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竹島の「真実」と独島の《虚偽》
第4回「1905年、日本の独島編入は無効」説の捏造
保坂祐二・金章勲氏の動画サイトでは、「1905年、日本の独島編入は無効」として、次のように主張している。
「1900年、大韓帝国は勅令第41号を発布し、独島を石島と表記して、欝島郡所属の島であることを宣布しました」
ここで保坂氏が主張しているのは、大韓帝国では1900年の時点で独島を韓国領にしていた。従って、日本が1905年に竹島を島根県に編入したのは「無効だ」、というのである。
だがこの主張は、竹島の不法占拠を続ける韓国側の常套句で、歴史的な根拠があってのことではない。1900年10月25日に公布された「勅令第41号」には、確かに欝島郡の行政区域が「欝島全島と竹島・石島」と定められているが、韓国側ではその石島を今日の独島とする実証ができていないからである。
現に「勅令第41号」が公布される三日前、内部大臣の李乾夏が欝陵島を欝島郡とするため議政府に提出した「請議書」では、欝陵島の疆域が「縦八十里(約32キロ)ばかり、横五十里(約20キロ)」、と明記されている。「請議書」に記されたこの欝陵島の疆域は、明らかに独島が欝島郡の行政区域外にあった事実を示している。独島は、その欝陵島からさらに東南に90キロ近く(約360里)も離れているからである。
それに内部大臣の李乾夏が欝陵島の疆域を「縦八十里ばかり、横五十里」としたのは、禹用鼎等の調査報告書を参考にしたことによる。欝陵島では日本人による木材伐採が問題となっており、李乾夏は1899年9月、禹用鼎を欝陵島視察官に任命していた。現地での聞き取り調査は1900年6月1日から5日にかけ、日韓合同で実施された。日本側からは釜山領事館の赤塚正助副領事が派遣されている。
その時の概要と調査範囲については、禹用鼎の『欝島記』と赤塚正助の報告書(『欝陵島調査概況』)で確認ができる。赤塚正助の『欝陵島調査概況』には「附図」【写真1】が収録されており、欝陵島とその属島として空島、島牧、竹島の三島が描かれている。
【写真1】『欝陵島調査概況』所収「附図」
「附図」は赤塚正助が認識していた欝陵島の疆域を図示したもので、禹用鼎の『欝島記』でも同様の認識が示されている。禹用鼎にとって、欝陵島は「長さ七十里(約28キロ)たるべく、広さ四十里(16キロ)たるべし。周廻また一百四五十里(56キロ〜60キロ)」の島であった。これは禹用鼎が現地で得た知識を基にしており、欝陵島の島民等が欝陵島を一周「一百四五十里」の島と認識していたからである。禹用鼎はその周廻「一百四五十里」の欝陵島の郡昇格を建議し、それに依拠して内部大臣の李乾夏が10月22日、欝陵島を欝島郡とする「請議書」を議政府に提出したのである。これは『勅令第41号』の第二条で「欝陵全島と竹島・石島」とされた欝島郡の行政区域も、「請議書」の範囲を超えることはない、ということである。では欝島郡の竹島と石島は、欝陵島のどの島を指しているのだろうか。
これを赤塚正助の「附図」で確認すると、竹島は欝陵島の東約2キロの竹嶼である。すると石島は空島と島牧のいずれかとなり、空島は現在の孔岩、島牧は島項であったことになる。赤塚正助の「附図」では空島(コントウ)、島牧(ソンモク)と、韓国語音を漢字に移して表記しており、空島は、孔岩(コンアン)の岩を島(トウ)とした点が異なるだけで、島牧は島項(ソンモク)と同音だからである。この内、島項(島牧)は1882年、欝陵島を踏査した欝陵島検察官李奎遠の『欝陵島外図』【写真2】と『欝陵島検察日記』等に登場し、李奎遠は『欝陵島検察日記』の中で、島項と竹島(竹嶼)を「二小島」としている。
