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元禄9年安龍福等を援助した隠岐の村役人高梨杢左衛門、河嶋理兵衛について
はじめに
昨年、元禄時代に2回来日した安龍福に関する地図、論文、講演等に接する機会があった。子山島が載り、李燦氏の作成年代の決定基準によれば安龍福が所持していた「朝鮮八道図」と同時代のものと推測される神戸市立博物館所蔵の「八道図」、韓国の嶺南大学独島研究所刊行の『独島研究』掲載の金和經氏の論文「安龍福の渡日と子山島及び地図上のその位置問題」、島根県立大学・啓明大学「竹島・独島研究会」での朴炳渉氏の「安龍福事件の再検討」と題する研究発表、島根県での内田文恵氏の「安龍福の供述」の講座講義等である。今年に入って6月から下條正男氏の「韓国が知らない10の独島の虚偽」というweb竹島問題研究所の連載にも折々登場するが、10月の安龍福の供述に関する幅広い視点からの分析(第5回)は参考になった。
なつかしいという思いで、久しぶりに元禄9(1696)年安龍福等11人が隠岐の大久(おおく)村に来た時の記録「元禄九丙子年朝鮮舟着岸一巻之覚」いわゆる「村上家文書」を再読していると、安龍福等異国人を親切に世話をする隠岐の2人の村役人のことが気になってきた。「村上家文書」は隠岐での安龍福等の言動、所持していた品物等が、当時幕府の命で隠岐全体を支配していた石見銀山代官後藤覚右衛門に現地に配置されていた隠岐郡代中瀬弾右衛門と島前(どうぜん)の代官山本清右衛門が連名で作成した報告書である。隠岐から大森の石見代官所へ運んだのは島後(どうご)の代官松岡彌次右衛門だった。最初、松岡彌次右衛門が担当していた安龍福等の世話を受け持ったのが地元の役人高梨杢左衛門、河嶋理兵衛である。「高梨杢左衛門、河嶋理兵衛大久村へ遣わし置き申し候飯米等廻し見計い、庄屋方より渡させ候につき朝鮮人悦び申す由」と文書に記載されている。文書の中に、安龍福等の乗って来た船の米びつを調べてみると3合しか米がなかったので、隠岐地方も折から凶作の年が続き米不足であったが、大久村の庄屋が地元から白米4升5合を提供し、また西郷(さいごう)にあった郡代官所(在番)からも1斗2升3合の備蓄米が届き、朝鮮人達を喜ばせたとある。
1、高梨杢左衛門について
私は隠岐に高梨光男氏という友人を持っている。私は平成5年に島根県立隠岐高校の校長を務めたが、氏はその頃母校である隠岐高校の英語教師であり、その後校長にも昇格された。
高梨氏が高梨杢左衛門と同じ姓なので、杢左衛門に関する調査を依頼すると隠岐の島町東郷(とうごう)にある高梨本家とされる旧家を訪ねられ、系図関係の古文書を調べて「高梨家前記」と記された文書を発見し筆写して送付くださった。それによると高梨氏は信州筑摩郡高梨山下の出自で、鎌倉幕府から雲州、隠州の地頭職を与えられた佐々木氏の臣下として西下した。佐々木氏は元久2(1205)年に隠岐の東郷(とうごう)村に宮田(くんだ)城を構築し、高梨氏も隠岐に定住した。
石見銀山代官の支配から松江藩の預かり地になった隠岐に郡代として斉藤豊宣(とよのぶ)が着任した。豊宣は寛文7(1667)年現在隠岐の最古の地誌とされる『隠州視聴合記(紀)』をまとめ、松江藩主に提出した。「国代記」という隠岐を支配した人々のことをまとめた部分で佐々木氏の隠岐進出に触れているが、宮田城構築時期の領主は、京極入道常念で、京極入道常意と呼ばれたと記している。京極氏は佐々木氏の一族である。その後室町幕府の足利義輝(1536〜65)が将軍のころ、佐々木氏は西郷に甲尾(こうのお)城を築き、移住した。また佐々木氏は隠岐氏と呼ばれるようにもなった。その後大内氏や尼子氏等の本土の強い勢力に帰属しながら隠岐国の領有を続けたが、尼子、毛利の騒乱の中で衰退し、毛利一族の吉川氏の隠岐支配により島内での権力を失った。
佐々木氏の家臣であった高梨氏はその後も東郷に居住したが佐々木氏の衰退に伴って、地元で農業を営む道を選んだと「高梨氏前記」は記している。そして帰農の祖である高梨甚九郎信照(文禄二巳八月二日没)の系譜に「嫡子左京」、「二男杢左衛門」の記載がある。また別の高梨家に残る元禄期の地役人の職務を記した文書、公用船観音丸の船大工等を掌握する「観音丸大工職」にも杢左衛門の名がある。
2、河嶋理兵衛について
私は高梨光男氏以外に隠岐出身の鞁嶋弘明氏という友人がいた。氏は私が島根県教育庁教育次長、県立松江北高校校長を命じられた時、ともに私の後任としてその職責を全うされ、退職後は八束郡東出雲町の町長として活躍されていたが、昨年末68才の若さで急逝された。氏にも鞁嶋と河嶋の文字上の違いはあるが、河嶋理兵衛について祖先に名がないか生前に質問したことがある。氏は江戸時代から始まる鞁嶋家の家長の系図を調べて回答くださった。それによると貞享3(1686)年5月26日没の長左衛門に続き、嘉兵衛(元禄12(1699)年7月18日没)、八兵衛(享保10(1725)年11月19日没)、甚兵衛(寛政元(1789)年1月24日没)と3人の兵衛がつく名の家長が続いている。村役人を務めたのは、理兵衛だからこの3人の兵衛の弟とか嫡子以外の子供等の中に理兵衛が存在する可能性がある。河嶋が鞁嶋になったのは近代になってからのことと思われるが、傍系の系図の調査をこれから開始しようという矢先の鞁嶋弘明氏の死は残念である。謹んで氏の冥福を祈りたい。
おわりに
安龍福が元禄9年隠岐から鳥取藩へ行き、追放されて帰国し報告した内容や元禄6(1693)年に朴於屯とともに日本へ連行された時の報告に対馬藩等の処遇は批判しても隠岐での扱いを批判したものは見あたらない。享和元(1801)年出雲大社の神職矢田高当が書いた伝聞書『長生竹島記』に、元禄6年米子の町人達が安龍福、朴於屯を隠岐の福浦に連行すると同浦の女達がかわいそうなことをすると町人達を叱責し、女の一人が「上着をぬぎて伏居る二人に打かけにけり、唐人も時の情に気を休め心潤ふ風情なり」とある。
また元禄9年鳥取藩から追放され、朝鮮へ帰る際立ち寄った可能性を推測させる記述には福浦では再び安龍福等がやって来たと騒ぎになった、とある。安龍福等は「そらへ指をさして九拝をなし、次ニ集まり居る大勢に向ひ又三拝して「一別つ以後イカン無量恩徳」とちんぷんかんのわかりかねたる音声ぞかし、況浦人も皆以礼儀みださず跪き手を合、感涙流しうなづき」、「急き異国船に打乗りけれハ、藻を焼き、浦の老若男女浜辺へ出て言葉わからぬ名残をおしみ紅涙たもとをひたす、猶唐人も名残はるかにはらはらと涙を流し手を揚げて朝鮮さして帰りける」等とある。
安龍福と隠岐の関係では、安龍福が「玉岐島」といった島が隠岐島であるか等まだまだ検討すべき課題が残っているし、高梨家や河嶋家についても調査を継続したい。
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