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竹島の「真実」と独島の《虚偽》
第2回「韓国古地図の于山島は独島」という真っ赤な嘘
保坂祐二・金章勲両氏の『独島の真実』サイトでは、『新増東国輿地勝覧』所収の「八道総図」(図1)と19世紀中頃に作成された『海東輿地図』(図2)を根拠に、「韓国古地図の于山島は独島」である、と主張している。
しかしその「八道総図」に描かれた于山島は欝陵島の西側にあり(図1)、欝陵島の東南約90キロに位置する竹島とするには都合が悪い。そこで保坂氏等が思いついた方便が、日本で「行基図」(図3)と俗称されている古地図を例証とし、その不都合を正当化することであった。保坂氏等によると、「行基図」の誤りは、「八道総図」よりはるかに大きい。にもかかわらず「八道総図」に描かれた于山島が欝陵島の西側にあるからといって、声高に批判するのはおかしい、という理屈である。だがそれは詭弁である。
「行基図」が不正確な地図という事実と、「八道総図」に于山島が描かれ、それが欝陵島の西側に位置していることの間には、相関性などないからだ。「韓国古地図の于山島は独島」と主張する前に、何故「八道総図」には于山島が描かれ、于山島が独島なのか、保坂氏にはそれを証明する責務がある。それもせずに「行基図」を引き合いに出し、「八道総図」の于山島を独島とするのは、史料操作を知らない者の付会の説である。
「八道総図」については、『東国輿地勝覧』(『新増東国輿地勝覧』)(注1)の序で、徐居正が明確に説明している。徐居正は「総図を京都の首(はじめ)に録し、各図を其の道の先に付す」とし、「書を披き以ってその事を考え、図を覧(見)て以って其の迹(あと)を観る」とするように、「八道総図」は『東国輿地勝覧』の記述を基に作図されていたのである。
これは『新増東国輿地勝覧』から于山島に関連する記事を探せば、「八道総図」の于山島がどのような島か、明らかにできるということである。そこで『新増東国輿地勝覧』の「蔚珍縣條」(「山川」)を見ると、次の記述がある。
「太宗時、聞流民逃其島者甚多。再命三陟人金麟雨為按撫使、刷出空其地」
(太宗の時、流民のその島に逃れる者、甚だ多しと聞き、三陟の人、金麟雨を再命して按撫使と為し、刷出して其の地を空しうせしむ)
これは太宗16(1416)年9月、金麟雨が武陵等處按撫使に任命され、太宗17(1417)年2月5日に復命する時までの記録で、『太宗実録』の記事が基になっている。その『太宗実録』での于山島の初見は、「太宗17年2月壬戌条」である。そこでは武陵島(欝陵島)から帰還したはずの金麟雨が、于山島の住人三名を伴い、「于山島より還る」と復命している。その後、『太宗実録』では于山島を実在の島とし、于山人が居住していた。
では于山島とは、どのような島なのか。『太宗実録』(太宗17年2月乙丑条)によると、于山島から戻った金麟雨は、「其の島の戸、凡そ十五口、男女併せて八十六」名と報告している。于山島には十五戸が入居し、八十六名もの人が住んでいた。この十五という戸数は、『太宗実録』(太宗16年9月庚寅条)で、戸曹参判の朴習が、武陵島(欝陵島)には「昔、方之用なる者あり。十五家を率いて入居」と報告した十五家と一致する。この一致は、『太宗実録』と「八道総図」に描かれた于山島は、欝陵島と同島異名の島であったということを示している。事実、欝陵島の周辺に十五戸、八十六名の人々が居住できる島はなく、ましてや岩礁の島、現在の竹島ではないからである。
だが『東国輿地勝覧』(1481年成立)が編纂され、「八道総図」に欝陵島の四分の三ほどの大きさの于山島が描かれた時点では、于山島と欝陵島の区別ができていなかった。それを示す痕跡は、『東国輿地勝覧』(「蔚珍縣條」)の分註にある。『東国輿地勝覧』の本文では「于山島欝陵島」と、二島とするが、分註では「一説、于山欝陵本一島」と一島とするなど、二島か一島か、特定ができずにいるからだ。これは『東国輿地勝覧』よりも前に編纂された『世宗実録地理志』(1454年成立)も同様で、本文では「于山武陵の二島、縣の正東の海中に在り」とし、分註でも「二島相去ること遠からず」とするに止まり、于山島に関する記述がないからだ。これは『世宗実録地理志』や『東国輿地勝覧』が編纂された当時、于山島と欝陵島の区別ができなかったことの証左である。そのため『世宗実録地理志』と『東国輿地勝覧』の本文では于山島と欝陵島を列挙し、『東国輿地勝覧』の「八道総図」には于山島が描かれたのである。それも欝陵島の西側、朝鮮半島と欝陵島の間に描かれるなど、杜撰であった。
だが欝陵島から帰還した金麟雨が、「于山島より還る」と復命したように、于山島は欝陵島の別称である。それは韓百謙が『東国地理誌』(1615年)で、新羅国の封疆には、于山国に由来する于山島のみを記載し、『新増東国輿地勝覧』を基に編修した金正浩の『大東地志』(1864年)では、于山島を削除して、欝陵島だけを残した事実からも言える。保坂氏は文献批判もせず、「八道総図」に描かれた于山島を独島(竹島)と独断しているが、その主張は朝鮮時代の韓百謙や金正浩等(注2)によって、すでに否定されていたのである。
