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詩人宮田隆氏所蔵の竹島関係資料
はじめに
平成30年4月12日私が島根県竹島資料室に居ると、一人の男性がかなりの分量の文書を抱えて来室された。対応した女性スタッフとその男性との会話を聞いていると自分の父親宮田隆が集めていた竹島関係の文書類を資料室に寄贈したいという趣旨の申し出であることがわかった。
宮田隆氏は島根県庁の職員であると共に有名な詩人であった。特に昭和39年に日本で開催されたいわゆる東京オリンピックの時に宮田氏が作詞されて歌手三波春夫さんが唄った「一、ハアー あの日ローマで ながめた月が ソレ トトントネ きょうは都の 空照らす ア チ ョイトネ 四年たったら また会いましょと かたい約束 夢じゃない ヨイショコーリャ 夢じゃない オリンピックの 顔と顔 ソレ トトント トトント 顔と顔」の歌詞で始まる「東京五輪音頭」は、全国的に知られ多くの人が口づさんだものである。別に宮田氏が作詞されこちらも三波春夫さんが唄った曲に「海商一代」という「一、ゆらぐ灯明 に かしわ手打てば あすは船出の 血がさわぐ 海の勝負に いのちをかけた 姓は会津屋 名は八右衛門 親爺ゆずりの 男の男」の天保竹島一件を題材にしたものもある。その宮田氏が所蔵されていた竹島関係資料を所持されており、今回島根県に寄贈したいと申し出ておられるのは自らも島根県庁にご勤務されすでに退職されたという宮田隆の長男宮田洋氏であった。
写真1、宮田隆氏(自著『ふるさとに歌う』に掲載)
写真2、宮田隆作詞の曲を数多く歌った歌手三波春夫氏(『ふるさとに歌う』に掲載)
1.隠岐と宮田隆氏
宮田隆氏は昭和41(1966)年に『ふるさとに歌う』という著書を刊行され、その中で自分の生い立ちも簡単にふれられているが、それによると大正2(1913)年12月16日に島根県隠岐の島海士村で小学校長宮田沢四郎の四男として誕生されている。その後沢四郎氏が現在の隠岐の島町にある西郷小学校長に転勤されると、家族全員も西郷に転居され隆氏も大正8年西郷小学校に入学、大正15年卒業されている。その後成長すると島根師範学校に入学して松江で3ケ年間を過ごされたが肺結核を病まれたため、家族の居る隠岐に帰り治療に専念され、完治すると隠岐にあった県立商船水産学校製造科に編入学し昭和8年3月卒業されている。同校在学中の思い出を氏は『隠岐水産高校創立60年誌』、『同70年誌』に寄稿されているが、その中に友人として韓国から留学していた李壬道、池山萬氏のことに触れている。「李君はおとなしく、知性派で勉学もすぐれ、北大へ進んで要職につき、戦後の一時期駐日韓国部の一員として東京に来ていたが、同君とは何事につけても心を割って話しもし休みの日などにはよく私の家へ来て過ごしたりもした。」、「池君は体格も堂々としており、ロシアのコサックダンスを得意とし、時折りやってみせたものだ。」等と述懐している。李壬道については藤井賢二氏が最近刊行された『竹島問題の起原』にも紹介され、第2、3次日韓会談の韓国側代表の一人であったことがわかる。池山萬は昭和50年5月隠岐水産高校同窓会の蹴浪会が作成された『会員名簿』では大韓民国釜山地方海務庁勤務となっている。なお名前の山萬は『会員名簿』では山万と萬の字が略字体になっている。李氏、池氏は漁撈科に所属したが、この科では毎年3日間、竹島での漁猟実習があったことが昭和8年作成の「島根県立商船水産学校要覧」の実習予定表でわかる。またこの漁撈科と宮田隆氏の製造科、その他にあった航海科生の全員は3年生時、朝鮮東海岸の浦項、注文津、元山等主な漁港を旅行しているが、その最後には鬱陵島、竹島にも立ち寄る日程が組まれていた。「松陽新報」は、昭和10年7月26日からの紙面で11回にわたってその旅行に同行して「日本海を往く島根商水校鵬丸から」と題して生徒達の行動を報告している。宮田氏等も昭和7年夏にこの旅行を体験されたと推測される。
