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実事求是〜日韓のトゲ、竹島問題を考える〜

第44回

慶尚北道の「独島ポータル」批判

 内閣官房領土・主権対策企画調整室は8月28日、竹島と尖閣諸島に関する資料を掲載したポータルサイトを開設した。これに対して韓国の慶尚北道庁は9月9日、従来の「独島ポータル」を改編し、反転攻勢に出た。同日付の「亜州経済」(電子版)等は、慶尚北道の独島政策官の発言として、反論の背景を次のように伝えている。「最近、日本政府が開設した独島ポータルサイト資料は、1900~1964年に作成されたもので、これは日本政府が自ら独島が韓国侵略の最初の犠牲物であることを証明するもの」。

 だが改編されたとする「独島ポータル」を閲覧しても、従来の論理が繰り返されただけで、独島を韓国領とする新たな史料はなかった。

 今回、内閣官房領土・主権対策企画調整室が公開したのは、日本政府が竹島を日本領に編入した1905年以後、日本側が竹島(独島)を実効支配していた事実を示す資料である。その資料に対し、「韓国侵略の最初の犠牲物であることを証明するもの」とするなら、1905年以前に竹島が韓国領であった歴史的事実を示すことが前提となるはずである。

 だが「独島は歴史的に大韓民国の領土です」とする慶尚北道が掲げた論拠は、『三国史記』や『世宗実録』「地理志」、『東国文献備考』等、すでに証拠能力がないことが論証された文献である。この事実は、韓国側では独島を韓国領とする歴史的根拠がないまま、竹島を不法占拠しているということである。

 そこで改編した「独島ポータル」では、「独島はわれらのプライドです」(日本語)、「独島は自尊心である」(韓国語)、「民族之自尊」(中国語)、「pride of korea」(英語)等と11ヶ国語で主張し、「自尊心」を独島占拠の論拠としたのである。

 しかし竹島問題は、「自尊心」とは関係がない。竹島の歴史的権原が日韓のいずれに属すのか、その事実を明らかにすれば済む問題だからである。そこに「民族の自尊心」といった感情論を前面に出してきたのは羊頭狗肉、苦肉の策である。

 そこで慶尚北道の「独島ポータル」が掲げた『三国史記』や『世宗実録』「地理志」、『東国文献備考』等について、改めて韓国側の文献解釈の誤りを指摘しておくことにした。


(1)『三国史記』


 慶尚北道の「独島ポータル」では、『三国史記』(智証王十三年六月条)を根拠に、「西暦512年、独島は新羅が于山国を服属させて以来、韓国の領土」としている。だが『三国史記』の「智証王十三年六月条」を確認すると、于山国の疆域を「地方一百里」と明記している。この「地方一百里」には、郡や県ほどの広さがあるといった意味がある。柳馨遠が『随録補遺』(巻一)で、「古称一邑為百里。地方百里、郡縣之通制也」(古、一邑を称して百里と為す。地方百里、郡県の通制なり)とし、『高麗史』巻十八の「毅宗十一年五月丙子条」では、「東海中、有羽陵島地広土肥、旧有州縣」(東海中に羽陵島あり、地広く、土肥え、もと州縣あり)として、羽陵島(欝陵島)には州県が置かれていたとしているからだ。それも『高麗史』の「地理志」では、上記の「毅宗十一年五月丙子条」と関連して、毅宗の命で欝陵島に渡った金柔立が、欝陵島の疆域を次のように復命しているのである。

 「島中、大山あり。山頂より東に向かいて行き、海に至る一万余歩。西に向かい行くこと一万三千余歩。南に向かい、行くこと一万五千余歩。北に向かい、行くこと八千余歩」

 これは欝陵島の最高峰を起点として東西南北の各方向に進み、海岸線に至るまでの距離を示している。州縣の疆域は、欝陵島の陸地部分に限られていたのである。その事実は、13世紀末に成立した『三国遺事』でも確認できる。『三国遺事』(巻一)の「智哲老王条」では、于山国の疆域を「周廻二万六千七百三十歩」としているからだ。この「周廻」は、于山国の周縁が「二万六千七百三十歩」(約48km)ということで、欝陵島の一周56,5km(鬱陵郡のパンフレット「欝陵島独島」参照)とも近い。

