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明治4年提出の二つの「竹島(鬱陵島)渡海願」
はじめに
幕末から明治初期にかけて現在の鬱陵島への渡海願が複数幕府や明治政府や居住する府県へ提出された。具体的には万延元(1860)年長州の桂小五郎、村田蔵六が幕府に「竹島開拓建言書草案」を提出したし、明治9(1876)年7月青森県人武藤平学が「松島開拓之儀」を外務省に、同年12月千葉県人斎藤七郎兵衛が「松島開拓願」を、翌10年1月には島根県士族戸田敬義が東京府に「竹島渡海之願」を提出した。これらは全て却下されているが、戸田敬義のものは自分が浜田の今津(会津)屋八右衛門の天保竹島一件に関する書物を持参していることを記したり、添付資料に八右衛門が書いた「竹島之図」を用いていることや明治新政府の小笠原諸島開墾の動向に影響を受けたと述べていることから出願の理由等が判明している。
同様にその願は却下されているが、明治4年島根県に関わる人物が「竹島(鬱陵島)渡海願」と呼んで良いものを提出している事例2つが存在することに気づいたので報告してみたい。
1.隠岐・大森・浜田県大参事藤原茂親(藤茂親)の「竹嶋航行漁猟願書」
福岡藩士族で「浜田県官員履歴」に「明治二年任隠岐県大参事、二年八月四日任大森県大参事、三年一月任浜田県大参事、三年六月十三日免本官、福岡藩士族、旧称四郎年齢失ス」と記載されている人物に藤原茂親、別称藤(ふじ)茂親、又は藤(ふじ)四郎なる人物がいる。
現在の島根県は明治4(1871)年の廃藩置県までは松江藩、その支藩の広瀬藩と母里藩、石見地方に浜田藩、津和野藩、幕府の天領石見銀山領、幕府から松江藩が預かる隠岐国があった。その内幕府関係の土地だけが明治2年2月に隠岐県となり、同年中に当初裁判所と呼ばれ、その後庁舎と呼ばれる役所が大森、浜田に移動しその都度大森県、浜田県と改称された。この時期の3県の行政のトップである権知事は共に久留米藩士族真木直人であり、「浜田県職制」に「知事ヲ輔シ、県内庶事ヲ判断シ、尤民政ヲ専務シ、聴訟断獄ノ亊ヲ主裁ス」とある参事の職に藤原茂親が就任していた。
(1)藤原茂親の履歴
藤原茂親は文政10(1827)年生まれの福岡の士族であるが勤王派として幕末には長州へ脱藩し高杉晋作等と行動を共にし、一時期は高杉の奇兵隊にも所属した。慶応元(1865)年には流罪になっていた勤王派の女傑として知られる福岡の野村望東尼(ぼうとうに)を流罪先の姫島から救助し三田尻(現山口県防府市)で匿まったり、中岡慎太郎の指示で三条実美等五卿を三田尻から太宰府に護送する大役を務めたり、佐幕派の巨魁藤井五八郎を対馬に乗り込み暗殺する等行動派の志士であった。大正4(1915)年11月の大正御大典に際して史上の功臣300余名に贈位が行われた時には、従五位が贈られたことが『贈位功臣言行録』(大正5年4月刊)に載っている。明治2年正月、長州から太政官に召され京都府大属となり、同年中に前記のように隠岐県大参事、大森県大参事、浜田県大参事を務めることになった。彼は明治3年6月に浜田県大参事の職を辞して福岡に帰っている。現在の島根県での大参事としての活躍については田村清三郎氏がその著『明治初年の県政ー100年前の島根・浜田両県ー』で紹介されている。また田村氏は『島根県竹島の新研究』で「明治維新後、松島、竹島の開拓を献議するものが多く、隠岐県大参事であった福岡県士族藤原茂親(通称藤四郎)は明治四年、東京府に対し竹島開拓の願を出したが、許容されるところとならず」とし、浜田市の郷土史家児島俊平氏もその著『山陰地方漁業史話』で鬱陵島渡海願を出した人物として藤原茂親も紹介され、提出先は日本政府とされている。お二人とも願書の内容には触れておられないので、今回東京都公文書館と国立公文書館で調べた結果、願書の正本、副本の2種類が国立公文書館所蔵の『公文録』の中に残存していることがわかった。