宮田家は西郷小学校長の沢四郎氏が昭和6年退職されるとその後もしばらく隠岐に留まった後、松江に移り本籍も松江とされている。宮田隆氏は自分の出身地を問われた時「時と場合によっては手取り早く隠岐人になったり、松江人になることにしています。」と著書に書かれている。
写真1、宮田隆卒業の島根県立商船水産学校
(現在の隠岐の島町東郷、隠岐水産高校の場所)
写真2、「山陰新聞」に載る親友韓国人李壬道氏の寄稿(昭和29年1月4日付掲載)
写真3、西郷小学校の校長を務めた父宮田沢四郎氏(西郷小学校提供)
2.詩人としての宮田隆氏
宮田隆氏は幼い時から詩を創るのが好きだったという。『ふるさとに歌う』には小学校3年生の時文部省の児童詩選集に掲載された「かさ」という詩を載せておられる。宮田氏の詩作をさらに熱中させたのは島根県立商船水産学校に在学していた時、詩人西城八十氏が「民謡の旅」いう朝日新聞の連載の取材に隠岐を訪れ父沢四郎氏が案内役を務め隆氏とも個人的な交流が生まれ、西城八十が主宰する詩謡雑誌「蝋人形」に投稿するようになったことが起因となった。そして昭和7年商船水産学校在学中19歳の時松江市郊外の温泉地から公募され作詞した「玉造小唄」」が1等賞となり宮田隆の名は世に知られるようになった。宮田は県立商船水産学校を卒業すると兵庫県職員となり水産試験場に勤務した。この時期地元の詩誌『神戸詩人』で研鑽をつみ、作詞に専念した「神戸みなと祭りの歌」は古賀政男の作曲によりティチクレコードから売り出され当時のヒット曲となっている。まもなく戦争が勃発するとフィリッピンや中国の戦地に応召し終戦後も1年余の捕虜生活等で詩作は中断したがその後島根県職員になり新しい生活基盤ができると詩誌『山陰詩人』等に詩を発表をした。
詩人田村のり子氏が昭和47年刊行された『出雲石見詩史五十年』には宮田隆の評価として「宮田詩に対する評価として一般にいわれているところは、破綻のない端正さということで、それはきれいすぎる美女のように非個性的だという褒貶二重の意味をもっている。片手で万人の共感を求める歌謡を書き、他の片手で最も個性的な詩作に精進しようとする詩人の共通の長所と欠点であろうが、近来、甘さが後退しきびしさが出てきたと評されるようになった。」と書かれている。この時期宮田は県民歌や校歌の作詞も数多く依頼されており、島根県民の歌「青い空なら」や「島根県立隠岐高校校歌」、母校である「西郷小学校校歌」もその中にある。両校の校歌は現在も歌い続けられている。彼が卒業した県立商船水産学校の歴史を受け継ぐ現在の県立隠岐水産高校には校歌ではないが体育祭等の学校行事の時今も歌われる「水産歌」は彼の作詞である。
写真1、宮田隆氏の著書『ふるさとに歌う』(島根県立図書館所蔵)
写真2、宮田隆作詞の「隠岐高等学校々歌」(『隠岐高等学校百年史』掲載)
3.詩人宮田隆氏所蔵の竹島関係資料
今回ご寄贈いただいた宮田隆氏所蔵の竹島関係資料は17点である。記されている表題に沿って列挙し、簡単に内容を解説しておきたい。
1.「因幡国鳥取藩主池田家文書」
鳥取藩主池田家に残っていた文書のなかで、享保9年幕府から質問を受け回答した部分を中心に抜粋している。鳥取県立図書館所蔵の原本を島根県庁職員で竹島問題の調査をまかされていた田村清三郎氏が浄写し、ガリ版印刷したもの。