 『三国史記』では于山国を「地方一百里」とし、『三国遺事』が于山国の疆域を「周廻二万六千七百三十歩」としたのは、于山国の疆域が欝陵島一島に限られていたからである。

 その欝陵島から南東に90km近くも離れた独島を属島とするのは、狗肉を羊頭とするのと同じで、欺瞞である。


(2)『世宗実録』「地理志」


 慶尚北道の「独島ポータル」では、独島を韓国領とする証拠として、『世宗実録』「地理志」、『高麗史』(「地理志」)、『新増東国輿地勝覧』、『東国文献備考』、『萬機要覧』、『増補文献備考』等を列挙した。そこに記されている于山島を、独島と解釈したからである。

 だがその于山島を同じ于山島といえる保証は、どこにもない。列挙された文献は、安龍福が「松島(現在の竹島)は即ち于山島だ」と供述する以前に成立した『世宗実録』「地理志」、『高麗史』(「地理志」)、『新増東国輿地勝覧』と、安龍福の偽証に、無批判に従った『東国文献備考』、『萬機要覧』、『増補文献備考』とに分けることができるからだ。

 さらに前者の『世宗実録』「地理志」と『新増東国輿地勝覧』とでは、史料的価値に違いがあった。朝鮮時代を通じ、『新増東国輿地勝覧』は官撰の地誌として定本の位置にあったが、『世宗実録』「地理志」は、その底本の一部であったに過ぎないからだ。「独島ポータル」では、その『世宗実録』「地理志」に依拠して、独島を韓国領とする歴史的根拠としていたのである。『世宗実録』「地理志」の「蔚珍県条」では、于山島と武陵島(鬱陵島)を併記し、晴れた日には「見える」とした記述があることから、その于山島を欝陵島から見た独島として、于山島を独島としたのである。

 だがそれは、実際に欝陵島から独島が見えるといった地理的与件に基づく解釈で、文献としての『世宗実録』「地理志」と『新増東国輿地勝覧』の読み方としては正しくない。それは島根県竹島問題研究会の第三期の最終報告書でも明らかにしたように、『世宗実録』「地理志」と『新増東国輿地勝覧』の「見える」は、朝鮮半島から欝陵島が「見える」と読まなければならないからだ。事実、『新増東国輿地勝覧』では、その「見える」先にあったのが、「峯頭の樹木及び山根の沙渚」である。これは朝鮮本土から見た欝陵島の姿で、独島ではない。独島には、峯頭の樹木や山根の沙渚はないからだ。そこで韓国側では独島の景観を『新増東国輿地勝覧』の記述に合わせようと、何度も独島で植樹を繰り返したが、いずれも失敗している。

 韓国側では、『世宗実録』「地理志」と『新増東国輿地勝覧』に「見える」とあれば、地理的与件を根拠に文献を曲解し、『新増東国輿地勝覧』の「見える」先に「峯頭の樹木」があれば、植樹をして辻褄合わせをしたのである。今回、内閣官房領土・主権対策企画調整室が公開した「竹島ポータル」に対して、反論の拠り所としたのが「自尊心」である。それは1696年、日本に渡って鳥取藩藩主と談判し、欝陵島と独島を朝鮮領と認めさせたとする安龍福が、密航の正当性を日本側に対する「憤慨」に求めたのと、同じである。

 だが当時、朝鮮内部には、安龍福を犯境罪人とし、「龍福を殺さずば、則ち末世の奸民、必ず事を他国に生ずる者多し」として、法に準じて処罰するよう求めた重臣達がいた。ところが反対派の重臣等が、日本側を説伏したとする安龍福の証言に欣喜し、それを「安龍福の功」として、後に安龍福を英雄とする道が作られていたのである。その安龍福の証言を歴史の事実と見た文献が、1770年に編纂された『東国文献備考』(「輿地考」)である。


(3)『東国文献備考』


 慶尚北道の「ポータル」では、『三国史記』(「智証王十三年六月条」)に依拠して、独島が512年に韓国領となったとし、『世宗実録』「地理志」に記された于山島を独島と解釈して、「独島は我が領土」としているのである。

