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実事求是~日韓のトゲ、竹島問題を考える~

第65回

尖閣諸島に関する歴史戦の論じ方(下)

4. 林泉忠氏からの反論

 すると中央研究院近代史研究所副研究員(当時)の林泉忠氏から、反論がなされた。それは「古地図がどうして現代の領土主権を明らかにできるのか‐下條正男教授の『皇輿全覧図』に釣魚島がないという説を評して‐」(注15)と題する論評である。

 林泉忠氏によると、ご自身はその前年、『皇輿全覧図』の原図を米国の国会図書館で発見したのだそうで、そのためそれは下條の新発見ではない。また『皇輿全覧図』のような古地図を根拠に、尖閣諸島の領有問題を争うことはできない、とするのが反論の主旨であった。

 林泉忠氏は、自分が『皇輿全覧図』の原図を発見したと力説しているが、原図の発見と尖閣問題は関係がないのである。『皇輿全覧図』の存在は早くから知られており、2007年には『清廷三大実測全図集』(「乾隆十三排図」、「雍正十三排図」、「康煕皇輿全覧図」)として外文出版社からも刊行されている。

 重要なことは、『皇輿全覧図』がどのような経緯で作図され、それが『大清一統志』の「台湾府図」と『欽定古今図書集成』の「台湾府疆域図」が作成される際の基図となり、福建省台湾府の北端が「鶏籠城界」と明記された事実なのである。

 それを林泉忠氏は、『皇輿全覧図』を価値のない古地図と貶めることで、台湾府の北端が「鶏籠城」であった事実を隠蔽しようとでもしたのだろうか。とすればそれは批判のための批判でしかない。

 『皇輿全覧図』は、イエズス会の宣教師達が三角測量によって作図し、その中の台湾は、清朝が統治する疆域のみが描かれていた。官撰の『大清一統志』(「台湾府図」)と『欽定古今図書集成』(「台湾府疆域図」)では、その『皇輿全覧図』を基図として、台湾府の「疆界」を「鶏籠城界」と表記したのである。それを林泉忠氏は、文献批判をすることなく、『皇輿全覧図』は古地図だという理由だけで、尖閣問題の証拠にはならないとしたのである。

 だが『大清一統志』(「台湾府図」)と『欽定古今図書集成』の「台湾府疆域図」で重要な点は、実際に台湾を統治していた官吏達が編纂した『台湾府志』の記述を踏襲して、作図されていた事実なのである。

 蒋毓英の『台湾府志』(「封隅」)では、台湾府の疆域を「東至咬狗溪大脚山五十里」、「北至▲籠城二千三百一十五里」等とし、高拱乾等の『台湾府志』(「疆界」)では、「東至保大里大脚山五十里為界」、「北至▲籠山二千三百一十五里為界」としている。それを『大清一統志』(「台湾府図」)と『欽定古今図書集成』(「台湾府疆域図」)では、「東至咬狗溪大脚山五十里」を「咬狗溪大脚山界」とし、「北至▲籠城二千三百一十五里」を「鶏籠城界」と表記して、それを福建省台湾府の疆界として示していたのである。これは当時、清朝が統治していた台湾府の疆界が、台湾府の地方官衙から東は「咬狗溪大脚山五十里」まで、北は「▲籠城二千三百一十五里」までの地点だったからである。奚に隹:以下▲は同じ字。鶏の異体字

 それを林泉忠氏は、『皇輿全覧図』に尖閣諸島が描かれていないのは、古地図だからという理屈で、『皇輿全覧図』は尖閣諸島の領有権問題とは無関係の古地図としたのである。

 だが重要なことは、『皇輿全覧図』では台湾府の疆界を▲籠城としていた事実なのである。2015年9月28日付の『産経新聞』が、『大清一統志』(「台湾府図」)の基図となった『皇輿全覧図』について報じた理由も、それが「中国政府が尖閣諸島の領有権を主張する際の歴史的根拠がないことを示す貴重な資料」だったからである。

 それに台湾本島と澎湖諸島を描いた「台湾地図」は、『欽定古今図書集成』(「台湾府疆域図」)と『大清一統志』の「台湾府図」が描かれる一世紀ほど前に、すでに西洋の測量士達によって描かれていたのである(注16)。その「台湾地図」(写真6・7)では▲籠城までを描いて、尖閣諸島や彭佳島、棉花嶼、花瓶嶼等を描いていない。これは『皇輿全覧図』が作図される以前に、すでに▲籠城を台湾の北端とする地理的認識が確立していたということなのである。

北港図

写真6.Jacob・Noordeloos「北港図」(1625年頃)