2.「因幡国鳥取藩主池田家文書」
1とほぼ同じ内容の部分のガリ版刷であるが、活字が大きく、享保9年池田家が幕府に提出した「竹嶋図」の複写も末尾に掲載されている。
3.「伯耆志抄」
鳥取県立図書館の「伯耆志」から田村氏が抜粋してガリ版刷りにされたと思われるものである。
内容は現在の鳥取県境港市の医師で儒者であった景山粛(1774~1862)が伯耆地方の地誌をまとめたものから田村氏が大谷、村川家関係のことを抜き出しガリ版刷にしたもので、地域としては会見、日野郡部分が中心に書かれている。
4.「竹島に関する七箇條返答書」
現在の隠岐の島町布施の長田和加次氏が所蔵されていた文書を『島根県史』編纂時に県の担当者が写し、それを昭和29年田村氏が再写されたことがわかるもの。内容は享保九年に八代将軍徳川吉宗から鳥取藩に送られた質問について、大谷、村川家が竹島渡海を経験した水主に尋ねて作成した七つの回答。
5.『長生竹島記』
原書の存在は現在も不明であるが、雲南市三刀屋町の竹内家が写本を所蔵され、『島根県史』編集時に担当者が写し、それを田村氏がさらに写しガリ版刷したもの。
内容は出雲大社の漁師が隠岐で板屋の屋号を名乗る漁師から竹島(鬱陵島)や松島(現在の竹島)へ渡航した時の逸話を聞き、大社に帰って神職の矢田高当に伝えた伝聞書である。その中にあべんてふ(安龍福)や虎へひ(朴於屯)を福浦まで連行したこと等貴重な体験談もあるが、作り話と思われる部分もあり一級資料とは評価されていない。
6.『竹島渡海由来記抜書控』
隠岐の長田家所蔵の原本を『島根県史』編集の担当者が写し、それを田村氏が昭和28年再写ガリ版刷したもの。内容は大谷家の元祖勝宗から四代勝房までの竹島渡海に関する行動等の抜書。
7.『竹島に関する七箇条返答書』
4.と同じ内容だが文面等に若干の相違がある。
8.『朝鮮竹島渡航始末記全』
浜田市立図書館所蔵のものを『島根県史』の編集担当者が大正3年写し、さらに昭和28年田村氏が筆写、ガリ版刷したもの。内容は天保竹島一件の八右衛門に関する出来事を庶民向けの読み物にしたと考えるもの。
9.『自明治三十八年願書並指令自明治38起竹島漁猟合資会社』
中井家所蔵の竹島漁猟合資会社から各方面に提出した願書類を田村氏が抜粋して写し、ガリ版刷したもの。
10.『従明治参拾八年行政諸官庁往復雑書類竹島漁猟合資会社』
竹島漁猟合資会社から島根県庁、隠岐支庁等への提出及びその回答文書を田村氏が抜粋、写筆、ガリ版刷したもの。
11.『明治三拾八年度計算書竹島漁猟合資会社』
中井家所蔵の文書の内、竹島漁猟会社の収入、支出等を田村氏が抜粋、写筆、ガリ版刷したもの。「当居都中井甚二郎氏文書の三」とも書かれている。
12.『竹島漁猟合資会社営業成績略明治三十八年分』
中井家所蔵の文書から田村氏が抜粋、写筆、ガリ版刷したもの。
13.『明治三十九年度計算書竹島漁猟合資会社』
中井家所蔵の文書から田村氏が抜粋、写筆、ガリ版刷したもの。
14.『明治四十四年生産品勘定帳竹島漁猟合資会社』
中井家所蔵の文書から田村氏が抜粋、写筆、ガリ版刷したもの。「東京都中井甚二郎氏文書の第五」とも書かれている。
15.『観聴随筆抜書』
江戸時代石見銀山領にあった波根東村(現在は大田市)の庄屋加藤家が地元の出来事を中心に日記風に書き残した文書。享保期に周辺に住む人達が竹島(鬱陵島)に渡海した疑いで、大坂町奉行所の捕り手に捕縛された事件があり、その部分が抜書されている。なお『観聴随筆』には異本が別にあり、そちらには石東地方で外国船との抜け荷事件が発生しての騒動となっている。
16.『竹島及鬱陵島』
