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竹島の「真実」と独島の《虚偽》
第3回「古文書を見ても独島は韓国領土」でない理由
保坂祐二・金章勲氏のサイトでは、「古文書を見ても独島は韓国領土」として、次のように主張している。
「日本の古文書も独島は朝鮮領であり、日本の領土ではないと認めています。ですから独島が日本の固有領土と言う日本の主張は完全に虚偽であります。日本はこのような歴史を隠蔽しながら、韓国領独島を島根県に強制編入したのでした。」
(1)元禄八年十二月二十五日の鳥取藩の返答
だが保坂祐二氏のこの「主張は、完全に虚偽」である。保坂氏は、「欝陵島を往来していた鳥取藩は、独島(竹島)は鳥取藩の領地ではないと江戸幕府に報告していました」としているが、保坂氏の主張こそが事実を歪曲した偽りの主張だからである。
17世紀、「欝陵島を往来していた」のは鳥取藩ではなく、鳥取藩米子の大谷・村川の両家である。それも池田光政(松平新太郎)が鳥取藩(因幡・伯耆)に入封する元和4年(1618年)3月14日以後、監使として幕府から派遣された阿倍四郎五郎正之に、村川市兵衛等が欝陵島への渡海を願い出たことから始まっている。
一方、池田光政が幕府から因幡・伯耆を賜るのは、前年の元和3年(1617年)3月6日。この事実は、村川市兵衛等が欝陵島への渡海を願い出た時には、すでに鳥取藩の領地は定まっていたということである。欝陵島は、鳥取藩の領地とは関係がなかったのである。
その鳥取藩の江戸藩邸に対し、幕府は元禄8年(1695年)12月24日、欝陵島はいつから鳥取藩の付属となったのか。先祖からの領地であったのか。鳥取藩に入封後、領地となったのかを尋ねたのである。鳥取藩の返答は翌日、書付をもって幕府に提出された。
そこには「竹嶋は、因幡伯耆附属ニ而は御座無候」(欝陵島は、因幡伯耆の付属ではございません)とした文言に続き、「松平新太郎領国の節、御奉書をもって仰せ付けられ候旨承り候」(松平新太郎(池田光政)が鳥取藩の領地を与えられた時、奉書によって渡海が許されたと聞いている)とあった。鳥取藩では、村川市兵衛等が幕府に欝陵島渡海を願い出て、幕府から渡海免許(奉書)が給されていた事情を踏まえ、「欝陵島は、因幡伯耆の付属ではございません」、と返答していたのである。
それを保坂氏は、「松島(独島)は、日本のいかなる国にも属していません」、と解釈した。これは鳥取藩が、松平新太郎(池田光政)の鳥取入府後、大谷・村川家の欝陵島渡海が始まったとする返答を隠蔽し、「竹嶋松嶋」を鳥取藩付属の島ではないとした部分のみを根拠として、主張したのである。保坂祐二氏のその「主張は、完全に虚偽」である。
(2)佐田白茅等の『朝鮮国交際始末内探書』(1870年)
保坂祐二氏は、「日本の古文書も独島は朝鮮領であり、日本の領土ではないと認めています」と主張している。その根拠とされたのが、『朝鮮国交際始末内探書』である。『朝鮮国交際始末内探書』は1870年4月、朝鮮の釜山に出張した外務省出仕の佐田白茅等の復命書で、その調査項目の中に、「竹島松島朝鮮附属に相成り候始末」(竹島〈欝陵島〉と松島〈現在の竹島〉が朝鮮の附属の島となった経緯について)の一項があることから、それを根拠に松島(竹島)は朝鮮領になったというのである。
だがそれは調査項目であって、「独島は韓国領土」とする証拠にはならない。佐田白茅等はその調査項目に従って現地調査を行い、「松島の儀に付、これまでも掲載せし書留」がない、と報告しているからだ。佐田白茅等は、欝陵島が朝鮮領となった記録はあるが、隣島の松島(竹島)が朝鮮領となった記録はない、と復命していたのである。
