実事求是~日韓のトゲ、竹島問題を考える~
第57回
日本海は世界が認めた唯一の呼称
1992年の第6回国連地名標準化会議以来、日韓の間では日本海の呼称を巡って意見の対立が続いている。その間、日本政府は、一貫して「日本海は世界が認めた唯一の呼称」との立場を堅持してきた。それは韓国政府が主張する「東海」が、朝鮮半島の沿海部分を指す呼称であったこと。従って、国際水路機関の『大洋と海の境界』で定められた日本海の海域とは重ならず、日本海に取って代わる資格がないからである。
だが韓国側では依然として「日本海」に異議を唱え、東海の呼称に固執している。これには韓国側の事情がある。1954年以来、日本領の竹島(韓国名、独島)を占拠し続ける韓国政府が、領土問題と日本海の呼称問題とを結び付け、それを外交懸案としているからだ。
韓国側が東海を正当とする理由に、日本海の中に独島(竹島)があると、日本の領海の中に独島があるようで不適切とする論理がある。そこで韓国政府は、日本海の呼称を止めて、韓国が2000年間使い続けてきた東海に換えよう、というのである。
その2000年前から東海が使われてきたとする論拠が、『三国史記』(「高句麗本紀」始祖東明聖王条)にある「東海之濱」である。さらに韓国側では、1929年、その東海の呼称が国際水路局(当時。現在の国際水路機関)の『大洋と海の境界』に記載されなかったのは、当時、韓国は日本の統治下にあったため、東海の正当性を主張する機会を奪われていたとしている。
その後、韓国政府は、東海の「単独表記」が難しいと判断したのか、1997年の国際水路機関の会議からは日本海と東海の「併記」を主張して、今日に至っている。
だが韓国政府が、証拠としてあげた『三国史記』・「広開土王碑」(414年建立)・『八道総図』・『我国総図』の東海(注1)は、朝鮮半島の沿海部分を示す東海か、黄海又は東シナ海を意味する東海で、いずれも今日の日本海とは関係のない東海であった。
1.『我国総図』の東海について
例えば『我国総図』(図1)の場合、朝鮮半島の東側には確かに「東海」の表記があるが、その朝鮮半島の沿岸には「西海」と「南海」の表記もある。この「西海」は黄海の一部、「南海」は東シナ海の一部に属し、朝鮮半島の沿海部を示す呼称である。その「東海」を日本海とするなら、黄海は西海とし、東シナ海も南海に変えねばならないが、韓国側はそのような要求はしない。韓国政府が日本海を問題にするのは、そこには竹島(独島)の問題があるからである。
それに『我国総図』の東海が、朝鮮半島の沿海部の呼称であった事実は、明の王在晋が編纂した『海防纂要』(「遼東連朝鮮図」)(図2)で確認ができる。そこでは朝鮮半島の西海を「朝鮮西海」とし、南海は「朝鮮南海」、東海を「朝鮮東海」と表記しているからだ。
これは朝鮮の東海、朝鮮の西海を意味し、朝鮮半島の沿海として表記したものである。それを韓国政府が、「朝鮮東海」と同じ『我国総図』の東海を日本海とするのは、恣意的解釈である。
図1 『我国総図』
韓国政府が根拠にした「我国総図」を見ると、その南側と西側には、東海と同様、南海、西海の表記がある。韓国政府の論理に従えば、この南海は東シナ海にあたり、西海は黄海となる。韓国政府は「我国総図」の南海と西海の表記を隠し、東海だけを問題にしたのである。
図2 『海防纂要』(「遼東連朝鮮図」)
2.『三国史記』の「東海之濱」について
韓国政府による文献の恣意的解釈は、2000年前から東海の呼称が使われていたとする『三国史記』(「高句麗本紀」)の「東海之濱」でも、行われている。韓国政府は、高句麗を韓国の歴史として疑わないが、中国は高句麗を「中国の一地方政権」と見ている。その場合、「東海之濱」の東海は中国の東海となり、東海は黄海か東シナ海のこととなる。
