実事求是~日韓のトゲ、竹島問題を考える~
第69回
「竹島の日を考え直す会」からの反論を反駁する(下)
3.安龍福事件と安龍福の供述について
今日、「竹島を韓国領」とする研究者達の多くは、文献や古地図の中にある于山島を竹島(独島)として、何ら疑っていないようである。それは鳥取藩に密航した安龍福が、鳥取藩によって追放された後、朝鮮政府の取り調べに対して「松島(現在の竹島)は即ち于山だ。これもまた我国の地である」とした供述に、無批判に従っているからである。現に久保井氏も、前回の意見書では次のように述べていた。(原文のまま引用)
「島根県リーフレット」が引用した「世宗実録地理志」「新増東国輿地勝覧:八道総図」は、「于山」名の記述の始まりを述べただけである。「于山島」が「独島=竹島」に比定される「安龍福事件」(1693~96)以降に、史料の探査、解説をすべきである。
久保井氏によれば、「于山」の名は『世宗実録地理志』と『新増東国輿地勝覧』、それに『新増東国輿地勝覧』所収「八道総図」に始まるが、その「于山」を「独島=竹島」に比定したのは、安龍福だというのである。
それは久保井氏も「『安龍福事件』(1693~96)以降に、史料の探査、解説をすべきである」とするように、安龍福の供述は、後に『東国文献備考』(1770年)に引用され、その「輿地考」では「欝陵・于山は皆于山国の地。于山は則ち倭の所謂松島(現在の竹島)なり」と記されているからである。そのため「竹島を韓国領」とする竹島研究では、その『東国文献備考』(「輿地考」)の記述に依拠して、于山国(欝陵島)が新羅に征服された六世紀以来、その属島である于山島(独島)は韓国領だったとするのである。安龍福の供述は、竹島問題では重要な役割を果たしているのである。
だがその『東国文献備考』の「輿地考」(「于山は則ち倭の所謂松島(現在の竹島)なり」)は、『東国文献備考』が編纂される過程で引用文が改竄されていたのである(注1)。それは『東国文献備考』(「輿地考」)が編纂される際、その底本には「于山欝陵本一島」(于山島と欝陵島同一の島である)とあったが、それが安龍福の供述に依拠して、「于山は則ち倭の所謂松島なり」と書き換えられたからである(注2)。
それにその「于山欝陵本一島」(于山島と欝陵島同一の島である)は、『新増東国輿地勝覧』の分註からの引用文であった。これは『新増東国輿地勝覧』の于山島と、安龍福が「松島(現在の竹島)は即ち于山だ」とした于山島について、その于山島がどこにあったのか、それを明らかにしなければならないということである。
だが久保井氏は、安龍福が何故、「松島(現在の竹島)は即ち于山だ」と供述したのか、またその于山島はどこの于山島だったのか、その肝心な部分についての論証を行なっていない。これは安龍福が「松島(現在の竹島)」を「于山島」と比定していたとしても、それは既知の「松島(現在の竹島)」を「于山島」と呼び換えていたに過ぎないからで、その「于山島」が実際の「松島(現在の竹島)」だったのか、その事実を明らかにしなければならないのである。
そこで「実事求是」では、『竹島紀事』の記事を根拠に、安龍福が「松島(現在の竹島)は即ち于山だ」とした于山島は、欝陵島の北東に位置する竹嶼だったとしたのである(注3)。それについても久保井氏は反論することもなく、「要するに『久保井規夫氏への批判』になっていない」として、論争を避けていたのである。
しかし安龍福が1696年に鳥取藩を目差して密航してきた際に持参した「朝鮮八道之地図」は、『新増東国輿地勝覧』に由来する地図で、そこに描かれている于山島は欝陵島であった。隠岐島に着岸した安龍福は、その「朝鮮八道之地図」を根拠に、そこに描かれた子山島(于山島)を倭(日本)の松島として、松島は朝鮮の江原道にあるとしたのである(注4)。
それに安龍福が于山島とした島は、次に述べるように欝陵島の北東に位置していた。その于山島は、欝陵島の南東に位置する「松島」とは真逆の方向にあったのである。
久保井規夫氏に対する反論の内、「3の『安龍福事件』」では、安龍福が「松島(現在の竹島)は即ち于山だ」とした于山島は、現在の竹嶼であった事実を明らかにしたのである。それを久保井氏は、意見書の中で「要するに『久保井規夫氏への批判』になっていない」として、その不都合な事実の封印を謀ったのである。