 だが既に述べたように、『三国史記』で「地方一百里」とした于山国に独島は含まれておらず、『世宗実録』「地理志」で「見える」先にあったのは、欝陵島であった。

 それを慶尚北道の「独島ポータル」では、依然として于山島を独島とし、独島を欝陵島の属島とするのは何故なのだろうか。それは『東国文献備考』(「輿地考」)の分註に「輿地志に云う、欝陵、于山、皆于山国の地。于山は則ち倭の所謂松島なり」とあることから、その分註に依拠して、于山島を竹島(松島)とし、欝陵島の属島としているのである。

 だが『世宗実録』「地理志」の于山島は独島ではなく、『三国史記』の于山国には、独島は含まれていなかった。これは依拠した『東国文献備考』(「輿地考」)の分註に、誤りがあった、ということである。そこで分註に引用された『東国輿地志』の原典で確認すると、そこには分註に類した文言はなく、「一説于山欝陵本一島」とあったのである。

 この事実は、韓国側が論拠とする『東国文献備考』(「輿地考」)の分註では、引用文が書き換えられていた、ということである。では何故、引用文が改竄されたのだろうか。そこで『東国文献備考』(「輿地考」)の底本となった申景濬の『疆域誌』を確認すると、分註となる当該箇所に按語があり、申景濬の私見が次のように記されているのである。

 「按ずるに、『輿地志』に云う、一説に于山欝陵本一島。而して諸図志を考えるに二島なり。一つは其の倭の所謂松島にして、蓋し二島ともに于山国なり」(『輿地志』では、一説に于山欝陵本一島としている。だが諸図志を考えると二島である。一つは倭のいう松島で、恐らく于山島と欝陵島の二島は于山国である)

 この按語によると、申景濬は「一説に于山欝陵本一島」と、『東国輿地志』から原文のまま引用していたが、諸々の地図や地誌を勘案した結果、『東国輿地志』のように于山島と欝陵島は同島異名ではなく別々の島で、その一つが「倭の所謂松島」で、于山島と欝陵島の二島を于山国である、としていたのである。

 この按語が『東国文献備考』(「輿地考」)の分註となる過程で、「一説に于山欝陵本一島」とあった『東国輿地志』からの引用文が、申景濬の私見に沿って「欝陵、于山、皆于山国の地。于山は則ち倭の所謂松島なり」、と書き換えられたのである。では何故、引用文が改竄されたのか。これは『承政院日記』(「英祖四十六年閏五月二日条」)で「景濬草創して、啓禧潤色す」としているように、申景濬の『疆域誌』を底本として『東国文献備考』(「輿地考」)が編纂される際に、洪啓禧が申景濬の文章を潤色していたからである。

 だが問題は、杜撰な考証をした申景濬にあった。申景濬は于山島を無批判に「倭の所謂松島」とし、「蓋し二島ともに于山国なり」と臆断したからである。特に「倭の所謂松島」という地理的理解は、1696年、日本に密航し、鳥取藩によって追放された安龍福が、「松島(現在の竹島)は即ち于山島だ」と供述したことから始まっている。申景濬は「諸図志を考えるに二島なり」とした際も、安龍福の供述を前提として、読図していたのであろう。

 それは安龍福の密航事件を機に、朝鮮では三年に一度、欝陵島に官吏を派遣して、『欝陵島図形』を作図されていたからである。その欝陵島図の原点となった朴錫昌の『欝陵島図形』には「所謂于山島/海長竹田」と、于山島が属島として描かれている。だがこの「所謂于山島」とされた于山島は、欝陵島から東に2kmほどの竹嶼で、独島ではなかった。「諸図志を考えるに二島なり」とした申景濬が、「一つは其の倭の所謂松島」とした于山島は、『欝陵島図形』系統の欝陵島図では、欝陵島傍近の竹嶼だったのである。

 だが于山島に対する誤った地理的理解をしていたのは、安龍福も同じであった。安龍福が日本に密航した際、持参したのが『新増東国輿地勝覧』の「八道総図」だったからである。安龍福は、その「八道総図」に描かれた于山島を松島としたが、「八道総図」に描かれていた于山島は欝陵島のことで、松島ではなかったからである。それを安龍福は「松島(現在の竹島)は即ち于山島だ」と、強弁していたのである。

