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リアンクール号と同じ年竹島、松島を見た隠岐の商人
ー隠岐からの『日本地誌提要』原稿が記す「竹島ノ辨」についてー
はじめに
江戸時代幕府の直轄地で大半の時期が松江藩の預かり地であった隠岐は、明治に入ると当初隠岐県、その後大森県、浜田県と短期間で統治する行政機関が代わった後、明治4年から同9年8月までは鳥取県の支配を受けていた。この時期明治政府が全国に指示したことの一つに、全国の地勢や過去の歴史等の掌握の為に「皇国地誌」の編纂を助ける資料の提出があった。明治政府は当初民部省、文部省、陸軍省でそれぞれ担当する部署に関する内容把握に努めようとしたが、明治5(1872)年9月「皇国地誌編集一切正院に管轄す」という太政官通達により太政官直属の正院地誌課でこの事業が開始された。また同年10月からウィーン万国博覧会に出陳することを目的にする『日本地誌提要』の編纂も始まった。「皇国地誌」は資料収集の遅延や集めた資料の火災による焼失等で、担当した塚本明毅等の努力もむなしく明治17年には事業が打ち切られたが、『日本地誌提要』は完成し、日本国内でも明治7(1874)年から明治12(1879)年にかけて刊行されている。
明治9年8月、隠岐は鳥取県から島根県へ行政権が移動した。隠岐にあった当時の行政文書の多くは島根県へ引き継がれ、現在は島根県公文書センター、島根県立図書館、松江歴史館等に所蔵されている。最近松江歴史館に個人が寄贈された関係文書を閲覧する機会があった。その際、目に止まったものに「地誌提要再調(隠岐国見聞誌抜書)」の「竹島ノ辨」なる部分があった。すでに鳥取県からの引継文書の中に、「明治六年六月地誌提要原稿訂正取調届控」なるものがあり、その一部とみられるが完成した『日本地誌提要』が明治初期の竹島に関する認識の上で参考になると思われるので、以下に紹介してみたい。
1.『日本地誌提要』原稿の「竹島ノ辨」について
「地誌提要再調」の表題で鳥取県隠岐出張所と印刷された用箋に記された文書の中に、知夫郡の波賀島、小波賀島の説明をした部分の後に「〇竹島ノ辨」とした墨字の記録がある。波賀島の説明部分に「此度訂正」とあるからすでに『日本地誌提要』の原稿を提出した後、再調査して提出された文書であることがわかる。「竹島ノ辨」の書き出しは「地誌提要原稿島嶼之註ニ隠岐国ノ島嶼ト為セトモ所見ナシ地図ニ穏地郡福浦港ノ所ヘ竹島ヘノ渡航此地ニテ天気見合トノ事アルニヨリ之レヲ以テ前日答フル所以ナリ」とある。「竹島ノ辨」とは竹島についての説明の意味で「竹島についてはこの前提出した日本地誌提要の原稿では島嶼に関する部分の註で触れて隠岐国の島嶼としたが具体的な所見は付け加えなかった。理由は竹島への渡航は穏地郡福浦から天気の情況で判断してそこから出発すると地図に書かれていることしかわからないからである」という意味であろう。明治11年1月に刊行された『日本地誌提要』卷之五十の「山陰道」、隠岐の島嶼の部に、隠岐の代表的な島嶼である知夫郡の島津島、海士郡の松島、周吉郡の大森島を簡単な説明をつけて紹介し、その後に〇印をつけ、本州の属島すなわち隠岐国の知夫、海士、周吉、穏地郡に属する島の総数を書き、もう一つの〇印の後には「又西北ニ方リテ松島竹島ノ二島アリ土俗相傳テ云フ。穏地郡福浦港ヨリ松島ニ至ル海路凡六拾九里三拾五町。竹島ニ至ル、海路凡百里四町餘。朝鮮ニ至ル海路凡百三拾六里三拾町。」とある。