ではその「東海之濱」は、どこにあったのか。『三国史記』に登場する「東海之濱」は、高句麗の始祖、東明聖王が建国の地として目指した場所である。とするとその「東海」は、高句麗の建国当時の疆域を勘案すれば、類推ができるはずである。そこで高句麗に関連した記事を『漢書』「地理志」、『後漢書』「地理志」、『三国志』「魏志東夷伝」(図3)(注2)で確認すると、高句麗は鴨緑江の上流近くに建国し、その東側には東沃沮があった。建国時の高句麗は、日本海とは接していなかったのである。
事実、『三国史記』(「高句麗本紀」)によると、高句麗が東沃沮を破って東方に領土を拡大し、日本海に達するのは東明聖王から六代目の太祖大王の時(図4)(注3)である。韓国政府が2000年前から使用していたとする『三国史記』の「東海」は、日本海ではなかったのである。
図3 『三国志』「魏志東夷伝」(東沃沮伝)
図4 「三国史記」(「高句麗本紀」)六代目の太祖の関連部分
3.「広開土王碑」の「東海賈」について
では414年建立の「広開土王碑」の「東海」は、どうであろうか。「広開土王碑」は、高句麗の広開土王の業績を称えるため、その子の長寿王が建立したもので、そこには広開土王の墓を守る墓守とその戸数が刻まれている。その墓守の一つが「東海賈」(図5)(注4)である。韓国政府は「東海賈」の「東海」に注目して、それを日本海としたようである。
だが「東海賈」の賈は商賈のことで、東海地方の商人といった意味である。その東海がどこの東海か明らかでないが、「東海賈」を日本海とするのは、牽強付会の説である。
図5 「陵戸」の一つが「東海賈」「広開土王碑」
韓国政府は「広開土王碑」の「東海」部分だけを読んでこれを日本海と読み替え、朝鮮半島では古くから日本海を東海と呼称してきた証拠とした。だが碑文には、「東海賈國烟三看烟五」とあって、日本海とは関係がなかった。
4.『八道総図』の東海について
韓国政府は、『八道総図』(図6)に記載された東海を日本海としている。だがそれも牽強付会の説である。「八道総図」は『東国輿地勝覧』に収載された朝鮮全図で、そこには漢江や鴨緑江等の大川とともに、内陸部に東海や南海、西海の表記がなされている。この東海を韓国政府は日本海と解釈したが、それは根拠のない憶説である。『東国輿地勝覧』の跋文では、『八道総図』について、次のように明記しているからだ。
「巻首ノ総図ハ則チ祀典載スルトコロノ嶽●■(及び)名山大川ヲ録ス」
(●は「さんずいに賣」、■は「さんずいに自」)
『八道総図』に描かれた大川や東海は、『祀典』で定められた国家祭祀の対象となる箇所を図示していたのである。事実、『八道総図』に表示された東海は、『東国輿地勝覧』(「襄陽都護府条」)に記載された「東海神祠」が設置されていた場所を示している。その「東海神祠」は、近年、写真のように「東海神廟」として再建され(図7)、南海も「南海神廟」(図8)のことであった。『八道総図』の東海は、『東国輿地勝覧』の跋文で明記しているように、国家祭祀を行う「東海神祠」の位置を図示していたのである。この「東海神廟」を日本海とすることはできない。
図6 『八道総図』に記載された東海
図7 再建された「東海神廟」
図8 「南海神廟」
それにこの東海の範囲に関しては、『東国輿地勝覧』の跋文で、「八道各図ハ則チ只州縣之鎮山、ソノ四至四到ヲ録ス」としている。日本海に面した「咸鏡道」、「江原道」、「慶尚道」の行政区域を描いた地図には、「四至四到」が示され、隣接する地域を明記することになっていた。
そのため「咸鏡道」、「江原道」、「慶尚道」の地図の外廓には、「東抵大海」(東、大海に抵(至)る)とする表記がなされている。(図9)
図9 『東国輿地勝覧』所収「江原道」、右側中段に「東抵大海」と表記
これは当時、沿海と区別して、外洋を大海と認識していたからで、この沿海と外洋を分けるのは、『東国輿地勝覧』が明代の『大明一統志』の編纂方針に準拠して編纂されていたからである。その沿海と外洋を区別する伝統は近代にも続き、朴殷植の『韓国痛史』(1915年刊)(図10)では、次のように表記している。