澎湖島及福爾摩沙海島図

写真7.Johannes・Vingboons「澎湖島及福爾摩沙海島図」(1640年頃)

 

 それを林泉忠氏は、『皇輿全覧図』に尖閣諸島が描かれていない理由について、小さな島なので描かれなかったとし、台湾の基隆北東に位置する彭佳島、棉花嶼、花瓶嶼の三つの小島を根拠として、下條批判の論拠としたのである。

 しかしそれは林泉忠氏の詭弁である。歴史的事実として彭佳島、棉花嶼、花瓶嶼の三島が台湾に附属するのは、台湾が日本に割譲された1895年以後だからである。この事実は、彭佳島、棉花嶼、花瓶嶼の三島が台湾の属島でなかったことを示す証左なのである。

 現に奥原敏雄氏は、基隆市文献委員会編『基隆市志』(1954年刊)の記述を根拠に、彭佳島、棉花嶼、花瓶嶼が台湾に編入されたのは、1905年(光緒31年)とした。彭佳島、棉花嶼、花瓶嶼の三島が『皇輿全覧図』に描かれていないのは、「小さな島」だからではなく、台湾の附属島嶼ではなかったからである。

 では彭佳島、棉花嶼、花瓶嶼の三島が台湾に附属したのは、いつのことであろうか。それは明治32年(1899年)発行の『台湾総督府第一統計書』と明治33年(1900年)発行の『台湾総督府第二統計書』によって、確認ができる。『台湾総督府第一統計書』では、台湾の極北を北緯25度38分のアギンコート島(彭佳島)北端とし、台湾の最北に位置する台北県では北緯25度11分の基隆島を北端として、富基角(富基岬)を台北県の極北としているからである。『台湾総督府第一統計書』が発行された1899年の時点では、まだ棉花嶼と花瓶嶼の二島が記載されていないのである。

 それが明治33年(1900年)発行の『台湾総督府第二統計書』になると、台北県所管の島嶼として、棉花嶼と花瓶嶼の二島も記載されるのである。林泉忠氏が台湾の属島とした彭佳島、棉花嶼、花瓶嶼が台湾の付属島嶼となったのは、日本が台湾を統治した時代のことである。それを林泉忠氏は、『皇輿全覧図』に尖閣諸島が描かれていない理由を、小島だからと憶断したのである。

 それに『台湾総督府第一統計書』(「土地」)では、その「経緯度極点」で、台湾の極東を羊頭島の「東経123度07分」とし、極北をアギンコート島(彭佳島)北端「北緯25度38分」としている。この事実は、「北緯25度43分~56度、東経123度27分~124度34分」に位置する尖閣諸島は、「台湾」の疆域には含まれていなかった、ということなのである。

 林泉忠氏は何ら根拠がないまま、彭佳島、棉花島、花瓶島を清朝時代から台湾の附属島嶼だったと憶測し、その偽りの論拠によって、尖閣諸島が描かれていない『皇輿全覧図』の存在を封印したかったのだろうか。だとすればそれは林泉忠氏の憶説である。

 林泉忠氏は、根拠がないまま彭佳島、棉花島、花瓶島を清朝時代から台湾の附属島嶼とする前提を捏造し、「小さな島」説を主張して、不都合な『皇輿全覧図』の隠蔽を謀ったのである。そのため林泉忠氏は、自ら自家撞着に陥っていたのである。古地図の『皇輿全覧図』には証拠能力がないとしながら、自分ではより古い明代の『萬里海防図』や『籌海図編』所収の古地図を根拠に、「尖閣諸島は中国領」だと主張したからである。

 だが周知の事実として、正史の『明史』(「地理志」)では台湾を「外国伝」に記載し、明代に編纂された官撰の『大明一統志』(「外夷」)は、澎湖島(澎湖諸島)を琉球国の付属島嶼と記述していた。台湾と澎湖島は、明の領土でもなかったのである。その台湾が清朝の領土となり、福建省に附属して、台湾府が設置されたのは康煕23年(1684年)である。それを林泉忠氏は、明代の『萬里海防図』や『籌海図編』所収の古地図を根拠に、台湾は明代から中国の領土だったとして、事実無根の主張をしたのである。

 尖閣諸島を台湾の一部とし、中国領としたい内外の論者達は、林泉忠氏や井上清氏のように、文献批判をすることなく、文献を恣意的に解釈する傾向があった。拙稿で『皇輿全覧図』に注目したのは、台湾が清朝に編入され、その疆域を図示した『大清一統志』の「台湾府図」と『欽定古今図書集成』の「台湾府疆域図」では、その『皇輿全覧図』を基図として、作図がなされていたからである(注17)。それも蒋毓英の『台湾府志』や高拱乾の『台湾府志』を基にして、新たに「咬狗溪大脚山界」とし、「鶏籠城界」と表記して、それを福建省台湾府の疆界としていたのである。