【写真2】李奎遠『欝陵島外図』
以来、竹島(竹嶼)と島項は欝陵島の属島とされ、1910年に大韓帝国が刊行した『韓国水産誌』でも、欝島郡の属島は竹島と鼠項島(島項)の二島と孔岩であった。そこで日本側では竹島を竹嶼とし、島項(鼠項島・観音島)を石島としたのである。
ところが保坂祐二氏は、「日本は、石島は独島ではなく、観音島であると主張しています」として、島項ではなく別称である観音島に話題を移し、次のように反駁するのである。
「観音島はカクセ・ソム、島項という名前がさらに二つもあったので、観音島を石島と呼ぶ理由はありませんでした。そうなると石島に該当する島は独島しかありません」
これは保坂祐二氏の詭弁である。赤塚正助が欝陵島の属島を観音島ではなく、島牧(島項)としたのは、『勅令第41号』が公布された1900年当時、島項の呼称が一般的だったからである。その島項を議論から除外し、「観音島を石島と呼ぶ理由はありません」とする意図は、どこに在るのか。欝陵島の属島として、島項の名が文献上に現われるのは1882年、欝陵島検察官の李奎遠が『欝陵島検察日記』等で「形、牛の臥すが如し」としてからである。その牛が臥した形とされた小島が島項(ソンモク)と呼称されたのは、島を牛(ソ)の項(モク=うなじ)【写真3】と見立てたことによる。以後、日韓では島項を欝陵島の属島と認識し、赤塚正助も「付図」に島項を描いたのである。その島項は1900年10月25日、『勅令第41号』が公布されてからは鼠項島とも表記され、1909年に作成された海図【写真4】では、「somokusomu」と韓国語音の読み方が記されている。
【写真3】島項(鼠項島。観音島)
【写真4】海図308号「竹邊灣至水源端」部分
では島項は何故、鼠項島と表記されたのか。それは『勅令第41号』で、欝島郡の属島が石島とされたことと関連している。島項と石島は密接な関係にあったからである。鼠項島(somokusomu)の鼠項を伝統的な発音表示法(「反切」)で読むと、鼠(so)の母音の(o)が除かれ、項(moku)の最初の子音である(m)が省かれて、鼠項は「soku」(石)となる。鼠項島(somokusomu)を「反切」で読むと、石島(sokusomu)となるのである。これは1882年の時点では、島の形状から島項(ソンモク)と表記されていたが、1900年に石島(sokusomu)となると、それと前後して、「反切」で「sokusomu」と読める鼠項島に、表記を変えたということである。欝陵島の東北数十メートルに位置する鼠項島(島項)は、石島と表記されていなくても、伝統的な発音表示法では石島(sokusomu)を示していたのである。島項は、『勅令第41号』の石島だったからである。それを保坂氏は、日本側が『勅令第41号』の石島を島項とすると、敢えて島項を避け、
観音島を問題にした。それも「観音島を石島と呼ぶ理由はありませんでした。そうなると石島に該当する島は独島しかありません」と、根拠も示さず、石島を独島と決め付けている。保坂氏は、『勅令第41号』の石島を独島とする証明ができないまま、その動画サイトでは、「韓国は1900年、官報に勅令第41号を掲載し、世界に向けて独島が韓国の所属であることを宣布しました」と、欺瞞に満ちた歴史を捏造していたのである。従って、『勅令第41号』の石島が独島でなかった以上、保坂祐二氏には「日本の独島編入は無効」と主張する資格がないのである。それを保坂氏は、「日本政府は、1905年1月28日に独島を無名、無国籍(=無主地)の無人島と規定し、本来、欝陵島の名前だった竹島を独島の名前として、2月22日に強制編入」したと、虚偽の歴史を語っているのである。保坂氏は、独島(竹島)を「無名、無国籍(=無主地)の無人島と規定」しているが、島根県に編入されるまでの竹島は「リャンコ島」と呼ばれ、無名ではなかったからだ。その事実をなぜ、保坂氏は隠すのか。保坂氏が、竹島を無名の島とし、「欝陵島の名前だった竹島を独島の名前として、2月22日に強制編入」したと強調したのは、竹島がリャンコ島と呼ばれていた事実が判明すれば、韓国側には都合が悪いからである。