(2)藤原(藤)茂親の「竹嶋航行漁猟願」について
藤原茂親は藤茂親の名前で、明治4年5月福岡藩庁に「竹嶋航行漁猟願書」を提出した。願書の冒頭は「私儀去巳年隠岐県奉職中御用間漁民父老ノ徒相招キ竹嶋地方且海岸等篤ト尋問仕候」と明治2(己巳)年隠岐県大参事の時、地元漁民の古老達から竹島(鬱陵島)のことを聞き関心を持ったこと、明治3年浜田県大参事時代「以自力私財従者大庭善五ト申者ヲ彼嶋ニ差遣シ」と石見地方に多い大庭姓の者を島に派遣してみると、「人跡無之周廻十七八里東南ノ方風波平穏山低ク草木繁茂澗渓流出シ(中略)極便利ノ場所ニシテ人民ヲ植付ルニヨロシ蓋僅々ノ孤嶋無数品類夥シク今是ヲ開墾セハ米穀蔬菜ハ勿論材炭魚塩ノ利無比」と人の住める自然環境で、開墾すれば利益必至の島である。今後「風浪平穏ノウチ再度検査ノタメ以自力凡七拾名航行仕ラセ候若夫開墾ノ儀ハ他日試験能行届候」とする積りだが、まず「上宜下手先不取敢島嶼試験漁猟等ノ儀只管奉懇願候」とまず試験漁猟を願い出ている。この願を福岡藩は太政官の事務取扱役の辧官宛てに「當藩士藤茂親ヨリ別紙ノ通及嘆願候條御差支無之儀ニ候ハヽ素願ノ通被仰付度此段奉伺候」として辛未(明治4年)5月19日付で提出した。
(3)竹嶋(鬱陵島)を「小磯竹又松嶋ト称ス」と記した「竹嶋再検届」について
藤原茂親はさらに同年6月にこの年渡航させた同志の者が語ったことを、「竹嶋再検届」として福岡藩庁に提出している。そこには「人家更ニ無之且物産不少」、「折節朝鮮人上陸シ造舩イタシ候故應接イタシ候處彼者共2月ニ渡海シ舩艦製造ヲ済シ5月ニ帰帆イタシ曽テ永住セントノ以為ナシ」と朝鮮人の来島等の具体的情況を追加報告している。
この報告書に竹嶋について「此島皇国ニテ小磯竹又松嶋ト称スルヲ朝鮮ニテ欝嶋ト唱ヨシ但小磯嶋ト隠岐トノ中間ニ巨岩二ツ並へルヲ松嶋ト云説アリ恐ラクハ誤リナラン」の記載があり注目される。すなわち明治4年時に鬱陵島を「竹嶋とか磯竹島とか松嶋」と呼ぶという認識があったのであり、明治初期この海域に竹島(アルゴノート島)と松島(ダジュレー島)があるとしたヨーロッパの地図に表現されている知識が磯竹島の呼称も含めて一つの島であるとさらに進んだ知識になっていることがわかる。
また鬱陵島と隠岐の間の二つの巨岩の島を松島というのは誤りと藤原茂親は考えていのであり、すでに江戸時代の松島(現在の竹島)でなくこの時期の松島は鬱陵島を指していたのである。この「竹嶋再検届」も明治4年6月22日付で福岡藩から「山陰道近傍竹島遂再検候趣別紙ノ通當藩士族藤茂親ヨリ藩庁ヘ届出候條別紙相添此段御届仕候」として辧官に提出されている。
(4)民部省の裁決
この藤原茂親の願書は民部省で検討され明治4年7月2日付で裁決され、辧官に伝えられている。民部省は明治初期にあった民政担当の中央官庁で、明治2(1869)年7月の「職員令」により設置され、翌月には民政と財政の合体を主張する大隅重信により大蔵省と合併した。しかしこれには反対意見が続出して翌明治3年7月大蔵省と分離し、明治4年7月には民部省も廃止されている。今回入手した資料は『公文録福岡藩之部』に含まれ、「太政官公文」の用箋に記載されている。民部省の裁決は、その後内務省が明治9年島根県に竹島の地籍を問い、島根県参事境二郎が明治9年10月16日付で「日本海内竹島外一島地籍編纂方伺」として伺の形式で「山陰一帯ノ西部ニ貫附スヘキ哉相見候」と回答し、翌明治10年4月9日太政右大臣岩倉具視が統轄する太政官からいわゆる「太政官指令」の「書面竹島外一嶋之儀は本邦関係無之儀ト可相心得事」なる指令が発せられるより前の政府の竹島についての認識を示す可能性のあるものであり重要と思われるので以下に全文を記してみる。
