実事求是〜日韓のトゲ、竹島問題を考える〜
第47回
池内敏氏の中公新書版『竹島』について
名古屋大学教授の池内敏氏は2016年1月、島根県が開催する「竹島の日」の式典に照準を合わせたかのように『竹島‐もう一つの日韓関係』(以下、『竹島』)を中央公論新社から上梓した。
そこで思い出した一冊の本がある。2007年4月、韓国の「東北アジア歴史財団」が日本の岩波書店から出版した『史的検証、竹島・独島』だ。当時の東北アジア歴史財団理事長の金容徳氏は、『史的検証、竹島・独島』の出版目的を「韓国の独島領有権に対して日本国内に肯定的な視覚を作ることを期待する」とし、岩波書店から出版する理由については、「創業100年を誇る日本最大の出版社である岩波書店で、徹底した検証を通じて出版された点で大きな意味がある」と自画自賛した。
だが『史的検証、竹島・独島』は、すでに雑誌『諸君』(2007年9月号)でも指摘したとおり、著者の内藤正中島根大学名誉教授と韓国の国防大学教授の金柄烈氏の史的検証は杜撰であった。
岩波書店を利用して、韓国側の主張を日本国内に拡散させようとしたが、逆に韓国側の竹島研究の不備を露呈することになり、墓穴を掘ったのだ。各地の図書館には、岩波書店の『史的検証、竹島・独島』が収蔵され、竹島を日本領とする日本側の竹島研究と比較する場を提供することになったからだ。
今回、中央公論新社から出版された池内敏氏の『竹島』の表紙カバーでは、本書を「誰が分析しても同一の結論に至らざるをえない、歴史学の到達点を示す」と謳っている。だがそれは無垢な読者を欺く宣伝文句である。『竹島』の冒頭から下條批判を行った池内氏の論理は、東北アジア歴史財団が2010年12月に刊行した『独島、欝陵島からは見える』で下條批判をした論理を借用したものだからである。その事実は下記の「東北亜歴史ネット」(日本語版『独島、欝陵島からは見える』)を閲覧すれば、確認ができる。
http://contents.nahf.or.kr/japanese/item/level.do?levelId=isdu_001j_0020_0020&langTypes=j(外部サイト)
だが池内氏の『竹島』に対する書評の中で、池内氏が韓国側の理論を使い、韓国側の主張を代弁していた事実を見抜いたものは無かった。京都大学教授の小倉紀蔵氏は、「日韓双方の偏狭な政治的主張や解釈を切り捨てる。強い倫理の力が、ここに立ち現れている」(「日本経済新聞」)とし、ジャーナリストの青木理氏は、「自国の主張を声高に叫ぶ者がもてはやされ、自国に不利な言説は排除されてしまう」。「だが、本書は違う」として、妙な肩入れをしていた(「信濃毎日新聞」、「京都新聞」等、共同通信配信)。エコノミスト誌に至っては、「先行研究にも容赦なく批判を加え、最新の知見を披露する」と論評していた。
だが池内敏氏が借用した韓国側の論理の中には、二十年ほど前、私が韓国で竹島を巡って論争した際、金柄烈氏が使った論理も含まれている。池内敏氏は、「最新の知見を披露」などしておらず、『竹島』には、小倉紀蔵氏が評するような「強い倫理の力が」「立ち現れて」もいなかった。『竹島』を著述した池内氏は、韓国側の論理をあたかも自説のように説いて、島根県竹島問題研究会関係者の竹島研究を封印しようとしていただけである。それは池内氏自身、著書の中で「前近代史部分については、日本領・韓国領いずれの主張にとっても意味がない」と公言するように、池内氏の狙いは、歴史的分野に関する日韓双方の竹島研究を相殺することにあったからであろう。
1.「良心的日本人」としての池内敏氏の論理
