• 背景色 
  • 文字サイズ 

実事求是~日韓のトゲ、竹島問題を考える~

第60回

東北アジア歴史財団刊『西洋古地図の中の朝鮮半島、東海そして独島』に対する苦言


 

 韓国の「東北アジア歴史財団」はこの3月、『西洋古地図の中の朝鮮半島、東海そして独島』を刊行した。その目的について、代表のキム・ジュンクン氏は、「西洋で制作された古地図には、朝鮮半島と東海それから独島はいつからどのように描かれているか?」。このような質問に答えるためとしている。

 だがその目的は達成できていない。本書が最も重視するダンビルの『朝鮮王国図』と金大建神父の『朝鮮全図』には独島(竹島)が描かれておらず、その東海は朝鮮半島の沿海部分の呼称であった。それもラテン語で「ORIENTALEVELPINHAC」等と表記された西洋の古地図を東海(日本海)と読み換えただけであった。

 それは拙稿(「日本海は世界が認めた唯一の呼称」)で明らかにしたように、韓国が主張する「東海」が日本海の海域に拡大されたのは、1946年頃だからである。その沿海部分の呼称であった「東海」を西洋の古地図に描かれた日本海の海域に置き換えようとするところに、最初から無理があった。

 それを韓国政府は1992年、第6回の国連地名標準化会議で日本海の呼称に異議を唱え、東海に書き換えるよう求めたのである。それも韓国側では、2000年前から日本海を東海と呼称してきたと虚偽の歴史を捏造し、その正当性を主張するのである。

 今回、「東北アジア歴史財団」が刊行した『西洋古地図の中の朝鮮半島、東海そして独島』では、韓国側が主張する「東海」が日本海の一部海域であった事実を隠し、収載した西洋古地図150点を東海表記の正当化と、独島(竹島)の領有権強化のための手段としたのである。

 韓国側では何故、歴史を歪曲してまで「東海」の呼称に固執するのだろうか。それは日本海呼称問題を「歴史問題」と捉え、道義的側面で日本に過去を反省させることで、韓国が占拠を続ける竹島に対し、領有権を主張する日本を封ずる思惑があるからだ。事実、韓国側が「東海」の正当性を主張する論拠は、国際水路局が1929年に『大洋と海の境界』を編纂した際、朝鮮は日本の植民統治下にあったとする「歴史」である。

 だがその論理には無理があった。日本海の呼称でもなかった「東海」を、現行の日本海に置き換えようとし、日本海との併記を求めたからだ。それも韓国側では政策提言機関である「東北アジア歴史財団」はじめ、「東海研究会」などが中心となり、日本の植民統治を拡張主義、侵略国家と批判することで、東海の正当化を謀ったのである。

 これに対して日本政府は、2004年頃から世界の図書館に所蔵されている西洋の古地図の調査をはじめ、韓国側の批判に応えようとした。その調査の結果、日本海と表記する地図が多いことを根拠に、「日本海は世界が認めた唯一の呼称」と結論付けたのである。

 今回、「東北アジア歴史財団」が『西洋古地図の中の朝鮮半島、東海そして独島』を刊行したのは、それに対抗して、西洋の古地図には日本海以外にも「朝鮮海」、「韓国海」、「東海」と表記したものが多いとして、日本海の呼称が唯一でなかったと反論したのである。

 だがそれは徒労であった。歴史的事実として、韓国側が主張する東海は、1946年前後までは朝鮮半島の東側の沿海部分を指す呼称だったからだ。その東海を、西洋の古地図に登場する「朝鮮海」や「高麗海」と同一のものとし、現行の日本海を否認する証拠とするのは、牽強付会である。

 そこで本稿では、『西洋古地図の中の朝鮮半島、東海そして独島』所収のダンビルの『朝鮮王国図』と金大建神父の『朝鮮全図』について、その解説の誤りを糺すことにした。前者では独島を韓国領とした事実はなく、後者では日本海を東海とはしていないからである。