この〇印の後者の部分については一部の研究者から本州の属島外として書かれているとの見解もあったが、隠岐の担当者が竹島を「隠岐国ノ島嶼」として記載したと証言する以上そちらを正しいとせざるを得ない。また松島ノ辨は記載されていないが穏地郡福浦からの距離は竹島より近いと認識しているから当然松島も隠岐国の島嶼と意識していたはずである。ただ竹島については「福浦ノ土人ニ尋ヌルモ更ニ知ルモノナシ」で「当国ノ所領ト云確證ナシ」とも追記している。そして最後に「たまたま八尾村百十四番屋敷商森忠五郎ナル者先年難風ニ會シ其処ニ赴ヨシニ付尋問ス」として竹島、松島を見た一人の商人からの聞き取りを報告している。
【写真1】『日本地誌提要』(国立国会図書館所蔵)
【写真2】『日本地誌提要』の原稿(松江歴史館所蔵)
【写真3】隠岐の代表島嶼とされた島津島、大森島、松島(伊能忠敬の「大日本沿海輿地全図」中図より)
【写真4】天保9年の「隠岐国絵図」(福浦に竹島への渡海此湊で天気見合わせると書かれている)
2.嘉永二年竹島、松島を見た商人からの聞き取り
隠岐で『日本地誌提要』の原稿を書いた担当者は、竹島、松島を隠岐国の島嶼だとして報告したが、その証拠になるのは恐らくは「隠岐国絵図」であろう絵図しかなかったので、さらに調査を継続していた。そうした折、嘉永2(1849)年8月に竹島に漂着し、帰路松島も見たという商人の存在を知り、急ぎ聞き取りをし、再調査の報告の「竹島ノ辨」に書き込んだものと思われる。
嘉永2年1月27日(この月日は一部の研究者の論文だけが記し、根拠となる資料は不明である)、フランス捕鯨船リアンクール号が松島を発見して同島をリアンクール島と命名したし、2月18日には船籍不明の軍艦が隠岐国知夫郡沖に停泊して6人の船員がボートで上陸、3月7日には穏地郡沖へ1隻、3月23日は同沖へ3隻の大型軍艦、4月8日には穏地郡沖へ1隻の軍艦が現れている。隠岐を幕府からの預かり地とする松江藩は物頭早田彦兵衛を藩士と共に隠岐に向かわせ、大砲も配備する等の警備体制をとった。松江藩江戸屋敷では9月蘭学教授金森建策が緊迫する日本海の情況を「竹島図」とその解説書『竹島図説』を藩主松平斉貴(なりたけ)に提出して理解させようとした。そうした時期に現在の隠岐の島町西郷の商人森忠五郎が竹島に漂着し松島も見ていたのである。
森忠五郎が語ったところによると、「嘉永2年8月21日朝但馬国津居山港から商用を終えて隠岐に帰ろうと水主と2人で出帆した。最初南風であったがだんだん風力が強まり進退不能となった。22日から25日まで5日間西北の方角に漂流していた。26日に風が北風に変わり舟の方角を変えて走らせていると1つの山を発見したが、すでに夕暮れだったので翌27日朝山の北側へ着岸しようとした。しかしそこはそそり立つ岩壁で、舟を繋留不可能だったので東側に廻ってみた。そこには長さ凡そ50間、幅3間余の浜があり滝の落水も見られたのでここに上陸した。周囲には見慣れない樹木が鬱蒼としており異境に来た思いがした。周辺3里ばかりを回ってみると、以前に何人かが燃やした樹木の焼け残りがあったが人家は見当たらなかった。舟に帰り南の方角へ漕ぎ出すと凡そ15里位進んだ所で遥かに小島が見えた。その島は全体が赭色であった。我々は29日隠岐国穏地郡那久(なぐ)村形津久(かたつぐ)という所に帰帆した。漂着した島までは隠岐国から戌亥の方角、里程にして75里位であるが、その島が松島か竹島かはわからない。」とある。森忠五郎については隠岐の島町在住の知人に調査を依頼したところ、当時隠岐国八尾村十四番屋敷、現在隠岐の島町西町八尾の三にあった屋号福島屋という商家の3代目で文政10(1827)年頃生まれ、明治28(1895)年5月28日に没した人物であることが判明した。また慶応4(1868)年3月に作成された「周吉郡矢尾村禅宗門御改証拠帳」によると「森家福島屋」は当主忠五郎が42才で、妻と男児慶次郎、養母の4人家族だった。これらから計算すると漂流して竹島、松島を見たのは忠五郎が20代初期の青年の頃だったということになる。明治10年の西郷中町の「改租絵図面」には八尾の三の地区の土地価格「中の上」に森家が描かれている。別の公文書で元郡長高島士駿の土地と屋敷の売却にあたって調査人の一人として明治17年10月活動していることが確認できるから上記の聞き取りは直接本人の口からの聞き取りであろう。