4.竹嶼と于山島
前回の意見書で久保井氏は、「『于山島』が『独島=竹島』に比定される『安龍福事件』(1693~96)以降に、史料の探査、解説をすべきである」としていた。
そこで久保井氏に対する前回の反論では、「安龍福事件」後、朝鮮政府が欝陵島捜討使を欝陵島に派遣したことから「欝陵島地図」が描かれることになったとし、その中で、1711年に捜討使となった朴錫昌が描かせた「欝陵島図形」では、現在の竹嶼(チクトウ)に「海長竹田/所謂于山島」と注記していた事実を明らかにしたはずである。この「所謂于山島」とされた竹嶼は、以後、于山島として、その名を地図上に留めることになった経緯についても明らかにしていたはずである。
もちろんその于山島は、独島(竹島)ではなかった。さらにその「所謂于山島」は、鄭尚驥の『東国大地図』や金正浩の『東国輿地図』に踏襲され、1882年の李奎遠の『欝陵島外図』では竹島(チクトウ)と表記されている。これは「安龍福事件」後、「于山島」は欝陵島東2キロほどの竹嶼(竹島=チクトウ)の島名として、定着していたということである。
それを久保井氏は「安龍福事件」後、「于山島」が「独島=竹島」に比定されたとしているが、その事実は無い。「安龍福事件」後、「于山島」が現在の竹嶼(竹島=チクトウ)の呼称となった事実は、『日省録』の「正祖七年(1783年)五月十二日」条で確認ができるからである。そこには「北、于山島あり。周回二・三里ばかりとなす。南、都庄仇味に至る」と記されている。この「正祖七年五月十二日」条では、欝陵島の南側にある都庄仇味と対比して、その北には于山島があり、その広さは一周(周回)、二・三里(800m~1200m)としているからだ。この于山島は、欝陵島の南側にある都庄仇味に対比して、その北側に位置しているので独島ではない。それに対して久保井氏は、次のように反論したのである。
『安龍福事件』以降の于山島は、欝陵島東2キロの竹嶼であった事実については、私は同意できない。日朝両国ともに、渡海して欝陵島を知る者は、すでに定着していた固有名の「竹嶼」の名称を変更して于山島として比定しない。机上の空説である。しかし、欝陵島に存在を許さない数百年に渡る空島施策の為に、現場検証をしない仮定の学説、地図表記として、于山島の名前は存在し続けた。それ故、安龍福が松島(独島=竹島)の存在を知った際、于山島の名を当てはめて朝鮮領土であると主張したのである。
久保井氏の反論の特徴は、文献に依拠して論ずるのではなく、「日朝両国ともに、渡海して欝陵島を知る者は、すでに定着していた固有名の「竹嶼」の名称を変更して于山島として比定しない。机上の空説である」等と、論拠も示すことなく個人の意見を述べる傾向があるが、「竹嶼」の名称が登場するのは近代になってからである。安龍福が「松島(現在の竹島)は即ち于山だ」と供述したのは1696年である。その近代に登場した「『竹嶼』の名称を変更して、于山島として比定する」ことはできるのだろうか。久保井氏は、「すでに定着していた固有名の『竹嶼』の名称」とするなら、その論拠とする文献を示して、その事実を論証してから反論しなければならないのである。
さらに久保井氏は、「安龍福が松島(独島=竹島)の存在を知った際、于山島の名を当てはめ」たとしているが、それが何時のことなのか、その根拠を示さねばならないのである。
そこで『実事求是』では、安龍福が于山島を認知したのは1693年、当時、渡海が禁じられていた欝陵島で密漁をしていた安龍福が、悪天候の中で欝陵島の北東に島影を確認し、それが于山島であると仲間から教えられ、安龍福はそれ松島としたのである(注5)。
その安龍福が、鳥取藩米子の大谷家の漁師達によって、朴於屯とともに越境侵犯の現行犯として日本に連れ去られる際に、安龍福だけが欝陵島よりも「頗る大きな島」を目撃したと供述していた(注6)。それは欝陵島よりも遥かに大きな隠岐諸島近くであった。
そこで朝鮮政府では、対馬藩によって送還された安龍福と朴於屯に対して、その「頗る大きな島」について尋問したが、朴於屯は「さらに他島無し」と答えていた(注7)。欝陵島よりも「頗る大きな島」を目撃したのは、安龍福だけだったのである。
