実事求是~日韓のトゲ、竹島問題を考える~
第64回
尖閣諸島に関する歴史戦の論じ方(中)
2. 中国側の尖閣諸島に対する歴史認識
2014年12月30日、中国の国家海洋情報センターは『釣魚島‐中国的固有領土』(釣魚島は中国固有の領土である)とするサイトを立ち上げ、そこには尖閣諸島が中国領であることを示す著書が列挙されている。その主要な著書としては、鞠徳源著『日本国窃土源流-釣魚列嶼主権辨』、鞠徳源著『釣魚島正名』、鄭海麟著『釣魚島列嶼之歴史與法理研究』、◆天頴著『甲午戦前釣魚列嶼帰属考』等、二十三冊が挙げられ、その内、日本人の著書としては井上清著『尖閣列島‐釣魚諸島の史的解明』、村田忠禧著『日中領土問題の起源』、矢吹晋著『尖閣問題の核心』の三冊が紹介されている。(◆は口の下に天)
その中で、日中双方の尖閣研究に大きな影響を与えているのが、井上清氏の『尖閣列島‐釣魚諸島の史的解明』である。その井上清氏の論理は、同書の「なぜ釣魚諸島問題を再論するか」で開陳されており、それは次のように刺激的であった。
「尖閣列島」は、日清戦争で日本が中国から奪ったものではないのか。そうだとすれば、それは、第二次大戦で、日本が中国を含む連合国の対日ポツダム宣言を無条件に受諾して降服した瞬間から、同宣言の領土条項にもとづいて、自動的に中国に返還されていなければならない。それをいままた日本領にしようというのは、それこそ日本帝国主義の再起そのものではないか。(『尖閣列島‐釣魚諸島の史的解明』10頁)
井上清氏の『尖閣列島‐釣魚諸島の史的解明』で示された論理は、尖閣諸島はもともと中国領で、それを日本が奪ったとするものである。これは2012年9月28日、中国の楊潔●外交部長が第67回国連総会の一般討論で「日本は尖閣諸島を窃取した」と演説し、米国の主要メディアに掲載した「尖閣諸島は中国に属す」とする意見広告と同じ論理である。(●はたけかんむりにがんだれ、虎)
この井上清氏については、1972年7月28日の第二回の竹入義勝・周恩来会談記録の中でも、周恩来首相の方から次のような発言がなされたとしている(注9)。
そうです。尖閣列島の問題にもふれる必要はありません。竹入先生も関心が無かったでしょう。私も無かったが石油の問題で歴史学者が問題にし、日本でも井上清さんが熱心です。この問題は重く見る必要はありません。
平和五原則に則って、国交回復することに比べると問題になりません。新聞で書くことは横ヤリを入れたことになりますね。台湾問題は以上で日米関係に入りましょう。
井上清氏はこの時点で、「釣魚諸島(尖閣列島等)の歴史と帰属問題」(『歴史学研究』72年2月号)と、その要旨を『日中文化交流』の2月号に、「釣魚諸島(尖閣列島など)は中国領である」と題して発表していた(注10)。その後、昭和四十七年(1972年)10月には、中国側にも大きな影響を与えた『尖閣列島‐釣魚諸島の史的解明』が刊行されたのである。
その著書の中で、井上清氏は尖閣諸島を中国領とする論拠として『順風相送』、陳侃『使琉球録』、郭汝霖『重編使琉球録』、程順則『指南広義』、林子平『三国通覧図説』、徐葆光『中山傳信録』、向象賢『琉球国中山世鑑』、胡宗憲『籌海図編』、汪楫『使琉球雑録』、夏子陽『使琉球録』、周煌『琉球国志略』、李鼎元『使琉球録』、齋鯤『続琉球国志略』、鄭舜功『日本一鑑』を掲げていた。