では何故、池内氏はそのような思いに立ち至ったのか。それは近年の日韓の竹島論争の現状と、無関係ではない。島根県竹島問題研究会が2014年に『竹島問題100問100答』を刊行すると、慶尚北道独島史料研究会は『「竹島問題100問100答」に対する批判』を刊行して、反論した。その批判書では、島根県竹島問題研究会の『竹島問題100問100答』を無断で韓国語訳し、その翻訳文の後に慶尚北道独島史料研究会による自前の反論が付け加えられていた。当初、慶尚北道独島史料研究会では、島根県竹島問題研究会の竹島研究を論破できたとでも思っていたのか、2014年の6月下旬頃、『「竹島問題100問100答」に対する批判』を慶尚北道のサイトに公開していた。
だがその数ヵ月後、『「竹島問題100問100答」に対する批判』は、慶尚北道のサイトから削除された。『WiLL』誌の9月号で、『「竹島問題100問100答」に対する批判』の誤謬を指摘し、ネット上への公開を「オウンゴール」と評して間もなくである。
これまで韓国側では、韓国側の主張に同調する「良心的日本人」の竹島研究に触れることは出来ても、島根県竹島問題研究会の竹島研究に接する機会はなかった。それが韓国語訳された『竹島問題100問100答』を閲覧することができ、慶尚北道独島史料研究会の反論とも比較が出来たのである。
だが慶尚北道独島史料研究会の反論に誤謬があると指摘されては、反論書をサイトに掲載する意味がなくなってしまう。反論書は削除され、慶尚北道独島史料研究会が『「竹島問題100問100答」に対する批判』を刊行した痕跡も、抹消されてしまった。
その後、慶尚北道独島史料研究会周辺と韓国側の竹島研究には、変化が起こった。竹島論争の争点を歴史的領域から国際法領域に移し、戦術の転換を図ったのだ。歴史的分野では、勝算がないと判断したからであろう。
そこで島根県竹島問題研究会の『第3期「竹島問題に関する調査研究」最終報告書』(平成27年8月刊)では、慶尚北道独島史料研究会に対して『「竹島問題100問100答」に対する批判』のサイトへの再掲載を要請しておいたが、現在に至るまで実現していない。
池内氏の『竹島』では、この最近の竹島論争についても言及していない。これは池内氏に限らず、韓国側の論者に共通する特徴で、自説にとって不利になる事実は率先して隠蔽するからである。
島根大学名誉教授の内藤正中氏亡き後、池内敏氏は韓国側から「良心的日本人」と称されるようになるが、その理由はこの辺りにある。池内氏はその劣勢となった韓国側に代わり、島根県竹島問題研究会批判と下條批判に打って出たのである。
それも池内氏の戦術は、巧妙であった。『竹島』の冒頭、池内氏は『世宗実録』「地理志」と『新増東国輿地勝覧』に「于山島・欝陵島」と併記さされた于山島は、欝陵島であったと論証して見せ、それがさも重大発見でもあるかのように装ったのである。
だが『世宗実録』「地理志」と『新増東国輿地勝覧』に登場する于山島が欝陵島であった事実は、2008年3月、拙稿「独島呼称考‐韓国政府版『独島:六世紀以来韓国の領土』批判‐」(「人文・自然・人間科学研究」第19号)でも触れているが、それ以前からも、日本側の竹島研究では常識的な知識であった。
池内氏は、その常識的な知識を自説のように語り、それに続いて韓国側の論理を借用して、下條批判をして見せたのである。それも池内氏は、下條の『世宗実録』「地理志」の解釈には問題があるとし、その直後に1960年代の川上健三先生の竹島研究を批判して、日本側の竹島研究そのものを論破したかのように論を進めていた。
この池内氏の論理展開の仕方は、島根県竹島問題研究会の竹島研究を論破できなくなった時に韓国側が使う論法である。池内氏の川上健三先生批判は、二番煎じだったのである。
今日、竹島問題に関する歴史研究は、川上健三先生の時代よりも遥かに進んでいる。いくら川上健三先生の竹島研究を論難しても、島根県竹島問題研究会の竹島研究を論破したことにはならない。歴史的領域での竹島研究には、新たな争点が誕生しているからである。
