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米子の大谷、村川家について
9月から10月初旬にかけて、鳥取県米子市の山陰歴史館で「新修米子市史編さん資料展」なるものが開催された。すでに『新修米子市史』は刊行が終わり、私達はその中に紹介されていた江戸時代米子城の船手組が作成し所持していた鬱陵島と現在の竹島の間を通る航路が書き込まれた「日本針図」を見つけ、米子市教育委員会と所蔵されていた鳥取市の一行寺の許可を得て複製を作成させてもらった。
この度あらためて原資料を直接見せてもらおうと山陰歴史館に出向いたところ、「明治5年米子の町図」があった。明治4年の廃藩置県を受けて地籍や地番の確認を目的とした図のように思えた。その中の「竪(立)町」の図の地番八百五番と八百十六番に村川藤吉郎の屋敷がある(写真1)。江戸時代の元禄期大谷家と共に70年余にわたり竹島(鬱陵島)渡海事業を展開した村川家本家の屋敷の所在地である。
村川家の始祖は摂津(大阪)の久松甲斐守に仕えた武士山田二郎左衛門正齊(まさなり)が事あって切腹し、その子正員(まさかず)は米子の村川六郎左衛門の娘であった母に従い米子に移住し、母方の姓村川を名乗ったことによると『村川氏舊記』は記している。まもなく村川家は市兵衛を世襲名とし、竹島渡海では松島(現在の竹島)でも盛んにアシカ猟をしたこと、男児がいないことが時々あり、松江の豪商新屋(あたらしや)、中屋(なかや)等から養子で入った市兵衛もいたこと、竹島渡海禁止後は鳥取藩から与えられた塩問屋の仕事で大商人であり続けたことは、私の近著『山陰地方の歴史が語る「竹島問題」』でも紹介している。なお隣接する寺町に抜ける裏通りは「市兵衛小路」と呼ばれていたという。村川家の墓所は寺町の万福寺にあった(写真2)。なおこの竪町の図に村川家と道路を挟んで斜め向かい側の地番八百二十番に大谷武五郎なる人物の家があるが、大谷家本家は竪町の西側にある灘町にあるので、大谷家の親族と思われるが、大谷文子氏がまとめた『大谷家古文書』の「大谷家の系譜」には大谷武五郎の名前は見つからない。
山陰歴史館の所蔵で『新修米子市史』巻14にも掲載されているものに「灘町大谷家屋敷図」がある。灘町は竪町や寺町に近く、米子港に接する町である。但馬(兵庫県北部)の大屋谷を出自とする大屋(谷)家は永禄年間に移住し廻船業を営んだ。江戸初期越後へ物資を運び、帰路に暴風に遭遇した大屋甚吉は鬱陵島に漂着し、この島の資源の豊富さに驚嘆して米子へ帰ると友人の村川家とともに鬱陵島への渡海許可を幕府に申し出た。1625年渡海許可書が鳥取藩主松平新太郎に届くと、大屋、村川家は鳥取藩の協力を得て隠岐経由の航路で70年余の渡海事業を開始した。甚吉の後を継いだ勝宗が久右衛門を名乗ったことから大屋(谷)家は久右衛門が世襲名となった。灘町の大谷家には1693年鬱陵島から連行された朝鮮人安龍福、朴於屯が滞在したり、幕府の巡検使が訪問し、鬱陵島(竹島)のことを質問したりした。竹島渡海が禁止されると大谷家は鳥取藩から魚、鳥を扱う問屋の仕事を与えられた。「灘町大谷家屋敷図」(写真3)は1867年に作成されたものである。南北の奥行28間、東西の間口20間4尺1寸の広大な敷地に屋敷、3つの蔵、魚座と書かれている魚市場の施設、貸家と書かれている26軒の使用人達の借家等があった。
【写真1】位置図竪町一と竪町二(「新修米子市史第14巻」所収)
【写真2】村川家墓所
【写真3】灘町大谷家屋敷図(山陰歴史館所蔵)
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