「福岡藩士藤茂親ヨリ竹嶋航行漁猟願致勘弁候處願文ニハ云々日本嶋ノ様申立候ヘ共傳聞已而確證無之一体右嶋嶼ノ位置ハ本朝ト朝鮮ノ間ニ在テ従来版圖不分明ニ付往々両國間議論モ有之土地ノ趣ニ付假令試験ニモセヨ本朝人恣ニ漁猟等イタシ候テハ夫カ為葛藤ヲ生シ小事ヨリシテ如何様ノ難事引起シ可申哉モ難量候間版圖確定有之迄ハ御聞届不相成方可然仍テ御下知按相添別紙返進此段申進候也
辛未七月二日
民部省」
この裁決文からは、竹島(鬱陵島)の所属が日本か朝鮮か不明として、その確定の必要が述べられ、その後の明治政府が行うべき動向にもつながる方向を示していると読み取れる。
(5)島根県参事境二郎の藤原茂親に関する福岡県への問い合わせについて
前記した田村清三郎氏の『明治初年の県政』を読んでいて私は思いがけない事実を知った。明治9年に島根県参事境二郎が藤原茂親について、福岡県に問い合わせをしていたことである。境二郎について、私は島根県Web竹島研究所のホームページに「島根県令境二郎(斎藤栄蔵)について」(2010.05.12掲載)と題するレポートを発表したことがある。彼は長州藩士でもと斎藤姓だったが境家の養子となり境二郎と名乗った。松下村塾で吉田松陰に学んでいるが、特筆すべき勉強家と松陰の「吉日録」に書かれている。安政5(1858)年の桂小五郎、久坂玄瑞宛ての松陰の書簡には、高杉晋作、斎藤栄蔵が上京するので面倒を見てやって欲しいとある。明治維新後官吏となり犬上県(現在の滋賀県)にしばらく居たが、明治5年島根県の官吏となっている。そして島根県公文書センターに所蔵される『明治四~八年縣治要領庶務部』に明治7年11月13日島根県参事に任ぜられたとある。さらに境二郎は同じ長州の佐藤信寛の後任として明治14年参事から県令に昇格し明治17年までその職にあった。その境二郎が明治9年中央政府の内務省から竹島の地籍を問われ、「日本海内竹島外一島地籍編纂方伺」と伺の形で「山陰一帯ノ西部ニ貫附スヘキ哉ニ相見候ニ付テハ本県国図ニ記載シ地籍ニ編入スル等之儀ハ如何」と回答したことは前述したとおりである。この年の4月藤原茂親が大参事を務めた浜田県は境二郎が参事の島根県に併合されている。前述のように藤原茂親は高杉晋作の騎兵隊に所属した人物であり、境二郎は松下村塾で高杉晋作とは学友で、一緒に江戸に遊学した関係がある。藤原と境の二人は同時期ではないが隣県の同じ職の参事を務めた同士でもある。
竹島の地籍を内務省から問われた境二郎は山陰西部の浜田から藤原茂親が大庭善五を明治3年竹島に派遣したこと、翌4年藤原茂親が「竹嶋航行漁猟願」を提出したことも知っており、いくつか確認したいことがあり福岡県へ問い合わせをした可能性がある。田村氏の著書には境参事からの照会に対する福岡県令渡辺清からの回答がくわしく記されている。なお島根県立図書館所蔵の『浜田県官員履歴』にも原文の写しが載っている。
「藤四郎儀ハ明治七年病死致シ、遺族ハ本年六月ヨリ滋賀県下ニ寄留、確ト相分リ兼候得共親族ヨリ申出候儘ヲ以テ取調置候」に始まる回答書からは藤原茂親の現況や履歴についての問い合わせであって竹島に関する内容等は含まれていないようである。なお福岡県令渡辺清からの回答は明治9年12月23日付であり、境二郎の内務省への伺書は同年10月16日付だから直接問い合わせたことが伺書には反映してはいないことになる。ただ藤原茂親のことについて問い合わせをしていることは、境二郎が彼について十分認識していたと思われ、明治4年の『竹嶋航行漁猟願』の竹島と松島が同じ島の呼称であることは知っており、明治9年の「日本海内竹島外一島地籍編纂方伺」に影響を与えている可能性は十分考えられる。境二郎の問い合わせ事項と問い合わせの期日を確認したいが、島根県の行政文書には見出せないし、福岡県立図書館や福岡共同公文書館に照会して調査頂いたが目下見つかっていない。