江戸時代に松島と呼ばれていた竹島が、「リャンコ島」と呼称されたのは、1849年にフランスの捕鯨船リアンコールト号が竹島を発見し、海図や水路誌で「リアンコールト岩」等と表記されたことによる。それも英国海軍の海図(『日本‐日本、九州、四国及び韓国一部』)【写真5】(1863年版)等では、竹島(実在しないアルゴノート島)と松島(欝陵島)、それにリアンコールト岩(現在の竹島)が描かれ、当時の地図や海図では、欝陵島が松島と表記されていた。
【写真5】英国海軍の海図(『日本‐日本、九州、四国及び韓国一部』)(1863年版)
そのため島根県に編入される以前の現在の竹島は、1903年刊行の葛生修亮の『韓海通漁指針』でも所属が明確でなかった。『韓海通漁指針』では大韓帝国の疆界を「東経百二十四度三十分乃至百三十度三十五分」としており、「東経百三十一度五十二分」に位置するリャンコ島は、明らかに大韓帝国の疆域外に在ったからである。同じくリャンコ島が韓国領として認識されていなかった事実は、1900年の禹用鼎の『欝島記』や赤塚正助の「附図」でも確認ができる。リャンコ島は韓国領ではなく、「無主の地」だったからである。
これは1905年1月28日、日本政府が閣議決定で「他国ニ於テ之ヲ占領シタリト認ムベキ形跡」がないとし、「国際法上占領ノ事実アルモノト認メ之ヲ」島根県に編入しても、韓国側にはそれを「無効」とする資格がない、ということである。それを保坂氏が「本来、欝陵島の名前だった竹島を独島の名前として、2月22日に強制編入」したと批判するのは、言語道断である。保坂氏は何を根拠に、「強制編入」と言うのだろうか。それに「欝陵島の名前だった竹島を独島の名前」としたのも、正当な理由があったからである。
リャンコ島が島根県に編入される前年、島根県内務部長の堀信次は隠岐島司の東文輔に対し、「島嶼の命名」について照会していた。東文輔からの回答は、「その名称は竹島が適当」とするものであった。その根拠として東文輔は、「従来、欝陵島を竹島と呼んできたが、海図を見ると欝陵島には明らかに松島とある。そこで新島には、これまで誤称してきた呼称を転用して、竹島と名付けるべきだ」と具申していた。ここで東文輔が「従来、欝陵島を竹島と呼んできたが、海図を見ると欝陵島には明らかに松島とある」と回答したように、江戸時代に竹島と呼ばれていた欝陵島が、海図等では竹島の呼称であった松島と表記され、島名が入れ替わっていたからである。
それを保坂氏は、この事実を無視し、日本は「独島を新たに発見された島であるように見せかけて、世界を欺いたのです」、と世を欺く歴史を捏造したのである。「無主の地」を編入する日本側に、「独島を新たに発見された島」とする必要はない。保坂氏は何を根拠に、「強制編入」とするのだろうか。その根拠を保坂氏は、「真実2」で次のように述べている。
「【真実2】独島は無主の地でもありませんでした。日本は1870年に独島を朝鮮の付属。1877年には独島を日本領土の外と定めた公式文書を残しているからです」
