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天保期竹島渡海禁止の高札、御触書について
はじめに
元禄9(1696)年竹島(鬱陵島)の所管をめぐり朝鮮国と対馬藩の間での交渉が難航していることから、江戸幕府は竹島への日本人の渡海を禁止した。その禁止令を破ったとして浜田藩松原浦の今津屋(会津屋)八右衛門等が天保7(1836)年6月捕縛され、八右衛門と浜田藩士橋本三兵衛が死罪となり、翌天保8(1837)年2月幕府は全国へ竹島渡海を再度厳禁する旨布告した。その時の高札や御触書がいくつか残存しているが、それらには
「今度松平周防守元領分石州濱田松原浦ニ罷在候無宿八右衛門竹嶋江渡海いたし候一件吟味之上右八右衛門外夫々厳科ニ被行候右島往古米子之者共渡海魚漁等致候得共元禄之度朝鮮国江御渡ニ相成候以来渡海停止被仰付候場所に有之都て異国渡海之儀は重き御制禁に候条向後右島之儀も同様相心得渡海致間敷候勿論国々之廻船等海上ニおゐて異国船に出会さる様乗筋等心かけ可申旨先年も相触候通弥相守以来は可成丈遠沖乗不致様乗廻可申候右之趣御料は御代官私領は領主地頭より浦方村町とも不洩様可触知候尤板札に認め高札場等ニ掛置可申もの也二月右之通可被相触候」
等とある。なお天保期の諸事情を記した『天保雑記』にも同じ内容が「天保八年二月御触」として記載されている。
1.最近話題になった高田藩の高札
平成23年京都の古美術店から入札による歴史的な品を販売するカタログを送って来た。その中に「竹嶋制札」なる120万円から始まる入札金額の品があった。越後(現在の新潟県)の高田藩で天保竹島一件による竹島渡海禁止を板に墨書した金具もついた高札であった。その後、この高札は韓国人が落札したことが新聞記事に載っていたが、平成25年になってその実物が釜山の海洋博物館に、また同じもののレプリカがソウルの独島体験館に展示されているようである。なお説明文に「鬱陵島への渡海禁止と「右島」への渡海も禁止している。「右島」とは鬱陵島の右側にある独島(竹島)をいう。」とあるそうだが、「右島」は右側の島ではなくてすでに記している竹島(鬱陵島)を「その島」と代名詞として表現したものであることは自明の理である。なお、高田藩は現在の新潟県上越市を中心に初代は徳川家康の六男松平忠輝が藩主だったが、その後代々関ヶ原の戦い以前から徳川家の家臣であった譜代大名が統治していた。北陸地方で発見された天保竹島一件の高札は、初見であった。ところが平成25年2月に同じ高田藩の別の場所に掲げられたと思われる高札が東京の古書店扱いで売り出されているという情報があり、島根県が購入を申し込んだが、他にも希望者があり、抽選の結果、購入できなかった。形状は韓国人が落札購入したものとほぼ同じで、上部には金具もついていた。
2.松江藩の御触書
数年前、松江市内の個人宅で竹島渡海禁止の御触書をカメラで撮影させてもらっていたが、公表する機会を逸していた。松江藩の4人の家老が幕府からの預り地である隠岐の郡代と島後(どうご)と島前(どうぜん)の代官に連名で布告を伝えた書状である。具体的には代々家老の神谷源五郎、朝日丹波と不定家老(家老だが中老扱いになる場合もある)の大野舎人、今村修禮が現在の隠岐の島町に在勤の郡代奥山鹿之助、島後代官落合次郎大夫、島前の西ノ島に派遣されている島前代官塚本官大夫に連名で渡海禁止の周知徹底を指示したものである。宛先の「大目付江」と幕府からの布告文は各藩から支配地へのものの多くと同じである。大目付は幕府の職に法令等の伝達を旗本以下に伝えるものとしてあり、各藩にも同様の任務を担当する役職があった。