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日露戦争・日本海々戦と竹島

はじめに

 

 今年になって日露戦争特に日本海々戦に関する資料に接する機会が多くあった。まず明治38(1905)年5月28日、日本海々戦で日本海軍の追撃を受け島根県江津市和木町沖で沈没した物資輸送船イルティッシュ号を現場に駆けつけスケッチ画として描いた島根県立第二中学校(現県立浜田高校)の美術科教師杉浦非水(注)の2枚の絵が掲載された雑誌(写真1)、島根県出雲市の骨董店で見つかった日本海々戦の記念絵葉書(写真3)、2人の研究者が竹島資料室に寄贈してくださった『日露戦史』、『日露戦争実記』である(共に博文館から明治期に刊行)。それらからいくつか気づいたことを報告してみたい。

 

1.日露戦争と竹島問題

 
日露戦争が勃発しているさなかの明治37(1904)年9月29日中井養三郎は「リヤンコ島領土編入並びに貸下願」を内務、外務、農商務の3大臣に提出した。内務省では「内務当局者ハ此時局ニ際シ(日露開戦中)韓国領地ノ疑アル莫荒タル一箇不毛ノ岩礁ヲ収メテ、環視ノ諸外国ニ我国ガ韓国併呑ノ野心アルコトノ疑ヲ大ナラシムルハ、利益ノ極メテ小ナルニ反シテ事体決シテ容易ナラズ」と難色を示したが、外務省の政務局長山座円二郎は「氏ハ時局ナレバコソ其領土編入ヲ急要トスルナリ、望楼ヲ建築シ無線若クハ海底電信ヲ設置セバ敵艦監視上極メテ屈竟ナラズヤ、特ニ外交上内務ノ如キ顧慮ヲ要スルコトナシ」とした。この願いは最終的に「明治三十六年以来中井養三郎ナル者該島ニ移住シ漁業ニ従事セルコトハ関係書類ニ依リ明ナル所ナレバ国際法上占領ノ事実アルモノト認メ之ヲ本邦所属トシ島根県所属隠岐島司ノ所管ト為シ差支無之儀ト思考ス」とする閣議決定により最終決定となった。この間のいきさつから日露戦争と日本の竹島所属には関連があると考える研究者は存在したし、具体的な海戦が竹島周辺で起こったこともあって疑惑を払拭出来ない部分もあった。ただ5月27、28日には竹島で中渡瀬仁助等隠岐の漁師がアシカ猟をしておりバルチック艦隊の数隻を目撃していることや、軍事施設の可能性を指摘されていた仮望楼(見張所)は日本海々戦より後の同年8月に建設されたことが海軍資料から確認されたし、竹島近くで4隻のロシア艦隊が追撃した日本艦隊に包囲され投降したのも後述するように偶然の出来事であったことが明白となり、日露戦争と竹島の意図的関係は存在しないと現状では考えられる。

 

2.東郷平八郎と竹島

 
日露戦争は、日清戦争で獲得した日本の利権を三国干渉で返還させた上で、ロシアが中国の清王朝や朝鮮へ進出したことを背景に明治37(1904)年2月に勃発した。この戦いはロシアが南下を続ける遼東半島や満州での陸戦と、アフリカ経由で島国日本をめざす当時世界最強のロシアのバルチック艦隊と日本海軍の海戦で行われた。

