杉原通信「郷土の歴史から学ぶ竹島問題」
第28回朝凪(あさなぎ)丸と鵬(おおとり)丸
李承晩ラインが設定された前後に、鳥取県の高校と島根県の高校の実習船が竹島に行った歴史が存在しますので、そのことを紹介しておきたいと思います。
昭和26(1951)年9月サンフランシスコ平和条約が調印され、日本は国際社会に復帰を許されることになりました。敗戦後GHQ(連合国最高司令官総司令部)の統治下にあった日本は、小笠原諸島、沖縄列島等と共に竹島も本土から行政上分離されていました。特に竹島は駐留米軍の空軍が爆撃演習の標的に利用したので、絶対に近づけない島でした。サンフランシスコ平和条約が調印され、竹島の施政権がもどることになったのです。
この朗報を聞いて、爆撃演習で部分的には破壊されているはずの竹島、かつて好漁場とされていた竹島周辺の現状を確認したいと考えたのが、鳥取県境高校水産科の関係者でした。そして昭和26年11月13日、実習船「朝凪丸」で水産科の関係者4名と朝日新聞社の記者とカメラマンの総勢6名が竹島を目指して出航しました。当時同校の教諭であった吉岡博氏と実習助手の米沢昭利氏が現在もご健在であり、特に吉岡氏は帰港後すぐに『竹島渡航記』を書いておられますので、それを拝借して状況を粗描してみます。
11月13日午後1時、16トンの朝凪丸で境港を出発し、巡視船「すずつき」から教わった方角に船を進めると、翌朝9時15分竹島より西の鬱陵島が見えてきました。あわててコンパスで方角を修正し、午後3時30分竹島に無事到着しました。島の周囲を一巡して上陸地点を探し、東島の浜に上陸しました。水深は島の接岸場所の真下でも570メートルから700メートルもあり、大船巨腹でも容易に接近できますが、周囲がいずれも断崖で船を繋ぐ事は出来ない状況でした。
東島には朝鮮人のものと思われる漁具や、アメリカ軍の爆撃演習で島に居て亡くなった朝鮮人の慰霊碑がありました。島の周囲には、いたるところに洞窟があり、特に東島には島の縦、横を貫通している大きな洞窟がありました。この洞窟内にはアシカの姿が見られ、数にして100頭前後は居るように思えたそうです。対馬暖流の栄養塩やプランクトンによってイワシ、ブリ、サバ、イカ等が多く集まり、また海底からの湧昇流によってコンブ、ワカメが繁茂していることが実感出来たそうです。
14日午後5時頃竹島を離れ、16日午前10時50分西郷港に寄港し、境港へは16日午後5時に到着しています。吉岡さんはこの記録に、竹島へはかなり継続的に朝鮮の人達が水産物を求めて渡っていた形跡があり、放置しておくならば、やがて朝鮮の人達が一切の権利を主張し、日本人の立ち入りを禁止し、自国領と宣言するに至るであろうから、一刻も早く適切な処置をとって日本漁民の出漁出来ることを願うものであると、末尾に記しておられます。
しかし、吉岡さんの危惧に対応する余裕もなく、それから2ヶ月後の昭和27年1月18日、大韓民国の初代大統領李承晩(イスンマン)が海洋主権宣言を発し、竹島を含む朝鮮半島近海を自国の海であると宣言しました。前回述べましたいわゆる李承晩ラインの設定です。
日本政府はそれから10日後、正式に韓国側へ抗議しました。日本と韓国の国交正常化交渉の本会談の始まる予定の1ヶ月前のことで、交渉は大幅に遅れることになりました。
昭和28年に入ると李承晩大統領は李承晩ライン内に出漁した日本漁船の拿捕を指示し、2月4日には済州島西方約20カイリ付近で第一大邦丸という船が韓国側に拿捕され、漁労長が射殺される悲劇も生まれました。韓国側は2月27日には具体的に独島(ドクト・竹島)の領有に関する声明を発表しました。