 それを林泉忠氏が、『皇輿全覧図』のような古地図は現代の領土問題では使えないとしたのは、尖閣諸島を中国領としたい林泉忠氏にとって、『大清一統志』(「台湾府図」)と『欽定古今図書集成』(「台湾府疆域図」)の基図となった『皇輿全覧図』の存在は、不都合だったのであろう。そこで林泉忠氏は、その不都合な『皇輿全覧図』を尖閣諸島が描かれていない古地図として排除し、『皇輿全覧図』に彭佳島、棉花島、花瓶島が描かれていない理由を「小さな島」だからとしたのである。だが林泉忠氏がどんなに反論しても、尖閣諸島が台湾の付属島嶼でなかった事実には、変わりがないのである。

 これは林泉忠氏が下條批判をしたことで、逆に『皇輿全覧図』に尖閣諸島が描かれていなかった事実を論証することになり、尖閣諸島が清朝の領土でなかった事実までも反証してしまったのである。林泉忠氏による下條批判の論理は、斯くして破綻したのである。

5.おわりに

 尖閣諸島を巡って、日本と台湾、それに中国は、1972年以来、半世紀近くも非生産的な論議から抜け出ることができなかった。そこで本稿では、その事実をこれまでの尖閣問題の「論じ方」として俯瞰した。それは主に尖閣問題を「国際法」の法理で解決しようとした日本側。それに対して台湾や中国側では、尖閣問題を「歴史問題」として捉えていた。この違いは、日中の「論じ方」には、接点がなかったということである。

 そのため日本側では、1895年の尖閣諸島の日本領編入を国際法的に論証することに重きを置くことになり、尖閣問題を歴史問題とする台湾と中国側では、台湾の楊仲揆氏と井上清氏が論拠とした文献に依拠して、明清代の冊封使の航海記録等の解釈に重点を置いて、多くの時間を費やすことになったのである。

 しかし楊仲揆氏と井上清氏が論拠とした文献は、尖閣諸島問題とは直接関係のないものであった。これは従来の「論じ方」には、限界があったということなのである。

 そこに2010年9月7日、尖閣諸島周辺の領海内で、日本の巡視船に中国漁船が故意に追突するという事件が起こったのである。そこで2010年11月13、14日、横浜で開催されるアジア太平洋経済協力会議(横浜エイペック)に参席する胡錦濤国家主席の来日に合わせ、官撰の『大清一統志』(1743年刊)所収の「台湾府図」について、『産経新聞』で報じてもらうことにした。『大清一統志』所収の「台湾府図」では、台湾府の北端に「▲籠城界」と明記して、台湾府の疆界を▲籠城(基隆付近)としていたからである。

 この事実は、その▲籠城から北東に170キロほどに位置する尖閣諸島が中国領でなかったことを示す、確証だったのである。

 ところが11月4日付の『産経新聞』の一面を飾ったのは9月7日、海上保安庁の巡視船に中国漁船が追突する映像と関連した記事だった。『大清一統志』に関する記事は二面に掲載され、「台湾府図」は公開されなかった。

 そこで2010年12月1日、『ウェッジ』誌のインタビュー記事で、「尖閣は中国のもの?覆す証拠ここにあり」と題して、改めて『大清一統志』(「台湾府図」)を証拠として、尖閣諸島は中国領でないとした。

 その後、月刊誌『正論』(2012年5月号)に「『尖閣は明代から中国領』の真っ赤な嘘」を寄稿して、冊封使であった齋鯤の文集『東瀛百詠』を根拠に、『欽定古今図書集成』の「台湾府疆域図」と『大清一統志』所収の「台湾府図」を紹介しながら、尖閣諸島は「無主の地」であったとした。さらに『正論』(2015年5月号)では、「『台湾と尖閣』は不可分?尖閣を狙う中国の嘘八百に反論する」と題して、『欽定古今図書集成』の「台湾府疆域図」と『大清一統志』所収の「台湾府図」が、1717年に完成した『皇輿全覧図』に由来する事実を明らかにしたのである。その『皇輿全覧図』については、2015年9月28日付の『産経新聞』でも、「中国の尖閣領有権主張、また崩れる17世紀作成の『皇輿全覧図』に記載なし」として報じられた。