 この日本海軍を統括していたのは、連合艦隊指令長官東郷平八郎であった。東郷は弘化4(1847)年鹿児島県に生まれ、薩英戦争、戊辰戦争に参加した後海軍見習士官としてイギリスに留学した。帰国後は洋上勤務に従事し、明治27(1894年)の日清戦争では巡洋艦「浪速」の艦長として活躍したことのある人物であった。
その東郷が日本海々戦が終わってまもなくの明治38(1905)年6月23日発行の『日露戦争実記』第77編に「千載不磨の大文字-海戦史上の新紀元=帝国艦隊の壮勲偉績」と題する日本海々戦に関する手記を載せている。概要を記せば、バルチック艦隊が南洋の安南沿岸に停泊しているとの情報を入手し日本海軍は朝鮮海峡に全速力で出動し待機したこと(熊田忠雄著『そこに日本人がいた』新潮社によると、アフリカの東にあるフランス領マダガスカル島で熊本県天草出身の赤崎伝三郎夫妻が酒場を経営していたが、38隻のバルチック艦隊が休息、食料・水補給に同島に寄港したので日本へ電報で知らせた。戦後帝国海軍は伝三郎の愛国的行動に感謝状を贈ったとある。)、5月27日午前5時南方硝艦の信濃丸が初めて敵艦を発見したこと、同午前10時過ぎ壱岐、対馬の間で日本の片岡中将率いる巡洋艦部隊とバルチック艦隊の間に砲撃戦が始まったこと、正午過ぎ、東郷平八郎率いる日本の旗艦「三笠」をはじめとする主力戦艦は、ロシア側の主力戦艦「オスラビア」「シソイベリキー」「ナワリン」「ナヒモフ」よりなる一隊と続く「ニコライ一世」ほか3隻の海防艦よりなる一隊に追いつき、視界内にある日本の全艦隊に「皇国の興廃此の一戦に在り、各員一層奮励努力せよ」との信号を発したこと、日本の砲撃は射程距離の短縮と共に効力を発揮し始め、まず主力艦「オスラビア」が被弾により大火災を起こし戦列を離れていったこと、午後2時旗艦「クニヤージスワロフ」も大火災に罹り、後続の諸艦も火災に罹れるものが多くその騰煙が西風に靡いて海上一面を覆ったこと、この日は午後7時28分に全軍に北航して明朝鬱陵島に集合すべしと伝令したことを記している。
28日は午前5時20分から日本海軍は鬱陵島海域から行動を開始したが、まもなく北東方向へ移動する敵艦が目撃され出し、午前10時30分竹島の南方約18海里の地点でロシアの戦艦「ニコライ一世」等を取り囲むことに成功した。巡洋艦「イズムルート」だけは包囲網をかいくぐりウラジオストック方面に逃走したが、他の戦艦4隻は投降の意思を示したという。それに対して東郷は「敵艦隊司令官ネボカトフ少将は其部下とともに降意を表し、本職は特に其将校以上に帯剣を許して之を受けたり」とし、「此対戦における敵の兵力、我と大差あるにあらず、敵の将卒もまた其祖国の為に極力奮闘したるを認む」と敗者への慮りの情も吐露している。また「此二日間の戦闘に於て我艦隊の失ひたる所は、水雷艇三隻のみにして、其の他多少の損害を蒙りたるものの、一として今後の役務に支障あるものなし、又た死傷は全軍を通じ、将校以下戦死百十六名、負傷五百三十八名にして、其細別は別に報告せる」とし、日本側の損害も報告している。
なお各方面へは5月29日、30日に「リヤンコールド岩付近」での勝利として海軍からの打電として伝えたが、『官報』の6月5日付けの「訂正」欄に「去月二十九日官報号外本欄日本海海戦戦報ノ項三及同三十日同日本海海戦続報ノ項其五中「『リヤンコールド岩』ヲいずれモ『竹島』ニ訂正ス」とある。この年の2月にリヤンコールド島から新しく竹島に島名が変わっていたことに気づいたからであろう。

 東郷は明治40(1907)年5月後大正天皇となる皇太子東宮殿下の山陰道行啓の随行員として島根県に来県している。5月14日、舞鶴港から軍艦「鹿島」に乗り、美保関に着岸し5月15日境港に上陸、鳥取県に立ち寄った後、5月21日に島根県へ入り、安来、松江、今市(現出雲市)、大田、江津、浜田、隠岐を訪問されている。
5月27日、今市での夜は「此日日本海々戦ノ紀念日ナルヲ以テ午後七時東郷海軍大将ニ御陪食仰ラレタリト」と皇太子が食事を共にされ祝い酒を東郷に勧められたという。

 

3.竹島で日本海々戦を目撃した中渡瀬仁助

 

 「五月二十八日の朝のことで、島ではその朝面白いほどトド(海驢)がとれまして夢中になっちょりますと、西の沖合いえらい大砲の音が聞こえまして、ヨタヨタになった四隻の軍艦がかすかに見えちょります。そのころは日本海の漁師で軍艦の見分けがつかぬ者はをりませんで、小手をかざしますと、間違いなく敵の軍艦でござんす、何とかしてわが艦にお知らせしたいが鳥も通わぬ島ではそれも叶わず、口惜し涙にくれまして、押し寄せて来たら、村田銃ででも応戦してくれようと待ち構えちょりますが、動く力もなさそうです。そのうえにわが軍艦が威風堂々と迫ってきて、取っつかまえましたで、やーれいくさは大勝利だ!、大日本帝国万歳じゃ!と、こちらは砲台の代わりにトドを取っつかまえて、トドの平首を叩いて嬉し涙を流しました。あとで聞きますとこれがロシアのニコライ一世、アリヨールアブラキシン、セニヤーウインという有名な軍艦だったそうで」