だがその文献の大部分は、台湾の楊仲揆氏がすでに公開したものであった(注11)。それは奥原敏雄氏も、楊仲揆氏の論文を「中国領有論を主張する論文としてはおそらく最初のもの」(注12)としているように、井上清氏はその楊仲揆氏が論拠とした文献に、さらに6点の文献を追加したのである。日中では、楊仲揆氏と井上清氏が論拠とした文献を中心として、尖閣諸島の領有権問題を論ずることになったのである。従って、尖閣諸島問題の「論じ方」は、楊仲揆氏と井上清氏によって、その方向性が定められたといえるのである。
そのため井上清氏の『尖閣列島‐釣魚諸島の史的解明』は、尖閣諸島を中国領とする論者にとって、金字塔的な著書となったのである。中国の国家海洋情報センターのサイト(『釣魚島‐中国的固有領土』)に掲げられた『日本国窃土源流-釣魚列嶼主権辨』、『釣魚島正名』、『釣魚島列嶼之歴史與法理研究』、『甲午戦前釣魚列嶼帰属考』等の中国側の著書と、村田忠禧著『日中領土問題の起源』、矢吹晋著『尖閣問題の核心』等の論著は、いずれも井上清氏の『尖閣列島‐釣魚諸島の史的解明』と同じ「論じ方」である。
そこで井上清氏の『尖閣列島‐釣魚諸島の史的解明』に挑んだのが、奥原敏雄氏であった。奥原敏雄氏は、尖閣諸島は「日清戦争で日本が中国から奪ったもの」とする井上清氏に対して、『台湾府志』の記述を根拠に、尖閣諸島は、台湾府の中には含まれていない事実を論証したのである。
だが尖閣諸島を巡る争いは、それでは完結しなかった。井上清氏等が掲げた明清代の冊封使の航海記録によると、冊封使達は琉球国の疆界を久米島として、台湾と尖閣諸島は、琉球国の域外としていたからだ。さらに林子平は、『中山傳信録』を基に作図した『三国通覧図説』所収の「三国接壌図」で、久米島までを琉球国の版図とし、尖閣諸島を清朝の領土と同じ「桃色」で彩色して、清朝領としていたのである(注13)。
これは▲籠(基隆)を台湾府の疆界としただけでは、尖閣諸島が「無主の地」であった証拠にはならない、ということなのである。(▲は奚に隹)
それを内閣官房の資料調査の受託事業では、沖縄県と尖閣諸島の関係を示す資料を収集し、日本が尖閣諸島を「先占」した後、尖閣諸島を実効支配していた事実を、資料によって証明しようと考えたのである。
そのため内閣官房の資料調査事業では、中国の国家海洋情報センターが小冊子『釣魚島‐中国的固有領土』を刊行し、中国の国務院報道弁公室が「釣魚島は中国固有の領土である」と題した白書を公開しても、関心がなかったのであろう。これは尖閣諸島問題に対して、日本側では長く「国際法」に依拠した研究がなされ、その「論じ方」が一般化していたからである。
そこで村田忠禧氏は、『日中領土問題の起源-公文書が語る不都合な真実』(2013年刊)を著して、尖閣諸島の日本編入そのものを問題とし、矢吹晋氏は『尖閣問題の核心-日中関係はどうなる』(2013年刊)を刊行して、「尖閣諸島は中国領である」としたのである。
井上清氏の影響を受けた村田忠禧氏と矢吹晋氏の著書が、中国の国家海洋情報センターのサイト(『釣魚島‐中国的固有領土』)に、尖閣諸島を中国領とした論著として掲載された理由はそこにある。
これは尖閣諸島を巡って論争する際は、井上清氏等の論著に対して反論しておかねばならなかったが、内閣官房の資料調査事業では、日本の国内資料を中心とした資料の収集に専念していたのである。これは国際法を中心とした日本側と、歴史問題と見る中国側とでは、尖閣諸島に関する「論じ方」が最初から異なっていた、ということなのである。
そのため尖閣諸島をめぐる日中の確執は平行線を辿り、楊仲揆氏と井上清氏が論拠とした明清代の文献の解釈に、半世紀近くも翻弄されることになったのである。これは尖閣諸島が日本領となった1895年当時、尖閣諸島は「無主の地」であったのか。その事実を明らかにするためには、「国際法上、正当に領有権を取得するためのやり方」の正当性を証明するのではなく、従前の「論じ方」を変えてみるべきであった、ということなのである。