「韓国は亜細亜東南に突出した半島国なり。その境界は東、蒼海に濱(沿って)日本海を隔て、西は黄海に臨んで中国の山東江蘇二省に対する」
図10 朴殷植『韓国痛史』(1915年)
これは国際水路局(当時)で海洋の名称が定められる14年前である。当時の朝鮮半島では、沿海を蒼海とし、外洋を日本海としていたことが分かる。それは1926年7月1日付の『東亜日報』(図11)が、「東海‐或は云う蒼海‐日本海の一部」と報じていることでもいえる。韓国政府は、1929年当時、日本の植民統治下にあった韓国は、東海を主張できなかったと主張するが、日本海が『大洋と海の境界』に登録された頃の朝鮮半島では、東海を朝鮮半島の沿海部の呼称として使っていたのである。その東海が日本海とされるのは、戦後になってからである。1946年6月15日付の東亜日報には、「東海か?日本海か?」とした見出しがあるが、これは日本海を東海とすべきとする議論が起こっていたからである。
図11 1926年7月1日付『東亜日報』
5.19世紀後半、朝鮮半島でも日本海の呼称を使っていた
韓国政府は、東海の呼称は2000年前から使われていたとして、日本海と東海を併記すべきとの主張を繰り返している。だが日本海を東海と呼称するようになるのは、二十世紀も半ば近くになってのことである。
韓国の愛国者朴殷植も『韓国痛史』の中で、日本海と蒼海は区別していた。それは一九世紀の後半から、朝鮮半島でも日本海の呼称を使っていたからである。1896年刊行の『輿載撮要』(図12)では、朝鮮は「亜洲の東にあり。西、清国渤海に接す。北、満州に連なり、東、日本海を界とす」とし、大韓帝国の玄采が訳輯編纂した『大韓地誌』(1899年刊)(図13)でも、「東は日本海を界とし、西は黄海に濱(沿い)」としている。
図12 『輿載撮要』(1896年刊)
図13 『大韓地誌』(1899年刊)
韓国政府が日本海の呼称を東海に改めるようと要求する際、東海に改めるべき根拠として、日本による植民統治を理由に、日本海の不当性を強調してきた。だが日本海の呼称は、日本の独断で決められたものではない。明治八年(1876年)、大後秀勝が作成した『大日本海陸全国聯接朝鮮樺太』(図14)でも「日本海/ JAPAN SEA 」としているが、それはイギリスの海図を基に作図していたからである。その後、『寰瀛水路誌』(1883年刊)、『朝鮮水路誌』(1894年刊)も、英国の水路誌及び海図等を参考に編纂がなされ、日本海の呼称を踏襲している。
日本政府が、「日本海の呼称は世界が認めた唯一の呼称」とするのは、そのような歴史を踏まえてのことである。韓国側が強調する日本の植民統治とは、全く関係がないのである。それに縷々述べてきたように、韓国政府が日本海の呼称を問題とし、その証拠としてあげた東海は、朝鮮半島の沿海部か中国の東海であった。日本海を東海と単独表記することも、日本海と東海を併記することもできないのである。
最後に韓国政府に期待したいのは、歴史を捏造して、自己の主張を貫徹しようとする行為が、国際社会を混乱させる元凶となっていることに、気づいてもらうことである。
図14 『大日本海陸全国聯接朝鮮樺太』
注1.韓国外交通商部の見解(http://www.mofa.go.kr/www/wpge/m_3838/contents.do(外部サイト))
注2.『三国志』「魏志東夷伝」(高句麗伝)、『後漢書』「東夷伝」では、「高句麗在遼東之東、南與朝鮮、●貊(●は「さんずいに歳の旧字体」)、東與沃沮、北與夫餘接」とし、『三国志』「魏志東夷伝」(東沃沮伝)では「東沃沮、在高句麗蓋馬大山之東、東濱大海」とする。
注3.『三国史記』「高句麗本紀」、太祖大王四年秋七月条。「伐東沃沮、取其土地為城邑、拓境、東至滄海」
注4.韓国政府が根拠とした「広開土王碑」の「東海」部分、本来は「東海賈國烟三看烟五」とある。
(下條正男)
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