ダンビルの朝鮮王国図の画像            金大建神父の朝鮮全図の画像

1.ダンビル『朝鮮王国図』                  2.金大建神父『朝鮮全図』

 

1. 金大建神父の『朝鮮全図』について

(1)『朝鮮全図』の于山島(Ousan)

 金大建神父の『朝鮮全図』は、近年(2020年)、「東北アジア歴史財団」のキム・ジュンクン氏によって発見されたものという。『西洋古地図の中の朝鮮半島、東海そして独島』では、金大建神父の『朝鮮全図』について、次のような説明がなされている。

 

 この地図は金大建神父(アンドレア・キム・デゴン、1821~1846)が1845年に作成したもので、原本と写本2枚がフランス国立図書館に所蔵されている。パリ外邦伝教会所属であった金大建神父は、フランスの神父達の朝鮮入国および朝鮮での布教活動を助けるため、すべての地名をローマ字表記で作成した。表記された地名の数は総て400余で、郡県が260余、島が102などである。太い線で表示しているのは海岸線と二つの境界線で(中略)、クロード・シャルル・ダレー(1829~1878)神父が作成した『韓国教会史』を見ると、金大建神父が漢城府の書庫の地図を筆写して、作成したとする。朝鮮半島の海岸線の形態及び朝鮮半島の北側の境界等をみると18世紀以後、朝鮮で広く使われた鄭尚驥(1678~1752)の『東国地図』系統の地図中の一点を模写したものと見られる。

 この地図は地名が国語の発音をそのまま写しているという点で、極めて重要である。即ち欝陵島は「Oulangto」、独島である于山島は「Ousan」と表記している。それに当時、中国と日本の情報を基に東北アジア地図を描いていた西洋の世界に、我々が描いた地図が紹介され、西洋世界の地理認識の変化に影響を与えていた点では大きな意義がある。

 

 この記述で注目すべき部分は、金大建神父が底本とした地図が鄭尚驥の『東国地図』系統の地図であった点。それに『朝鮮全図』に描かれている于山島(Ousan)を独島とした二点である。

金大建の朝鮮全図の部分の画像     鄭尚驥の東国地図の画像

3.金大建『朝鮮全図』部分。欝陵島右に于山島                                   4.鄭尚驥『東国地図』欝陵島右に于山島

 

 この解説では、「独島である于山島は「Ousan」と表記している」とするが、朝鮮時代前期の『世宗実録地理志』(1454年)や『高麗史』「地理志」(1453年)、『新増東国輿地勝覧』(1530年)等の地志では、于山島に対比されていたのは欝陵島で、独島ではなかった。

 中央集権国家の朝鮮では、建国すると間もなく、国家事業として地誌の編纂をはじめた。だが于山島については、長くその所在を明確にすることができなかった。その痕跡が、『高麗史』「地理志」と『新増東国輿地勝覧』の分註に残されている。前者では「一云、于山武陵本二島」とし、後者では「一説、于山欝陵本一島」としているのがそれだ。

 『高麗史』「地理志」の「一云、于山武陵本二島」は、「于山島と武陵島(欝陵島)は二島別々の島である」の意で、『新増東国輿地勝覧』の「一説、于山欝陵本一島」は、「一説として、于山島と欝陵島は同島異名である」と読める。朝鮮時代の前期、于山島は欝陵島と対比されていたのである。

 それを『西洋古地図の中の朝鮮半島、東海そして独島』では、当然のように、鄭尚驥の『東国地図』系統の地図に描かれた于山島を独島としていた。この解説者は、何を根拠に于山島を独島としたのだろうか。それは歴史的事実として、『新増東国輿地勝覧』の系統に連なる『輿地図書』(1756年頃成立)や『大東地志』(1863年頃成立)等では、欝陵島だけが記載されており、于山島が消されているからだ。

 これは所在が明確でなかった于山島が、何故、鄭尚驥の『東国地図』系統の地図には描かれているのか。

 それ故、鄭尚驥の『東国地図』系統の地図に描かれている于山島については、実際にどこの島なのか、論証しておかねばならなかったのである。

 だが『西洋古地図の中の朝鮮半島、東海そして独島』では、その基本的な作業が省略されている。それは「于山島は独島である」を前提として、文献批判もせずに鄭尚驥の『東国地図』系統の地図を解釈していたからである。

