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「天保期竹島渡海禁止の高札、御触書について」補遺

はじめに

 私は2013年に「天保期竹島渡海禁止の高札、御触書について」というレポートを書いた。その時他の研究者によって発表されているが個人的には未確認のものとして熊本県天草市の「上田家文書」を記している。2018年5月22日鬱陵島、竹島、隠岐等で鮑漁を展開した天草の漁民のことを調べるため天草市へ島根県竹島問題研究会の関係者が出向かれた機会に同行させてもらい、江戸時代高浜村の庄屋として活躍し多くの資料を残している上田家の「上田資料館」で御触書の関係文献を閲覧させてもらった。また島根県内や他県でもその後竹島渡海禁止の高札、御触れ書類をいくつか確認しているので、前記レポートの補遺として追記してみたい。

 

1. 天草上田家文書の御触書

 天草は現在熊本県に属する島嶼の一市だが、安土・桃山時代は小西行長の領地だったし、島原・天草の乱で地域は荒廃したが、乱の後天領となった期間に周辺の藩の代官が統治したその時代に、交易や漁業を中心に島の生活が安定していった。特に定浦の一つとして特別の権利を持つ浦と陶石の採掘地として知られる高浜村では、上田家が庄屋に任じられると幕府や藩への忠実な実務に邁進すると共に窯業や廻船業で財をなした。代々の当主は学問を愛し書籍の蒐集や文書の保存にも努めた。寛政から文化期の7代上田宣珍の時が全盛期で文化7(1810)年伊能忠敬が測量のため天草を訪れると自家に宿泊させた。その上田家に竹島渡海禁止の御触書が天保期当時のまま残されていたのである。

 その御触書の特色は他の地域の御触書にある「御目付え」、「御触」、「定」のような表題と呼ぶべきものがないこと、後半の文章にある「乗筋等」と「可成丈(たけ)遠乗」の部分が欠落していること、最末尾の「右之通可被相触候」も書かれていないことである。

天草のお触書の画像

写真1:天草の御触書

 

上田資料館の画像

写真2:上田資料館

 

 

2. 天草以外その後確認した県外の御触書、高札

1.山口県岩国藩玖珂市の「役方書通録」に載る御触書

 現在の山口県岩国市玖珂(くが)町の近世にあった宿駅の町役人が書き留めた書類の中にあったと地元の研究者が島根県の竹島資料室に送って下さった資料である。八右衛門の居た浜田に近い長州や周防には御触書はかなり残っているだろうと山口県文書館や萩市立図書館等で調査を繰り返したが平成29年の初めまで見つからずにいたので目下山口県内で知る唯一の資料である。

岩国藩の役方書通録に載る御触書の画像

写真:岩国藩の「役方書通録」に載る御触書

2. 鳥取県の鳥取藩「控帳」に載る御触書

 鳥取県のものもなかなか見つからなかったが、県立博物館所蔵の藩政資料の中心の「控帳」の中に私が発見した。鳥取藩は徳川家康を曽祖父とする池田光仲を藩祖とし、外様大名でありながら葵の御紋の使用を許されるなど親藩と同等の家格を与えられていた三十二万石の大藩であった。この御触書はまず「公儀之御触左之通今日左之面々江申渡候」として郡代、御舩手、勘定頭と米子と八橋(やばせ)の関係者に伝えることを記している。米子は家老荒尾氏が、八橋は家老津田氏が自分手政治を許されていた城下町である。米子周辺の海上のことを管理する船手組は保管していた「日本夷国之針図」を天保6(1835)年書き写し、天保9年には海路の里数も書き込んで「日本針図」を完成しているが、天保8年に幕府から届いた御触書の「遠沖乗り致さぬよう」に対応した作業だったと推測される。

鳥取藩の控帳に載る御触書の画像

写真:鳥取藩の「控帳」に載る御触書

3. 岡山藩「池田家文書」に載る御触書

 岡山藩主池田家の関係文書の中に天保竹島一件の御触書もあることは他の研究者によって報告されていたので、過年所蔵先の岡山大学附属図書館へ私は出向いた。調べてみると「竹島渡航禁止令高札写」として保存されており、複写コピーをさせてもらった。太い達筆の文字で書かれている御触書であった。

岡山藩池田家文書の御触書の画像

写真:岡山藩「池田家文書」の御触書

4. 静岡県の「亀山文書」に載る御触書

 たまたま静岡県から島根県竹島資料室を訪れられた方が、「静岡にも竹島渡海禁止の御触書があるよ。」とおっしゃった。

 是非その資料を送ってくださいとお願いしたところ、後日駿河文書会刊行の『続駿河の古文書』に載っている御触書をコピーして届けてくださった。駿河の江尻宿に掲げられた高札からの写しだという。江尻は現在の静岡県清水市奥津にあった宿場である。私が確認している御触書、高札は日本海側の府県が多かったが、太平洋側のものとして貴重である。