いよいよ竹島周辺の海域での緊張が高まるなか、5月28日に対馬海流の調査をしていた島根県の水産試験場の試験船「島根丸」が、竹島のそばで韓国旗を掲げた動力船6隻と無動力船6隻が海藻や貝類を採取しているのを発見しました。6月に入って再度調査に出た島根丸は竹島に人影も見ました。島根県から報告を受けた日本の外務省は、6月23日韓国漁船の領海侵犯を厳しく抗議しました。
日本国民も島根県民も固唾を呑んで事態の動向を見守っている中、6月25日に隠岐高校水産科の実習船「鵬丸」が、市川忠雄校長の指示で竹島の現況調査に竹島に向かいました。当時水産科の教諭で現在もご健在の岩滝克己氏によると、鵬丸は50トンの実習船で、7人(同乗した毎日新聞の記者の記事では9人)が乗り組んで、約8時間で竹島に着いたそうです。
島には韓国人が6人おり、コンブやワカメ、アワビを取っていました。彼らは境高校の人も見たアメリカ空軍の射撃で死んだ韓国人の慰霊碑の傍に、テントを張って生活していました。鵬丸の機関長で、20数年朝鮮本土で生活し朝鮮語が堪能だった原和平氏(ご健在)が話しかけると、鬱陵島からの食糧を運ぶ船が最近来ないので食糧が底をつき困っているというので、米6升とたばこを分けました。彼らはお礼にと、子供のアシカを捕え料理をしてふるまいました。『毎日新聞』昭和28年6月27日付けの島根版の紙面は、「問題の「竹島」現地レポ−まだいた韓国人漁夫、アシカの料理で歓待−」の見出しで報じています。
鵬丸は6月26日の午後西郷港に帰港していますが、その間に一つの問題が発生していました。鵬丸が出発する時、同行を希望し断られたある新聞社の記者が、島根県教育委員会へ隠岐高校の行動を連絡したのです。丁度島根県と海上保安庁の合同調査団が秘密裡に竹島へ向かう直前のことでもあったため、県教育委員会は市川忠雄校長に鵬丸を引き帰させるように連絡しました。当時実習船の県内の海域への出航は学校長の決裁事項でしたので、島根県内の海、島根県所属の竹島の調査は自分の権限だとして市川校長はこれを断りました。県の教育委員会はやむを得ず鵬丸に無線連絡しましたが、岩滝氏や原氏は傍受出来なかったと証言されています。緊急に市川校長を呼んでの隠岐で開かれた県教育委員会は、県の指示に従わなかったとして市川校長への処分を決定しました。
日ごろから豪快で強い信念に基づく言動の多かった市川校長を敬愛し、この決定を不服と考える隠岐の人達は現在でも多くいらっしゃいます。
なお、私達が平成21(2009)年10月24日に、松江市美保関町片江地区の6人の漁師さんから、竹島周辺でのイカ漁についての聞き取り調査をしたところ、そのうちの佐々木宏さんが、太平洋戦争中の昭和19年7月、鵬丸で竹島へ行き、3日間を竹島で過ごした体験を話されました。隠岐高校に統合される前の隠岐水産学校の生徒であった佐々木さん等に、学校から竹島の海鳥の糞の蓄積で生じたリン鉱石の調査が指示され、竹島に渡られたのです。佐々木さんはリン鉱石の調査より、その時潜って見た竹島周辺の魚貝類の豊富さが印象深かったと、その時の思い出を語ってくださいました。
写真1朝凪丸船上から見た竹島〔島根県所蔵〕
(昭和26年11月14日撮影)
(主な参考文献)
・『竹島渡航記』(竹島資料室所蔵)
・『隠岐水産高校創立七十周年記念誌』昭和58(1983)年
・『日韓漁業対策運動史』日韓漁業協議会昭和43(1968)年
・「竹島周辺で行われたイカ漁松江の漁業者に聞き取り」『山陰中央新報』平成21(2009)年10月25日付
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