 また井上清氏の論稿については、月刊誌『WILL』(2012年10月号)に寄稿して「中国の根拠は井上清の駄本」とし、近年(2021年8月27日)、日本国際問題研究所の「コラム/レポート」でも「井上清氏の『尖閣列島-釣魚諸島の史的解明』-を駁す」と題して、陳侃の『使琉球録』や郭汝霖の『重編使琉球録』等、冊封使録を中心とした井上清氏の論稿に対して、『欽定古今図書集成』(「台湾府疆域図」)や『大清一統志』(「台湾府図」)、齋鯤の『東瀛百詠』等を論拠として、その問題点を指摘した。

 それらはいずれも、国際法を重視した日本側の「論じ方」とも、歴史問題とした中国側の「論じ方」とも違っていた。

 だがそこに2022年2月24日、ロシアがウクライナに侵攻したことで、国際秩序が大きく崩れ、国際関係はより難しい状況となった。そこで尖閣諸島問題について、改めて論ずることにしたのである。ロシアによるウクライナ侵攻の影響は今後、世界のあらゆる地域に及んでいくからだ。

 そのため民族感情を刺激する「領土問題」や「歴史問題」は、国際関係が複雑になる前に解決の目処をつけておくべき喫緊の課題である。「領土問題」や「歴史問題」は、必ず国際間の融和を妨げることになるからだ。その意味でも、尖閣諸島を巡る日中の確執は、韓国との竹島問題と同様、解決しておくべき懸案なのである。

 だがその解決に一歩近付くためには、「論じ方」を検証しておくことも必要なのである。それによって、これまで見えていなかった論点が、見えてくることもあるからだ。

 そこで、従来の「論じ方」に拘泥することなく、新しい「論じ方」で問題解決に挑んでもよいとするのが、本稿の趣旨である。

 現に、日韓の懸案であった日本海呼称問題も、その「論じ方」を変え、「日本海は世界が認めた唯一の呼称」と題する小冊子を日本国際問題研究所から発行し、同研究所の「コラム」には、「東北アジア歴史財団編『西洋古地図の中の朝鮮半島、東海そして独島』」を寄稿した。さらに同研究所では、「竹島問題の本質と韓国側の主張の誤り」と題して、竹島ウェビナーで私見を述べることとなった。いずれもこれまでとは違った「論じ方」で、論じたものである。

 これは日中の尖閣諸島を巡る軋轢も、「論じ方」を変えることで、これまで見えなかったものが見えてくることがあるということだ。本稿ではその一端を示して、あえて江湖の諸氏に問うものである。

 

注15.原題は「古地圖如何彰顯現代領土主權?評下條正男教授「《皇輿全覽圖》無釣島」●」。2015年11月18日付『明報』に掲載。(●はごんべんに八の下に兄。説の異字体)

「古地圖如何彰顯現代領土主權?評下條正男教授「《皇輿全覽圖》無釣島」●」(外部サイト)(2022年7月17日最終閲覧)

注16.国立故宮博物院編『福尓摩沙』「17世紀の臺灣・オランダと東亜」(2005年刊)所収のJacob・Noordeloos「北港図」(1625年頃)。Johannes・Vingboons「澎湖島及福爾摩沙海島図」(1640年頃)。Balthasar・Bort「中国海岸・福爾摩沙図」(1662年頃)等では、台湾全島が描かれている。

注17.齋藤道彦氏の『尖閣問題総論』(2014年刊)では、『大清一統志』について、次のように記している。「『大清一統志』が台湾の北端を「鶏籠城」(現・基隆)と記載していることは、石井望もすでに指摘しているが(2012年7月17日『産経新聞』)、台湾の範囲に尖閣諸島は含んでいない。『大清一統志』は、台湾周辺の島々についてかなり詳しく記載しているが、「釣魚台列嶼」の記述はない。『大清一統志』「台湾府図」によれば、台湾は西半分しか描かれていない。ということは、当時(乾隆二九年)の清朝による台湾支配は東半分には及んでいなかったということである」(203頁)。

 その『大清一統志』の「台湾府図」については、私も2010年11月4日付の『産経新聞』と2010年12月1日、『ウェッジ』誌のインタビュー記事で明らかにし、月刊誌『正論』の2012年5月号でも『欽定古今図書集成』の「台湾府疆域図」と『大清一統志』の「台湾府図」を紹介して、尖閣諸島は「無主の地」であるとした。さらに『正論』の2015年5月号では、『欽定古今図書集成』の「台湾府疆域図」と『大清一統志』の「台湾府図」が1717年に完成した『皇輿全覧図』に由来する事実を明らかにした。同じく尖閣諸島問題を論じても、その「論じ方」を変えると、新たな事実が見えてくるのである。

(下條正男)


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