2008年2月、島根県竹島問題研究会の『「竹島問題に関する調査研究」最終報告書』(平成19年3月刊)を受け、日本の外務省が刊行した『竹島問題を理解するための10のポイント』には下條の見解が採用されて、「『東国文献備考』等の記述は『輿地志』から直接、正しく引用されたものではないと批判する研究もあります」と記された。
この一文は、于山島を竹島(独島)としてきた韓国側にとっては致命的であった。これまで韓国側では、『東国文献備考』の「分註」に「于山島は倭の所謂松島(現在の竹島)である」とあることを論拠とし、朝鮮時代の文献や古地図にある于山島をことごとく竹島(独島)に読み換えて、竹島を韓国領とする根拠としてきた。その論拠が改竄されていたとなれば、「分註」はその証拠能力を失い、韓国側では歴史的権原がないまま、竹島を占拠していることになるからだ。
そこで慌てたのが、島根県竹島問題研究会に批判的な島根大学名誉教授の故内藤正中氏である。内藤氏は2008年10月、新幹社(代表、高二三)から急きょ、『竹島=独島問題入門‐日本外務省『竹島』批判』を出版し、「ここでだけ異説を取り上げた外務省の意図がわからない」として、外務省の小冊子を「これはひどい、ひどすぎる」と非難したのである。
この新幹社は、岩波書店が『史的検証、竹島・独島』を刊行する一ヶ月程前にも、内藤正中氏と朴炳渉氏の共著となる『竹島=独島論争』を出版し、その中で島根県竹島問題研究会批判と下條批判を展開していた。『竹島=独島問題入門‐日本外務省『竹島』批判』と『竹島=独島論争』を出版した新幹社は、日本国内での対日宣伝工作の橋頭堡の役割を果たしていたのである。(ちなみに『竹島=独島論争』は、2009年11月、韓国の国会及び国会図書館から英語版として刊行され、世界の国会図書館に寄贈された)
韓国では、島根県議会が「竹島の日」条例を制定した2005年3月以後、東北アジア歴史財団の『史的検証、竹島・独島』をはじめ、金学俊著の『独島/竹島韓国の論理』(論創社)、シン・ヨンハ(慎●[部首:かねへんに庸]廈)著の『独島問題100問100答』(弘益斎)等を日本語で出版し、日本国内での宣伝工作を始めたのである。
また間接的ながら孫崎享著『日本の国境問題』(ちくま新書)、和田春樹著『領土問題をどう解決するか』(平凡社新書)、保阪正康・東郷和彦著『日本の領土問題』(角川oneテーマ21)等では、韓国側にも竹島の領有権を主張する正当な論理があるかのような記述がなされているが、『東国文献備考』の「分註」には触れていない。韓国側にとって「不利な言説は排除」されているのである。
だが池内氏が排除したのは、『東国文献備考』の分註だけではなかった。下條批判をしながら、池内氏は私が何処でどの様な論稿を発表していたのか、その典拠を一切示していないのだ。そのため読者は、池内氏の下條批判を一方的に聞かされ、その批判が正当なのか、判断が出来ない仕組みになっている。『竹島』を出版した池内氏の目的が、下條説に対する反証ではなく、下條説の封印にあったからである。
2.『竹島』における下條批判の実態
『竹島』の中で下條批判がなされているのは、12頁から15頁に亘る数ページである。それも『竹島』の書き出しでは、韓国の外交部が編纂した『韓国の美しい島・独島』を紹介するなど、公平を心掛け、本書が学術的な著書であるかのように装っている。
だが韓国外交部の『韓国の美しい島・独島』については、池内氏が『竹島』を刊行する2年前、私も『海外事情』(第62巻1号)でその問題点を指摘し、竹島(独島)が韓国領でない事実を論証しておいた。その一つが、文献や古地図の中にある于山島を竹島(独島)に読み換える際、その論拠としてきた『東国文献備考』の「分註」が、改竄されていた事実である。
