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昭和28年練習船を竹島に派遣した市川忠雄元隠岐高校校長の「賞罰」
はじめに
島根県の平成24(2012)年6月県議会の一般質問で、日本所属の島であるとサンフランシスコ平和条約で決定していた竹島に韓国人が渡島しているとの情報に反応して、昭和28年6月に隠岐高校水産科の練習船「鵬(おおとり)丸」を李承晩ライン設定で緊迫している日韓の対立の中竹島へ渡航させて、島根県教育委員会(以下:県教委)から航海の安全性に問題があることなどから中止せよとの指示を無視したとして、後日戒告処分を受けた隠岐高校校長故市川忠雄氏の名誉回復を求める質問があった。
溝口県知事は「当時の危険きわまりない状況の中で県教委の中止するようにとの指導を振り切って竹島渡航を強行したことは処分を受けてもやむを得なかったと考えられる。ただ市川先生はすぐれた教育者として、後に叙勲を受けられている。」と答えられたという(「山陰中央新報」平成24年6月21日記事)。隠岐の人達の市川校長の名誉回復を願う声はこれまでも多くの方から聞いてきたし、平成8(1996)年2月の島根県議会でも取り上げられたことを記憶している。ただ、溝口県知事が明らかにされた教育功労者としての市川先生の叙勲については隠岐高校、隠岐水産高校の校長を務めた後、故郷の埼玉県へ帰られてからの75歳の時だそうで、私はまったく知らず、賞罰両方を受けた校長として感慨深い思いがした。しかし、叙勲で名誉回復の代替えにすることも問題があるとも思われ、隠岐高校校長として20代目が市川先生、私は34代目を拝命した者であることの因縁も意識しつつ、市川校長が練習船を竹島に派遣された目的、賞罰に関する真相等を追ってみることにした。
市川忠雄氏について
市川忠雄氏は明治37(1904)年埼玉県に生まれ、北海道帝国大学附属水産専門部で学び大正15(1926)年卒業すると台湾で教師になった後、昭和10(1935)年現在の隠岐水産高校の前身の島根県立商船水産学校へ招かれて来県された。昭和23(1948)年には隠岐水産高校の校長になり、水産高校が隠岐高校に統合されると水産科の科長を経て昭和26(1951)年隠岐高校校長となった。市川校長は隠岐高校での思い出を『隠岐高等学校創立50周年記念誌』に寄稿されており、水産科出身で普通科中心の隠岐高校の学校運営にはとまどうことが多かったこと、体育館建設で多忙だったこと等を語っておられる。しかし、問題の昭和28年水産科の練習船「鵬丸」を竹島に渡航させたことには触れられていない。
サンフランシスコ平和条約と李承晩ライン
市川先生が隠岐高校の校長になられた昭和26年の9月、サンフランシスコ平和条約で日本は国際復帰を許されると共に、竹島も日本の領土と決定した。戦前竹島を所管していた隠岐の五箇村では講和条約祝賀の記念植樹が行われ、11月には鳥取県立境高校水産科の関係者が練習船「朝凪丸」で竹島へ出かけ上陸した。昭和27(1952)年になってサンフランシスコ平和条約が効力を発揮することになっていた4月を目前にした1月18日、韓国政府は自国の海域を俗に「李承晩ライン」と呼ばれる線で明示する海洋主権宣言を発して、竹島は韓国海域に取り込まれた。日本政府はそれに対し強く抗議したし、島根県内の各界からも韓国の行動を非難する声があがった。昭和28(1953)年5月、島根県の水産試験場の練習船「島根丸」が海流調査で竹島付近を航行すると、韓国旗を掲げた動力船や小舟で30人余の韓国人が漁労活動をしているのを発見した。すぐにこのことは島根県から日本政府に報告され、日本の外務省は韓国側へ強く抗議した。6月、「島根丸」が第2回目の調査に出発し、竹島近海の海底で好漁場と期待される新しい堆(バンク)を発見するとともに、竹島では人影を確認し島根県へ報告した。
