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『花房義質関係文書』で覆る韓国の「太政官指令」に関する主張

要旨

(1)韓国は1877年の「太政官指令」で明治政府が現在の竹島を日本領ではないと認めたと主張する。その根拠は、関連資料の「磯竹島略図」に「竹島」(鬱陵島)と「松島」(現在の竹島)が描かれていることである。

(2)しかし、今回発掘された『花房義質関係文書』中の内務卿から長崎県令への回答書で、「太政官指令」の元を作成した内務省は、「松島」を「元禄竹島一件」で交渉の対象になった島、すなわち鬱陵島にあたる島と理解していたことがわかった。

(3)つまり、「太政官指令」は鬱陵島だけを対象としており、現在の竹島を対象としていないことが明らかになったのである。「太政官指令」は明治政府が現在の竹島を日本領ではないと定めた指令ではない。

 

1.「太政官指令」に関する新資料

 今年2月28日、韓国ソウルの東北アジア歴史財団で「発掘資料で探索する独島領有権の新地平」と題した会合が開催され、朴漢●(パク・ハンミン)氏(東北アジア歴史財団研究委員)が「1870年代海外記録に見える鬱陵島・独島と太政官指令」という報告を行なった。報告内容は同月24日付の韓国の聨合ニュース(電子版)で事前に報道され(「独島は私たちと関係ない1877年日指令」)、私は報告資料集を入手した。

 朴漢●氏の報告にある1877年3月の「太政官指令」とは、前年1876年10月に島根県が内務省に提出した「日本海内竹島外ー島地籍編纂方伺」ー「竹島外ー島」を島根県の地籍(土地台帳にあたる)に入れるべきかを尋ねた伺ーへの、太政官(のちの内閣にあたる機関)の回答であり、島根県には1877年4月に伝えられた。「太政官指令」には「竹島外ー島之義本邦関係無之義ト可相心得事(竹島外ー島の件は、本邦(日本)とは関係ないとのことを心得るべし)」という文言があった。韓国は、「竹島」が鬱陵島で「外ー島」が現在の竹島(韓国名「独島」)である、すなわち「独島が日本の領土ではないということを明治政府が公式確認した」のだと主張している(韓国政府外交部の広報冊子『韓国の美しい島・独島』)。

 朴漢●氏の報告は、「太政官指令」の内容は島根県の他にも長崎県に伝えられ、従来考えられていたよりも「太政官指令」の適用範囲が広かったことがわかる資料を発掘したという内容だった。ところが、彼が発掘した資料は彼のそのような意図よりも、もっと重要な意義を持っていた。資料を分析した結果、「太政官指令」は鬱陵島だけを対象としており、現在の竹島を対象としていないことがわかったのである。朴漢●氏は「太政官指令」を「韓国の独島領有権を示す核心資料のうちの一つ」(報告資料集4頁)と述べているが、実はそうではないことを示す資料が発掘された意義は大きい。(●は王へんに民)

 

2.「太政官指令」をめぐる論争

 韓国の主張の最大の根拠は「磯竹島略図」である。「磯竹島略図」とは、島根県の伺に添付された絵図であり、「磯竹島」(鬱陵島)と「松島」(現在の竹島)が描かれていた〔画像1〕。また、島根県の伺には17世紀に鬱陵島方面に渡海していた米子の大谷・村川家の記録を参考にした説明文「原由の大略」も添付されていた。「原由の大略」には「次に一島あり松島と呼ぶ」から始まる、現在の竹島についての若干の説明もあった。「「磯竹島略図」に竹島(鬱陵島)と松島(独島)が描かれていることなどから、「太政官指令」で言う“竹島(鬱陵島)外ー島”の“ー島”が独島であることは明らかです」(『韓国の美しい島・独島』)と韓国は主張する。

 これに対して日本国内には次のような反論がある。1877年3月29日付「太政官指令」は、島根県の伺を受け取った内務省が5ヶ月間の調査の末に同年3月17日付で太政官に提出した伺の内容を追認している。よって内務省の伺を検討せねばならない。内務省の伺本文には、その島は、「別紙書類に摘採」されている日朝間のやりとりの結果、本邦と関係がないということになったが、版図の取捨は重大なことなので、念のため伺うとある。

 内務省の伺に添付された「別紙書類」は「元禄竹島ー件」(17世紀末の鬱陵島をめぐる日朝間の交渉。鬱陵島への日本人の渡航を禁止した。)の記録であって、現在の竹島への言及はない。「原由之大略」と「磯竹島略図」は内務省の伺に添付されたかもしれないが、あくまでも島根県の伺の添付資料であって内務省の判断根拠としては位置づけられていない。そして、「日本海内竹島外ー島地籍編纂方伺」という島根県の伺と同名の題目以外に、内務省の伺に「外ー島」という文言はない。「太政官指令」は、もっぱら鬱陵島を対象にしたものである。