しかし池内氏はその事実には全く触れず、下條批判の論点を恣意的に捏造し、韓国側の論理を借用しては、反論のつもりでいるのである。それが『世宗実録』「地理志」の于山島の解釈に関連させて、「于山島に関わる下條説」には「四つの難点」があるとした下條批判の実態である。
その下條批判で、池内氏が最初に問題としたのが、『東国文献備考』の「分註」とは全く関係のない『世宗実録』「地理志」の「蔚珍県」条の解釈である。その『世宗実録』「地理志」の「蔚珍県」条には、「于山・武陵(現在の欝陵島)、縣の正東の海中に在り」とした本文と、それに続く分註の「二島相去不遠。風日清明、則可望見(以下略)」がある。
この本文と分註を解釈すると、蔚珍県が管轄する「于山島と武陵島(欝陵島)は、蔚珍県の正東の海中に在る」。この于山島と武陵島の「二島は、互に遠く離れていない。よく晴れた日には望み見ることができる」と読むことができる。これは『世宗実録』「地理志」や『新増東国輿地勝覧』のような地理志と地誌の場合、読み方があり、それに従った解釈である。韓国側では、この分註を「二島は、互に遠く離れていないので、よく晴れた日には望み見ることができる」と、一つのセンテンスとして解釈するが、それは正しい読み方ではない。
中央集権国家であった朝鮮では、地方統治のための地誌類の編纂が不可欠であった。特に地誌には、地方行政ハンドブック的な機能が求められるため、中央政府と地方政府との位置関係、それに地方政府が管轄する行政区域を明確にする必要があった。そこで地誌が編纂される際は、資料収集の段階で編集方針が示され、編集の方針に準じた編修がなされていた。その編集方針が「規式」である。海島の場合は、管轄する官庁からの方角と距離を記すことになっていた。地誌及び地理志を読む際は、その「規式」を念頭に置いて、解釈する必要があった。
『世宗実録』「地理志」(「蔚珍県」条)の本文に「于山武陵、縣の正東の海中に在り」とあり、続く分註にある「二島相去不遠。風日清明、則可望見」を解釈する時は、「二島相去不遠」を于山島と欝陵島の「二島は、互に遠く離れていない」と読み、次の「風日清明、則可望見」は、晴れた日には管轄する蔚珍県から欝陵島が「望み見える」と、解釈するのである。
だが「二島相去不遠」の于山島を、何としても現在の竹島(独島)としたい韓国側では、これまでも「望み見える」を欝陵島から竹島(独島)が「見える」と解釈し、朝鮮が竹島を領有していた証拠としてきたのである。それを証明するため、東北アジア歴史財団では2008年7月から2009年12月の約一年半、欝陵島から竹島が何日、見えるのか、「独島可視日数調査」事業を実施したのである。
その調査事業の結果、欝陵島からは56日、独島が観測できたとし、2010年12月、その成果を『独島、欝陵島からは見える』にまとめて出版した。池内氏が下條批判のために拝借したのは、「東北亜歴史ネット」に掲載された日本語版である。
だが『世宗実録』「地理志」(「蔚珍県」条)には、現在の竹島(独島)に関連した記載が無い。これは池内氏も指摘するように、『世宗実録』「地理志」(「蔚珍県」条)の于山島は、欝陵島とは同島異名の島だったからである。東北アジア歴史財団では、その于山島(欝陵島)を竹島(独島)と偽装するため、一年半も欝陵島に留まって、竹島を観測していたのである。
池内氏が下條批判のために借用したのは、その『独島、欝陵島からは見える』の一部である。それも池内氏は、「下條は二島(于山島と欝陵島)が『朝鮮本土から見える』と解釈した」として、下條説までも捏造していたのである。だが池内氏が創った下條説も、1996年に、韓国の金柄烈氏と『韓国論壇』誌上で論争した際、金柄烈氏が唱えていたものである。その事実は、「東北亜歴史ネット」の日本語版『独島、欝陵島からは見える』で確認ができる。そこには次のように記されているからである。
