実事求是~日韓のトゲ、竹島問題を考える~
第62回
独島財団の動画『朝鮮の領土を描いた 18 世紀、独島古地図』批判
1 . はじめに
慶尚北道傘下の「独島財団」は7月15日、動画『朝鮮の領土を描いた18世紀、独島古地図』を公開した。「独島財団」はこの動画制作の目的について、竹島を日本領とする日本の主張は歴史を操作したもので、その事実を国際社会に知らせるためとしている。
そこで動画では、18世紀の西洋の古地図10点と長久保赤水の「改正日本輿地路程全図」を根拠に、18世紀の古地図は竹島(独島)を朝鮮領としていた、と喧伝したのである。
だがこの動画こそは、古地図を操作して、竹島を不法占拠する韓国側の正当化を狙ったプロパガンダ動画であった。
2 . ダンビルの『朝鮮王国図』の底本
今回、独島財団がプロパガンダに利用した18世紀の古地図は、ダンビルの『朝鮮王国図』(1735年)とそれを底本として朝鮮半島を描いた『イエズス会の情報を根拠とした中国領韃靼地図』(1749年)、『広東、遼東及び朝鮮地図』(1750年)、『中国地図集による中国帝国図』(1751年)、『アジアの二番目の部分、中国、インド、タルタール』(1755年)、『広東、遼東及び朝鮮地図』(1760年)、『東インド、中国、日本、フィリピン地図』(1792年)、『日本王国図と朝鮮』(1794年)、『中国領タルタール及び朝鮮地図』(1794年)、『イエズス会宣教師の材料を基礎にした中国行政区域図』(1794年)の10点の西洋古地図。それに長久保赤水の『改正日本輿地路程全図』である。
「独島財団」が、ダンビルの『朝鮮王国図』【写真1】に着目したのは、朝鮮半島の東側、江原道の平海と寧海の沿海部分に「Fan-ling-tao」、「Tchian‐chan-tao」と表記された二つの島が描かれていることによる。「独島財団」では「Fan-ling-tao」を欝陵島とし、「Tchian‐chan-tao」を竹島(独島)と解釈して、18世紀、西洋の古地図が竹島を朝鮮領としていた証拠としたのである。
【写真1】ダンビル『朝鮮王国図』と「Tchian‐chan-tao」部分【写真2】『皇輿全覧図』の千山島
だが「Tchian‐chan-tao」を竹島(独島)とするには、それが竹島(独島)であった事実を立証しなければならない。それはその後に続く『イエズス会の情報を根拠とした中国領韃靼地図』以降の古地図についても、同様であった。それを「独島財団」では、論証もせずに「Tchian‐chan-tao」を竹島(独島)としたのである。
はたして「Tchian‐chan-tao」は、竹島(独島)だったのであろうか。それを確認する手掛かりは、中国語音を借り、「Tchian‐chan-tao」と表記された朝鮮の地名にある。「Tchian‐chan-tao」が中国語音で表記されたのは、ダンビルの『朝鮮王国図』が、清朝時代にイエズス会の宣教師達が作図した『皇輿全覧図』を基図としたからである。それは『イエズス会の情報を根拠とした中国領韃靼地図』、『イエズス会宣教師の材料を基礎にした中国行政区域図』等の古地図のタイトルが示している。「独島財団」が注目した「Tchian‐chan-tao」は、清朝時代の『皇輿全覧図』に由来する表記だったのである。
その経緯について、「東北アジア歴史財団」が刊行した『西洋古地図の中の朝鮮半島、東海そして独島』(2021年刊)では、中国語音で表記された「Tchian‐chan-tao」は于山島のことで、『皇輿全覧図』がその于山島を千山島と誤記したことから、それが「Tchian‐chan-tao」(千山島)と表記されたとしている。
そこで「Tchian‐chan-tao」を『皇輿全覧図』【写真2】で確認すると、朝鮮半島の東側、江原道の平海と寧海の沿海部分には、千山島と表記された島が描かれている。それに『皇輿全覧図』で于山島を千山島としているのは、『皇輿全覧図』には底本となる地図があったからである。『皇輿全覧図』は、康煕帝の命を受けたフランス人のイエズス会士レジス等が1708年に三角測量を始め、1718年に完成したとされるが、朝鮮部分は、測量が行なわれておらず、朝鮮の地図を用いたからだ。