それを保坂祐二氏は、佐田白茅等が「松島(竹島)が朝鮮領となった記録はない」とした決定的な箇所を無視「隠蔽し」、「日本の古文書も独島は朝鮮領であり、日本の領土ではないと認めています」と、真逆の結論を下したのである。これは自説にとって不都合な箇所を「隠蔽しながら」、サイトの閲覧者を欺瞞していたということである。
では佐田白茅等が朝鮮の釜山で現地調査をした1870年当時、朝鮮側では松島(竹島)を朝鮮領として認識していたのだろうか。同時代の金正浩の『大東輿地図』等には、今日の竹嶼である于山島は描かれているが、松島(竹島)を朝鮮領とする文献は存在しない。朝鮮側では、松島(竹島)を自国領として認識していなかったからである。これは佐田白茅等が、「松島の儀に付、これまでも掲載せし書留」がないとした復命とも矛盾しない。
保坂祐二氏は『朝鮮国交際始末内探書』の何を根拠に、「日本の古文書も独島は朝鮮領であり、日本の領土ではないと認めています」と主張するのだろうか。保坂祐二氏が開設した「独島」サイトは、閲覧者を誤導するためのプロパガンダでしかないのである。
(3)1877年の「太政官指令」と「磯竹島略図」
保坂祐二氏は、『朝鮮国交際始末内探書』の「7年後(1877)、当時、日本の最高権力機関であった太政官は、欝陵島(竹島)と独島(松島)は、日本領土ではないと内務省に通達しました」とし、その証拠として「太政官指令」を挙げた。そこには「竹島外一島の儀、本邦関係これなし」とあるからだ。さらに保坂氏は、「同じ文書の5ページに〈次に一島あり松島(独島)と呼ぶ〉と書かれています。そしてこの太政官指令文の付図は、二つの島が欝陵島と独島であるという事実を確実に見せています」とも主張している。
ところで保坂氏は、文献批判をしているのだろうか。保坂氏が「太政官指令文の付図」とする「磯竹島略図」と、「太政官指令」を収めた『公文録』と『太政類典第二編』には、島根県が提出した調査書類と、明治政府の資料が関連資料として合綴されており、島根県の提出書類か、明治政府の資料か区別して解釈する必要があるからだ。
事実、保坂氏が「太政官指令文の付図」とする「磯竹島略図」は島根県が提出した地図で、太政官指令文の付図ではない。それに保坂氏が、「同じ文書の5ページに〈次に一島あり松島(独島)と呼ぶ〉と書かれています」とした箇所も、島根県が政府に提出した調書の一部である。島根県では、江戸時代以来の地理的理解に基づき、欝陵島を磯竹島とし、現在の竹島を松島として、両島を島根県の版図とすべきとしていたからである。
だが竹島と松島に対する明治政府の認識は、異なっていた。当時、日本が参考にした西洋の海図等は、欝陵島に松島と表記したシーボルトの『日本図』(1840年)【図1】を踏襲していたため、実在しない竹島(アルゴノート島)と松島(欝陵島)が描かれていたからだ。その西洋の海図等に現在の竹島が描かれるのは1849年、フランスの捕鯨船リアンクール号が竹島を発見した後である。そのため一時期、海図等には竹島(アルゴノート島)と松島(欝陵島)、それにリアンクール岩(現在の竹島)が描かれるなどの混乱【図2】があった。
1877年、太政官指令で「竹島外一島の儀、本邦関係これなし」とされた竹島と外一島は、そのアルゴノート島と欝陵島である。
その事実が確認されたのは、太政官指令から四年後の1881年8月。外務省の指示で調査した北澤正誠が、「今日ノ松島ハ即チ元禄十二年称スル所ノ竹島ニシテ、古来我版図外ノ地タルヤ知ルベシ」(『竹島考証』)と報告してからである。以後、明治政府は北澤正誠の報告に従い、「日本称松嶋一名竹島、朝鮮称欝陵島」(日本称スル松嶋、一名竹島。朝鮮称スル欝陵島)としている。