そのため、老中から大目付が受けたそのままの文面を担当職の者に公的に伝える意味で幕府の職名を用いて「大目付江」としたと考えられる。松江藩の格式と職制をまとめた『旧藩事蹟』には「ここに目付とは御目付役にて勤めに権威を持たせありて、常に役組外(やくぐみはずれ)以上の身分の支配、諸通達などもこの御目付にて取り扱ふ事にて」と記している。なお、国立国会図書館所蔵のものは原本なのか標題が「御觸」となっており、また加賀藩のお触書には「郡方御触」、駿府の亀山永秀文書は「御触書」、大阪高麗橋の高札は「定」と標題がなっている。
松江藩が隠岐へ送った書状(写し)には、全国に共通する布告文の後に「右之趣従公儀被仰出候間可存此旨候御意ニ候此段当嶋中可被相触候以上」と書き添えられ3月26日の日付けが記されている。
大坂奉行所で尋問を受けた今津屋八右衛門は(口述の詳細は東京大学付属図書館所蔵の『竹嶋渡海一件記全』が参考となる)、天保4(1833)年1回限りの竹島渡海を述べているが、隠岐島前の中の島(現在の海士町)の崎村の大庄屋渡辺家の一族と考えられる円大夫なる人物は八右衛門が天保4、5、6年と3年続けてやって来たこと、天保6(1835)年八右衛門所持の「竹嶋之図」を写させてもらったと記しており、墨で描かれた竹島の図は現在松江市内の個人が所蔵されている。
3.浜田藩の高札と御触書御請印帳
浜田浦の今津屋八右衛門の竹島渡海ですでに隠居していた浜田藩主松平周防守康任は永蟄居、浜田藩主康爵は棚倉転付、地元詰の岡田頼母、松井図書は切腹、橋本三兵衛は八右衛門と共に死罪と周辺に甚大な影響が生じた。当然その浜田藩にも竹島渡海禁止の指示が来ている。目下分かっているのは、現在の益田市土田浦に掲げられていた現物の高札と、浜田の谷田家に保存され、現在浜田市久代町の石見安達美術館が保管されている東八浦(嘉久志、和木、都野津、敬川、波子、久代、金周布、国府)が御触書を受け取ったことを示す「御触書御請印帳」とである。高札の記載は、内藤正中氏が金柄烈氏との共著『史的検証竹島・独島』(岩波書店)で、「御触書御請印帳」は浜田市の郷土史研究家森須和男氏がそれぞれ翻字しておられる。共に同じ内容であるが島と嶋の字体の違いはある。
浜田藩内では渡津村(現在の江津市渡津町)に地方(じがた)高札と浦方高札と二ケ所の高札を立てる高札場が確認出来、その場所は間口一間から一間半、奥行が三尺で石などを積み固定出来るようにし、直近の家が高札を監視し、その家は札場屋という屋号で呼ばれていたこと、高札は杉、桧、梅の木で作られていたことがわかる資料が残ることを坪内五郎氏が旬刊発行の郷土史誌『郷土石見』第7号に紹介されている。
4.新発見の大久(おおく)村斎藤家文書のお触書
隠岐でも延享3(1746)年巡見使の来島を記す「代(しろ)家文書」の中の「書上帳」には「一、高札場之事」なる記載があるし、天保9(1838)年の隠岐矢尾村庄屋池田家文書の「御巡見様一途手鑑」にも「一、御高札場八ケ所矢尾、大久、中村、郡村、小路、今津、都万、北方村外ニ十一ケ所嶋前ニあり合十九ケ所」と嶋後の八ケ所の高札場のある村名を記している。また、この記録を残した庄屋池田堪左衛門は別に代官所(陣屋)周辺の略図も写しているが、代官所の道路に面した塀の一画に屋根付の御制札場が描かれており、これが矢尾村の高札場と思われる。平成25年6月18日私は島根県立図書館で寄託されている隠岐の大久村の庄屋斎藤家の文書を調査したが、その中に「文化元年隠州周吉郡大久村御制札之写」という綴りを見つけた。文化元(1804)年とあるがその前後の正徳4(1714)年から文久3(1863)年まで制札の写しが綴じられている。