『粛宗実録』の粛宗三十九年(1713年)六月の「丁丑条」には、康熙帝の命と称して、清の使臣が朝鮮側に「東国地図」の提出を求めた記事がある。清の使臣はその時、既に朝鮮の地図を所持しており、朝鮮政府の朝鮮地図との校勘を求めている。当時、朝鮮内で流布していたのは『新増東国輿地勝覧』系統の地図である。
18世紀中期、鄭尚驥が『東国大地図』を作図するまでは、『新増東国輿地勝覧』系統の朝鮮地図が主流だった。その流布本の中には、于山島を子山島、干山島、千山島等と表記したものがあり、朝鮮の図形もダンビルの『朝鮮王国図』と類似している。
それを「独島財団」の動画では、「18世紀、西洋で制作された地図は、測量技術が発達していないので、欝陵島と独島の位置が不正確に描かれている」としているが、それは西洋の測量技術が未発達だったからではない。西洋の古地図の中の朝鮮は、測量技術が未発達だった朝鮮の「東国地図」を基にして、描かれていたからである。
「独島財団」には、このように古地図や文献を恣意的に解釈する傾向がある。それは于山島を竹島(独島)とする前提で文献を解釈するからで、その論拠になっているのが于山島を竹島(独島)とする唯一の文献、『東国文献備考』(「輿地考」)の分註である。
3 .『新増東国輿地勝覧』の于山島は竹島(独島)か
「独島財団」が、于山島を竹島(独島)とする「動画」を制作する際、その論拠となったのが『東国文献備考』(「輿地考」)の次の分註である。
「輿地志に云う。欝陵、于山皆于山国の地。于山は則ち倭の所謂松島なり」
だがこの分註は、『東国文献備考』(1770年成立)の編纂過程で、『新増東国輿地勝覧』からの引用文(「一説に于山欝陵本一島」)が、「于山は則ち倭の所謂松島なり」(于山島は則ち、倭の所謂松島である)と改竄されたものである。従って、『東国文献備考』(「輿地考」)の分註には証拠能力がないのである。
それに『新増東国輿地勝覧』を検証すれば、于山島が竹島(独島)でなかった事実が確認できる。『新増東国輿地勝覧』には、于山島に関して「一説于山欝陵本一島」(一説に于山島と欝陵島は同じ島である)とした分註はあっても、竹島(独島)については何も記されていないからだ。その『新増東国輿地勝覧』由来の于山島が何故、竹島(独島)になるのだろうか。
だがそれは極めて簡単な理由からである。1696年、鳥取藩に密航した朝鮮の安龍福は、鳥取藩によって追放されていたが、朝鮮に帰還後の取調べでは、鳥取藩主と交渉して欝陵島と松島(竹島)を朝鮮領にしたと供述していた。『東国文献備考』の分註は、その安龍福が「松島は即ち于山だ。これもまた我国の地である」とした証言を基に、「于山は則ち倭の所謂松島なり」と書き換えられていたのである。
だが『新増東国輿地勝覧』の成立は1530年。安龍福の証言を基に、分註が書き換えられたのは1770年である。後世の『東国文献備考』の分註を根拠に、240年前の『新増東国輿地勝覧』の于山島を松島(現在の竹島)とすることはできないのである。
それに『新増東国輿地勝覧』(「蔚珍県条」)の分註では、「一説、于山欝陵本一島」として、于山島と欝陵島を同島異名の島としている。この分註の存在は、『新増東国輿地勝覧』の編纂当時、于山島と欝陵島の区別がつかなかったことを示している。それは『新増東国輿地勝覧』と同じ編纂者の梁誠之が撰修した『高麗史』「地理志」でも同様であった。『高麗史』「地理志」では、本文に欝陵島のみを記して、分註では「一云于山武陵本二島」(一に云う、于山島と武陵島(欝陵島)は別々の二島だ)としているからだ。
『新増東国輿地勝覧』の分註では于山島と欝陵島を「同島異名」とし、『高麗史』「地理志」の分註では、于山島と欝陵島を異なる二島としたのである。これは『新増東国輿地勝覧』が編纂された時点でも、于山島と欝陵島の判別ができていなかった証左である。