【写真1】藤原茂親について記載がある『公文録』(副本)(国立公文書館蔵)
【写真2】「竹嶋航行漁猟願」(正本)(『公文録』)
【写真3】「竹嶋は小磯竹又松嶋と称す」と記す「竹嶋再検届」(正本)(『公文録』)
【写真4】島根県参事境二郎への福岡県の回答(島根県立図書館所蔵)
2.浜田県今浦の住民の「御願申上候事」について
知人が東京都立川市の国文学研究資料館にあった文献であると、表紙に『海産起業願ー竹島関係』と墨書された資料を届けてくださった。この文献は、明治12(1879)年7月内務卿伊藤博文に宛てて東京府の佐竹義修(よしなお)、内藤信美(のぶとみ)、間部詮道(あきみち)、大阪の深見信治の4人の名で提出しようとした願書であるが、実質的には明治4年3月から数回竹島(鬱陵島)へ渡海した浜田県邇摩郡今浦の佐々木素次郎、村上熊吾等今浦の住民が同年浜田県へ提出した「御願申上候事」を実現させようとしたものである。
今浦は現在の島根県大田市温泉津町に所属する浦で、明治初期には福光村の8浦の1つであり、明治17年の「島根県統計書」によると、この浦は当時戸数90戸、住民564人、浦の漁船数73隻が存在した。浜田県は明治14年那賀郡浅井村(現在の浜田市浅井町)の大屋兼助外一名が鬱陵島への「松島開墾願」を提出しているが、隣接する邇摩郡では、それに先んじて10年も前に同じ島へ渡航して島の海産物で事業を開始しようとした住民がいたのである。
(1)「海産起業願」の概要
海産起業願を内務卿伊藤博文に明治12年に提出しようとしたのは旧秋田藩主佐竹家の第31代当主従四位佐竹義修、越後村上藩最後の藩主従五位内藤信美、越前鯖江藩最後の藩主従五位間部詮道と大坂府下栗区豊後町の深見信治なる人物の4人であった。なお鯖江藩の間部(まなべ)家は幕末に藩主詮勝(あきかつ)が大老井伊直弼に直属する老中首座を務め、日米通商条約等を独断で決定したとして長州の吉田松陰が暗殺すべき人物としたことでも有名である。「海産起業願」に関する資料は全て「大坂興農社支店」と記された便箋用紙に記されており、大坂の深見という人物が主導して事業が計画されていたと思われる。
「海産起業願」の概要は、中国人は蚫(あわび)、海鼠(なまこ)、鯣(するめ)等の海産物を好み、これらを製品として香港等へ輸出すれば莫大な利益が上がることは明白である。ただ日本近海ではその漁獲数が漸減しているし形も小さくなっており、遠海での漁撈が必要である。たまたま旧石見国邇摩郡今浦の佐々木素次郎、村上熊吾が発奮して温泉津の真北五拾里余り沖合にある無名の数島で海産物を得ようと決意した。明治4年3月浜田県庁へ届け出をしたうえ、それらの島にへ直行しようとしたが小舟であったので隠岐島へ流された。そこから西北の方角に向かうと目指す島に到達した。その島は「樹木深茂シ鳥跡獣蹄巌角ニ満テ」、「居人ナク」、「岩礁ニハ蚫、海鼠生スル事未タ曾テ近海ノ北スベキアラザルナリ」、「飛瀑流泉四方ニ噴選シテ察スルニ島ノ中部ニ當リ一ノ湖水アルベシト思考セリ」という情況であった。彼等はその後も数回渡島し、海産物を採取し持ち帰ろうとしたが航海に時間を要し腐敗することが多く、やむなく島の一角を開拓して蚫、鯣を中心に島で加工し温泉津に回漕する方法を考えた。ただすでに費やした多大の出費から破産状態になり、私共に支援を申し出てきた。私共は我が国の版図内の島嶼が棄て地になったり、国家の大益になることが確実な事業を見捨てることは出来ず同盟結社を設け、島に海産製造所を建設したいと考えている。その島嶼が何県に属するかも認知していないが関係する書類を添付するので起業の許可をお願いしたいとある。