 また、幕末から明治にかけて西洋起源の地理知識が流入した結果、「竹島」または「磯竹島」と呼ばれてきた鬱陵島が、明治時代には「松島」とも呼ばれる混乱が起きていた。「磯竹島略図」で示された、「「竹島」=鬱陵島、「松島」=現在の竹島」という江戸時代の地理認識で内務省の担当者が島根県の伺を処理したとは考えられない。

 以上要するに、「現在の竹島を日本と関係ないとしたという主張は、島根県の伺の添付資料だけに依拠した議論、あるいは「松島」とあると常に竹島/独島を指すという思い込みによる議論である」(『竹島問題100問100答』ワック出版、2014年)と、韓国の主張は批判される。

 

3.『花房義質関係文書』について

 朴漢●(パク・ハンミン)氏が紹介した該当の文書は『花房義質関係文書』(東京都立大学附属図書館蔵)に残されていた。

 花房(はなぶさ)義質(よしもと)(1842-1917)は岡山生まれで適塾に学び、外交官として活動したことで知られる。朝鮮には8回にわたって派遣され(1872(明治5)年、1876(明治9)年、1877(明治10)年、1878(明治11)年、1879(明治12)年、1880(明治13)年、1882(明治15)年(2回))、1877年の派遣にあたっては外務書記官兼任のまま代理公使に任命され、1880年には辨理公使として京城駐在を命じられた。1882年7月の壬午軍乱の時の日本公使館襲撃で危うく難を逃れて帰国し、同年に再度渡朝した(安岡昭男「花房義質の朝鮮奉使」『花房義質関係文書:東京都立大学付属図書館所蔵1』北泉社、1996年)。

 1996年からマイクロフィルムで刊行された『花房義質関係文書』は、「書簡の部」と「書類の部」からなる。該当の文書は「書類の部」の「A朝鮮国関係4公務類・公信類」の「2)対朝鮮交渉のための書類一綴り明治9年6月10日~明治10年11月23日」に収められている。文書はすべて長崎県の罫紙に書かれており、1877年7月13日付の長崎県令北島(きたじま)秀朝(ひでとも)(1842~77)から内務卿大久保利通(1830~78)に宛てた「松島開島之儀ニ付伺」、その伺の付属文書「松島開拓着手急務之概略」、そして同年8月18日付の内務卿から北島県令への回答書の三つである。これらの文書を花房が入手したのは、第3回の朝鮮派遣の際に朝鮮に向かう時、同年9月30日から10月3日の間に長崎に立ち寄った時だと朴漢●氏は推測している(報告資料集14頁)。(●は王へんに民)

 

4.「松島」開拓願と「島名の混乱」

 「松島開島之儀ニ付伺」〔画像2〕は本文661字で2枚にわたる罫紙に書かれた文書で、「我カ隠州ノ北ニー島アリ松島ト名ツク(我が国の隠岐の北方に松島という名前の島がある)」という文言から始まる。この「松島」に対して、日本領であることをまず明らかにして役所を設置し、開拓のために移民を送り、航路を開き、この島に対する外国人の野心を封じることを提言し、それらの措置の管轄を長崎県に命じられれば、十分対応できると述べている。そして、この要望はウラジオストク在住の貿易事務官瀬脇寿人(1822~78)からの切迫した要請によるものだが、大久保内務卿の決裁を仰ぎたいとあった。

 北島県令の伺に添付された「松島開拓着手急務之概略」は本文832字で3枚の罫紙にわたって書かれており、開拓のための12項目の具体的な提案が記されていた〔画像3〕。内務省と長崎県の官員や巡査などを測量等の調査のために現地に派遣すること、船舶を繋留できる港湾があれば灯台や市街地の予定地を定めること、「漁者ト樵夫等」を雇用して滞在させ「漁業伐木ノ利益」を確保することなどである。

 北島県令の伺の「松島」が、現在の竹島ではなく鬱陵島であることは明らかである。「南北四五里ニ亘リ東西二三里ニ止リ」という島の大きさは実際とはやや異なるが(実際は東西南北とも約10キロ)、長崎とロシア沿海州のウラジオストクを結ぶ「線路ニ当リ要衝ノ地」という位置〔画像4〕、「南面海ニ向テ漸ク平坦ニ属シ」や「巨木全島ニ繁茂シ深緑常ニ鬱蒼タリ」という描写からそれはわかる。