そして何よりも重要なことは、『新増東国輿地勝覧』と『高麗史』「地理志」のいずれでも、于山島に対比されていたのは欝陵島だという事実である。それを「独島財団」では、『新増東国輿地勝覧』に由来する于山島(「Tchian‐chan-tao」)を竹島(独島)として、動画を制作したのである。これを歴史の操作というのである。
ダンビルが用いた『皇輿全覧図』には、『新増東国輿地勝覧』系統の朝鮮地図を基に、于山島と欝陵島が描かれていた。だがその于山島と欝陵島は、『新増東国輿地勝覧』の分註で「同島異名」とされた二つの欝陵島であった。そのため『新増東国輿地勝覧』の百年後、韓百謙の『東国地理誌』(1615年)では欝陵島を于山島とし、『輿地図書』(1756年頃成立)や『大東地志』(1862~1866年)等の地誌からは于山島が削除されたのである。『新増東国輿地勝覧』の于山島は、同島異名のもう一つの欝陵島だったからだ。
ダンビルが『朝鮮王国図』の基図とした『皇輿全覧図』は、その『新増東国輿地勝覧』系統の「東国地図」を基にしていた。ダンビルの『朝鮮王国図』で「Tchian‐chan-tao」と表記された千山島は、その千山島とは同島異名の欝陵島だったのである。
「独島財団」の動画では、その「Tchian‐chan-tao」を竹島(独島)として、18世紀の西洋古地図を使って、竹島(独島)は韓国領であると操作したのである。それを「独島財団」の動画では、次のように虚偽の歴史を捏造して、プロパガンダに使ったのである。
「朝鮮時代後期以後、欝陵島に捜討官を派遣し、欝陵島と独島を我々の領土として管理して、欝陵島の南東側に独島を正確に表記している」
ここで「独島財団」が、「欝陵島に捜討官を派遣し、欝陵島と独島を我々の領土として管理」したとするのは、1693年、欝陵島で密漁をしていた安龍福の一件を機に、日本と朝鮮との間で欝陵島の帰属問題が起こり、朝鮮側では三年に一度、欝陵島に捜討使を派遣することになったことによる。
だが竹島(独島)は、朝鮮の疆域には含まれていなかった。そのことは、捜討使の朴錫昌が復命した「欝陵島図形」【写真3】で確認ができる。朴錫昌の「欝陵島図形」は欝陵島の疆域を図示したもので、そこには竹島(独島)が描かれていないからだ。
さらにその「欝陵島図形」では、欝陵島の東2キロほどの小島に「所謂于山島」【写真4】と注記がなされているが、その于山島は現在の竹嶼(チクトウ)で、竹島(独島)ではない。竹島(独島)は、その「所謂于山島」から南東に90キロ近く離れているからだ。
この朴錫昌の「欝陵島図形」(1711年)は、後に鄭尚驥の「東国大地図」(18世紀中頃)に採用され、欝陵島と于山島(竹嶼)として描かれることになった。
【写真 3 】朴錫昌の『欝陵島図形』【写真 4 】『欝陵島図形』の「海長竹田 / 所謂于山島」部分
それを「独島財団」の動画では、鄭尚驥の「東国大地図」【写真5】に描かれた于山島を、「欝陵島の南東側に独島を正確に表記している」として、独島(竹島)としたのである。
【写真5】鄭尚驥『東国大地図』。欝陵島右に于山島
だが朴錫昌の「欝陵島図形」で、「所謂于山島」と注記された于山島は、現在の竹嶼(チクトウ)である。鄭尚驥の『東国大地図』で、「欝陵島の南東側」に正確に表記された于山島は、独島ではなく竹嶼(チクトウ)であった。「独島財団」は、ここでも鄭尚驥の古地図を操作して、竹島(独島)を韓国領としていたのである。
だが「独島財団」による歴史の操作は、長久保赤水の『改正日本輿地路程全図』でも行われたのである。
4 . 長久保赤水の『改正日本輿地路程全図』
「独島財団」の動画によると、長久保赤水の『改正日本輿地路程全図』は、「日本で制作された朝鮮の領土を描いた独島古地図」なのだという。その『改正日本輿地路程全図』には、官許版と操作版(捏造版)の二種類があり、違いは経緯度線と竹島の彩色の有無にあるとしている。官許版では、竹島周辺に経緯度が引かれておらず、竹島には彩色がなされていない。これに対して、操作版(捏造版)では、竹島を日本領とするため竹島に彩色し、経緯度線を引いて、操作したというのである。