 これは歴史研究として、致命的であった。『西洋古地図の中の朝鮮半島、東海そして独島』では、朝鮮時代の文献の中に、「于山島は独島である」とした記述があると、それに無批判に従っていただけだからだ。その「于山島は独島である」とした文献は、1770年に編纂された『東国文献備考』(「輿地志」)である。その分註では、「于山は倭の所謂松島(現在の竹島)である」としているので、それを根拠としたのである。

 だが既に明らかにされているように、この分註は、『東国文献備考』(「輿地志」)が編纂される過程で、『新増東国輿地勝覧』の「一説、于山欝陵本一島」が、「于山は倭の所謂松島である」と改竄されたものであった。従ってこの分註には、「于山島は独島である」とする証拠能力はないのである。

 それを金大建神父の『朝鮮全図』に描かれた于山島(Ousan)を独島としたのは、鄭尚驥の『東国大地図』系統の地図に対する文献批判を怠って、改竄されていた分註(「于山島は独島である」)に依拠して、鄭尚驥の『東国大地図』系統の地図を読図したからである。

 これは金大建神父の『朝鮮全図』の于山島(Ousan)を独島とする前に、何故、その底本となった鄭尚驥の『東国地図』系統の地図には于山島が描かれたのか。その事実を明らかにする必要があったのである。

 何故なら、鄭尚驥の『東国地図』系統の地図に于山島が描かれることになったのは、1711年に欝陵島討捜使の朴錫昌が欝陵島を踏査して『欝陵島図形』を作成し、その中で欝陵島の東約2キロにある竹嶼に「海長竹田/所謂于山島」と表記したことから始まるからだ。

 

朴錫昌の欝陵島図形の画像            欝陵島図形の「海長竹田/所謂于山島」部分の画像

5.朴錫昌の『欝陵島図形』                  6.『欝陵島図形』の「海長竹田/所謂于山島」部分

 

 鄭尚驥は、朝鮮半島全域の地図を作成する際に、その朴錫昌の『欝陵島図形』に従って、欝陵島の東側に于山島を描いたのである。確かに鄭尚驥の『東国地図』系統の地図には于山島が描かれているが、それは独島(竹島)ではなかった。その于山島は朴錫昌の『欝陵島図形』に由来する「海長竹田/所謂于山島」で、そこには女竹(海長竹)が叢生しているからだ。現に岩礁に過ぎない独島に、女竹など生えていない。この于山島が独島(竹島)でないことは、自明である。

 朝鮮時代の古地図には、『新増東国輿地勝覧』に由来する地図と鄭尚驥の『東国地図』系統に属す二つがあった。従ってそこに描かれた于山島についても、別々の于山島として解釈する必要があった。前者の于山島は、欝陵島のことで、後者は欝陵島の東約2キロに位置する竹嶼である。いずれも独島とは関係のない島々であった。

 それをキム・ジュンクン氏は、鄭尚驥の『東国地図』系統の地図を底本とした金大建神父の『朝鮮全図』の于山島を、独島としたのである。これは鄭尚驥の『東国地図』系統の地図が、欝陵島捜討使の朴錫昌の『欝陵島図形』に由来し、そこに描かれた于山島が竹嶼であった事実を無視して、『朝鮮全図』の于山島(Ousan)を恣意的に解釈しただけのことである。

 従って、金大建神父の『朝鮮全図』を模写したフランス国立図書館蔵の『ラテン語本朝鮮全図』(1860年)と米海軍将校J.R.Phelanの『朝鮮全図』に描かれた于山島も、独島ではなく、欝陵島の東約2キロの竹嶼としなければならなかった。この事実は、金大建神父の『朝鮮全図』には独島は描かれていなかった、ということなのである。

(2)『朝鮮全図』の「MAREORIENTALE」(東海)