森忠五郎の長男慶次郎について『西郷町誌下』は、目貫村の海に面する部分に大石燈篭を西郷町の桜井嘉太郎、白潟富八等と発起人となって松江市の交流のある商人達に奉献者になってもらい、明治20年代に建立したことを記している。
なお、森忠五郎等は島後の旧穏地郡那久村形津久に帰帆しているが、海流の関係か江戸時代以降朝鮮本土から島後への漂流はこの周辺への漂着事例は多い。直近では2012年1月に那久へ北朝鮮の漁師が漂着し脱国者ではないかと話題になったし、明治31(1898)年12月には隣接する都万(つま)へ韓国江原道蔚珍の漁師5人が漂着し、鬱陵島島監裴季周が隠岐に駆けつけ救助や隠岐の住民と漂流民の通訳にあたったこともある。
【写真1】森忠五郎の墓(平成29年5月個人撮影)
【写真2】明治10年の「改租繪図面」に載る森家(場所八尾の三)
【写真3】森忠五郎の名が記されている公文書
【写真4】明治12年・郡区市町村編成法施行後の国絵図
おわりに
鳥取県統治時代の隠岐で書かれた『日本地誌提要』の2回目の原稿を見る機会があり、関心をもった「竹島ノ辨」の部分を今回紹介した。そこでは竹島(鬱陵島)を確証はないとしながらも隠岐の島嶼として取り扱っていた。先年私が別のレポートで紹介した隠岐県大参事だった藤茂親が明治4年5月に提出した「竹島航行漁猟願」に「去巳年隠岐県奉職中御用間漁民父老之徒相招キ竹島地方且海岸等篤ト訊問仕候処、自古日本島ト云伝エ朝鮮漁民共モ亦日本竹島ト申ヨシ」と同じ認識を記しているので、当時の隠岐の人々の共通した竹島に対する理解であったと思われる。また竹島、松島に関する聞き取りとしてフランスの捕鯨船リアンクール号が松島をリアンクール島と命名した数か月後の嘉永2年8月に同島を望見した隠岐の商人の事例を今回紹介したが、この事例は江戸初期米子の町人大谷、村川家に雇われて70年余りの間竹島、松島に渡航していた因幡や隠岐の漁師の名前で、寛文6(1666)年の帰国時に朝鮮に漂着した小路村の太郎右衛門、小作、五郎作、五助、彦七と北方村の作助、次郎左衛門、甚七九郎助、天保竹島一件の八右衛門とその関係者の名しか文献に見当たらない現在、その後江戸時代に渡航した人がいることが確認出来た貴重な資料である。
『日本地誌提要』の竹島は、イギリスとフランスで島の位置が異なる測量値となったことでアルゴノート島(竹島)とダジュレー島(松島)の2つの島名で呼ばれた時の史実は反映していないし、日本で竹島が竹島又は松島、竹島一名松島と記録される時期も直後にあるが松島と共に竹島で紹介されている。竹島はその後朝鮮の鬱陵島、大韓民国江原道の鬱陵島(ウルルンド)となって現在に至ることは衆知のことであるが、明治初期隠岐から鬱陵島に渡り、代々同島で生活し、1945年日本の太平洋戦争敗北で隠岐へ帰島した方から聞き取りをさせてもらうと、鬱陵島の島名を竹島として語られることが共通していることに驚かされる。かって松島、リアンクール島と呼ばれた島に明治38年竹島の呼称が与えられ、各種の水路誌を始めとして鬱陵島は松島と記されているが、隠岐の人達の意識には隠岐とつながって悠久の歴史を刻んだ鬱陵島は竹島であり続けている。
参考文献
・『日本地誌提要』(国立国会図書館)
・「日本地誌提要再調原稿」(松江歴史館)
・「明治十年十月西郷西町改租繪図面」(隠岐の島町図書館)
(前島根県竹島問題研究顧問 杉原 隆)
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