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日本側作製地図にみる竹島(3)

 

 今回は、江戸時代に作製されたわが国の官製地図である幕府撰の国絵図、日本図について検討します。

 

1)隠岐国絵図、日本図における竹島渡海の記載

 

 隠岐国絵図には、注目すべき記載がみられます。隠岐島後の湊、福浦(現在隠岐の島町)には「竹島渡海」の記載があるのです。ここでいう竹島とは現在の鬱陵島のことを指します。「正保出雲・隠岐国絵図」(島根県立古代出雲博物館所蔵、国立公文書館所蔵)には、「此湊舟懸吉、竹嶋へ之渡海之舟此湊ニ而天気見合申候」とあります。このほか、文政9年(1826年)の「文政隠岐国絵図」(島根県立図書館所蔵)(図1)に「此湊舟繋吉、竹嶋江之渡海此湊ニ而天気見合ル」、「天保隠岐国絵図」(国立公文書館所蔵)(図2)には、「此湊船繋吉、竹嶋迄之渡海此湊より天気見合る」とあるように、文政、天保の隠岐国絵図に記載がみられます。なお、隠岐国絵図では元禄国絵図は確認されていないものの、川村博忠山口大学元教授によれば、「文政隠岐国絵図」の原図が「元禄隠岐国絵図」の可能性もあるとしています(国絵図研究会、2005)。したがって、隠岐国絵図では、竹島渡海の記載が、正保、元禄、天保にわたってみられたと想定されます。
竹島渡海の記載は「正保日本図」にもみられます。隠岐福浦のところに「此湊舟掛吉、竹嶋江渡海此湊ニテ天気合乗」(国立歴史民俗博物館所蔵・秋岡武次郎旧蔵、及び大阪府立中之島図書館「皇圀道度図(正保日本総図)」)という記載があります。さらに同じく正保日本図とされている「日本総図」(国立国文学研究資料館蔵)にも、「此湊船懸吉、竹嶋江之渡海此湊ニて天気見合候」(※1)という記載がみられます。「正保日本図」での記載は「正保出雲・隠岐国絵図」の記載に対応したものと思われます。なお「元禄日本図」(明治大学図書館所蔵)、「享保日本図」(国立歴史民俗博物館所蔵・秋岡武次郎旧蔵)には記載がみられません。これは元禄、享保の日本図では、「正保日本図」に比べて、海上の渡海の記載が大幅に減っていることが理由として考えられます。実際、その後の文政、天保の隠岐国絵図に竹島渡海の記載があり、また幕府が官許した江戸時代後期の日本図のなかに、竹島、松島が記されていることから、幕府は元禄以降も両島を日本領として認識していたと考えられます。

 このように正保・文政・天保の隠岐国絵図、「正保日本図」に竹島渡海の記載がみられますが、その途中にある松島は竹島渡海の際に寄港地となったり、またアシカ採取など経済活動が行なわれていたこと、さらに絵図の記載に「竹嶋江之渡海」、「竹嶋迄之渡海」とあることから、松島も明らかに日本領として認識されていたといえます。

 

文政隠岐国絵図

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 図1「文政隠岐国絵図」(島根県立図書館所蔵)

 図2「文政隠岐国絵図」(福浦周辺拡大)(島根県立図書館所蔵)

 

 

天保隠岐国絵図 天保隠岐国絵図拡大図

 

 

2)日本図における異国への距離の記載

 

 京都大学でのCOEプログラム「15・16・17世紀成立の絵図・地図と世界観」の研究成果をまとめた『大地の肖像−絵図・地図が語る世界−』(京都大学学術出版会、2007年)によれば、寛永日本図(川村博忠教授)と正保日本図(藤井譲治教授)の詳細な分析があります。

 まず、寛永日本図の分析では、京都大学附属図書館所蔵の寛永15年(1638)の日本図(「日本国中図」、旧中井家旧蔵)に、異国への渡海里数の記載があるとしています。寛永13年頃に初めて日本図ができるものの、島原の乱以後寛永15年に国絵図提出を要請して、改訂されてできたのがこの日本図です。京都大学以外には国会図書館、池田家文庫にあります。川村教授によれば、江戸幕府が編集した官撰の日本総図に、異国渡海の里数が記されるのは異例とのことで、この寛永15年の日本図では、京都大学所蔵図のみの記載、またその縮小図では4点のうち3点(東大総合図書館南葵文庫、亀岡市文化資料館、金沢市立玉川図書館)に記載があるとのことです。異国への記載は長崎の沖合に以下のようにあるとのことです。