太平洋側と言えば、最近仙台藩の気仙郡、現在の岩手県陸前高田市の大庄屋(現地では大肝入という)であった吉田家の書状いわゆる「吉田家文書」の中にも御触書があるという情報を得た。実物を是非見たいと思っている。

亀山文書に載る御触書の画像

写真:「亀山文書」に載る御触書

5. 福井藩の御触書

 福井藩の御触書は県立福井公文書館に所蔵されていることを知り、同館にお願いしてコピーして郵送してもらった。福井藩は越前にあった藩で藩主は越前松平家で親藩であり、最盛時は三十二万石を擁した。その内の現在三方郡美浜町の早瀬浦を中心とする地域の行政文書が「早瀬区有文書」として保存されており、その中にふくまれていた御触書である。

福井藩の御触書の画像

写真:福井藩の御触書

6.京都洛外洛中の御触書

 島根県立図書館に岩波書店から刊行された『江戸町触集成』、『京都町触集成』が所蔵されている。天保期の部分を調べてみると、江戸の方には天保八年の竹島渡海禁止に関する御触書はふくまれていないが、京都のものには収集され掲載があった。この御触書には「衣」と最初に書かれている。解説によると上京区衣棚町のものを示しているという。一般の御触書は冒頭に近い部分に「石州浜田松原浦」とある部分がこれは「石見浜田松原浦」と石州が石見と一字代わっている。御触書の最後に「洛中洛外へ不洩様可相触候也」と京都の町々への布令であることを示している。また普通この御触書は天保八年二月に配布されたので「二月」とされているが、京都のものは京都で高札として掲載した月を示すのか「酉三月」とある。

『京都町触集成』に載る御触書の画像

写真:『京都町触集成』に載る御触書

7. 熊本藩町政史料に載る御触書

 熱望していた天草の上田資料館に所蔵される御触書を前記のように閲覧、撮影させてもらった。同じ熊本県の県立図書館にも関係する文書はないかと調査してみることにした。その結果『熊本藩町政史料三』(細川藩政史研究会刊)の「惣月行事記録抜書廿三」の部分に活字化された御触書が存在した。御触書の上段の部分に「石川浜のもの」の書きこみもある。

 御触書が高札として掲げられた場所かと類推し、石川浜を調べたが熊本県の地名にはなかった。本文に石州浜田浦と天保竹島一件の起った土地を意味する言葉があるがそこが石川となっているから州と川の誤読に浜田の浜を付加した可能性が強い。州を川と誤読した箇所はその他にもある。

 原文かその写しが欲しいと探してみたが図書館にはなかった。ただ熊本大学の永青文庫資料に「天保八年達帳」なるもの等が所蔵されているのでそれに含まれる可能性があると思われる。本文は天保8年4月19日の日付を記し、「竹島渡海等之儀ニ付いて大御目付衆より差し廻され候御書付之趣、懸かり々々相触れ候よう御達しこれ有り候」と前書きしたうえで、各地のものと同じ文面で天草の上田家文書には欠落していた「可成丈遠沖乗」も記されている。ただ末尾の「右之通可被相触候」は上田文書と同じで書かれていない。

熊本藩町政史料に載る御触書の画像

写真:『熊本藩町政史料』に載る御触書

8. 『鹿児島県史料』に載る御触書

 私が天草市と熊本市での調査だけで引き揚げた後、島根県竹島資料室のスタッフは鹿児島県へも出向き各種の調査をされその成果の一つとして、鹿児島にも竹島渡海禁止の御触書があったと報告を受けた。それが『鹿児島県史料』の「島津斉宣・斉興史料」に掲載されているものである。より具体的に記せばその内の斉興公史料天保七年より至八年の部にある「竹島へ渡海一件」の項に記載がある。薩摩藩は慶長6(1601)年島津家久を祖として始まり12代まで続くが、斉宣(なりのぶ)は9代、斉興(なりおき)は10代である。この御触書で注目されるのは、末尾に天保七申十二月廿三日とあることである。この日付けは八右衛門等が逮捕、大坂町奉行所で取り調べを経て江戸へ送られ、江戸評定所でそれぞれの罪状が申し渡された日付と同じである。各地の御触書は翌天保八年二月に老中から大目付へに始まり、各藩等へ伝えられていることがわかるが、この御触書によると八右衛門等個人への申し渡しと同じ段階で竹島渡海禁止の御触書も準備されていたということになる。またこの御触書に続いて「右申渡之次第」として八右衛門を筆頭に個々の罪名とその理由が記述されている。こうした薩摩藩主島津家の記録が他の藩のものと異なったり時期的に早く情報を入手したりしているのは、島津斉興(なりおき)の妹閑姫(しずひめ)が浜田藩主松平周防守康任(やすとう)の子康壽(やすひさ)の正室だったという婚姻関係が背景にあるからと思われる。そのことはこの御触書は「竹島へ渡海一件」の項に記されているが、続いての項は「松平周防守家領没収ノ件」と他藩にはない面の記述もある。この島津家の史料を利用した論文に落合功氏の「「竹島渡海一件」について」(『中央史学』第24号・平成13年3月刊)があるが島津家と松平周防守家の婚姻関係には触れず、また鬱陵島への八右衛門等の渡海は密貿易のためだったとする論考になっている。