(2)添付された書類について
ア.今浦の住民から浜田県への「御願申上候事」
海産起業願には複数の書類が添付されていた。まず明治4年3月に邇摩郡今浦の「頭百姓佐々木素次郎、親類村上熊吾」の名で浜田県生産御会所に提出された「御願申上候事」と表示された文書がある。
内容は自分達は四五拾里沖へ漂流した時、複数の島を発見し、その周囲に魚、烏賊、海鼠等の豊富なことを知った。これらの海産物を最寄りの島へ水揚げし乾燥させる等して売れば国産の一品にもなると考える。またそれらの海産物は長崎鍛冶屋町石井屋儀兵衛が捌いたり運送することを引き受けてくれる手筈になっている。このように誠実な稼業なので許可をお願いしたいというものである。またこの願書の末尾には、今浦の庄屋川嶋甚七が会所へ取り次いだと署名捺印をしている。邇摩郡は当初大森県に属したが、明治4年に浜田県に加入しその浜田県は明治9年4月に島根県に統合されている。浜田県時代の行政文書は『浜田県歴史資料』として島根県立図書館に保存されるし、浜田県の島根県への統合時の行政文書は『浜田県引継文書』として島根県公文書センターが所蔵するが、目下「御願申上候事」なる文書は発見できない。
イ.2枚の地図
添付書類の中には2種類の地図もある。1枚は佐々木素次郎等が描いたと思える地元から竹島(鬱陵島)への航路や距離、大きさの違ういくつかの島が描かれているものである。具体的には一番大きく描かれた島へ石見からは凡そ五十里、隠岐からは三十里と記され、その島から北西部に少し小さい島が複数描かれている。距離的にいうとその中の最北端の島の一つが竹島であるべきだが大きさからは手前の大きい島が竹島を表すように思える正確さに欠ける不完全な地図である。江戸時代に今津屋八右衛門について書かれた庶民向けの書物に『朝鮮竹嶋渡航始末記』があり、その中に石見地方から見た竹島、松島(現在の竹島)の方角図がのせられているので参考に掲載してみる。もう1枚は竹島(鬱陵島)だけを大きく描いた「石州沖無名ノ大島有図」と表記されたものである。描いた者は図からは判断できないが、一見するだけで八右衛門が書いた「竹嶋図」を利用していることはわかる図である。
八右衛門は天保4(1833)年隠岐経由で鬱陵島に渡り、「嶋の四面をも一同船ニ而乗廻私所持之磁石を以方角を極細見および」、「嶋之次第私自筆ニ絵図ニ写取」により竹島の地図を作成した。この八右衛門の「竹島図」の原図は現在発見されていないが、八右衛門が浜田へ帰帆した後、写させてもらったという持主権吉とある「竹島図」、天保6年隠岐の海士(あま)へ立ち寄った八右衛門から渡部円大夫が書き写させてもらったという「竹嶋図」が現存する。また松江藩の蘭学教授であった金森建策が嘉永2(1849)年藩主松平斉貴(なりたけ)に提出したものに「竹島図」とその解説書『竹島図説』がある。金森建策は「竹島図」は自分が書いたとしているが、その「竹島図」の書き込みを見ると八右衛門のものと一致するものが多い。さらに金森建策の「竹島図」は伊勢の学者松浦武四郎に受け継がれ3種類の『竹島雑誌』の附図の「竹島之図」となった。