「さらに下條正男は「二つの島が互いに距離が遠くない」という解釈について「二つの島が本土から遠くない」と解釈すべきだと主張している。彼は『慶尚道地理志』と『慶尚道続撰地理志』の規式に基づいてみると「相去不遠」は本土からの距離を表現しているとみなすべきだと主張した。[註017]」(「東北亜歴史ネット」)
ここで[註017]とあるのは、金柄烈氏の「独島領有権に対する日本側の主張整理」(『独島領有権研究論集』209頁)を参照したことを示している。池内氏は、金柄烈氏が反論して曲解した下條説を、言葉を変えて、次のように借用して批判していたのである。
「『風日清明、則可望見』と続くのだから、天気さえよければ『二つの島がお互いに』見える、とするのが史料解釈としては順当である。朝鮮半島本土から二島が離れている、の意であると解釈したいのであれば、「二島」と「相去」のあいだに『朝鮮本土から』なる語句が挿入されねばなるまいが、そうした語句の省略を想定するのは史料解釈としてはあまりに無謀である。」(『竹島』12頁)
池内氏が下條批判の対象とした下條説は、金柄烈氏が反論した際の論理と同じである。だが私は、金柄烈氏が曲解したように、『世宗実録』「地理志」(「蔚珍県」条)の「見える」を、「二つの島が本土から遠くない」などと解釈したことはない。朝鮮時代の地誌や地理志は「規式」に基づいて編修されたため、自ずと読み方があるからだ。
竹島問題を論ずる際は、この「規式」に対する基礎的な理解がなければ、朝鮮時代の『世宗実録』「地理志」や『新増東国輿地勝覧』のような地理志と地誌を、正確に読むことはできない。事実、「東北亜歴史ネット」の日本語版『独島、欝陵島からは見える』では、「規式」の存在を問題にした下條に対して、「規式」を曲解し、次のような反論をしているからである。
「金柄烈は、当時の地理誌を纂編する際の規式は、該当の島が本土から遠くないときは本土からの位置や距離を記したが、距離が遠い場合や主島に所属する属島である場合には主島との関係を記しており、例えば珍島に付属する茅島は「珍島の南にある」と記し、楸子島に付属する清路島は「楸子島南にある」と記していることを挙げて反論した。[註018]」(「東北亜歴史ネット」)
この[註018]は、金柄烈氏の『独島か竹島か』(1996年刊)に依拠したことを示している。ここで金柄烈氏は、欝陵島と竹島(独島)の関係を主島と属島の関係にあったとするため、自前の「規式」を創り、「該当の島が本土から遠くないときは本土からの位置や距離を記したが、距離が遠い場合や主島に所属する属島である場合には主島との関係を記」したとし、『新増東国輿地勝覧』にある珍島の茅島と、楸子島に付属する清路島を例外の証拠としたのである。金柄烈氏によれば、茅島は「珍島の南にある」とされ、楸子島に付属する清路島は「楸子島南にある」と記されている。これは「主島に所属する属島である場合には主島との関係」を記した例だというのである。
だが『新増東国輿地勝覧』(「珍島郡」条)では、茅島を「郡の南の海中に在り」としている。金柄烈氏が読んだように、「珍島の南にある」とは書かれていない。『新増東国輿地勝覧』(「珍島郡」条)では、「規式」通りに、珍島郡の行政区域となる茅島を、管轄する珍島郡の「南の海中に在る」としていたのである。金柄烈氏は、珍島とあることから、珍島郡を珍島と曲解し、「珍島の南にある」としたのであろう。
これと同じ誤りは、「楸子島に付属する清路島」でも、指摘ができる。金柄烈氏は、『新増東国輿地勝覧』(「済州牧」条)にある清路島を楸子島に付属する島嶼と解釈し、それを「主島に所属する属島である場合には主島との関係」を記した例とした。