3.『大清一統志』所収の「台湾付図」と『皇輿全覧図』
そこで2010年11月4日付の『産経新聞』に、「清代公式文献に『台湾の一部ではない』」として勅撰の『大清一統志』(1743年)を紹介し、2010年12月1日の『ウェッジ』誌では「尖閣は中国のもの?覆す証拠ここにあり」と題して、『大清一統志』所収の「台湾府図」を掲載した。2012年には『正論』誌の平成24年5月号に「『尖閣は明代から中国領』の真っ赤な嘘」を寄稿して、冊封使の齋鯤の文集である『東瀛百詠』を根拠に、尖閣諸島は「無主の地」であったとした。
さらに2015年9月28日付の『産経新聞』では、「中国の尖閣領有権主張、また崩れる17世紀作成の『皇輿全覧図』に記載なし」とした見出しで、『大清一統志』所収の「台湾府図」は、1717年に完成した『皇輿全覧図』に由来するとしたのである。
これらは尖閣諸島と沖縄の関係に偏した従来の「論じ方」とは違って、尖閣諸島と台湾の関係を中心に、尖閣諸島が「無主の地」であった事実を明らかにしたものである。そのためこれらの文献は、いずれも楊仲揆氏と井上清氏が論拠とした文献の中には含まれていなかったのである。
だが日本と中国・台湾では、その後も楊仲揆氏と井上清氏が掲げた文献を中心に論じており、『大清一統志』所収の「台湾府図」についても、文献批判が十分に行われていなかった。それは「国際法」を中心とした内閣官房の調査報告書の「論じ方」にも表れている。平成28年度報告書の『尖閣諸島に関する資料調査報告書』(2016年)では、その『大清一統志』所収の「台湾府図」について、次のように述べているのである。
我が国の国絵図は、海岸線が一見して現代地図と大差ないほどの水準に達していた。同時期の『大清一統志』に収録されている地図は中世絵画的製図法を脱しないものの、台湾府の東と北の「界」など公式の境界線はほぼ明示されているものであった。
この記述は、1743年に完成した『大清一統志』に収載された「台湾府図」を説明したものであるが、そこでは続けて、奥原敏雄氏が指摘した『台湾府志』所収の「台湾府図」との関係について次のように述べている。
これらの内、台湾部分は西暦17世紀末の『台湾府志』から承け継がれた二次的記述である。『台湾府志』記載の国境線の外に尖閣が位置することについては、昭和40年代から奥原敏雄氏が論じており、既に定説となっている。
だが『台湾府志』と『大清一統志』の「台湾府図」とは、直接の関係がなかったのである。これは後述するように、『大清一統志』に収載された「台湾府図」は、康熙帝の命を受けたイエズス会の宣教師達が作図した、『皇輿全覧図』(写真1)に由来するからである。
その『皇輿全覧図』では、台湾の西半分のみが描かれているが、それは当時、清朝の統治が及んだ疆域のみを測量していたからである。この『皇輿全覧図』は、『大清一統志』の「台湾府図」(写真2)以外に、『欽定古今図書集成』の「台湾府疆域図」(写真4)の基図となっており、その台湾府の北端には、いずれも「▲籠城界」、「鶏籠城界」(基隆付近)と表記されている。これは『台湾府志』に記された台湾府の「疆界」に依拠して、清朝の境界を表示したものなのである。(奚に隹:以下▲は同じ字。鶏の異体字)
写真1.『皇輿全覧図』の台湾部分写真2.『大清一統志』台湾府図