今回発見の「石州沖無名ノ大島有図」はこうした八右衛門系の図と形状や書き込みから関係が明白だが、内容的にはさらに古い元禄、享保年間の絵図との関係も見出せる。それは後世「三本立岩」という岩がある場所に「竹の子嶋」いう島名が記されていることである。竹の子嶋は八右衛門系の図には載っているものは皆無である。竹の子嶋については、元禄9(1696)年1月作成と推定される「小谷伊兵衛より差出候竹嶋之図」と享保9(1724)年の「小谷伊兵衛殿ニ所持被成候絵図之写」に図の中ではないが、図の一角に浦名や島名を列挙した箇所に「竹ノ子嶋」、「竹子嶋」として記されている。小谷伊兵衛とは鳥取藩の役人で長期にわたって江戸留守居役を務めた。元禄期の絵図は幕府に提出するために竹島渡海を続けていた米子の町人大谷家、村川家の情報や彼等が名づけた島名等が利用されたことは確実である。小谷伊兵衛の2枚の地図は、竹島(鬱陵島)を「磯竹島」としているが今回の地図は「石州沖無名ノ大島有図」と竹島、磯竹島の呼称を知らない庶民的なものとなっている。なお松浦武四郎の解説書『竹島雑誌』には「三本柱といへる岩あり(此岩高十丈もあり、周りも同じくありと。また其二つは上に松あり。一説此島みなはなれたりとも、また根一ツなりともいふ。神ありとて朝鮮人など至り尊信するよしなり。)」と竹の子嶋を解説している。
ウ.試験渡航の計画書
「海産起業願」には「いよいよ近日渡航ノ上試験仕る」として拠点となる漁港温泉津に準備するものを列挙している部分がある。そこには漁船15隻、漁師100人、杣(そま:きこりのこと)10人、黒鍬(人夫のこと)10人、大工5人、石工5人、漁師妻15人、長屋3戸が必要としている。また物品として家具類、鍋、釜、風呂、瀬戸物類、漁道具類、味噌、醤油、塩、油、蝋燭、酒50樽、白米玄米凡そ100石、大阪への通船、兵役者30人、大砲等も必要としている。また末尾に地元の人の動向として「石見同盟人共凡そ百五拾名」とある。
(3)開島碑の準備
計画書には「海産起業願」が認められたら、鬱陵島に建設する予定の石碑の図も描かれている。図は「開島碑」と正面に大きく彫る予定の縦8尺、幅方2尺の石碑で、横面の一方に「天照皇太神」、別の面には「神武天皇即位紀元二千五百三十九年」と明治12年を意味する皇紀年号を、裏には発見人とだけありまだ具体的に誰の氏名を書き込むか未決定のようで具体的な氏名は記入されていない。明治4年今浦の住民達が「石州沖無名ノ大島」としていた島も明治12年には「竹嶌開拓標図」と竹島として認識されている。
【写真1】現在の今浦(平成27年6月撮影)
【写真2】内務卿伊藤博文宛ての「海産起業願」(国文学研究資料館蔵)
【写真3】今浦の住民の「御願申上候事」(同上)
【写真4】今浦の住民が描いた「方角図」
【写真5】(参考)八右衛門の「方角図」
【写真6】「石州沖無名ノ大島有図」
【写真7】(参考)八右衛門の「竹嶋図」(個人所蔵)
おわりに
今回明治時代初期の一般的に「竹島(鬱陵島)渡海願」と呼ぶべき願書2例を発見したので紹介してみた。短期間であるが隠岐、大森、浜田の3県大参事を務めた藤原茂親の願書には、明治4年には竹島(アルゴノート島)、松島(ダジュレー島)の2島の鬱陵島像でなく、「竹島とか松島」と呼ばれる1島としての鬱陵島の認識があること、さらに松島については江戸時代の鬱陵島と隠岐の間にある「二つの巨岩からなる島」のことではないと断って、現在の竹島を意味しないことにふれているのは重要である。また島根県参事境二郎が自分が県令佐藤信寛代理として内務省に「日本海内竹島外一島地籍編纂方願」を出す明治9年に福岡県に藤原茂親について問い合わせをしていることも判明した。問い合わせの内容は境二郎からの問い合わせの文書が現在不明で必ずしも明確でないが、かって隣県である浜田県の参事であり、共に高杉晋作との交流という共通した履歴もあることから藤原茂親の竹島に関する行動や知識について認知し影響を受けていた可能性がある。