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日露戦争・日本海々戦と鬱陵島

はじめに

 

 前々回「日露戦争・日本海々戦と竹島」と題するレポートを簡潔に書いた。その後鬱陵島付近でも海戦があり、特にこの海域でバルチック艦隊の総指揮にあたっていたロジエストウエンスキー司令長官海軍中将が乗る駆逐艦「ピエードウイ」が日本海軍に捕獲されたり、戦艦「ドミトリ・ドンスコイ」が日本海軍の砲撃で損傷し、鬱陵島沿岸に漂着、沈没し乗組員は鬱陵島へ上陸して投降した。この状況は鬱陵島郡守沈興澤による報告書で知ることが出来る。また、明治38(1905)年6月1日付の「山陰新聞」は活字を大きくして「日本海海戦公報」として鬱陵島周辺での海戦を報じている。今回も「日露戦争・日本海々戦と竹島」でも利用した明治時代博文館から刊行された『日露戦史』、『日露戦争実記』を活用して実態を追ってみたい。

 

1、鬱陵島近海での海戦の状況

 

 明治38年5月28日の午前、竹島の近くでバルチック艦隊の「ニコライ一世」等の戦艦が東郷平八郎の乗り組む旗艦「三笠」(帰還時には故障により旗艦は「敷島」に変更されている)を中心とする日本海軍に包囲されて投降した。その日の午後別の海戦が鬱陵島付近で起こっている。

 午後3時30分頃、鬱陵島の南西約40海里の地点で東方より逃げて来たロシアの2隻の船を日本の駆逐艦「漣(さざなみ)」、「陽炎(かげろう)」が発見し追撃した。約1時間後その内の1隻が白旗を掲げ、投降の意志を示した。その船はバルチック艦隊の駆逐艦「ピエードウイ」で、艦内には司令長官ロジエストウエンスキー等が乗っていた。「山陰新聞」には、「司令長官ロゼストウエンスキー中将、エンクイスト少将外幕僚八十余名移乗居りしを以て、悉く捕虜とせるが、右両将は重傷なり」と報じている。移乗とは司令長官ロゼストウエンスキー等はもともと旗艦「クニヤージスワロフ」に乗っていたが、5月27日の戦闘で船が沈没したので「ピエードウイ」に移っていたのである。また同紙の「敵の全滅艦船」の項には駆逐艦の部に「捕獲」として「ピエードウイ」を記し、350トン、速力は全艦隊で最も早い28ノット、艦齢3年としている。投降に対応した「漣」について『日露戦史』巻四は、「司令長官の捕虜、亦千古の奇談といふべく、「漣」は亦思はざるの奇功を博せりといふべし。」としている。

一方、「陽炎」は他の1隻を追走したが午後6時半北方海上にて見失った。

 また、鬱陵島付近を探索していた瓜生(うりゅう)外吉中将指揮の「千歳」等は、敵艦「ドミトリ・ドンスコイ」を発見、追撃して鬱陵島南方約30海里で砲撃戦となったが、撃沈するにいたらぬまま、夜色濃くなり見失った。そして翌29日朝、損傷のはげしい姿で、鬱陵島東南沿岸に漂着して沈没寸前である一船を発見した。「ドンスコイ」であった。「ドンスコイ」について「山陰新聞」は、「又午後五時北西に戦艦ドンスコイ(装甲巡洋艦6200トン)を発見、第四戦隊及第二駆逐隊之を追及して猛烈砲撃せしも撃沈するに至らず、夜に入り駆逐艦之を襲撃したるが翌朝ドンスコイは鬱陵島に擱座せり」としている。『日露戦史』は「ドンスコイ」は鬱陵島近くで撃沈された巡洋艦として扱っている。『日露戦争実記』第75編(明治38年6月13日発行)は「ドンスコイの撃沈」という項をもうけて詳細な描写をしている。朝、欝陵島の湾内に錨を下ろしている同船を発見、信号で降服を勧めたがそれに応ぜず鬱陵島への上陸を開始した。その間船はしだいに傾き、午前8時頃沈没した。日本側はボートで艦長を召喚しようとしたが、艦長は重傷を負い歩行困難だと、副艦長が日本船に告げに来た。状況を質問すると、昨日と昨夜の戦闘で日本側の水雷6発を受け、艦内に浸水が激しくなり、全員での夜を徹しての排水も効果なく船は沈没したという。副艦長は自分達が強いて対馬水道を通過しようとしたことは無謀の拙策だったと、涙を流したとも書かれている。