明治39年島根県の調査団の一員だった八束郡秋鹿村(現在は松江市の一部)尋常高等小学校長奥原福市(号碧雲)が竹島、鬱陵島の現況をまとめた小冊子を抜粋、写筆したもの。
17.『台徳院殿御実紀(二代将軍秀忠)』
『徳川実紀』といわれる江戸時代の各将軍の時代の歴史をまとめたものの内、二代秀忠の時代の記録60巻から大谷、村川家の竹島渡海と関連する部分の抜書。田村清三郎氏が残したいわゆる『田村資料』には含まれていない。
写真1、宮田氏が所蔵していたガリ版刷「田村資料」の一部
(島根県竹島資料室所蔵宮田洋氏の寄贈)
写真2、田村清三郎氏が利用した『島根県史』編纂用資料(島根県立図書館所蔵)
おわりに
詩人宮田隆氏が保存していた竹島関係の資料のほとんどは田村清三郎氏によって収集、写筆、ガリ版刷にされていたものだった。戦前島根県立商船水産学校に学び、直接間接に竹島、鬱陵島に関する知識を持っていて昭和30(1955)年島根県庁総務部広報文書課嘱託に採用されて以来県庁職員であった宮田と、京都大学法学部卒で満州国官吏から戦後島根県庁に入り、総務部広報文書課で昭和26(1951)年から竹島問題等の調査を担当していた田村清三郎氏とは少なくとも5ケ年は同じ課の同僚であり、特別の交流があったことは推測される。宮田氏所蔵の田村資料には田村氏が自ら渡した事を示すように雅号の「則鳴」と刻んだ印鑑が押されている。則鳴とは中国の詩人韓退之の詩の一部「物不得其平則鳴」から不平を意味することを田村氏の妻で著名な詩人である田村のり子氏は詩集『連作詩竹島』の「ここだけの話」に書かれている。
田村氏は昭和29年には早くも総務課から『島根県竹島の研究』を出版した。その後田村氏は昭和40年一部書き替えたり、新しい資料を加えて『島根県竹島の新研究』も個人の責任で刊行している。昭和26年サンフランシスコ平和条約で敗戦国日本の国際社会への復帰、昭和27年大韓民国による李承晩ラインの設定、昭和28年海上保安庁巡視船「へくら」の被弾等の緊迫した時に竹島を所管する島根県には竹島の歴史と現実を県民に知らせる責務があることを田村氏は意識されていたと思われる。
隠岐で育ち竹島についても県立商船学校で多くのことを学んでいた宮田氏も当時そのことを意識していたと思われ、所蔵資料には同僚の田村氏が昭和28年、29年集めた資料とわかるものもある。
また宮田氏は前記の田村のり子氏とは詩を通じての同志であった。その田村のり子氏が著書『出雲石見地方詩史五十年』の末尾に早世された夫清三郎氏のことを「師であり、夫であった人・旧淞高詩話会員・故田村清三郎」とされているのを見ると田村清三郎氏も詩を愛する人物で詩人宮田隆を詩と竹島を強く意識して生きている身近な島根県庁の同僚として接していたと思われる。また膨大な時間と労力をかけて資料を収集し、それをコツコツとガリ判用紙に刻み資料の確認もされて、印刷、閉じ込んで小冊子が完成すると宮田隆さんを始め竹島問題に関心を持つ人達に自ら手渡される田村清三郎氏の姿を想像すると氏の存在の大きさがあらためてしのばれる。
写真1、田村清三郎氏がまとめ、島根県庁総務課から刊行された『島根県竹島の研究』(島根県立図書館所蔵)
写真2、田村のり子氏の著書『出雲石見地方詩史五十年』(島根県立図書館所蔵)
参考文献
宮田隆『ふるさとに歌う』(島根出版文化協会昭和41年刊)
田村のり子『出雲石見地方詩史五十年』(報光社昭和47年刊)
『創立六十周年記念誌』(隠岐水産高校昭和42年刊)
『創立七十周年誌』(隠岐水産高校昭和52年刊)
(前島根県竹島問題研究顧問 杉原隆)
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