杉原通信「郷土の歴史から学ぶ竹島問題」
第20回竹島漁猟合資会社について
先年、隠岐の島町役場から、同町の共同墓地の無縁仏となって廃棄された墓石の一つに、「竹島漁猟合資会社建立之」と刻字があるものを町民が発見したという報告がありました。すぐ渡島して確認したところ、表には34歳という年齢と個人名、裏面には明治40年に竹島漁猟合資会社が建立したとありました。普通墓石は本人の家族が建てるもので、会社が建てるということは会社にとって重要な人物か、会社での事故か、隆盛な会社の誇示なのか考えさせられる墓石です。
竹島漁猟合資会社とは、明治38(1905)年2月22日竹島が島根県所属と決定すると、県が同年4月漁業取締規則を改正して竹島のアシカ漁を許可漁業としましたが、隠岐島司がこの許可書を獲得した者に指導して、共同で漁をするために作らせた会社です。
政府へ「りゃんこ島領土編入並貸下願」を出した中井養三郎も、「アシカ群集ニ及ボス競争捕獲ノ害」を訴えていましたので、会社組織での漁に賛同しました。島根県は竹島でのアシカ漁の経験のある穏地郡西郷町(現在の隠岐の島町)の中井養三郎、加藤重蔵、同じく中村(隠岐の島町)の井口龍太、五箇村(隠岐の島町)の橋岡友次郎の4名に許可書と鑑札を与えました。穏地郡浦郷村の淀江徳若、八束郡森山村の加納仙吉、鳥取県東伯郡赤埼村島田虎蔵等も希望しましたが許可されませんでした。
会社は同年6月には稼働していますが、会社の「明治39年度計算書」には「明治39年度ハ前年度失敗ノ余弊ヲ受ケ、資本ハ空乏シ信用ハ地を掃キ」、「本年度ノ本社ノ経済ハ資本払込額ハ僅カニ八百円ニ過キザルニ、前年度ノ損失額ハ実ニ二千五百円ニノボリ(中略)、然レドモ本社ノ未払込資本金ハ弐千弐百円ノ余裕ヲ存スルヲ以テ、本員ハ其ノ払込ヲ得テ此不足ヲ償ヒ及ビ本年度営業ノ資ニ供セントシタル」とあります。
明治40年1月の西郷町役場からの会社資金状況の問い合わせには、「資金総額3000円、払込済額1000円、社債現在額1500円、積立金ナシ」と、順調とはいえない会社の出発時の状況を回答しています。
また、県は明治38年5月隠岐島庁に竹島の正確な測量を命じ、「弐拾参町参反参畝歩」(約23万平方メートル)の報告を得ると、竹島を官有地としたうえで、会社に使用料の納付を命じました。明治39年から年額4円20銭で、大正5(1916)年からは年額4円70銭に増額されています。なお、この官有地貸付願と使用料納付は、竹島漁猟合資会社代表社員中井養三郎名義で昭和3(1928)年までなされ、昭和4年から16年までは五箇村八幡長四郎となっています。
負債を抱えての会社の出発でしたが、竹島でのアシカ漁は順調でした。明治39年度は約1300頭、翌40年度は約2000頭、41年度は1800頭を捕獲しています。捕獲方法は棒等での撲殺、鉄砲での銃殺でした。会社が残した資料によると、それを皮、油に分け、また肉・骨は肥料として大阪以西で販売しました。会社所有船の竹島丸、千島丸、大成丸がその任務にあたりました。
会社はアシカ漁のほか、竹島周辺で海草、サザエ、アワビの漁も許可されていますが、竹島へ植物の種や植樹をする義務も負っていました。
竹島漁猟合資会社が順調に収入を伸ばしている頃、竹島に密漁者が現れ、そのため会社は西郷警察所に取り締まりを求めています。その中の一人に鹿児島県川辺郡知覧村の中渡瀬仁助という人物がいました。この人物はまもなく同会社の社員となり、明治時代から昭和初期まで30年余り竹島に渡り、アシカ漁の鉄砲打ちの名人として有名となりました。現存するニホンアシカの剥製で最大とされる、大阪の天王寺動物園の「リャンコ大王」と呼ばれる剥製は、中渡瀬仁助が銃弾1発で仕留めたとされ、頭の耳の近くに貫通した弾痕も残っています。なお、昭和期の竹島でのアシカ漁の写真は、隠岐の島町五箇の隠岐郷土館に保存されています。
竹島漁猟合資会社は、現在の隠岐の島町西町指向(さしむこう)にあり、海に接していたので会社の船もここから竹島に向け出航しました。明治40年6月、橋岡友次郎と輩下の石田伸次郎が、米や雑貨を竹島へ輸送しようと会社の船「竹島丸」で運ぼうとしましたが、途中で暴風雨に遭い竹島に着岸できず、鬱陵島の道洞(トドン)に接岸しました。翌日荒れる海の中で竹島に強行接岸をし、船が大破損をしたという記録が残っています。
大正時代に入ると、中井養三郎は北海道庁へ千島付近での水産業の着手を願い出ます。許可されると、竹島漁猟合資会社の権利を息子の中井養一に譲渡しました。また、橋岡友次郎も死亡し、息子の忠重に権利委譲されています。これは、大正4年4月30日付けで島根県知事折原己一郎に願い出て認められています。
中井養一はしばらく会社運営にあたり、竹島にも渡りましたが、昭和3年漁業権を八幡長四郎に売り渡し、隠岐を去っています。
昭和期の竹島でのアシカ漁については、橋岡忠重が残した「口述書」が多くのことを教えてくれます。この頃になると、木下サーカス、矢野サーカスといった興業主が見世物にする生きたアシカを求めるので、アシカの生息する洞窟の入口に網を張り、追い出しては捕獲する方法が多くなりました。しかし乱獲が響き、30頭の注文を受けて橋岡忠重自ら竹島に渡り指揮をとったにもかかわらず、50日間に29頭しかとれませんでした。アワビ漁も並行して行いましたが、それを担当したのは海女の多い済州島の朝鮮人の女性達でした。命をかけて潜水する女性達に、橋岡はアシカ漁をする日本の男よりも高い賃金を支払っています。
会社は大正15年までは法的に存在しますが、共同活動は形骸化し、漁業権を持つ者の単独行動や金銭による漁業権の貸与が盛んになり、橋岡忠重も鬱陵島で大きな缶詰工場を経営していた八束郡加賀出身(現在の松江市)の奥村平太郎に、長期にわたって権利を譲っています。
そして、昭和16年12月太平洋戦争が勃発すると、竹島出漁は全面的に停止されました。
隠岐の島町西郷にある竹島漁猟合資会社建立の墓石(明治40〔1907〕年)
(主な参考文献)
・田村清三郎『島根県竹島の新研究』島根県総務部総務課昭和40(1965)年
・島根県行政文書『渉外関係綴』島根県総務部総務課所蔵
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