杉原通信「郷土の歴史から学ぶ竹島問題」
第22回鬱陵島友会報は語る−(2)大正・昭和期の生活−
『鬱陵島友会報』の第1号には、昭和39(1964)年10月段階での「鬱陵島居住判明者名簿」が掲載されています。前回の第20回杉原通信でお話しした、明治37、38年の鬱陵島在住日本人の職業と比べると、大正・昭和初期には旅館業、薬局、学校教員、寺院僧侶等新しい職種が目につきます。
明治39(1906)年に、竹島視察の島根県第三部長神西由太郎等45名の者が、鬱陵島へ折からの風波をさけて避難しますが、その時は旅館がなく、日本人3人の個人宅に分散して休息させてもらっています。それが今や旅館が島に2軒誕生しています。この視察団45名の中に隠岐島司東文輔(ひがしぶんすけ)もいますが、いつからか鬱陵島にも島司(とうし)という全体を統率する役職が出来ていますし、郵便局長、警察署長、道洞や天府、台霞の小学校長になっている人もいます。
こうした大正・昭和初期に鬱陵島に居た人達の会報に載る回想を以下紹介しますが、氏名の発表を承諾いただいた奥村家以外は物故者、現存者とも個人情報保護のため、苗字をイニシャルで示すことにとどめさせていただきます。
まず、この会報の編集者が歴代の島司の多くの方の帰国後の住所が不明とする中で、昭和15(1940)年から19年まで島司を務めたSさんは、鬱陵島の自然を「山美わしく、水清かりし鬱陵島。ほの暗いランプの下の、冬の夜の団欒(だんらん)。吹雪がいつの間にか止んで、寒月に皓々(こうこう)と冴え輝いていた三角山(尖峯ともいう)の崇高な容姿。その中腹に群生していた石楠花(しゃくなげ)の花の気品に充ちた可憐さ。夏のムシゲ(苧洞)の入り江の泳ぎ疲れた頃の紺碧を湛えた静かな海等々終生忘れ難い印象でありますが、今最も強烈なイメージをよび起こすものは、あの海岸線を囲んで削り取られたような断崖絶壁の到る処に密生していた白檀(びゃくだん)等の常緑樹であります。太陽に月光に映えて時々刻々多彩な色と翳(かげ)の変化を見せていた、あの岩肌のわずかな隙間に深い根を張って、逆まく怒涛の吹き上げる潮風にさらされ、丈余の雪の重みにも耐えながら、常に深い緑に香っていた樹々は、まさに鬱陵島開拓史のシンボルと云うべく希望と忍耐、生への意欲と乏しさにも感謝することを教示するものであります」と記されています。
明治時代の終わりの頃の3歳の時から島で育って、終戦で引き揚げたというMさんは、上記の島司Sさんについて警察署長を兼ねていたと回想しています。Mさんは戦後奥村亮氏等とともに、外務省の担当者に鬱陵島等での生活の思い出を語った一人ですが、「小学校時代、自分達は鬱陵島のことを竹島と呼んでいたが、海図には松島となっていることを知っていた。現在の竹島はリャンコ島と呼んでいた」、「鬱陵島からリャンコ島へは漁業権の関係で、一般の漁民は行かなかった。オクムラが潜水でアワビとりに毎年行くのと、Mがワカメ刈りに明治から昭和まで、時々でかけた」、「鬱陵島からリャンコ島は良く見える。高い山に上らなくても小高い所からよく見えた。天気のよい曇らぬ日にははっきり見えた。三角形が二つ見えた」、「父は鬱陵島の小学校の校長をしていたが、以前朝鮮本土の大邱の小学校の先生をしており、そのころの思い出に(朝鮮本土の)蔚珍や竹辺湾の高い所から鬱陵島を見たことがある。△の形で見えた」等貴重な回想を残されています。奥村家が、隠岐五箇村の八幡長四郎氏の持つ竹島での漁業権を金銭によって借用していたことは知られていましたが、毎年アワビ取りに渡島していたとすれば、漁獲する具体的な物を限定して借用していたと思われます。なお「オクムラ」とは、奥村亮氏が明治44年生まれでMさんと同じ世代ですから、亮氏のことを言っているのでしょう。
鬱陵島から竹島が見えることは、現在ご健在の松江市八束町のNさん、隠岐郡隠岐の島町のNさんも、私達の聞き取り調査に「見える」と回答されていますし、最近航空自衛隊の専門官に海抜300メートルの高さの所からなら92キロメートル先はみえると教えてもらいました。晴れた日に朝鮮本土から木々と砂浜のある島が見えることは、朝鮮の古い地誌に書かれていますが、140キロメートルは離れている鬱陵島が見える地点は解明されていませんでした※。しかし、Mさんによって朝鮮半島の蔚珍や竹辺湾の高所からは見えることが判明しました。Mさんは昭和28年島根県の中学校の先生であった時に、外務省の聞き取りに応じておられますが、名簿では日本に帰国して昭和39年までに死亡した者の中にその名があります。
その他、鬱陵島は水田が乏しく、大部分が畑作で作物はとうもろこし、大豆、大麻、楮(こうぞ)等であること、道洞は釜山から月5回、鳥取県境港からは月2回の定期船が往来したこと、陸上の交通は不便で荷車、自転車など1台もなく、各入江にある集落へは舟を利用していたこと等が点々と回想されています。
※その後読者から、召公臺、(旧)望洋亭から見えると書かれていると教えていただきました。(2009年12月18日追記)
(主な参考文献)
・『鬱陵島友会報』第1号昭和39(1964)年10月
・『鬱陵島友会報』第3号昭和40(1965)年11月
・『鬱陵島友会報』第5号昭和42(1967)年11月
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