「鵬丸」出発の状況
そうした情勢下の6月24日、隠岐の西郷港を隠岐高校水産科の練習船「鵬丸」が乗組員12名(いくつかの回想記には14名とある)で出発した。学校関係者では実習助手で「鵬丸」の船長の但馬巳一郎、民間人ながら朝鮮本土で生活体験のある機関長兼通訳の原和平、水産科の教諭岩瀧克己、鈴木昇一郎の4名(原、岩瀧両氏は今も隠岐に健在)である。その他には市川校長と親しく竹島の現状取材を懇望した一新聞社の隠岐支局の通信員、地元の漁業関係者等であった。漁師の中には、五箇村久見在住で直前に県から竹島のアシカ猟の許可を与えられた橋岡忠重もいた。
「鵬丸」が西郷港から外海に出ると思いがけず風波が高く竹島への直行は無理だったので、加茂港に避難し翌25日に竹島に向かった。竹島に着いてみると6名の韓国人がいて、ワカメやアワビを採取しており、送迎用の船が来ず食糧が乏しく困っているというので「鵬丸」にあった米6升を分け与えた。島のあちこちを点検し「鵬丸」は26日西郷に帰った。市川校長の協力で竹島の取材を終えた通信員は自社の27日付朝刊で「まだいた韓国人-アシカ料理で歓待-」の見出しの記事を載せた。
「鵬丸」の竹島渡航と新聞報道
「鵬丸」の竹島渡航について但馬、岩瀧氏等学校関係者は回想記で「市川校長が友人の新聞記者の竹島取材希望に応えて私達に「鵬丸」操縦を命じた。当時水産科のある学校の練習船は県外の海域に出る時は、県教委に届けて許可を得る必要があったが県内の場合は校長の裁量で出航が可能だった。」と語る。「鵬丸」の竹島渡航は市川校長が友人の新聞社以外希望する他社の同乗を拒否したので、多くの新聞では批判的に扱われている。某紙の28日付けの朝刊は「竹島の調査を強行-隠岐高教官ぬけがけで-」の大見出しで、隠岐高校水産科は竹島の海洋・海底調査を計画し県教育庁に申請していたが、「デリケートな日韓関係とその影響を考慮して」県は許可を出さずにいた。隠岐高校はこれに対し25日密かに練習船を竹島に送り、調査を強行して26日午後帰港した。県教育庁は隠岐高校校長市川忠雄氏を近く招致し事情を聴取する、としている。
教育委員会通常会議での報告
昭和28(1953)年7月9日隠岐で開かれた県教育委員会定例会で藤島吾郎教育長は吉田定善他5人の教育委員の前で「県立隠岐高等学校鵬丸事件について」という報告をしている。内容は、6月22日、隠岐高校の竹島渡航の計画と、校長が一新聞社と契約を結び竹島の取材をさせ、他の新聞社の記者の「鵬丸」への同乗を拒否しているとの情報を得たので、すぐ電話で校長に確認した。市川校長は渡航計画と一新聞社との関係を認め、練習船に対する校長の権限と責任について及び竹島が五箇村の所属だから船で五箇村に行き村を歩く実感を語った。教育長は学校の自主的計画の出航かどうかの確認の必要や竹島が日韓関係の緊迫している中で危険も予測されるので計画を中止する善処方を要望して電話を切った。ところが翌日になって隠岐高校でその後も着々と竹島渡島への準備が進んでいるとの情報が入ったので、再び校長に電話をかけ教育長の職務権限から出航中止を命じた。それにもかかわらず練習船は24日出航し、幸い事故もなく26日帰港した。市川校長からは業務命令に従わなかったことに対して「始末書」が提出されている等の説明であった。この事項の協議は教育長から非公開で行うようにとの要望があったが、教育委員側からすでに多くの新聞が報道し、教育委員会の対応を注目しているから公開にすべきとの意見が多数で、公開で行われている。また証人の召喚等でさらに内容を具体的に検討すべきとの意見が多く、結論は持ち越されている。