 今日、日韓双方は、于山島を松島とした安龍福と、その安龍福の供述に盲従した申景濬のために、無用な対立を続けているのである。それも申景濬の『疆域誌』は、李孟休の『春官志』を丸写しし、李孟休が于山島を欝陵島と同島異名としていた注記を書き換えて、于山島を「倭の所謂松島にして、蓋し二島ともに于山国なり」、としてしまったのである。

 内閣官房領土・主権対策企画調整室が公開した「竹島ポータル」に対して、韓国側では「民族の自尊心」といった次元で反論してきた。これは安龍福や申景濬と五十歩百歩である。

 歴史的権原がないまま、韓国政府が竹島を武力占拠して半世紀以上の歳月が流れた。韓国側では、事ある毎に「歴史を忘れた民族に未来はない」と嘯くが、そろそろ歴史を直視しなければ、韓国に「未来」はないのである。


(4)内閣官房領土・主権対策企画調整室の「尖閣ポータル」に関連して


 歴史を捏造し、それを外交カードとするのは韓国ばかりではなさそうである。内閣官房領土・主権対策企画調整室が8月28日、「尖閣ポータル」を公開すると、9月7日、中国の山東省威海市の劉公島に「釣魚島主権館」を開館しているからである。「中国・威海」(電子版)等によると、「釣魚島主権館」は、国家海洋局宣伝センター、威海市海洋漁業局と劉公島管理委員会の共同事業で、尖閣諸島の歴史と主権を示した最初の専門館とのことである。「中国新聞網」(電子版)は、中国海洋局の蓋広生主任のコメントを載せ、「今年は中国人民が抗日戦争で世界の反ファシズム戦争に勝利して70周年。この重要な時に釣魚島主権館を建設し運営することは、さらに多くの中国人が歴史の真相を知り、釣魚島の主権を護って、海洋権益に対する信念を堅くすることになる」と報じている。

 だが「釣魚島主権館」は、韓国の欝陵島にある「独島博物館」やソウル市内の「独島体験館」と同様、政治的宣伝を目的とした広報施設である。「独島博物館」や「独島体験館」を訪れ、その展示物を見れば明らかで、竹島が韓国領であることを示す資料は一点も無いからである。これと同じ経験は、「釣魚島主権館」でも体験ができそうである。

 中国政府はこれまで、尖閣諸島を台湾の一部とし、尖閣諸島は明代から中国の領土であったとしてきた。だが歴史的事実として、台湾が清朝に編入されたのは康煕二十三年(1684年)である。それも台湾府の疆域に、尖閣諸島は含まれていなかった。それを示しているのが康煕四十七年(1708年)、康熙帝の命を受けたイエズス会の宣教師等が中国全土を測量し、康煕五十六年(1717年)に完成させた『皇輿全覧図』である。台湾での測量は康煕五十三年(1714年)に実施され、その『皇輿全覧図』【図1】の台湾には尖閣諸島が描かれていないからだ。

【図1】

【図1】『皇輿全覧図』の台湾部分

 それは蒋毓英の『台湾府志』で、台湾府の北限を「北至鶏籠城二千三百一十五里」(北、鶏籠城に至る二千三百一十五里)としているように、台湾府は「鶏籠城」(現在の基隆市付近)を北限としていたからである。そのため『欽定古今図書集成』(1728年刊)の「台湾府疆域図」でも、台湾の北端に「鶏籠城界」と明記しているのである。尖閣諸島は台湾の一部でも、清朝の領土でもなく、日本政府が編入する直前まで、無主の地だったのである。

 「釣魚島主権館」では、どのような資料が展示されているか不明だが、歴史的事実として、『皇輿全覧図』や『欽定古今図書集成』等が尖閣諸島を台湾府の疆域に含めていない以上、尖閣諸島を中国の固有の領土と喧伝することはできないのである。

 その中国側が、歴史的根拠がないまま「釣魚島主権館」を開設したことは、自ら尖閣諸島に対する領土的野心を公開したのも同然である。中国海洋局の肝煎りで「釣魚島主権館」を開館した中国は、韓国の「独島博物館」や「独島体験館」に倣って、自らの侵略的性向を実感するための体験館を作ってしまったのである。中韓は日本側を挑発することで、逆に墓穴を掘ってしまったのである。合掌

(下條正男)


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