『鹿児島県史料』に載る御触書の画像

写真:『鹿児島県史料』に載る御触書

9. 対馬藩宗家文書の御触書

 2010年7月、広島大学での研究会で、知人の研究者が「天保竹嶋一件裁決後の鬱陵島と日本人」と題して研究成果を発表され拝聴した。その折、韓国国史編纂委員会所蔵である対馬藩関係の宗家文書から天保竹島一件の御触書を見つけて許可を受け複写して帰ったことの報告もあった。宗家文書は国立国会図書館、九州国立博物館、東京大学史料編纂所、慶応大学附属図書館、対馬歴史民俗資料館と共に朝鮮総督府から引き継いだ対馬藩主宗家の記録類・古文書・書契・絵画類・印章等約29000点は韓国国史編纂委員会所蔵としてソウルにある。特に公式外交文書である書契は9442点の内2200点が韓国にあるとされている。その宗家文書の中の「倭館」の部に含まれる御触書は過日懇願して私も写真撮影させてもらい所持している。文面の前書きはないがその他は一般のものと同じで「弥相守以来は可成丈遠沖乗不致様乗廻可申候」まで来るが、その後の「右之趣御料は御代官私領は領主地頭より」以後はなくて「右之通公儀より仰せ出でられ候此の旨堅く相守べきもの也」、「天保八年四月日對馬」で終わっている。御触れの日付は到着と地元への布令が他の地域より遅いためか四月となっている。

宗家文書に載る御触書の画像

写真:宗家文書に載る御触書

 

 

3. 島根県内でその後確認した御触書、高札

1. 津和野藩から日原の水津家へ伝達の御触書

 東京の古書店で知人が見つけて購入し、私に寄贈してくれたものである。表紙に「天保八酉年竹嶋渡海停止御触書写三月」とあり、内容は「触」の書き出しでその他は各方面に残っているのと同じ文面である。水津家へは表用人から「支配下之者へ洩れなく触れ知らせるべき」とあり、年寄職の水津家からさらに庄屋の大屋家に、下方人に触れ知らせるべしとの追記がある。

 津和野藩の北側にある日原集落は、中世から石見銀山領の一つ朱色山による鉱山町として栄え、慶安3(1650)年頃からは銀より銅の採掘が中心となった。その指揮者銅師の水津一族はまもなくこの地域の年寄、庄屋、神職等を担い勢力をもった。なお日原は長らく島根県鹿足郡日原町であったが、現在は津和野町と合併し津和野町日原となっている。

津和野藩から日原の水野家への伝達のお触書の画像

写真:津和野藩から日原の水津家への伝達の御触書

2. 石見銀山領大浦湊の年寄職林家の御触書

 現在の島根県大田市五十猛(いそたけ)町大浦に近世船問屋で当地の年寄役を務めた林家がある。その家が残したいわゆる「林家文書」に含まれる「御用留」の中に御触書があった。「林家文書」の多くは現在島根大学に寄贈されている。大浦湊は近くに韓神新羅神社や韓の字をもつ地名が多く、古代に朝鮮半島との関係があったことをうかがわせるし、江戸時代の初期石見銀山代官が隠岐諸島を支配していた時代は大浦湊から松江藩の宇龍、七類を経由して隠岐への航路が盛んに利用された。天保期にも年寄林徳則の尽力で築港事業が進んだ。現存する「石州大浦湊波止図」は天保期の作成である。

