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実事求是〜日韓のトゲ、竹島問題を考える〜

第38回

「乙庶第一五二号」に対する韓国側の誤解

 近年、島根県の「竹島の日」の式典が近づくと、韓国では決まって一つの現象が起こるようになった。日本側の文献や古地図を大々的に報じ、さも日本側が竹島を韓国領としていたかのように、虚偽の報道をすることである。韓国のKBS1が、2月22日に放映した「日本の現地住民も独島は韓国領としていた文書発見」も、虚偽報道の一つである。

 その際、根拠とされていたのが、隠岐島司の東文輔が島根県内務部長書記官の堀信次に送った「乙庶第一五二号」で、発見者は釜山外国語大学の金文吉名誉教授とされている。

 だがKBS1が注目した「乙庶第一五二号」には、金文吉氏が強調するような、「隠岐諸島の人は竹島を韓国領としていた」とする文言はない。金文吉氏は何を根拠に、事実無根の発言をしたのだろうか。恐らく、「乙庶第一五二号」の中に、「元来朝鮮ノ東方海上ニ松竹両島ノ存在スルハ一般口碑ノ伝フル所」とした部分があることから、それを曲解したのであろう。

 元々この「乙庶第一五二号」は、明治政府が新島(今日の竹島)を編入するに際して、島根県内務部長書記官の堀信次が明治37(1904)年11月15日付の「庶第一〇七三号」を隠岐島司の東文輔に送り、東文輔が11月30日付で回答した文書である。それも堀信次が送った「庶第一〇七三号」には、「目下調査中之趣ニ候処、弥々所属ヲ定メラルヽ場合ニ於テハ、隠岐島庁ノ所管トセラルヽモ差支ナキ御見込ニ候ヤ。又島嶼ノ命名ニ付併セテ御意見承知致シタク、此段、照会」に及んだ、とあった。隠岐島司の東文輔は、新島が隠岐島庁の所管となることの当否と「島嶼ノ命名」について、意見を求められていたのである。

 この時、隠岐島司の東文輔が「隠岐諸島の人は竹島を韓国領としていた」と回答することはあり得ない。事実、「乙庶第一五二号」には、新島編入を批判する文言はどこにもなく、隠岐島司の東文輔は次のように回答しているからである。

 「右ハ我領土ニ編入ノ上、隠岐島ノ所管に属セラルヽモ何等差支無之、其名称ハ竹島ヲ適当ト存候。元来朝鮮ノ東方海上ニ松竹両島ノ存在スルハ一般口碑ノ伝フル所。而シテ従来、当地方ヨリ樵耕業者ノ往来スル鬱陵島ヲ竹島ト通称スルモ、其実ハ松島ニシテ、海図ニ依ルモ瞭然タル次第ニ有之候。左スレハ此新島ヲ措テ他ニ竹島ニ該当スヘキモノ無之」

 東文輔が「乙庶第一五二号」で回答していた主旨は、竹島を日本領とし、隠岐島の所管とすることには問題がないとして、その新島には、竹島と命名することが妥当である、としたところにある。それも隠岐島司の東文輔は、新島を竹島と命名する理由について、「昔から朝鮮半島の東方海上に竹島と松島があるとされ、隠岐諸島の者が往来する鬱陵島については、従来、竹島と通称していた。だが海図を見ると(鬱陵島は)松島とされている。であるから竹島であった鬱陵島が松島となったので、竹島と命名するのは、この新島を措いて他にない」と回答していたのである。

 これを韓国のKBS1が「昔から朝鮮半島の東方海上に竹島と松島があるとされていた」とした箇所だけに注目して、「隠岐諸島では竹島を韓国領としていた」証拠とするのは、馬を鹿といい、鹿を馬とする類である。

 そのため日本側の文献等は、これまでもまともに解釈されず、同じ文献が何度も韓国のマスコミを賑わすといった椿事が繰り返されるのである。この「乙庶第一五二号」の場合も、2014年6月10日付の『国民日報』(電子版)で報じられ、同じ金文吉氏が、日本側が竹島を韓国領としていた証拠としたものであった。

 それが島根県の「竹島の日」に合わせ、再度、「隠岐諸島では竹島を韓国領としていた」証拠として報道されたのは、文献が読めていないか、竹島を侵奪した韓国側が、その事実を隠蔽するために放映したプロパガンダであろう。現に「乙庶第一五二号」には、新島を竹島とする理由と背景が、次のように明記されているからである。

 「従来、当地方ヨリ樵耕業者ノ往来スル鬱陵島ヲ竹島ト通称スルモ、其実ハ松島ニシテ、海図ニ依ルモ瞭然タル次第ニ有之候。左スレハ此新島ヲ措テ他ニ竹島ニ該当スヘキモノ無之。」