 

 長崎より天川へ九百四拾里

 長崎より高佐へ五百八拾里

 長崎より呂宋まねいらへ千百拾弐里

 長崎よりミんほうふへ四百弐拾里

 


 

 天川はマカオ、高佐は台湾(※2)、「呂宋まねいら」はマニラ、「ミんほうふ」は寧海府と推定されます。いずれも日本から見て、南西方向の地名が記されています。川村教授によれば、本図作成の動機は、島原の乱を契機とした軍用的観点にあったこと、キリシタン厳禁を意図した対外的な警戒心にあったとしています。

 川村教授が日本図で異国への渡海里数を異例と記しているように、他の日本図ではこうした異国渡海の記載がみられません。ただ、朝鮮への渡海については記載がみられます。「正保日本図」(国立歴史民俗博物館所蔵・秋岡武次郎旧蔵)には、対馬の北に「朝鮮釜山浦マテ四十八里」と対馬から釜山浦までの距離が48里であると記しています。なお、同じく正保日本図とされている「日本総図」(国立国文学研究資料館蔵)には、朝鮮釜山浦までの距離の記載はないものの、朝鮮半島が描かれ、釜山浦を表記しています。

 ではなぜ、釜山浦を表記する必要があるのでしょうか。これを解く鍵が「天保対馬国絵図」(国立公文書館所蔵)にあります。対馬の北方に航路が描かれ、「佐須奈浦より朝鮮和館迄四拾八里」との記載があります。佐須奈浦とは対馬の北、現在の対馬市上県町にある湊です。つまり、この絵図では単に異国である朝鮮との距離を示しているわけではなく、釜山にあった倭館までの距離を記していることになります。倭館とは対馬藩が朝鮮との外交、通商を行なっていたところです。長崎通詞が朝鮮の通訳官から入手したとされる林子平の天明6年(1786)「朝鮮八道之図」には、釜山浦の脇に「対馬ノ持也」と記しています。したがって日本図で朝鮮半島が描かれているのは、釜山にある倭館といった、日本と関係のある地域を想定して描いていると考えられます。さらに「天保肥前国絵図」(国立公文書館所蔵)をみると、長崎の沖合に航路が描かれ、単に「黒船出入之船路」とあります。これは長崎に出入りするオランダ船のことを指していると思われます。

 このように、国絵図、日本図での異国の記載は、基本的に島原の乱を契機として作製された寛永日本図での記載を除けばみられなかったこと、対馬沖に記された朝鮮釜山への距離記載も、異国である朝鮮を意識したというよりは、釜山にあった倭館を意識して記載したことが明らかとなりました。したがって、「正保日本図」や隠岐国絵図での竹島渡海の記載は、幕府が竹島、松島を異国として認識していなかったということを示しているといえます。

 

3)日本図における離島への距離の記載

 

 次に、国絵図、日本図とも竹島渡海の記載があり、渡海記載の詳細な「正保日本図」を事例に検討します。記載の内容の意味を検討するためには、同時期の絵図で、他地域の渡海の記載を比較検討する必要があります。

 藤井教授は、「正保日本図」(国立歴史民俗博物館所蔵・秋岡武次郎旧蔵)と、同じく正保日本図とされている「日本総図」(国立国文学研究資料館蔵)を分析され、2点とも写本であり、正保国絵図をもとに作成されたこと、両者は別系統の図であること、国文研本は、明暦4年(1658)以前に作成され、元となった図は承応2年(1653)以前の作成であること、歴博本は寛文9年(1669)以後の作成であるとしています。先にも記しましたが、両図とも、隠岐福浦に竹島渡海の記載があります。なお、両図には記載内容に違いがみられます。藤井教授の分析をベースに、日本列島から離れた離島の記載について、以下、検討したことを記します。


 

1「日本総図」(国立国文学研究資料館蔵)

 竹嶋:なし●隠岐福浦に「此湊舟掛吉、竹嶋江之渡海此湊ニ而天気合乗候」

 筑前御号嶋:なし

 肥前男女群島:なし

 薩南諸島:あり●横当嶋まで

 奄美諸島:なし●トカラ列島に大島(奄美大島)までの注記あり

 八丈島:あり●八丈島まで

2「正保日本図」(国立歴史民俗博物館所蔵・秋岡武次郎旧蔵)