私は島根県令になった境二郎が明治14年内務省、農商務省に提出した「那賀郡浅井村大屋謙助外一名松島開墾願」から、同じ人物の明治9年の竹島の地籍を問われた時の回答も同じ観点であるという視点で島根県Web竹島問題研究所のホームぺージに「竹島外一島之儀本邦関係無之について再考ー明治十四年大屋兼助外一名の「松島開拓願」を中心にー」(2009.11.06掲載)なるレポートを載せたことがある。このレポートに対しては後年のことから事前のことを考察することは歴史学的でないとの一部研究者から批判された。今回の明治4年の竹島に関する願書は明治9年より前に「竹島とか松島と呼ばれる」、「竹島一名松島」の鬱陵島に関する認識があったことを示しており、私のこれまでの主張を補強してくれるものである。
一方の那賀郡今浦の住民の浜田県への願書は、鬱陵島の島名も認識していない庶民的なものだが、起業化を考え長崎の商人や東北の旧藩主をスポンサーに応援を求め、香港等への販路も考える近代的要素を感じさせるものである。また浜田の天保竹島一件の八右衛門の「竹島図」が添付資料に利用されていることは興味深い。さらに日本に属する島と確信しつつもどの県の土地かは知らないとしているが、明治9年10月島根県参事境二郎が内務省へ竹島の地籍を伺いの形で回答した「山陰一帯ノ西部ニ還附スヘキ哉ニ相見候ニ付テハ本県国図ニ記載シ地籍ニ編入スル等之儀ハ如何」は、同年4月浜田県を併合したばかりの時期であってみれば、島根県参事境二郎の意識に浜田県と竹島・松島(鬱陵島)を結びつけるものがあったのかもしれない。また最近インターネット上に竹島問題に詳しい研究者が掲載された内容であるが、明治10年の「太政官指令」の頃の地図として明治12年12月内務省地理局地誌課が作成した「大日本府県管轄図」があるが日本領内である隠岐北西部の現在の竹島のある海域に松島は載っていない。また同じ内務省地理局が明治14年作成した「大日本府縣分轄図」に含まれる「大日本全国略図」も現在の竹島のある位置には島はなく、鬱陵島を意味するアルゴノート島を竹島、ダジュレー島を松島として載せている。同じ図集には「鳥取島根岡山三県図」もあるが鳥取島根県沖の日本海には隠岐諸島だけで松島は記載されていない。明治15年8月内務省地理局測量課作成の「朝鮮国全図」には朝鮮領の鬱陵島が松島として記載されている。明治10年「太政官指令」を受けたのは内務省である。その下部機関地理局が作成した地図には「太政官指令」直後から日本領内に現在の竹島を意味する松島が載ったものはなく、朝鮮領の鬱陵島が松島とされていたことがわかる。
【写真1】「大日本府県管轄図」(明治12年内務省地理局作成)
【写真2】「大日本全国略図」(明治14年内務省地理局)
【写真3】「朝鮮国全図」(明治15年内務省地理局)
(前島根県竹島問題研究顧問杉原隆)
【参考文献】
- 『公文録福岡藩之部』(国立公文書館蔵)
- 『海産起業願』(国文学研究資料館蔵)
- 『明治九、十年縣治要領庶務部文書科』(島根県公文書センター蔵)
- 『明治十四、明治十五年縣治要領庶務部文書科』(同上)
- 『島根県歴史政治部明治九年』(同上)
- 『浜田県歴史資料』(同上)
- 『浜田県引継文書』(同上)
- 『浜田県官員履歴』(同上)
- 田村清三郎『島根県竹島の新研究』(島根県総務部総務課)
- 田村清三郎『明治初年の県政』(今井書店)
- 児島俊平『山陰地方漁業史話』(石見郷土研究懇話会)
- 杉原隆「八右衛門、金森建策、松浦武四郎の「竹嶋之図」について」『「竹島問題に関する調査研究」報告書』
- 「月刊松下村塾」11(萩市立図書館蔵)
- 『大内村誌』(大内公民館・萩市立図書館蔵)
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