林家文書の御触書の画像

写真:石見銀山領大浦湊の年寄職林家の御触書

3. 松江藩神門郡の庄屋高見家の「御用留」に載る御触書

 松江藩の最西端の郡である神門郡の下古志村に江戸時代庄屋を務める高見家があった。元来石見銀山領の土着の小笠原氏を出自としたが小笠原氏が毛利氏に敗れた時、出雲に逃れて住み豪農となった家である。江戸時代には持高百十石で郡役人の組頭、村役人の庄屋を長期にわたって務めている。代々の当主は学問にも熱心だったが、特に文化・文政期の高見長行(ひさゆき)は郡内の海岸に漂着した朝鮮人から諺文(ハングル)を学んだり、発禁とされている林子平の「三国通覧図説附図」を模写して子孫に門外不出として残している。各当主が公文書をきちんと保存し残したので、高見家文書は松江藩の研究に欠かせないものである。この御触書は松江藩家老神谷源五郎、大野舎人、今村修禮、朝日丹波から酉三月廿六日に御用人で郷方藤田林五郎、大野権右衛門、酒井弥三兵衛へ、そして同日最後に神門・飯石郡の郡奉行井上善右衛門に伝えられたこともわかる。

松江藩神戸郡の庄屋高見家の御触書の画像

写真:松江藩神門郡の庄屋高見家の御触書

4. 石見銀山領森家、浜田藩澤津家にあった高札

 昭和46年江津市都治(つち)公民館が刊行した『われらの郷土 都治史伝』の「森氏と古文書」の項に「当家には昔のお触れを書いた高札が保存されている。それは「竹嶋事件禁令の高札」である。横の長さ61cm(上は屋根型)縦30cmの松板であって、代官の命令を庄屋が掲示して一般に公示した。」とある。この比較的最近まで残存していた高札は、江津市教育委員会の文化財の担当者によると現在は所在が不明だということである。都治地区は石見銀山領として大森代官所の支配を受ける時代が長かったが、天明4(1784)年から寛政4(1792)年の間は浜田藩に属した。

 浜田藩の代官所のあった現在の江津市跡市町の庄屋に澤津家という家が存在した。当家に竹島渡海禁止の高札があったことを浜田市在住の郷土史家森須和男氏が記憶されているが、現在は所在が不明である。澤津家には「澤津家文書」と総称される近世を中心とする文献も残されており、「竹島一件聞留書」なるものもある。

庄屋森家に高札があると記す『都治史伝』の画像

写真:庄屋森家に高札があると記す『都治史伝』

 

 

4. その他の御触書

 前回のレポートで「天保雑記」に載る御触書についてふれた。同様のものではその後『甲子夜話』(かっしやわ)の中に御触書を見つけた。平戸藩第9代藩主松浦清(号清山)が自分の62歳の1821年11月17日甲子(きのえね)の夜起稿を始めた江戸後期の政治、経済、外交、風俗、逸話等を随筆としてまとめたものである。関係ある部分はまず「天保七申年十二月廿三日封廻状」として死罪八右衛門、橋本三兵衛、大坂え差遣永牢善兵衛、源蔵のように竹島渡海に関わった30人に下された罪状を、つづいて「天保八年酉三月二日沙汰書」として松原浦無宿八右衛門等竹島え致渡海候一件、吟味取扱候に付として自藩の豊田藤之進が銀七枚、脇田平左衛門が銀三枚を拝受したこと、そして最後に「水野越前守殿(老中水野忠邦)から渡された書状が二月廿一日夕に届いたとして「大目付え」で始まる御触書の文章を書き綴っている。

松浦静山の『甲子夜話』の画像

写真:松浦静山の『甲子夜話』

 

 

おわりに

 2018年5月、江戸時代天草の高浜村で庄屋をつとめていた上田家で保存されていた竹島渡海禁止の御触書を見せてもらった。今回の調査の主目的は明治10年代天草から鬱陵島や現在の竹島へ鮑漁に出かけていた漁師の足跡を調べることであったからその50年余の前には鬱陵島渡海禁止の御触れがあったという一つの島での歴史の流れを痛感させられた。高浜村は種々の特権を与えられた天草の定浦の1つだったからこの御触書は高札に記されて浦のどこかに掲げられていたと思われる。京都の御触書は町触として洛中洛外に掲げることとされている。『甲子夜話』には、平戸藩江戸屋敷に老中水野越前守からの書状として届いている。天保竹島一件の八右衛門の名はまさしく津々浦々に伝えられていたことを実感させられる。今回見つかった薩摩藩島津家のものは天保七年十二月廿三日の日付けが記されており、天保八年二月の全国への布令の前に御触書は準備されていた可能性があり、まだまだこの御触書や高札には調べる余地がのこされているように思われる。

 鳥取藩のものや島根県の高見家文書の御触書は藩から一般庶民まで伝達される過程が確認出来て貴重である。

 

(前竹島問題研究会研究顧問 杉原 隆)


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