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実事求是~日韓のトゲ、竹島問題を考える~

第66回

「久保井規夫氏の批判に答える」(上)

 

 島根県が刊行したリーフレット(『竹島~日本の領土であることを学ぶ』)を批判する意見書が昨年末、島根県に届いた。送り主は「竹島の日を考え直す会」理事長の久保井規夫氏である。その意見書には、「事実誤認があり、新しい研究の成果・指摘が反映されているとは言えず、歴史認識が不十分である」と記されていた。だが島根県のリーフレットには、久保井氏が批判するような意味で、「史料を恣意的に扱い、歴史を改竄」した事実はない。

 ただ昨年2月に改訂されたリーフレットでは、「竹島が韓国の領土であることを示す正当な根拠はありません」としたページを新たに加え、「韓国側の主な主張」に対して、歴史の「事実」に基づいて「反論」した事実はある。

 「竹島の日を考え直す会」からの批判は、その新たに加えられたページに対するもので、意見書には「『韓国側の主な主張』への『事実と反論』は不当な見解です」とあった。

 この「竹島の日を考え直す会」については、数年前、産経新聞の『竹島を考える』(電子版)でも「今年も開かれた『竹島の日』を考え直す集会…日本政府の対応は周回遅れだ」と題して紹介したことがある。

 「竹島の日を考え直す会」は、韓国の市民団体と関係があり、『東北アジア歴史財団』ではその活動を紹介した動画を公開している。その「竹島の日を考え直す会」が新たに加えられた「竹島が韓国の領土であることを示す正当な根拠はありません」に反発したのは、そこには竹島を韓国領とする人々にとっては、不都合な事実が記されていたからであろう。

 以下は、文献を恣意的に解釈して歴史を歪曲し、何ら根拠がないまま「竹島の日」を批判し続ける久保井規夫氏と「竹島の日を考え直す会」に対する反論である。

1. 「安龍福事件」後、于山島は竹嶼として定着

 久保井氏としては、朝鮮時代の文献にある于山島を何としても現在の竹島(独島)として、それを根拠に竹島は韓国領だとしたいようである。

 それは島根県のリーフレットでは、「韓国の古地図に描かれた于山島は架空の島であるか、または鬱陵島のすぐ近くにある小島(竹嶼)のことで、現在の竹島(韓国名:独島)ではありません」として、于山島は竹島(独島)ではないとしていたからである。そこで久保井氏は、次のように批判したのである。

 

 『島根県リーフレット』が引用した『世宗実録』「地理志」『新増東国輿地勝覧:八道総図』は、「于山」名の始まりを述べただけである。

 「于山島」が「独島=竹島(松島)」に比定される「安龍福事件」(1693年~1696年)以降に、史料の探査、解説をすべきである。韓国政

 府が、18世紀、江戸期に於いて、于山島=日本名松島(今日の独島=竹島)であることを明示した明確な史料として『東国文献備考:輿地考』

 (1770)、『萬機要覧』(1808)を提示していることを隠蔽してはならない。それらの文献には、「于山則倭所謂松島也」(于山は、日本で

 言う松島である)と記述されている。

 

 久保井氏の論理によると、「『世宗実録』「地理志」『新増東国輿地勝覧:八道総図』は、「于山」名の始まりを述べただけで」、「于山島=日本名松島(今日の独島=竹島)であることを明示した明確な史料として『東国文献備考:輿地考』(1770)、『萬機要覧』(1808)を提示していることを隠蔽してはならない」というのである。

 だが残念なことに、久保井氏が論拠とした『東国文献備考』「輿地考」の分註(「于山則倭所謂松島也」)は、1996年の時点で改竄されていた事実が明らかにされている(注1)。その改竄説は、外務省が2008年に作成した小冊子「竹島問題を理解する10のポイント」にも採用されたが、韓国側ではいまだにその反証ができていない(注2)。久保井氏はその事実を「隠蔽してはならない」のである。

 それに『萬機要覧』(1808)の記述は、『東国文献備考』の「輿地考」からの引用文である。従って『萬機要覧』にも、于山島を松島(竹島)とする証拠能力はないのである。