勅撰の『大清一統志』の「台湾府図」は、官撰の『欽定古今図書集成』所収の「台湾府疆域図」と並んで、近代的な測量法によって実測作図された『皇輿全覧図』を藍本として、作図されていたのである。
それも地方官吏によって編纂された『台湾府志』とは違って、勅撰の『大清一統志』の「台湾府図」と『欽定古今図書集成』の「台湾府疆域図」は、福建省台湾府の「疆界」を「▲籠城界」、「鶏籠城界」として、清国の国境を明確にしていたのである。
写真3.『大清一統志』台湾府図部分。「▲籠城界」とある。
写真4.『欽定古今図書集成』の「台湾府疆域図」と「鶏籠城界」の部分。
その地理的認識は1808年、先達の冊封使達と同じ航路を辿って琉球国を往来した冊封使の齊鯤が、その『東瀛百詠』(「航海八咏」)の中で、台湾府の後ろ(北端)にある▲籠山を「猶これ中華の界のごとし」としたことにも繋がるのである。
これは高拱乾等の『台湾府志』(「疆界」)では、「北至▲籠山二千三百一十五里為界」(北、▲籠山に至る千三百一十五里を界となす)として▲籠山を台湾府北端の疆界とし、蒋毓英の『台湾府志』(「封隅」)では、台湾府の北の疆域を「北至▲籠城二千三百一十五里」としているように、▲籠山と▲籠城は「中華の界」だったからである。
そのため齊鯤は、『東瀛百詠』の「渡海吟用西■題乗風波浪図韻」(渡海、西■の乗風波浪図に題するの韻を用いて吟ず)でも、台湾府の北端に位置する▲籠山を「中華の界」としていたのである。(■はつちへんに庸)
これは、▲籠山が「中華の界」であれば、その▲籠山と琉球国の久米島との間にある「釣魚台」、「赤尾嶼」、「黒溝洋」(写真5)は、清朝・琉球のいずれの版図にも属さなかったということになるのである。
冊封使の齊鯤が▲籠山を「中華の界」としたのは、すでに蒋毓英の『台湾府志』と高拱乾の『台湾府志』、それに官撰の『大清一統志』や『欽定古今図書集成』等では、台湾府北端の疆界は、「▲籠山」か「▲籠城」に、決まっていたからである。齊鯤はその地理的知識に従って「▲籠山」を「中華の界」としたのである。
写真5.『東瀛百詠』「航海八咏」、右から▲籠山、釣魚臺、赤尾嶼、黒溝洋、姑米山(久米島)
従って、『東瀛百詠』(「航海八咏」)の中で詠われた、「▲籠山」と「姑米山」(久米島)の間にある尖閣諸島(「釣魚臺」、「赤尾嶼」)は、清朝の領土でも琉球国の領土でもなかった、ということなのである。それに▲籠山が「中華の界」となれば、これまで「黒溝洋」を「中外ノ界」(注14)としてきた説も、成り立たなくなったということである。
この事実は、今日的な表現を借りれば、尖閣諸島は「無主の地」だったということになるのである。
そこで『産経新聞』(2015年9月29日付)に、『大清一統志』(「台湾府図」)の基になった『皇輿全覧図』について報じてもらい、『皇輿全覧図』を「中国政府が尖閣諸島の領有権を主張する際の歴史的根拠がないことを示す貴重な資料」としてコメントしたのである。
注9.データベース「世界と日本」(代表:田中明彦)、政策研究大学院大学・東京大学東洋文化研究所[文書名]「第2回竹入義勝・周恩来会談記録」
https://worldjpn.grips.ac.jp/documents/texts/JPCH/19720728.O2J.html(外部サイト)
(2022年7月17日最終閲覧)
注10.井上清著『尖閣列島‐釣魚諸島の史的解明』、13頁。井上清氏自身、同書で「釣魚諸島(尖閣列島等)の歴史と帰属問題」という小論を書き、歴史学研究会機関誌『歴史学研究』七二年二月号(一月下旬発行)にのせてもらうことにした。またその『歴研』論文の要旨を一般向けに書いた「釣魚諸島(尖閣列島など)は中国領である」という一文を、日本中国文化交流協会機関誌『日中文化交流』二月号にのせることにした」と記している。