その中に天保9(1838)年3月の年月を入れた天保一件の竹島渡海禁止のお触書を発見した。文面は前述の松江藩からのものとほぼ同じであるが、後半部分を少し省略したうえで「右之趣被仰出候条皆可相守之者也」として、出羽守からの指示であることと天保9(1838)年3月と高札に掲げた年月が書かれ、最後にこの時の縦横の尺寸の長さを入れた高札も粗描されている。大久村は元禄9(1696)年5月安龍福等がかよい浦に着岸し庄屋与次右門等が世話をしたことが知られているが、今回の調査で元禄5(1692)年に与次右衛門が書いた直筆の史料も見つかった。
島前の十一ケ所の制札場については、「島前増補隠州記」が「海士村御制札場公文家の前、大道ノ傍、岸ノ上ニ有リ」、「豊田村公文処ノ磯際に在」、「崎村公文家の近所に在り」、「知夫里村郡ノ公文浜際ニ有リ」のような形で記載している。なお、公文(くもん)とは庄屋のことで隠岐だけの呼称である。その他文政6(1823)年大西教保が著した『隠岐古記集』も「小路村一、御制札場告文屋敷下にあり」のように高札場のあった場所が記されている文献の一つである。
また松江藩直轄の出雲国の制札場は本庄、美保関、加賀、平田、鷺浦、杵築、安来、宍道、大東、木次、掛合、三沢、三成、横田等三十六ケ所にあったことが宝暦年間に編纂された「雲陽大数録」に記載されている。
5.その他の高札、お触書について
全国に竹島渡海禁止のお触書が布告され、具体的に高札にして各所に建てられた。高田藩、松江藩、浜田藩のものについて粗述したが以下にその他わかっているものをまとめておきたい。
すでに簡単に触れた加賀藩の「郡方御触書」に含まれるものは森須和男氏がその著『八右衛門とその時代』(浜田市教育委員会)の資料の部に翻字して掲載されている。駿府(静岡県)の亀山文書は『続駿河の古文書』(駿河古文書会)に掲載されるが江尻宿に掲げられた高札から写したことがわかっており、大坂高麗橋の高札は『上方第35号』(創元社1933・11)に「大阪高麗橋西詰に建っていた御制札之写」と題して掲載されており、浜田の高札、御触書御請印書が「以来可成丈、遠沖乗」としている部分がこちらでは「以来は成べくたけ島沖乗(原文のとおり)」となっているという。
次に岡山藩所属のお触書が岡山大学付属図書館の池田家文書に「竹島渡航禁止令高札写」として、また熊本の天草上田家文書に「竹島渡海禁止の達」として残存することがわかっているが、まだ直接確認するに至っていない。また、ある研究会のレジュメに韓国国史編纂会所蔵の宗家文書にもお触書があり、文面の末尾は「天保八年四月對馬」となっていることが紹介されている。
おわりに
天保竹島一件のお触書、高札が各地に残ったことは八右衛門や竹島のことが多くの人に知られ記憶されて、幕末から明治初期の海防や海外発展の趨勢に乗り再び竹島渡海を目指す意見や行動につながっていったと思われる。たとえば戸田敬義が明治10(1897)年提出した「竹島渡海願」には文面に八右衛門に関する書物を持参していることが書かれ、八右衛門が所持する「竹島之図」を写させてもらったという持主権吉と書かれた「竹島之図」が添付されている。
(前島根県竹島問題研究顧問杉原隆)
1.高田藩の高札(『古裂会第47回入札オークション』(2009年3月)カタログより)
2.浜田藩内土田浦の高札(浜田市郷土資料館所蔵)
3.松江藩の家老から隠岐の郡代、代官へ通知のお触書(個人所蔵)
4.大久村制札の写し(「斉藤家文書」島根県立図書館寄託)
5.斎藤家に残る江戸時代の蔵(筆者撮影)
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