 では何故、久保井氏は事実無根の主張を繰り返すのであろうか。それは久保井氏自身、「「于山島」が「独島=竹島(松島)」に比定される「安龍福事件」(1693年~1696年)以降に、史料の探査、解説をすべきである」とした「安龍福事件」を曲解して、「史料を恣意的に扱い、歴史を改竄して」いるからである。

 ではその久保井氏がいう「安龍福事件」とは、どのような事件だったのか、その概略を説明したいと思う。それは1693年、江戸幕府から欝陵島での漁撈活動を許された鳥取藩米子の大谷家の漁師達と、朝鮮政府の禁令を犯して欝陵島に渡った安龍福らとの衝突に端を発した事件である。この時、安龍福は、越境侵犯の生き証人として、大谷家の漁師達によって鳥取藩にまで連れ去られている。

 問題は、その後、対馬藩によって朝鮮に送還された安龍福が、その三年後の1696年、今度は自ら隠岐諸島と鳥取藩に密航してきたことにある。だが安龍福は、鳥取藩によって追放されていたが、朝鮮政府の取調べに対して、「松島は即ち子山島である。これもまた我国の地」(「松島即子山島。此亦我国地」)と供述し、鳥取藩主と交渉して欝陵島と子山島を朝鮮領にしたと証言していたのである。

 その安龍福の証言と行状が、『粛宗実録』や『東国文献備考』等に収録されていることから、韓国側の竹島研究では、「松島は即ち子山島である」とした安龍福の証言を、歴史の事実とするのである。「安龍福事件」(1693年~1696年)以降、于山島が独島=竹島(松島)に比定されたとする久保井氏の主張は、その安龍福の供述を論拠としているのである。

 だがそれは安龍福の供述を恣意的に解釈したもので、事実無根である。歴史の事実として、『世宗実録』「地理志」の于山島と『東国輿地勝覧』に記載されていた于山島は、「安龍福事件」後、朝鮮政府が実施した鬱陵島踏査によって鬱陵島の東二キロの竹嶼のことにされたからである。

 それは1711年、鬱陵島捜討使の朴錫昌が描かせた『鬱陵島図形』で、欝陵島の東約二キロにある竹嶼に「海長竹田/所謂于山島」と表記したことが、その始まりである。以来、竹嶼は于山島とされ、鬱陵島の右側(東側)もしくは右上に描かれることになったのである。鄭尚驥の『東国大地図』では鬱陵島の右側に于山島が描かれ、金正浩の『東国輿地図』でも鬱陵島の右側に描かれているが、その于山島はいずれも竹嶼のことである。

 「安龍福事件」をきっかけとして、于山島が実際の島として地図上に定着した事実はあるが、その于山島は現在の竹嶼のことで、久保井氏が主張する独島(竹島)ではなかったのである。

 では安龍福は何故、密航後の朝鮮側での取調に対して、「松島は即ち子山島である。これもまた我国の地」と証言したのであろうか。それには欝陵島での安龍福の体験が関係していた。安龍福は1693年、朝鮮政府が渡海を禁じていた鬱陵島に渡り、そこで漁撈活動をしていた。その際、安龍福は鬱陵島の北東に島があり、そこまでの距離を一日と目測していた。それも安龍福はその島をようやく二度目撃したとしているが、一緒にいた朝鮮の漁民からはその島は「于山島」(注3)だと教えられていた。

 その安龍福が、仲間の朴於屯とともに欝陵島から鳥取藩に連れ去られる途中、鬱陵島を出帆して一夜明けて晩食後、鬱陵島よりも頗る大きな島を目撃したというのである(注4)。

 だが鬱陵島と隠岐諸島の間には、鬱陵島より頗る大きな島など存在しない。そのため朝鮮政府では、安龍福と一緒に日本に連れ去られた朴於屯にその島の存在を確認しているが、朴於屯は「更に他島なし」と供述していた。この事実は、安龍福だけが頗る大きな島を目撃していたということである。もちろんその頗る大きな島は、竹島ではない。竹島は、欝陵島よりも遙かに小さな岩礁だからである。