では次に、保坂氏が証拠としてあげた『海東輿地図』(図2)の于山島は、今日の竹島(韓国名、独島)だったのだろうか。保坂氏は「韓国地図の于山島には峰があり、于山島は独島であると言うしかありません」とし、その証拠として19世紀半ばに成立した『海東輿地図』を挙げた。保坂氏は于山島に峰が描かれていることが、于山島を竹島とする証拠と考えたようである。そこで保坂氏は、自説を補強するため、「18世紀に作成された江原道地図の于山島には二つの峰が描かれています」として、『江原道地図』(図4)をその証拠に加えている。
だが保坂氏の詭弁は、ここで見事に馬脚を現してしまった。『海東輿地図』(図2)には峰が一つ描かれているが、『江原道地図』(図4)には峰が二つ描かれているからだ。これは于山島の峰は恣意的に描かれていたことを示すもので、峰の存在が于山島を竹島とする証拠にはならない、ということである。それを保坂氏は、峰の存在を根拠として、「以上のように、16世紀には于山島の位置が誤って描かれましたが、近代に近付くに従って于山島は欝陵島の東に正確に描かれるようになり、峰の存在で確かに独島であると確認できます。すなわち于山島は韓国領土である独島に外なりません」と結論付けたのである。
しかし16世紀、「八道総図」に描かれた于山島は、欝陵島の別称で、欝陵島が二つ描かれていただけである。保坂祐二氏は、「八道総図」の于山島と、『海東輿地図』の于山島を同一の于山島と見ているが、それは史料批判を怠った者の臆説である。『東国輿地勝覧』の記事に依拠した「八道総図」の于山島とは違い、『海東輿地図』の于山島は『東国輿地勝覧』とは別の系譜に属しているからだ。保坂氏が根拠とした『海東輿地図』の于山島は、1711年、欝陵島捜討使朴錫昌が作成した『欝陵島図形』(図5)に由来する。その『欝陵島図形』では欝陵島の東側に于山島が描かれ、そこには「所謂于山島/海長竹田」と明記されている。
保坂氏は「近代に近付くに従って、于山島は欝陵島の東に正確に描かれるように」なったとし、その根拠として19世紀の『海東輿地図』を挙げているが、それは1711年の朴錫昌の『欝陵島図形』から始まった欝陵島像である。保坂氏が根拠とした『海東輿地図』は、朴錫昌の『欝陵島図形』の欝陵島像を踏襲して、作成されたものである。その『欝陵島図形』と『海東輿地図』の違いは、『欝陵島図形』の于山島には「所謂于山島/海長竹田」と表記されているが、峰は描かれていないという事実である。その于山島に峰が描き加えられるのは、『欝陵島図形』の欝陵島像が確立して後である。これは朝鮮時代の地図の多くが、既存の地図を参考に、転写を重ねて作図されていたという事情による。その転写の過程では、脱落もしくは加筆がなされた。欝陵島に限って言えば、はじめ道洞にあった倭船艙は、しだいに天府に移り、「海長竹田」の代わりに峰が描かれることになるのである。
それを保坂祐二氏は、于山島に峰が描かれていることを根拠に、『江原道地図』(18世紀)、『海左全図』(19世紀初)、『海東輿地図』(19世紀半ば)を挙げ、「近代に近付くに従って于山島は欝陵島の東に正確に描かれるように」なったというのである。だがそれは、いずれも正確な欝陵島像が崩れた後に作画された地図である。
1711年、朴錫昌の『欝陵島図形』には、于山島に「海長竹田」と記されていた。そのためこの于山島は、後に竹嶼とも呼ばれ、1900年の『勅令第41号』では、竹島(チクトウ)とされたのである。朴錫昌の『欝陵島図形』に描かれた于山島が、そのチクトウである事実は、韓国の研究者達によっても明らかにされている。保坂祐二氏と金章勲氏は、何故その事実を無視するのであろうか。
保坂祐二氏と金章勲氏が開設した「独島の真実」サイトは、歴史の事実を無視した政治宣伝である。「独島の虚偽」、これこそが「独島の真実」である。
注1:1481年に成立した『東国輿地勝覧』(五十巻)は、1530年、増補が行われ『新増東国輿地勝覧』(五十五巻)となった。その際、『東国輿地勝覧』を基本とし、補筆された部分には「新増」とした付記が付けられた。
注2:『春官志』(李孟休)、『輿地図書』等
<図はクリックすると拡大します(PDF)>
図11530年『新増東国輿地勝覧』所収の「八道総図」
図219世紀中頃作成『海東輿地図』(部分)
この地図には方眼線が入っており、方眼線は方位と距離を示すことから、「于山島」が、欝陵島の南東87kmに位置する竹島ではなく、欝陵島の北東2kmに位置する竹嶼(韓国名竹島(チクトウ)を指すことは明らかである。
図3行基図
図418世紀作成『江原道地図』(全体及び部分)
この地図においても、島の位置、方位から、「于山島」が、欝陵島の南東87kmに位置する竹島ではなく、欝陵島の北東2kmに位置する竹嶼(韓国名竹島(チクトウ)を指すことは明らかである。
図51711年作成『欝陵島図形』(全体及び部分)
欝陵島の東側に位置する島に「所謂于山島」、「海長竹田」という表記がみられる。海長竹とは竹の種類で女竹(めだけ)のことである。現在の竹島は岩島であり、竹田があるということなので于山島は現在の竹島ではない。この地図の于山島は鬱陵島近くの竹嶼(韓国名竹島(チクトウ))である。
(拓殖大学教授下條正男平成24年5月29日掲載)
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