これは島根県も同様で、島根県令の境二郎は1881年11月12日、「日本海内松島開墾之儀ニ付伺」を内務卿と農商務卿に提出した。この松島開墾の伺いに対し、内務卿山田顕義は翌年1月31日、「書面松島ノ義ハ、最前指令ノ通、本邦関係無之義ト可相心得、依テ開墾願ノ義ハ許可スベキ筋ニ無之候事」(書面の松島のことについては、この前の指令の通り、日本とは関係がないと心得るべきである。よって開墾の願いは許可することはできない)と島根県に指令した。島根県が開墾を願い出た松島は、「其景況東西トモ四五里、南北三里余、周廻十五六里」の広さを持つ、欝陵島であった。
北澤正誠の『竹島考証』と、内務卿山田顕義の指令でも明らかなように、1877年の太政官指令で「外一島」とされた松島は、保坂祐二氏が主張する独島ではなく欝陵島だったのである。保坂祐二氏が主張する、「正にこれが歴史の真実」である。
にもかかわらず、保坂祐二氏は次のように結論を締めくくった。「日本の古文書も、独島は朝鮮領土であり、日本の領土ではないと認めていいます。ですから独島の日本の固有領土と言う日本の主張は、完全な虚偽であります」。
だが保坂祐二氏の主張こそ、「完全な虚偽」だったのである。保坂祐二氏の竹島研究は、太政官指令で「竹島外一島の儀、本邦関係これなし」とあれば、それを無批判に根拠とし、『公文録』に「磯竹島略図」があれば、それを「太政官指令文の付図」とするなど杜撰であった。「太政官指令」を根拠とするのであれば、それがその後、どのように解釈されていったのか、傍証を挙げながら実証する必要がある。その作業を怠れば、自説に都合のよい部分だけを根拠に、虚偽の主張を繰り返すことになるからである。
保坂祐二氏は「古文書を見ても独島は韓国領土」としているが、それは羊頭狗肉の典型である。金章勲氏が支援する「独島」サイトは、閲覧する人々を誑かす、見本市なのである。
<図はクリックすると拡大します>
【図1】シーボルト「日本図」("KartevomJapanischenReiche")部分(1840年)
地図には、"Takashima(ArgounautIsland)"は、北緯37度52分、東経129度50分とされ、"Matsushima(DageletIsland)"は、北緯37度52分、東経37度25分、東経130度56分とされており、実在しないアルゴノート島にTakashima(=竹島)と表記され、ダジュレー島=欝陵島が松島とされた。北緯37度14分、東経131度52分に位置する現在の竹島は、1840年時点では西洋ではまだ発見されておらず、この地図には記載されていない。
【図2】英国海軍海図「日本−日本、九州、四国及び朝鮮の一部」
("Japan−Nipon,KiusiuandSikokandpartoftheKorea")部分(1863年)
地図には、朝鮮半島の東側に、"TakosimaorArgounautP.D."(タコ島=竹島、アルゴノート島)が点線で記され、"Matusima(DageletI.)"(松島、ダジュレー島=欝陵島)、さらに現在の竹島が、"LiancourtRks.,Eng.HornetIs.,Menelai&Olivutsa"と、フランス名、イギリス名、ロシア名で記されている。1849年、フランスの捕鯨船リアンクール号が現在の竹島を発見すると、西洋の海図には竹島(=アルゴノート島)と松島(=ダジュレー島=欝陵島)の他に、新たにリアンクール岩(現在の竹島)が登場し(図2)、その後、海図上から幻のアルゴノート島(竹島)が消えて、欝陵島は松島、現在の竹島はリアンクール岩とされた。
(拓殖大学教授下條正男平成24年6月20日掲載)
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