 それから三年後の1696年、今度は安龍福が十人の仲間とともに、隠岐諸島に密航してきたのである。その際、安龍福は「朝鮮八道之図」を「八枚ニシテ」所持していた。安龍福は、密航の目的について、鳥取藩主に「訴訟これ在り参り候」と、取調べをした隠岐諸島の役人に語っていた。安龍福は、鳥取藩ではその八枚にした「朝鮮八道之図」を示して、江原道には子山島(于山島)という島があり、それが松島だと訴えるつもりだったのであろう(注5)。安龍福には、欝陵島と隠岐諸島の間には頗る大きな島があるとした地理的理解があったからである。

 そこで安龍福は1696年6月、隠岐諸島から鳥取藩に向ったが、鳥取藩では江戸幕府の指示に従って、安龍福を加露灘から追放していたのである。

 だが朝鮮に戻った安龍福は、朝鮮政府の取り調べに対して、鳥取藩主と交渉し、欝陵島と子山島(于山島)を朝鮮領にしたと証言したのである。もちろんこれは安龍福の偽証である。

 それを久保井氏が、于山島が独島=竹島(松島)に比定されたと解釈したのは、安龍福が「松島は即ち子山島である。これもまた我国の地」と供述して、その「供述調書」の一部が『粛宗実録』や『東国文献備考』等に記録されていたからである。

 だが「供述調書」は罪人を尋問した際の記録で、安龍福がそのように供述していた、ということである。その供述内容が事実であったのかどうかは、別途、検証する必要があったのである。それを久保井氏は、その安龍福の「供述調書」を根拠にして、「史料を恣意的に扱い、歴史を改竄」していたのである。

 だが安龍福の供述は、偽証だったのである。そしてそれは韓国の「東北アジア歴史財団」が2012年に刊行した『因幡国江朝鮮人致渡海候付豊後守様へ御伺被成候次第并御返答之趣其外始終之覚書』でも、確認ができるのである。そこには安龍福が、鳥取藩主と談判することもなく、鳥取藩によって追放された経緯が記録されているからである。韓国側の研究でも、安龍福の供述が偽証であった事実は明らかになっているのである。

 久保井氏は、竹島リーフレットに対して、「事実誤認があり、新しい研究の成果・指摘が反映されているとは言えず、歴史認識が不十分である」と批判したが、安龍福の供述が偽証であった事実が明確となっても、その「新しい研究の成果・指摘」を反映させることなく、虚偽の歴史を捏造したのは久保井氏自身である。

 それに久保井氏は、「『島根県リーフレット』が引用した『世宗実録』「地理志」『新増東国輿地勝覧:八道総図』は、「于山」名の始まりを述べただけである」と主張した。

 だが久保井氏は、その「于山島」が『世宗実録』「地理志」と『新増東国輿地勝覧』の本文に表記されているのは何故なのか、その文献批判を怠っている。

 『世宗実録』「地理志」と『新増東国輿地勝覧』の本文に「于山」が表記された経緯については、竹島リーフレットで、「韓国の古地図に描かれた于山島は架空の島であるか、または鬱陵島のすぐ近くにある小島(竹嶼)のこと」とした理由とともに、次回、久保井氏の文献解釈の問題点を指摘する中で述べることにする。

 

1 .『韓国論壇』 1996 5 月号、拙稿「竹島が韓国領という根拠は歪曲されている」

注2.外務省編『竹島問題を理解する10のポイント』「2.韓国が古くから竹島を認識していたという根拠はありません」の(3)に対して、内藤正中『竹島=独島問題入門‐日本外務省『竹島』批判』(2008年10月)で批判(22頁)。同書は2009年2月、韓国の「東北アジア歴史財団」の協力で、『韓日間独島・竹島論戦の実体』と題して、韓国でも出版されている。

3 .島根県竹島問題研究会編『竹島紀事』 42 頁。

4 .国史編纂委員会編『邊例集要』巻十七、「鬱陵島」 502 頁。

注5.『元禄九丙子年朝鮮舟着岸一巻之覚書』に、「伯耆守様江御断之義在之罷越申候」とある。

 

(下條正男)


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