 ここで重要なことは、欝陵島の通称は竹島であったが、海図では松島とされている、とした部分である。そこで東文輔は、海図を見れば瞭然として、新島の島名は竹島の他にはない、としていたのである。この場合、金文吉氏が実際に「乙庶第一五二号」を読み、文献批判という歴史研究の初歩的作業をしていれば、19世紀末の海図では、江戸時代以来、竹島の呼称であった松島が、欝陵島の島名となっていた事実について、知っていたはずである。しかし金文吉氏はその事実を無視して、「元来朝鮮ノ東方海上ニ松竹両島ノ存在スル」とした部分のみを拡大解釈し、「隠岐諸島では竹島を韓国領としていた」証拠としてしまったのである。

 金文吉氏のように文献批判も行なわず、史料を恣意的に解釈している限り、歴史の事実は見えてこない。事実、1863年版の英国海軍の海図【1】と日本の海軍水路寮が1876年に再刻した「朝鮮東海岸図」【2】を見れば、竹島と松島の他に、現在の竹島が「リアンクール岩」「メネライ瀬・ヲリウツ瀬」「ホーネット岩」等の名称で表記されている事実に気がつくはずである。

 そこでは江戸時代に竹島と呼ばれていた欝陵島が、「松島」(ダジュレー島)とされているからである。東文輔が、欝陵島を「其実ハ松島ニシテ、海図ニ依ルモ瞭然タル次第」と回答した理由もここにある。それも1863年版の英国海軍の海図では、もう一つの竹島(アルゴノート島)を破線で描き、PD(PositionDoubtful)と表記して疑存島としているのである。では何故、朝鮮半島と隠岐諸島の間に、竹島・松島・リアンクール岩の三島が描かれることになったのであろうか。

【1】

1】1863年、英国海軍海図『日本‐日本、九州、四国及び韓国一部』部分

(李鎮明氏の改訂版『独島、地理上の再発見』(2005年)より)

【2】

2】『朝鮮東海岸図』部分、1876年、海軍水路寮がロシア海軍の海図を基に再刻

 それは1840年、シーボルトが『日本全図』【3】を作製する際、既存のアルゴノート島を竹島とし、ダジュレー島を松島としたことから始まった。そこに1849年、フランスの捕鯨船リアンクール号が現在の竹島を発見し、それをリアンクール岩と命名したことから、海図には一時、竹島と松島の他に、リアンクール岩が描かれることになったのである。

【3】

3

 その誤りが訂正されるのは、外務省嘱託の北澤正誠が明治14(1881)年8月、『竹島考証』で「今日ノ松島ハ即チ元禄十二年称スル所ノ竹島」としてからである。以後、日本の外交文書等では「鬱陵島日本称する松島」と表記され、海図からはアルゴノート島の「竹島」が消え、松島と表記された鬱陵島とリアンクール岩だけが描かれるのである。明治38年(1905年)2月22日、そのリアンクール岩は「島根県告示第40号」によって、島根県隠岐島司の所管となるのである。

 東文輔が提出した「乙庶第一五二号」は、竹島の日本編入に際して、その妥当性と島嶼の命名について回答した文書で、江戸時代まで松島と称していた竹島が、欝陵島の呼称を受け継ぐことになった経緯を知る貴重な史料なのである。それを金文吉氏は、「元来朝鮮ノ東方海上ニ松竹両島ノ存在スルハ一般口碑ノ伝フル所」とした部分を勝手に解釈し、「隠岐諸島の人は、竹島を韓国領としていた」と、史実を歪曲してしまったのである。

 2015年2月22日、韓国のKBS1はその金文吉氏の主張に従って「乙庶第一五二号」を曲解し、「日本の現地住民も独島は韓国領としていた文書発見」と、虚偽の報道をしてしまったのである。近年の傾向として、韓国側ではこの種のプロパガンダが常套手段となり、政治的な宣伝戦に力点が置かれるようになった。だがこれまでも本欄(「実事求是」)で明らかにしてきたように、韓国側の主張には決まって歴史を歪曲した部分があり、虚偽の論理が潜んでいる。それは竹島を侵奪した韓国側が、「民族の自尊心」や「民族の島」と言った感情で歴史を語るからである。

 この韓国側の対応を見ていると、19世紀から20世紀にかけて、朝鮮半島が「東洋のバルカン半島」と呼ばれていた当時を髣髴とさせるものがある。問題の全体像が見えないまま、自らの瑕疵を隠蔽し、反日の行動を正義と錯覚しているからである。現在の朝鮮半島もまた、東アジアの安寧を損ねる元凶となっているのである。

(下條正男)


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