注11.齋藤道彦著『尖閣問題総論』168頁。齋藤道彦氏は、井上清氏が挙げた14種の文献の内、陳侃、郭汝霖、程順則、林子平、徐葆光、向象賢、汪楫、鄭舜功の8種は楊仲揆氏がすでに公開していたものとし、胡宗憲、夏子陽、周煌、李鼎元、齋鯤の6種は井上清氏が新たに追加したものとしている。
注12.隔週刊紙「サンデーおきなわ」昭和47年8月12日、「閣列島と領有権問題」(6)で、奥原敏雄氏は「楊仲揆論文本論文「尖閣群島問題」は中央日報一九七〇年八月二十二日、二十三日の二回に分けて掲載されたものであり、中国領有論を主張する論文としてはおそらく最初のものである」とした。
注13.尖閣問題を最初に論じたとされる楊仲揆氏以来、徐葆光の『中山傳信録』(1719年)に依拠して、林子平が作図した『琉球三省并三十六嶋之図』(「琉球国之図」)と『三国接壌図』では赤尾山、黄尾山、釣魚台、彭佳山、花瓶嶼を清朝と同じピンクで彩色していることから、尖閣諸島は中国領であったとする主張が行なわれている。
林子平の「三国接壌図」は、長久保赤水の『改正日本輿地路程全図』を基図としているが、長久保赤水は琉球国までを描き、尖閣諸島を描いていない。
注14.2012年9月25日、中華人民共和国国務院報道弁公室が発表した「釣魚島は中国固有の領土である」(https://www.mfa.gov.cn/ce/cejp//jpn/zgyw/t973306.htm(外部サイト))と題する白書で、「黒水溝」(「黒溝洋」)と関連して、向象賢の『中山世鑑』、程順則の『指南広義』等の古書を挙げた後、次のように述べている。
「以上の史料は、釣魚島、赤尾嶼は中国に属し、久米島は琉球に属し、境界線は赤尾嶼と久米島の間の黒水溝(現・沖縄トラフ)にあるとはっきり記している。明朝の冊封副使・謝傑の『琉球録撮要補遺』(1579年)には、「往路は滄水より黒水に入り、帰路は黒水より滄水に入る」とあり、明朝の冊封使・夏子陽の『使琉球録』(1606年)には、「水は黒水を離れ滄水に入る、必ずやこれ中国の境界」とあり、清朝の冊封使・汪輯の『使琉球雑録』(1683年)には、赤嶼の外の「黒水溝」こそ「中外の境界」であるとあり、清朝の冊封副使・周煌の『琉球国誌略』(1756年)には、琉球について「海面の西は黒水溝を隔て、○海と境界をなす」(2022年7月17日最終閲覧)(○はもんがまえに虫)
だが台湾府の▲籠山を「▲籠山、中華の界」とする齊鯤は、「黒溝洋」を「中外ノ界」とはしていない。齊鯤はその「黒溝洋」を詠って「大海中外無し、渾然として一溝を劃す」とするが、これは大海には中外無しとして、その中で黒溝(黒潮)が渾然として一線を画しているという自然現象を表現したものである。そこには「中国の境界」の意味はない。
また康煕三十六年(1697年)、台湾に渡った郁永河の『裨海紀遊』(『臺灣文獻叢刊』第一輯七、5~6頁)には、「黒水溝を渡る。臺灣海道、惟黒水溝最も険(さが)し。北より南に流れ、源、何所より出を知らず。海水、正に碧、溝水独り黒きこと墨のごとし。勢いまた稍(やや)□(弛・たる)む、故にこれを溝という」とあるが、『裨海紀遊』の黒水溝は中国大陸から澎湖島に至る海域のことで、(現・沖縄トラフ)ではない。(□はあなかんむりの下に瓜2つ)
(下條正男)
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