その後7月28日、29日に松江市の県教育庁内で臨時教育委員会が非公開形式で開かれた。そして「鵬丸」の竹島渡航については教育長の業務命令に従わなかったこと、一新聞社に教育財産の練習船を目的外の使用で便宜をはかったことは校長の言動としては不適切で懲罰にあたるとして「戒告」を決定した。「教育委員会会議録」の昭和28年度の中には「懲戒処分案」が以下のようにある。
「島根県立隠岐高等学校長市川忠雄地方公務員法第29条第2号により戒告処分とする。
理由今回の鵬丸竹島出航に関し教育長がその中止命令を発したのにも拘わらず敢えてこれを無視し出航せしめたことは本県教育行政の秩序をいちぢるしく乱すものである。学校長としてかかる不都合の処為が再び繰り返へされないように、又教育者として将来厳正不偏総べての教育作用の中正を期することを望み、ここに懲戒処分として戒告する」。
水産教育に人生を捧げた市川忠雄氏
昭和29(1954)年4月、隠岐高校水産科は新生隠岐水産高校として独立し、市川忠雄氏が校長に就任した。氏は隠岐高校の第20代の校長であり隠岐水産高校では通算14代目の校長である。
昭和33(1957)年、市川校長は地元隠岐で月3回発行されていた新聞「隠岐公論」に「水産教育は国立でやれ」と題する一文を寄稿し、強い国家意識と幅広い国際感覚を持つ若い水産関係者を育てる必要を力説している。隠岐高校、隠岐水産高校で市川校長の薫陶を受け、自らは焼津水産高校の校長まで勤めた岩瀧克己氏は「市川先生は有言実行型の強い教育的信念を持って我々を指導され、多くの事を学ばせてもらった。」と述懐されている。市川校長は昭和38年3月、隠岐水産高校で退職を迎えたが、その後同校で1年間講師を勤めた後、生まれ故郷の埼玉県に帰り隠岐を去った。
市川忠雄氏が75才になられた昭和54(1979)年9月、隠岐水産高校校長松長信男氏が県教委に元校長市川氏を水産教育発展への功労者として叙勲候補者にして欲しいと推薦状を提出した。残存する「功績調書」には台湾を含む離島の水産教育の発展に人生を捧げたこと等15項目の功績を挙げ、さらに民主的理念を信条とする教育実践や人情熱い言動で隠岐で地域民や教え子から敬慕されたこと等を記している。
推薦状を受け取った県教育委員会は他の候補者と共に検討し、市川忠雄氏を昭和55年春の叙勲受章者の島根県推挙者の一人として文部省初等中等教育局に提出した。この際、隠岐水産高校から提出のあった市川氏の教員時代の勤務校、昇給等詳細に明記された「履歴書」と、埼玉県比企郡嵐山町が発行した刑罰の有無等を記載した「身分調書」も添付して提出した。その原本も残存するがそこには昭和28年市川氏が県教委から受けた戒告処分に関する記載はまったくない。
市川忠雄氏は昭和55年春の叙勲で勲四等旭日小綬章を受け、てい夫人とともに伝達式にも列席している。
鵬丸の竹島渡航処分について
島根県の平成24年6月議会で故市川忠雄氏の名誉回復をという質問があり、それに触発されて集めたり閲覧を許してもらったりした資料から、昭和28年隠岐高校水産科の練習船「鵬丸」の竹島渡航に関して市川忠雄校長の戒告処分について総括してみたい。