 ところが、北島県令は「松島」を朝鮮に属する鬱陵島とは認識していない。鬱陵島が朝鮮領であることは知られていたのだから、朝鮮領である島を開拓する問題に言及するはずであるが、それはない。北島の認識は、この伺発出の基になった瀬脇の認識の影響を受けていた。瀬脇は1875年に長崎からウラジオストクに向かう航路の途中で「松島」(実際は鬱陵島)を実見した。その時は「松島」が日本領という確信はなかったが、ウラジオストク在住の朝鮮人との対話で、「「竹島」(鬱陵島)とは別に「松島」があり、それは日本領だと確信したと思われる」(松澤幹治「松島開拓願を出した下村輪八郎と『西海新聞』「松島日記」」『第4期「竹島問題に関する調査研究」最終報告書』、第4期島根県竹島問題研究会、2020年。また、同報告書所収の石橋智紀「瀬脇寿人(手塚律蔵)と彼をめぐる人たち」も理解に役立つ(島根県:第4期最終報告書(トップ/県政・統計/県情報/竹島関係/Web竹島問題研究所/調査研究/竹島問題研究会報告書)))

 瀬脇の認識の背景には当時の「島名の混乱」の問題があった。19世紀の西洋の地図には、西洋船の誤った測定により、存在しない鬱陵島と実際の鬱陵島という、二つの鬱陵島が日本海西部に描かれるという事態がおきていた。そのような誤った情報に基づく地図が日本にも伝わったため、日本の江戸時代の呼称である「竹島」(鬱陵島)と「松島」(現在の竹島)とのずれが生じていた〔画像5〕。「元禄竹島ー件」で渡航禁止にならなかった「松島」を瀬脇が日本領と考え、自らも見た正体不明の島(実際は鬱陵島)に当てはめたとしても不思議ではない。

 このような、鬱陵島とは別の資源豊かな島で、日本領なので開拓可能と考えられた「松島」の開拓願は、1876年以降いくつも政府に提出されていた。『竹島考證』には瀬脇が1877年に提出した4通もの開拓願が収録されているが、同年4月25日の外務卿寺島宗則と外務大輔鮫島尚信宛の開拓願には、「先我属嶋松島ニ着手シ」という文言がある。なお、北島県令の伺が大久保内務卿宛なのは、「松島」開拓の長崎県管轄を提言したからであろう。

 

5.大久保内務卿から長崎県令への回答書

 大久保内務卿の回答書〔画像6〕は本文162字で罫紙半分ほどのもので、その現代文による大意は次の通りである。

 

 隠岐の国の北方にある松島の開拓の件について詳しい説明があったが、右は昨年島根県から問い合わせがあったもので、旧幕府の時のその島のことについての朝鮮国との数回の往復書類などをしっかり調査した結果、結局我が版図内にあることははっきりしなかったのでその筋への問い合わせを経て、本邦との関係はないものと決定して同県にもその趣旨を指令しておいた件であって、このような経緯を理解するよう回答する。

 

 内務卿は「松島」について、江戸時代の「元禄竹島ー件」の時のその島をめぐる日朝間の往復書簡を検討して(「■幕府中該島事件ニ付朝鮮国ト数回往復之書類等篤ト取調候処」)、日本と関係ないと決定したとしている。換言すれば、「太政官指令」とその元になった島根県の「日本海内竹島外ー島地籍編纂方伺」に対する内務省の調査は「松島」についてのものであるとした。つまり、1877年当時内務省は、「松島」を「元禄竹島ー件」で交渉の対象になった島、すなわち鬱陵島にあたる島と理解していたのである。(■は「旧」の俗字)

 「太政官指令」で現在の竹島が日本と関係ないとされたという韓国の主張の根拠は、「「磯竹島略図」に竹島(鬱陵島)と松島(独島)が描かれて」おり、これらが「竹島外ー島」にあたるという解釈であった。しかし、内務卿の回答書によってそれは成りたたないことが明らかになった。「磯竹島略図」の江戸時代の地理認識(「竹島」=鬱陵島、「松島」=現在の竹島)を内務省(大久保内務卿)は共有していなかった。したがって、「太政官指令」は現在の竹島を日本と関係ないとしたものではない。

 「太政官指令」についての「ここでいう竹島は鬱陵島、外ー島は松島ですが、明治期には松島も鬱陵島を指したので、この指令は鬱陵島に関するものです。明治政府が現在の竹島を日本領でないと定めた指令等はありません」という説明(島根県が作成した竹島学習リーフレット)の正しさを、新たに発掘された『花房義質関係文書』中の文書は証明している。

 

付記

2022年2月24日付聯合ニュースの記事の情報を寄せていただいた方、『花房義質関係文書』のマイクロフィルムの閲覧・複写を許可していただいた大阪大学総合図書館、同資料中の該当の文書を翻刻していただいた島根県竹島資料室、それぞれに感謝申し上げたい。

2022年4月15日掲載(島根県竹島問題研究顧藤井賢二)


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