 竹嶋:なし●隠岐福浦に「此湊舟掛吉、竹嶋江渡海此湊ニテ天気合乗」

 筑前御号嶋:あり●「筑前大嶋江四拾五里」

 肥前男女群島:あり●「福江ヨリ四拾八里」

 薩南諸島:あり●横当嶋まで

 奄美諸島:なし●トカラ嶋に「トカラシマヨリ大嶋ノ内フカイ浦迄三拾五里巳ノ方ニ申潮乗ニ落」

 八丈島:なし●御蔵嶋まで

 ●三宅島に「三宅嶋ヨリ八丈嶋江三十五里」


 

 まず指摘できるのは、「正保日本図」に記載がないのは、竹嶋だけではなかったことが分かります。国文研本では竹嶋のほか、筑前御号嶋、肥前男女群島、奄美諸島、歴博本では奄美諸島、八丈島の記載がありません。このうち筑前御号嶋、肥前男女群島は歴博本に記載があり、島までの距離も記されています。さらに国文研本には八丈島の記載があることから、いずれの島も日本領であることが分かります。

 また八丈島は、歴博本では記載がなく、伊豆諸島の御蔵島までの記載となっていますが、三宅島のところに、「三宅嶋ヨリ八丈嶋江三十五里」とあり、三宅島からの渡海、距離を記しています。つまり、八丈島は、国文研本に記載があることから、島の記載がなくとも、渡海、距離の記載があれば、日本領と認識していたことが分かります。さらに、奄美諸島については、トカラ島に「トカラシマヨリ大嶋ノ内フカイ浦迄三拾五里巳ノ方ニ申潮乗ニ落」とあり、トカラ島から奄美大島への渡海と距離を記しています(※3)。奄美諸島は17世紀初期より薩摩藩の支配下にあったことから、島の記載がなくても、幕府は日本領と認識していたことが分かります。

 このように、日本図に島の記載がなくても、距離や渡海を記した地域は、幕府はいずれも日本領であると認識していたことが明らかとなりました。したがって、地図に島が描かれていないことをもって日本領でないと結論づけることは早計であるといえます。つまり、元禄竹島一件の以前の時期にあたる「正保日本図」作製の時点では、幕府は竹島、松島を異国、朝鮮領ではなく、日本領として認識していたと考えられます。さらに竹嶋渡海の記載は天保の隠岐国絵図までみられました。幕府は少なくとも天保の国絵図作製の時点までは、竹島、松島を日本領として認識されていたと指摘できます。こうしたことから、元禄の竹島一件で幕府が鳥取藩に対して竹島(鬱陵島)への渡海を禁止とした際に、竹島を放棄したという解釈については、全面的に見直しが必要であるといえるでしょう。

 

(元竹島問題研究会委員 島根大学法文学部准教授舩杉力修)

【註】

※1:『大地の肖像−絵図・地図が語る世界−』の写真、口絵28による。

※2:寛文6年(1666)の『日本分形図』(京都大学附属図書館所蔵)に「(長崎より)多賀佐吾(たかさご)へ五百八十里」とある。他の距離も絵図の記載と一致する。

※3:記載内容から「正保日本図」と推定される日本図(秋岡武次郎旧蔵)には「トカラ嶋ヨリ大嶋ノ内深江浦迄三十五里巳ノ方ニ当潮乗ニ落ル」とある。秋岡武次郎氏はこの日本図を「元禄日本図」としているが、記載内容から正保日本図の可能性が高い。なお、この日本図には後筆が多くみられる。竹島渡海については隠岐福浦に「竹嶋江渡海ノ舟此湊ニ而天気日和見合乗」との記載がある。

 

【文献】

秋岡武次郎編『日本古地図集成』、鹿島研究所出版会、1971年

歴史地理学会島根大会実行委員会図録編集委員会、島根県立博物館編『絵図でたどる島根の歴史』、島根県立博物館、2004年

国絵図研究会編『国絵図の世界』、柏書房、2005年

藤井譲治・杉山正明・金田章裕編『大地の肖像−絵図・地図が語る世界−』、京都大学学術出版会、2007年

 

 

図1「文政隠岐国絵図」(島根県立図書館所蔵)

図2「文政隠岐国絵図」(福浦周辺拡大)(島根県立図書館所蔵)


 


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