だが金柄烈氏が、清路島の主島とする楸子島には、「州の北海の中に在り。周三十里」とした記述がある。これは楸子島が、管轄する済州牧の北方に在り、周囲が三十里の島嶼だとしていたのである。『新増東国輿地勝覧』(「済州牧」条)では、楸子島と清路島の関係を主島と付属の島とは見ていなかったのである。楸子島と清路島は、いずれも済州牧が管轄する島嶼の一部とされていたのである。金柄烈氏が、「規式」の例外としてあげた二つの例は、例外なく「規式」にそって記録されていたのである。
日本語版『独島、欝陵島からは見える』の筆者は、「『世宗実録』「地理志」で島と本土との距離を表現するときは下條がいう形式だけではないということは、先に金柄烈が指摘していた」としているが、金柄烈氏は下條説を論破出来ずに、自滅していたのである。
その事実を知らない日本語版『独島、欝陵島からは見える』の筆者は、さらに次のような文章を加えて、屋上屋を重ねる過ちを犯していたのである。
「『世宗実録』「地理志」の京畿道水原都護府所属南陽都護府に関する記事では島との距離を表現しているが、本土との距離ではない事例が多数みられる。仙甘彌島は「花之梁西水路十里」、大部島は「花之島の西二里」、小牛島は「大部島の西五里」、霊興島は「小牛島の西七里」、召忽島は「霊興島の西三十里」、徳積島は「召忽島の南六十里」、牛音島は「府の北水路三里」などと表示していた。つまり、『世宗実録』「地理志」の島に対する距離表示は、本土からの距離だけを表示したものではないことは明らかである。」(「東北亜歴史ネット」)
この文章を読んで、何か気がつくことはないだろうか。池内氏が『竹島』(13頁)で下條批判をする際、借用したのはこの部分である。それも池内氏は、日本語版『独島、欝陵島からは見える』が、自説に不利となる箇所を隠蔽していた事情を知らずに、下條批判の際にそれを公開してしまったのである。
『世宗実録』「地理志」(「京畿道」)の「南陽都護府」条には、南陽都護府の「西、花之梁に距(至)ること三十里」とした記述がある。日本語版『独島、欝陵島からは見える』で下條批判をした際は、その南陽都護府の「西、花之梁に距(至)ること三十里」が隠されていた。それは花之梁が、南陽都護府の西三十里にあり、その花之梁の西、水路十里に仙甘彌島が続いて、管轄する官庁(南陽都護府)から島嶼(仙甘彌島)に及ぶとしており、「規式」通りの記述であったことが確認できる箇所だからである。
そこで日本語版『独島、欝陵島からは見える』の筆者は、花之梁を抜かし、仙甘彌島は「花之梁西水路十里」とし、続けて大部島・小牛島・霊興島・召忽島・徳積島等を列挙して、「本土との距離ではない事例が多数みられる」証としたのである。それを池内氏は、韓国側が未公開としていた部分を公開して、次のように記述したのである。
「南陽都護府内に「花之梁」なる地名があり、右道水軍僉節制使が守禦す」と記される。その後、「仙甘彌島」が掲げられ、「花之梁の西にあり、水路二里、周回五里」などと記されるから、「花之梁」を陸地の地名と考えると、これは陸地からの方角・距離を示したものである」(『竹島』13頁)
ここで池内氏は、語るに落ちたのである。池内氏は、「『花之梁』を陸地の地名と考えると、これは陸地からの方角・距離を示したものである」としたが、それは海島の場合、「管轄する官庁からの方角と距離を記す」とした、「規式」に合致した記述であることを自ら認めた発言だからである。池内氏は、韓国側が南陽都護府と花之梁の関係を隠し、敢えて仙甘彌島を基点として、「本土との距離ではない事例が多数みられる」とした事情を知らなかったのだろう。それを池内氏は、「南陽都護府内に「花之梁」なる地名があり」、仙甘彌島はその「花之梁の西にあり」として、『世宗実録』「地理志」(「南陽都護府」)条も「規式」通りに記されていた事実を、反証してしまったのである。この失敗は、池内氏の下條批判が、韓国側の下條批判に疑いを持たずに借用した結果である。事実、池内氏は、それと同じ過ちを、池内氏が「第四の難点」とした下條批判でも繰り返していたのである。その池内氏が依拠していたのは、次の部分である。