 さらにキム・ジュンクン氏は、フランス国立図書館所蔵の『ラテン語本朝鮮全図』及び米国の海軍将校J.R.Phelanが製作した『朝鮮全図』を根拠として、西洋の古地図でも日本海を東海と表記していた証拠とした。

ラテン語本朝鮮全図の画像          J.R.Phelanの朝鮮全図の画像

7.『ラテン語本朝鮮全図』          8.J.R.Phelan『朝鮮全図』

 

 それは、この二つの地図がすべて朝鮮の金大建神父(1821~1846)の『朝鮮全図』を模写したもので、そこには「MAREORIENTALE」(東海)と表記されているからであろう。

 だが『ラテン語本朝鮮全図』とJ.R.Phelanが製作した『朝鮮全図』には、朝鮮半島の西側にも「MAREOCCIDENTALE」(西海)とした表記がなされている。これは金大建神父の『朝鮮全図』が底本とした鄭尚驥の『東国地図』系統の地図と同じである。鄭尚驥の『東国地図』系統の地図では、朝鮮半島の東側には「東海」と表記し、西側には「西海」としていたからだ。

鄭尚驥の東国地図系統の地図の画像

9.鄭尚驥『東国地図』系統の地図(「我国総図」)右「東海」、左「西海」、下「南海」

 

 この「東海」と「西海」は、拙稿(「日本海は世界が認めた唯一の呼称」)でも明らかにしたように、朝鮮半島の沿海を表記したもので、その外側は大海と認識していた

 従って、金大建神父の『朝鮮全図』を模写した『ラテン語本朝鮮全図』とJ.R.Phelanが製作した『朝鮮全図』に「MAREORIENTALE」とあるからといって、それを日本海と解釈することはできない。

 『ラテン語本朝鮮全図』とJ.R.Phelanが製作した『朝鮮全図』では、朝鮮半島の西側にも「MAREOCCIDENTALE」と表記しているからだ。この「MAREOCCIDENTALE」は、黄海の一部である。『朝鮮全図』の「MAREORIENTALE」を根拠に、日本海を東海に書き換えようとするのは、「MAREOCCIDENTALE」を根拠として、黄海を西海に書き換えるようとするのと同じである。黄海の一部(朝鮮半島の西海岸の沿海部分)の呼称であった西海を根拠に、黄海を西海とすることはできないのである。

 それを象徴的に示しているのが、明代の『海防纂要』(「遼東連朝鮮図」)である。そこでは朝鮮半島の東側に「朝鮮東海」と表記し、西側には「朝鮮西海」としている。これは朝鮮の東海、朝鮮の西海という意味で、朝鮮半島の沿海部分を指している。『ラテン語本朝鮮全図』とJ.R.Phelanが作成した『朝鮮全図』の「MAREORIENTALE」(東海)と「MAREOCCIDENTALE」(西海)もそれと同様で、朝鮮半島の沿海を示していたのである。事実、それは金大建神父の『朝鮮全図』が底本とした鄭尚驥の『東国地図』系統の地図でも、「東海」と「西海」は、朝鮮半島の沿海の呼称を表記したものであった。

2.ダンビルの『朝鮮王国図』について

 ダンビルの『朝鮮王国図』(1745年)には、朝鮮半島の東側、江原道の平海と寧海の沿海部分に「Fan-ling-tao」、「Tchian‐chan-tao」と表記された島が二つ、描かれている。キム・ジュンクン氏は、その「Tchian‐chan-tao」と記されているのが于山島で、現在の独島なのだという。それ故、ダンビルの『朝鮮王国図』では、独島を韓国領としていたとするのがキム・ジュンクン氏の論理である。

 だがここで、于山島が「Tchian‐chan-tao」と中国語の発音で表記されているのは、ダンビルの『朝鮮王国図』には、他に底本があったということを示している。それについてキム・ジュンクン氏も、ダンビルの『朝鮮王国図』は、清朝で編纂された『皇輿全覧図』を底本に作図されていたとしている。それも于山島を「Tchian‐chan-tao」と表記しているのは、『皇輿全覧図』では于山島を千山島と誤記していたからだという。この事実は、『皇輿全覧図』にもまた、于山島を千山島と誤記した底本が存在したことを意味するのである。