 

2、皇城新聞に載る「沈興澤報告」

 

 この「ドンスコイ」については、ソウルで刊行されていた1905年8月10日付(大韓光武九年八月十日付)の「皇城新聞」が、鬱陵島の郡守沈興澤からの報告にもとづく「鬱島公報」として報じている。具体的な内容は、「鬱島郡守沈興澤氏の報告によれば、郡の郷長田在恒からの報告で、陰暦4月25日に鬱陵島の前の西南の大洋遠くから大雷声が聞えてきた。日没後には雷火が次第に道洞の前洋に近づき、大砲連射のようであった。しばらく静かになった後、深夜に到って一隻の大兵艦が島の前に来て碇泊し、乗員が順次上陸して来た。夜の間のために日本かロシアか分からなかったが、近づいて見るとロシア兵であったとの急報が届いたので、現地に行き事情を確認しようとしたが言葉が通じず、要領を得なかった。翌日、明け方にロシア兵が多数上陸した後に、そのロシア艦は前洋を少し後退して自沈し、陸に上がった艦長1名、副艦長1名、軍卒774名は白旗を揚げて降服の意を表していたが、同日巳時ごろに日本の兵艦一隻が苧洞に来て、降服したロシア兵たちを乗せて去って行ったという」とある。日本の兵艦について、『日露戦史』は「同艦の生存者は、「春日」、「吹雪」等に救助収容せられたり」としている。

 この報告に出てくる沈興澤、田在恒については、翌明治39(1906)年3月28日に、島根県第三部長神西由太郎を団長とする竹島調査団が竹島調査の後、鬱陵島に立ち寄った時面会したことが奥原碧雲の『竹島及鬱陵島』に書かれている。沈興澤については、「郡守沈興澤に面会す。郡守は京城の人、年歯五十二、寛裕の相を備へ座布団の上に跪座し、白衣を着し、冠をつけ、長煙管を携へ、傍なる机上に数部の簿冊あるのみ、簡単素朴頗る太古の風あり」とあり、田在恒については田の字を由に間違え由在恒とした上で、士商議所の所長顧問の肩書きを記している。沈興澤について、奥原碧雲は「行政上の質問に対しては、多くは要領を得ざりき。」と、日本人に対して警戒心ももっているかのごとく記しているが、今回『竹島及鬱陵島』の末尾に収められている、竹島視察員の詩歌を編んだものとする「寒潮余韻」の項に、沈興澤の神西由太郎等調査団に贈った漢詩があることに気がついた。そこには「憐君報国一心丹、此地相逢意更歓、欲挽難留情万緒、為言滄海去平安」と今回の来訪が両国の友好につながるだろうとの思いと無事帰国を祈る気持ちが述べられている。

 

 

 

 

海戦図

 

写真1鬱陵島付近に於ける海戦図(拡大図はこちら

鬱陵島の南西に司令官の乗る「ピエードウイ」が捕獲された地点(青丸の中)、真南に

「ドンスコイ」が日本海軍の水雷を被弾した地点(緑丸の中)が赤字で示されている。

(『日露戦史』掲載)

 

 

 

 

 

さざなみ

 

 

写真2「ピエードウイ」(右端)を連行中の駆逐艦「漣(さざなみ)」(左側)

(『日露戦史』掲載)

 

沈興澤

 

写真3沈没した船から鬱陵島へロシア兵が上陸したことを報告した沈興澤

(写真は1906年鬱陵島を訪れた島根県調査団との記念写真、中央が沈興澤)

(島根県立図書館所蔵)

 

 

 

鬱陵公報

 

公報拡大

 

写真4沈興澤の報告を掲載した「皇城新聞」

下は「鬱島公報」部分(拡大したものはこちら

 

 

 

 

(竹島問題研究顧問杉原隆)

 

 

 

 

 

 


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