これは昭和9(1934)年6月大阪朝日新聞の記者が竹島に渡島しアシカ猟をしていた隠岐の漁師達から「島の座談会」として取材した時、中渡瀬仁助なる人物が日本海々戦を竹島で目撃した思い出を語った内容である。座談会では続いてアシカの生態を調査に島に来ていた寺内という獣医が「バルチック艦隊の旗艦拿捕の歴史的光景ですネ、有名なネボカトフ司令官の敗戦訓示『ウラルの山高しといえども時いずれは崩る、黒海の水深しといえども時いたれば乾す、天地の事物悉く天意の命に従はざるべかざる』の悲痛な言はこの海上で発せられたのだなア」と発言している。またこの記事の最後には「ちょうどこの夜六月十九日は故東郷元帥の三七日、一同しばし感慨深く古戦場の夕焼けに黙祷した」とある。

 明治38(1905)年5月28日竹島にいて日本海々戦を目撃したという中渡瀬仁助については、少し調べたことがあるので以下に報告してみたい。
明治38(1905)年島根県隠岐の所属となった竹島のアシカ猟は中井養三郎、加藤重蔵、井口龍太、橋岡友次郎が共同で設立した「竹島漁猟合資会社」のもとで開始された。当初は竹島へ同じアシカ猟を狙う密漁者がおり、会社はリストを作成して西郷警察署に告発している。その告発された一人に「鹿児島県川辺郡知覧村大字南別府中渡瀬仁助」がいる。ただこの密漁者達は竹島のことを熟知しアシカ猟の技術を体得していたので、一部の者は竹島漁猟合資会社に社員として採用されていった。中渡瀬仁助もその一人であった。中井養三郎の「竹島漁猟合資会社営業成績略明治三十八年分」には密漁者にふれて「彼ノ密漁者ニシテ漁業ノ許可ニ加ハリ本社ニ入ルヲ得タルモノハ本社ノ結社ニ際シ或ハ其密猟ヲバ其侭本社ノ営業ト為シ以テ彼等ガ密猟中ニ被リタル損害ヲ巧ニ本社ニ稼セントシ」と密漁者の一部を社員としたこと、彼等に警戒すべき要素のあることを記している。中渡瀬は隠岐の西ノ島浦郷の女性と結婚し、その地から明治40(1907)年2月30日付けの出漁を督促する会社宛に出した書簡が残っているが、ある時期から会社のある西郷町字西町に移っている。彼は30年余り毎年竹島へ渡り鉄砲でアシカを撃ちその腕は「鉄砲名人」と賞賛された。現在島根県の三瓶自然館に展示されている「リヤンコ大王」とあだ名される巨大なアシカの剥製は中渡瀬が一発の銃弾で仕留めたものといわれている。彼は中井養三郎の「代理人」と自称し、周囲の人達は「頭領」と呼んでいるから、竹島での現場責任者の役目を受け持っていたと思われる。

 中渡瀬は鉄砲以外のアシカの捕獲方法も良く語るし、隠岐島で洞窟が多く時期によってはアシカがやってくる西ノ島三度(みたべ)の人達と情報交換をしばしば行った。

 また竹島のアシカは沿海州に生息するものと同じ種で、千島列島にいるものとは異なるとも話している。昭和28(1953)年当時島根県東京事務所勤務の速水保孝(はやみやすたか)氏等が隠岐へ出向いて聞き取りをした「中渡瀬仁助口述書」(「竹島漁業の変遷アジア局第二課」所収)があるが、この時中渡瀬はすでに高齢で記憶が不確実なことが多かったという。

 

 

 

 

 

杉浦非水軍国画報

 写真1バルチック艦隊の物資輸送船イルティシュ号の沈没直前を描いた

 杉浦非水のスケッチ画(「軍国画報」掲載)

 

日本海戦記附録

 

 写真2日露戦争図・竹島付近の部分図
赤の○で囲った部分(○内の字は降伏艦)の中にある▲は軍艦、降伏艦はバルチック艦隊、それを包囲しているのが日本海軍
『日本海戦記附録』明治40(1907)年発行(浜田市立郷土館所蔵)

 

 

絵葉書

 

 写真3東郷平八郎と東宮殿下(後の大正天皇)

 (山陰道行啓記念絵葉書、個人所蔵)

 

 

新聞記事

 

 写真4中渡瀬仁助の日本海々戦目撃の回想を掲載する新聞記事

 


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