だがこの二つの文献に証拠能力がない事実は、すでに前回の「『古文書を見ても独島は韓国領土』でない理由」で明らかにした。保坂氏は、佐田白茅の『朝鮮国交際始末内探書』を根拠に、「日本は1870年に独島を朝鮮の付属」とした、と力説する。だが本文では、「松島の儀に付、これまでも掲載せし書留」がない、と報告がなされている。佐田白茅は松島(竹島)が朝鮮領となったとする文献は存在しない、と復命していたのである。保坂祐二氏は文献の全体を読まず、その一部だけ読んで、我田引水的な解釈をしていたのである。
さらに保坂氏が「1877年には独島を日本領土の外と定めた公式文書」とするのが、「竹島外一島の儀、本邦関係これなし」とした、1877年の「太政官指令」である。だが「竹島外一島」とされた松島が現在の竹島ではなく、欝陵島であった事実はすでに実証されている。
太政官指令から四年後の1881年8月、外務省嘱託の北澤正誠が「今日ノ松島ハ即チ元禄十二年称スル所ノ竹島ニシテ、古来我版図外ノ地タルヤ知ルベシ」と『竹島考証』の中で報告し、外一島とされた松島が欝陵島であったことが判明したからだ。これを機に、明治政府は「日本称松嶋一名竹島、朝鮮称欝陵島」(日本称スル松嶋、一名竹島。朝鮮称スル欝陵島)として、欝陵島を松島とも呼ぶことになるのである。
この島名の混乱は、西洋の海図や地図で、欝陵島が松島と表記されたことに起因する。現に1904年11月30日、竹島の島根県編入に際し、隠岐島司の東文輔が「従来、欝陵島を竹島と呼んできたが、海図を見ると欝陵島には明らかに松島とある」と回答した事実が、その証左である。
それを保坂氏は、「日本は1870年に独島を朝鮮の付属。1877年には独島を日本領土の外と定めた公式文書を残している」と主張するが、それは文献を恣意的に解釈した結果である。保坂氏が1877年の太政官指令で「外一島」としたとする松島は、1881年の時点で、欝陵島であったことが確認されている。保坂氏が言う、「1877年には独島を日本領土の外と定めた公式文書」では、当時、松島と呼称していた欝陵島を「本邦関係これなし」とはしているが、リャンコ島(竹島)を日本の領土外とは言っていなかったのである。
保坂氏の動画サイトでは、「1905年、日本の独島編入は無効」としている。だがその根拠として挙げた文献は、いずれも保坂氏が文献の一部を恣意的に解釈したもので、証拠能力がなかった。保坂氏の主張は、「無効」なのである。
竹島は歴史的にも国際法上も、韓国領とは無縁の存在だったからである。それを保坂氏は、何ら根拠のない文献を並べ立て、さも歴史的根拠が存在するかのように装っては、日本批判を繰り返してきた。それも竹島の島根県編入後の「第二次日韓協約」、「第三次日韓協約」、「高宗の退位」等までも列挙し、「強圧的に行われた日本の独島侵奪は基本的に無効です」とする傍証としている。だが竹島問題の核心は、竹島の歴史的権原が日韓の何れに属すかにある。
その歴史的観点から見ても、保坂氏が「1905年、日本の独島編入は無効」とするために準備した論拠は、いずれも証拠能力がなかった。1900年の「勅令第41号」の石島は、欝陵島の東北数十メートルの島項であった。さらに太政官指令で「外一島」とされた松島は、竹島(独島)ではなく欝陵島のことであった。保坂祐二氏は歴史的根拠がないまま、「1905年、日本の独島編入は無効」と叫んでいたのである。
保坂氏が動画サイトを使い、竹島は韓国領と強弁すればするほど、竹島を不法占拠する韓国側の隠蔽工作が際立つだけである。語るに落ちるとは、このことを言う。竹島を不法占拠する韓国側が足掻けば足掻くほどその罪は深くなり、歴史に汚点を残すことになる。「独島の真実」とは、日本の領土を侵奪した韓国側が、その歴史事実に気付くことである。
(拓殖大学教授下條正男平成24年9月4日掲載)
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