だが竹島の彩色の有無や経緯度線の有無は、欝陵島と竹島の帰属問題とは関係がない。竹島問題は1952年1月18日、韓国政府が「李承晩ライン」を宣言したことが発端となり、1954年、韓国政府が竹島の武力占拠をはじめて今日に至っている。
それを「独島財団」では、江戸時代に刊行された『改正日本輿地路程全図』には、官許版と操作版(捏造版)の二種があり、操作版(捏造版)では、竹島を日本領とするため操作がなされたのだという。
だが動画で、「竹島を日本領とするため操作した」と吹聴するなら、竹島の彩色の有無や経緯度線の有無ではなく、日本領とするため誰が何故、操作したのか、その歴史的事実も明らかにしなければならない。
韓国側の竹島研究では、長久保赤水の『改正日本輿地路程全図』を論ずる際は、竹島の彩色と経緯度線の有無を争点としてきた。だがそれは文献批判もせずに古地図や文献を恣意的に解釈することと同じである。
『改正日本輿地路程全図』を読図する際に重要なことは、「独島財団」が提唱する官許版と操作版(捏造版)のいずれにも、「見高麗猶雲州望隠州」(高麗を見ることなお雲州より隠州を望むがごとし)とした注記があることだ。これは長久保赤水が『改正日本輿地路程全図』を作図するに際して、齋藤豊仙の『隠州視聴合記』から竹島と松島を描き入れていたことを示す注記だからである。
そしてこの注記は、『隠州視聴合記』(「国代記」)の一文に由来し、齋藤豊仙が「高麗を見ること雲州より隠州を望むがごとし。然らば則ち、日本の乾(西北)の地、此州以て限りとなす」として、竹島(欝陵島)を日本の西北の境界とした文章からの引用である。敢えて『改正日本輿地路程全図』の操作版(捏造版)で、日本領とする必要はないのである。
長久保赤水は、この『隠州視聴合記』(「国代記」)を基に、『改正日本輿地路程全図』を作図し、その竹島(欝陵島)の近くに、「見高麗猶雲州望隠州」と付記したのである。これは長久保赤水も、竹島(欝陵島)を日本の西北の境界としていたからである。
それを「独島財団」の動画では、『改正日本輿地路程全図』には、官許版と操作版(捏造版)の二種があって、操作版(捏造版)は、竹島を日本領とするため竹島に彩色し、経緯度線を書き加えるなどの操作をしたと、事実無根の主張をするのである。
だがこの動画こそが、歴史の操作なのである。それは長久保赤水が編纂に関わった『大日本史』(「地理志」)の「隠岐国条」で、次のように記しているからである。
「すでに竹島と曰い、松島と曰う。我が版図たること、智者を待たずして知れるなり」
齋藤豊仙の『隠州視聴合記』を参考に、『改正日本輿地路程全図』を作図した長久保赤水は、竹島(欝陵島)と松島(竹島)を日本領としていたのである。『改正日本輿地路程全図』の竹島(欝陵島)近くの注記(「見高麗猶雲州望隠州」)は、竹島(欝陵島)と松島(竹島)が「我が版図」であることを示していたのである。
それを「独島財団」の動画では、『改正日本輿地路程全図』には官許版と操作版(捏造版)の二種があり、日本は、竹島に彩色し経緯度を書き加えたとして、その証拠を捏造したのである。だが長久保赤水は、竹島(欝陵島)と松島(竹島)を「我が版図」と認識していた。それは文献批判さえしていれば、「智者を待たずして知れる」ことだったのである。
5 . おわりに
韓国の慶尚北道傘下の「独島財団」では、動画『朝鮮の領土を描いた18世紀、独島古地図』を公開した。その目的は、竹島を日本領とする日本政府の主張は歴史を操作したものとして、その事実を国際社会に知らしめるためだとした。
だが「独島財団」が掲げた18世紀の西洋の古地図には、竹島(独島)を朝鮮領とする証拠能力はなかった。これは長久保赤水の『改正日本輿地路程全図』についても同様だった。
「独島財団」では、動画『朝鮮の領土を描いた18世紀、独島古地図』を公開したことで、逆に韓国側による竹島(独島)の不法占拠の事実を自白してしまったのである。
(島根県立大学・東海大学客員教授下條正男)
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