「しかし、下條は韓国政府が『新増東国輿地勝覧』の内容中「はっきり見える」という内容を掲げ、鬱陵島から独島がはっきり見えると主張したとしている。しかし、実際には『世宗実録』「地理志」の内容を引用し、『新増東国輿地勝覧』の場合は于山島と鬱陵島の地名だけに言及した。また、下條は朝鮮時代の安龍福事件の時に領議政南九萬が本土から鬱陵島がよく見えるという意味で、『新増東国輿地勝覧』の内容を引用して「はっきり見える」としていたことを韓国政府が鬱陵島と独島の間の関係を説明する際にも引用していると錯覚している。『新増東国輿地勝覧』の記録と『世宗実録』「地理志」の記録は、似ているようにみえるが、内容には大きな違いがある。」(「東北亜歴史ネット」)
池内氏はこの「東北亜歴史ネット」の論理を潤色し、『竹島』では、次のような下條批判に書き直していたのである。
「第四に、下條の着想が、元禄竹島一件(本書第三章)の際の、朝鮮王朝側の史料解釈に由来する点である。元禄竹島一件で朝鮮王朝は、竹島(欝陵島)が朝鮮領だと論証する際に『新増東国輿地勝覧』「于山島・欝陵島」の項を援用した。当該項によれば、「欝陵島は朝鮮本土から見える」から竹島(欝陵島)は朝鮮領である、と主張したのである。一方、この項の記述は『世宗実録』地理志を引き継ぐものだから、当然に『世宗実録』地理志の記述も朝鮮半島本土からの距離について述べたことになる、というのが下條の論じ方である。この論じ方は、まず第一に後世の解釈を前代に持ち込んでいるという点で誤りである。」(『竹島』14頁)
ここで池内氏が下條の第四の難点としたのは、『世宗実録』「地理志」と『新増東国與地勝覧』に記述された于山島と欝陵島に関する解釈である。池内氏によると、下條は、17世紀末の元禄竹島一件(安龍福事件)の際、朝鮮側では『新増東国與地勝覧』の「見える」を朝鮮半島から竹島(欝陵島)が「見える」と解釈して、欝陵島が朝鮮領である証拠としていた。であれば『世宗実録』「地理志」の「見える」も同様に、朝鮮半島から竹島(欝陵島)が「見える」と解釈しなげばならない。だがこの下條説は、『新増東国與地勝覧』の読み方を根拠に、それより前の時代に成立した『世宗実録』「地理志」の「見える」を、朝鮮半島から「見える」と解釈したものだ。これは「後世の解釈を前代に持ち込んでいるという点で誤り」だというのである。
だが池内氏は、ここでも語るに落ちたのである。池内氏は前節(7ページ~10ページ)で、『世宗実録』「地理志」に登場する于山島は、欝陵島だとした。于山島が欝陵島なら『世宗実録』「地理志」の「見える」先にあるのは欝陵島だけである。池内氏が、得意げに『世宗実録』「地理志」の于山島は、欝陵島だとしたことが、仇となったのである。それに百年経とうが、二百年が過ぎようと、『世宗実録』「地理志」と『新増東国與地勝覧』の「見える」の読み方は変ることはない。いずれも「規式」に基づいて、編修されていたからである。
だが朝鮮史研究の基本を無視した池内氏は、下條の論じ方の第二の誤りとして、「『新増東国與地勝覧』と『世宗実録』地理志双方の記事間には重大な違いがあることを見逃している点」をあげた。これと同じ指摘は、先の「東北亜歴史ネット」でも、「『新増東国輿地勝覧』の記録と『世宗実録』「地理志」の記録は、似ているようにみえるが、内容には大きな違いがある」としている。池内氏が下條説とした「四つの難点」は、全て「東北亜歴史ネット」の日本語版『独島、欝陵島からは見える』が種本となっていたのである。