安龍福はその三年後、朝鮮の官吏を僭称(注8)して、鳥取藩に密航してきたのである。その目的は、欝陵島の北東にある子山島(于山島)を朝鮮の江原道の松島だとし、それを認めさせることにあった。その際、安龍福が持参したのは、『新増東国輿地勝覧』に由来する「朝鮮八道之図」であった。しかしそこに描かれていた于山島は、竹島ではなく欝陵島であった。
久保井規夫氏は意見書の中で、「于山島の名前は存在し続けた。それ故、安龍福が松島(独島=竹島)の存在を知った際」としているが、それが何時、何処で、いかにして知ったのかについては、全く触れていない。久保井氏は、「安龍福が松島(独島=竹島)の存在を知った際」などと述べても、その論拠を示さないのである。
文献史学で欠かせないのは、史実を明らかにする際には論拠を挙げ、その事実を論証することである。だが久保井氏の意見書には、その論拠が一切、示されることがないのである。それは久保井氏の言う「机上の空説」である。次回、機会があれば、論拠を示して反論されることを冀望する。
(注1)1770年に編纂された『東国文献備考』(「輿地考」)では、柳馨遠の『東国輿地誌』(1656年刊)を引用して「欝陵・于山は皆于山国の地。于山は則ち倭の所謂松島(現在の竹島)なり」としているが、原典である『東国輿地誌』では、「于山欝陵本一島」とされ、于山島は倭の所謂松島ではなく、欝陵島と同島異名の島としていた。
(注2)『東国文献備考』(「輿地考」)は、申景濬の『疆界誌』を底本としていた。そこには「按ずるに、『輿地志』に云う、一説に于山欝陵本一島。而して諸図志を考えるに二島なり。一つは其の倭の所謂松島にして、蓋し二島ともに于山国なり」とした申景濬の按語が記されていた。その中で「一説に于山欝陵本一島」は、柳馨遠の『東国輿地誌』からの引用であるが、「而して諸図志を考えるに二島なり。一つは其の倭の所謂松島にして、蓋し二島ともに于山国なり」は、申景濬の私見である。『承政院日記』の英祖四十六年閏五月二日条によると、申景濬の按語を「于山は則ち倭の所謂松島(現在の竹島)なり」と潤色したのは洪啓禧としている。
(注3)『竹島紀事』の「元禄六年十一月朔日条」では、安龍福の供述を載せて、「今度参候嶋より北東に当り大き成嶋有之候。彼地逗留之内、漸二度見江申候。彼嶋を存たるもの申し候は、于山島申し候」としている。安龍福が「倭の所謂松島」とした于山島は、欝陵島の北東に位置していたのである。
(注4)安龍福を取り調べた『元禄九丙子年朝鮮舟着岸一巻之覚書』では、「安龍福申候ハ竹嶋ヲ竹ノ嶋と申、朝鮮国江原道東莱府ノ内ニ欝陵嶋ト申嶋御座候」として、「松嶋ハ右同道之内子山と申候嶋、御座候」と記録している。
(注5)『竹島紀事』の「元禄六年十一月朔日条」には、「彼嶋を存たるもの申し候は、于山島申し候」とある。
(注6)国史編纂委員会編『邊例集要』下(巻十七「欝陵島」)に、安龍福の供述が次のように記録されている。大谷家の漁師等に連れ去られ、「経一夜、翌日晩食後、見一島在海中。竹島頗大云々」とある。
(注7)国史編纂委員会編『邊例集要』下(巻十七「欝陵島」)では、朴於屯は、「此島前後、更無他島」と供述していた。
(注8)『元禄九丙子年朝鮮舟着岸一巻之覚書』では、「安龍福午歳四十三。冠ノヤウナル黒キ笠水晶ノ緒。アサキ木綿ノウハキヲ着申候。腰ニ札ヲ壱ツ着ケ申候、表ニ通政太夫」としている。元禄六年、安龍福が大谷家の漁師等によって日本に連れ去られた際は、岡嶋正義の『竹島考』によると、安龍福が所持していた腰牌では「私奴」であった。それが三年後、安龍福は、鳥取藩の赤崎に着岸した際は、舟の舳に「朝欝両島監税将臣安同知騎」と「朝鮮国安同知乗舟」と表裏に記した木綿の船印を立て、実在しない朝鮮の官職を僭称していた。
尚、「実事求是~日韓のトゲ、竹島問題を考える~」の第59回「崔英成氏の論稿『安龍福第二次渡日の性格に関する考察─朝鮮の密使、安龍福─』批判」でもやや詳しく論述した。(リンク)
(下條正男)
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