まず県教育長が隠岐高校の練習船が特定の新聞社の取材に協力して竹島へ向かうということを知ったのは6月22日で、「鵬丸」が出発する2日前のことである。情報入手先は市川校長の親友のいる特定の新聞社の行動を知り、市川校長に同乗を申し出拒否された他の新聞社からである。教育長は教育委員会での報告で特定の新聞社や市川校長に同乗を拒否された3新聞社の名を具体的に挙げ、私情で一新聞社を厚遇し平等な取材に協力しなかったこと、教育財産の練習船を目的外のことに使用した問題点を指摘している。また、島根県内の海域は練習船を持つ学校の校長がすべての権限と責任を持つ規則があることを市川校長が主張し、竹島は五箇村の島で竹島に行くのは五箇村へ船で行き、五箇村の土地を歩くことだとも語ったとしている。県教育長は現在、日韓両国間に竹島をめぐる緊迫した状態があるから平時とは違うことを認識して渡航を中止するよう「要請」した。教育長の言うように確かに当時、日韓両国の対立はピークに達しており、直後の7月12日竹島近くで境海上保安部の巡視船「へくら」が韓国船から銃撃を受けた。一方市川校長には竹島は五箇村の土地という確固たる信念があり、竹島渡航は五箇村へ船で行き五箇村を歩くという李承晩ライン等にとらわれない強い認識を持っていたと思われる。
翌23日、渡航中止を要請したにもかかわらず、着々と隠岐高校で準備が進んでいるという新たな情報が教育長に届いた。すぐに教育長は市川校長に直接電話で、今度は「業務命令」で渡航中止を命じた。要請ではなく命令である以上、それに従わなければ何らかのペナルティは覚悟せねばならないことであったから、「鵬丸」が竹島から帰港すると市川校長は自ら教育長に「始末書」を提出した。教育委員会で作成された処分案の理由の中心は校長が教育長の業務命令を無視したことであった。この市川校長に対する扱いを協議する非公開の教育委員会で藤島教育長は、準備が終了した事、自分の信条と教育長の中止を命ずる業務命令のはざまで市川校長も苦しんだと思うと感想を述べ、減給か戒告の処分内容決定の時にはより軽い戒告にして欲しいと発言している。
市川校長の信念と教育行政
この昭和28年市川校長が受けた戒告処分は、本人の履歴書等に記載され、汚点となってその後の人生に影響をもたらしたのではないかと多くの人は考え、現在の竹島問題の解決が進まない中で県教委の業務命令を無視して練習船を竹島に派遣した市川校長の強い信念を称え、履歴書等から処分を受けたことを消去し名誉を回復してあげて欲しいと念じてきた。今回、その市川校長は昭和55年島根県の推挙で勲四等旭日小綬章を受章されており、履歴書の「賞罰」の項にも戒告処分の記載がないことがわかった。県教委と学校現場との間には秩序維持の観点から賞罰規定があったが、学校現場での処罰がそのまま実社会の刑法等の罰則と同じには適用されなかったのである。
竹島渡航が時代の動向から危険であると認識し、業務命令で直接中止を命じた藤島教育長と、始末書を書き、処分を覚悟の上で「鵬丸」を竹島に送った市川校長の強い信念から生まれた戒告処分という処罰は、県の教育行政の責任を担うお二人の真摯な対応から生じ、お互いに認め合ったもので、処分を取り消して市川校長が名誉回復と喜ばれるとは思われない。一介の学校現場での校長の指示した事項に問題があったとしても、それがその校長の一生を通じての教育活動全体を否定するものではないと、県教委も取り扱ったことが、市川校長の叙勲でわかる。
しかし、この問題全体から市川校長が受けた最大の勲章は、今なお先生を敬愛する隠岐の皆さんの存在だと思われる。
それを物語るように隠岐の島町役場は広報「隠岐の島8月号(平成24年)」で、同年6月県議会で市川校長のことが取り上げられたことや、退職後島根県の推挙で市川校長が叙勲されていることを報じた。その後、9月29日隠岐の島町で行われたサンフランシスコ平和条約60周年記念植樹式に参加するために私が出向くと、数人の知人が市川先生のことを話題に笑顔で語りかけてきた。
(前島根県竹島問題研究顧問杉原隆)
【写真】左:市川忠雄氏右:練習船「鵬丸」
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