そのため池内氏の下條批判では、「東北亜歴史ネット」の日本語版『独島、欝陵島からは見える』の誤謬も一緒に引き継いでいたのである。それが「『新増東国與地勝覧』と『世宗実録』地理志双方の記事間には重大な違いがある」として、下條がそれを「見逃している点で誤りである」とした、第四の難点である。
そこで池内氏が展開した下條批判の論理は、『新増東国與地勝覧』の記事には、「『世宗実録』「地理志」にある「二島は相去ること遠からず」の部分がない」。従って下條のように、その「『二島は相去ること遠からず』を欠如した」『新増東国與地勝覧』の記事を根拠に、「『世宗実録』「地理志」の『二島は相去ること遠からず』は陸地からの距離を述べたものだ、と解釈するのは無理である」、としたのである。
だがここで池内氏は、大きなミスを犯した。池内氏は、下條は、「『世宗実録』「地理志」の『二島は相去ること遠からず』を陸地からの距離を述べたものだ、と解釈」したと決め付けているが、それは二十年ほど前、金柄烈氏が下條批判をした際に、金柄烈氏が理解した下條説である。池内氏は、それを無批判に借用しただけである。繰り返し言うが、私は「二島は相去ること遠からず」を、陸地からの距離を述べたものと解釈したことはない。
池内氏は下條説なるものを創作し、それを下條説の四つの難点として、一方的な下條批判をしたのである。それも池内氏の研究ではなく、「東北亜歴史ネット」の日本語版『独島、欝陵島からは見える』を借用し、それを自説のように説いていただけのことである。
ただ韓国側の竹島研究は、池内氏が借用して、「『新増東国與地勝覧』と『世宗実録』地理志双方の記事間には重大な違いがある」としたように、地誌の『新増東国與地勝覧』と地理志の『世宗実録』「地理志」の区別ができない段階にある。地誌には行政書的性格があるので改訂がなされたが、『世宗実録』「地理志」は未定稿の状態で史庫に納められていた。
それに『世宗実録』「地理志」が編修された後、于山島に対する地理的理解も深まっている。15世紀の『東国輿地勝覧』(後に『新増東国輿地勝覧』)では、于山島については「一説于山欝陵本一島」とされ、18世紀の『輿地図書』では、本文から于山島が削除されて欝陵島だけが記されている。時代が下がるとともに、欝陵島に対する地理的理解もより正確になっていた。「記事間には重大な違いがある」のは、当然なのである。
さらに言えば池内氏が下條批判で問題とした『世宗実録』「地理志」は、今日の竹島の領有権問題を左右するほどの文献ではないのである。
池内氏は『竹島』を刊行して、「前近代史部分については、日本領・韓国領いずれの主張にとっても意味がない」と読者を誘導し、日本側の竹島研究を封印しようとした。それも韓国側の論理を拝借し、島根県竹島問題研究会と下條批判をしていたが、逆に韓国側には、竹島の領有権を主張できる歴史的権原がない事実を実証してしまったのである。
池内氏はその『竹島』で、下條批判に続いて、地理学に関する舩杉力修島根大学准教授の古地図研究と国際法関連の塚本孝東海大学教授の研究を批判している。だが竹島が歴史的に韓国領であった事実を実証することが出来ず、竹島が日本領であることが確実な段階で、その批判は無意味である。
京都大学教授の小倉紀蔵氏は、「日韓双方の偏狭な政治的主張や解釈を切り捨てる。強い倫理の力が、ここに立ち現れている」と書評に書いたが、池内氏の『竹島』は政治的主張そのものであり、韓国側の論理を盗用するなど、「倫理の力」も欠いていた。池内氏の『竹島』を出版した中央公論新社は、岩波書店と並んで韓国側の対日宣伝工作に協力したことになり、著者の池内氏とともに同罪である。
(下條正男)
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