欝陵島からは独島が見えるという地理的与件に依拠して、『世宗実録地理志』(「蔚珍県条」)を解釈したのである。
だが地理的与件で『世宗実録地理志』(「蔚珍県条」)を解釈するのは、本末転倒である。『世宗実録地理志』(「蔚珍県条」)には分註があり、そこには于山島と武陵島に関連して、その典拠となる記事が載せられているからだ。『世宗実録地理志』(「蔚珍県条」)の本文を解釈する際は、その本文で「于山武陵二島」とすることになった典拠についても、確認しておかねばならないのである。それが分註に「太祖時、聞流民、逃入其島者甚多」と引用された(注4)、『太宗実録』の「太宗十七年二月壬戌」条(注5)である。
そこでは、武陵島(欝陵島)に派遣された按撫使の金麟雨が、「于山島から還る」と復命し、その于山島には「十五口男女并八十六」人が住んでいるとしていた。さらに同じ『太宗実録』の「太宗十六年九月庚寅」条(注6)では、欝陵島には「十五家」が入居したとしている。于山島にも欝陵島にも、「十五家」の島民がいたのである。そのため『世宗実録地理志』の編者の梁誠之は、于山島と武陵島の区別ができず、本文には「于山武陵二島」と表記したのである。それは『世宗実録地理志』と同じ梁誠之が編纂した『東国輿地勝覧』の「蔚珍県条」で確認ができる。そこでは次のように記述されているからである。
〔本文〕于山島欝陵島〔分註〕二島は県の正東の海中に在り。三峯岌業として空を◆(支)え、南峯やや卑(低)し。風日清明なれば則ち峯頭の樹木及び山根の沙渚、歴々見るべし。風便なれば則ち二日到るべし。一説に于山欝陵本一島。地方百里。(◆はてへんにしょうがしら、口、牙)
梁誠之等が、『世宗実録地理志』等に依拠して編纂した『東国輿地勝覧』では、その本文では于山島と欝陵島を併記し、分註では朝鮮半島の蔚珍県から見た欝陵島の様子を描写しただけで、于山島に関しては記述がないのである。さらに分註では、一説として「于山欝陵本一島」とし、于山島と欝陵島を同島異名の島と見ていたのである。于山島に関して、『世宗実録地理志』の分註では『太宗実録』の「太宗十七年二月壬戌」条を典拠としていたが、『東国輿地勝覧』では于山島と欝陵島を同島異名として、後世の判断を俟ったのである。
それに『世宗実録地理志』と『東国輿地勝覧』の編者であった梁誠之は、『高麗史』の撰述にも関わり、その「地理志」(「蔚珍県条」)では「于山欝陵本二島」として、于山島と欝陵島を別々の二島としたのである。これらの事実は、于山島について、『世宗実録地理志』(「蔚珍県条」)、『東国輿地勝覧』(「蔚珍県条」)、『高麗史』(「地理志」)では、いずれもその所在を明確にしていなかったということである。それに『東国輿地勝覧』と『高麗史』では、于山島に対比されていたのは欝陵島で、独島に関する記述はなかった。だが保坂氏は、欝陵島からは独島が見えるといった地理的与件に依拠して、その『世宗実録地理志』(「蔚珍県条」)の于山島を独島としたのである。これを本末転倒というのである。
『世宗実録地理志』、『東国輿地勝覧』、『高麗史』等の于山島は『太宗実録』の記事に由来しており、その于山島には「十五口」の島民がいた。そのため韓百謙の『東国地理誌』(1615年)や李孟休の『春官志』(1746年)では、于山島を欝陵島としていたのである(注7)。
だがその所在不明の于山島は、鳥取藩に密航した安龍福事件(1696年)を契機として、実在の島として朝鮮の地図に定着したのである。それは1711年、欝陵島捜討使となった朴錫昌が『欝陵島図形』を作図して、欝陵島の東2キロにある竹嶼を「所謂于山島」としたからである。そのため鄭尚駿の『東国大地図』(18世紀中期)と『我国総図』(18世紀後期)、金正浩の『大東輿地図』(1861年)でも、欝陵島の東2キロの竹嶼を于山島としたのである。