ダンビルの朝鮮王国図と「Tchian‐chan-tao」部分の画像        皇輿全覧図の千山島の画像

10.ダンビル『朝鮮王国図』と「Tchian‐chan-tao」部分        11.『皇輿全覧図』の千山島

 

 ではその『皇輿全覧図』が参考にした「朝鮮地図」とは、どのような地図だったのか。結論から言うと、それは『新増東国輿地勝覧』系統の地図である。

新増東国輿地勝覧の江原道図の于山島と欝陵島の画像

12.『新増東国輿地勝覧』「江原道図」の于山島と欝陵島

 

 ダンビルが底本とした清の『皇輿全覧図』は、康煕帝の勅命でフランス人のイエズス会士レジス等が1708年に測量を始め、1717年に完成していた。

 だが朝鮮半島の部分は、測量をせずに、既存の朝鮮地図を用いた。その時点で、朝鮮半島の地図として存在したのは、官撰の『新増東国輿地勝覧』系統の地図である。そして事実、『新増東国輿地勝覧』系統の流布本の中には、于山島を子山島、干山島、千山島等と表記したものが実在する。

 鄭尚驥が『東国地図』を作成したのはその『皇輿全覧図』の完成後で、鄭尚驥が描いた于山島は、欝陵島の東約2キロの竹嶼であった。

 この事実は重要である。『皇輿全覧図』が底本とした『新増東国輿地勝覧』系統の地図に描かれた于山島は、欝陵島と対比されていた于山島だったからだ。ダンビルは、その『新増東国輿地勝覧』系統の地図を基にした『皇輿全覧図』を底本に、『朝鮮王国図』を作図していたのである。これは「Tchian‐chan-tao」と表記された于山島は、『新増東国輿地勝覧』系統の地図に由来する于山島のことで、独島ではなかったということである。

 『西洋古地図の中の朝鮮半島、東海そして独島』では、そのダンビルの『朝鮮王国図』が後世の西洋の古地図に影響を与え、西洋では独島を「Tchian‐chan-tao」と表記したとしている。

 だがダンビルの『朝鮮王国図』で、「Tchian‐chan-tao」と表記された于山島は、『皇輿全覧図』の中の千山島(于山島)であった。さらにその『皇輿全覧図』は、朝鮮時代前期に編纂された『新増東国輿地勝覧』を底本として、作図されていたのである。

 それも『新増東国輿地勝覧』系統の于山島は、鄭尚驥の『東国地図』系統の地図で欝陵島の東約2キロの竹嶼に比定されると、次第に地誌から姿を消していった。

 ダンビルの『朝鮮王国図』に描かれた朝鮮半島が、『新増東国輿地勝覧』系統の地図を底本とした『皇輿全覧図』の朝鮮半島であった以上、そこに描かれた「Tchian‐chan-tao」は欝陵島とは同島異名の于山島で、独島(竹島)ではなかったのである。

 

 さて以上、縷々述べてきたが、東北アジア歴史財団編『西洋古地図の中の朝鮮半島、東海そして独島』では、金大建神父の『朝鮮全図』に「MAREORIENTALE」(東海)と表記されているとそれを日本海としたがその事実はなく、「Tchian‐chan-tao」と表記されていたダンビルの『朝鮮王国図』の千山島も、独島ではなかったのである。

 従って、『西洋古地図の中の朝鮮半島、東海そして独島』を刊行したことで、「東北アジア歴史財団」は逆に、「日本海は世界が認めた唯一の呼称」とした日本側の主張の正しさを反証してしまったのである。

 

 

(島根県立大学客員教下條正男)


お問い合わせ先

総務課

〒690-8501 島根県松江市殿町1番地
TEL:0852-22-5012
FAX:0852-22-5911
soumu@pref.shimane.lg.jp