安龍福事件以前、「于山欝陵本一島」、「于山欝陵本二島」と欝陵島に対比されていた于山島は、1696年の安龍福の密航事件を経て、竹嶼の呼称となったのである。それを保坂氏は、欝陵島からは独島が見えるとして、その地理的与件を根拠に于山島を独島としていたのである。それに保坂氏が、『世宗実録地理志』の「風日清明則可望見」(よく晴れた日には、望み見ることができる)を欝陵島から見た独島と解釈したのは、朝鮮時代の地誌の読み方を無視したからである。『世宗実録地理志』の一部となった『慶尚道地理志』は、その編集方針を定めた「規式」(注8)に則って編纂されていたのである。
さらに『世宗実録地理志』を底本として編纂された『東国輿地勝覧』も、「規式」(「地理誌続撰事目」)に基づいて撰述されていたのである。その「規式」では、欝陵島のような海島の場合、管轄する官庁からの方向と距離を記すことになっていた。そのため『世宗実録地理志』の「于山武陵二島在県正東海中。(分註)二島相去不遠。風日清明則可望見」も、その「規式」に準じて読解しなければならないのである。そのため『世宗実録地理志』の「蔚珍県条」は、「蔚珍県が管轄する欝陵島は蔚珍県の正東の海中にあって、よく晴れた日には蔚珍県から見える距離にある」と読むのである。
それを保坂氏は、朝鮮時代の地誌が「規式」に基づいて編纂されていた事実とは無関係に、地理的与件に依拠して『世宗実録地理志』の「蔚珍県条」を解釈していたのである。
朝鮮史研究には当然、常道がある。『世宗実録地理志』(「蔚珍県条」)を解釈する際は、論拠を示して、編集方針である「規式」に遵って読まねばならないのである。それを保坂氏は地理的与件で文献を解釈し、日本政府の外交姿勢を矛盾したダブルスタンダードと批判していたのである。それ故、保坂氏の講演は、竹島の不法占拠を正当化するためのプロパガンダだったのである。
注1.韓国の「弘益財団」による保坂祐二氏の「韓日関係特別講演」は、2022年10月7日から2023年5月8日の間に公開された。
注2.『世宗実録地理志』(「蔚珍県条」)の于山島を独島(竹島)と解釈する論者は、その于山島が7011年の朴錫昌の『欝陵島図形』以来、欝陵
島の東二キロほどにある竹嶼とされた事実を無視しているからである。
注3.石島が島項(鼠項島)であった事実については、実事求是第71回を参照のこと。
注4.『世宗実録地理志』(巻一百五十三)「地理志」には、「太祖時、聞流民、逃入其島者甚多」とあるが、これは『太宗実録』(巻三十二)
「太宗十六年九月庚寅条」の「麟雨又啓、武陵島遥在海中、人不相通。故避軍役者、或逃入焉」等に依拠している。
注5.『太宗実録』(巻三十三)「太宗十七年二月壬戌条」に、「按撫使金麟雨還自于山島、献土産大竹水牛皮生苧綿子検樸木等物。且率居人三名
以来。其島戸凡十五口、男女并八十六、麟雨之往還也」として、「于山島より還る」とある。
注6.『太宗実録』(巻三十二)「太宗十六年九月庚寅条」に「戸曹参判朴習啓。臣嘗為江原道都観察使、聞武陵島周回七息。傍有小島、其田可五
十余結。所入之路纔通一人、不可並行。昔有方之用者、率十五家入居」とあり、武陵島にも「十五家」が入居したとしている。
注7.韓百謙『東国地理誌』(三十六丁)、新羅の「封疆」で、欝陵島ではなく于山島を表記して、その後に『東国輿地勝覧』(「蔚珍県条」)を
引用。李孟休の『春官志』(「欝陵島争界」)には、「至于山羽陵蔚陵武陵礒竹皆音号転訛而然也」とした按語がある。
注8.朝鮮総督府中枢院編『校訂慶尚道地理志慶尚道続撰地理誌』(昭和13年刊)所収の『慶尚道地理志』の序では、「規式に略して曰く」として
「海中諸島。水陸之遠近」とし、同書の巻首には規式が「一、諸島陸地相去水路息数、及島中在前人民接居、農作無●写事」と記されてい
る。(●は門構えに弁)
(下條正男)
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