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杉原通信「郷土の歴史から学ぶ竹島問題」

第19回鬱島郡守沈興澤と島根県調査団


明治38(1905)年2月22日島根県の松永武吉知事は、竹島が島根県の所属となったことを告示の形で発表しました。そしてこの年の8月、自ら県職員および県警察官3名を連れて竹島の視察をしました。生きたニホンアシカの子供3頭を連れ帰り、県庁の池で飼育が試みられましたが、まもなく3頭とも死亡しましたので剥製にしました。その剥製は長らくどこにあるか所在不明でしたが、まず島根県立出雲高校、続いて県立大社高校、そして平成11(1999)年3月最後の1頭が県立松江北高校の、いずれも理科室の標本の中から見つかりました。

翌年の明治39年3月、島根県は各方面の代表45名からなる視察団を結成し、竹島の調査を行い全貌を把握しようとしました。団長は島根県庁の第三部長神西由太郎(じんざいよしたろう)、それに隠岐島の行政の長の島司(とうし)という職にあった東文輔(ひがしぶんすけ)、日本政府に竹島の領土編入と貸下げを願い出た中井養三郎、八束郡秋鹿(あいか)村(現在松江市秋鹿町)の尋常小学校の校長で、のちにこの時の調査の詳細な記録集『竹島及鬱陵島』を刊行した奥原福市(碧雲)等も参加していました。

彼等の乗った第2隠岐丸は、数日続いた悪天候の合間をぬって3月26日の夕方出発し、翌朝竹島に到着しました。奥原碧雲は、「竹島に近づくと3匹の鯱(シャチ)が猛然と船に突進し、無数の海鴎(カモメ)が海上を乱舞し、数千の海驢(アシカ)が岩頭に群集し叫び声をあげた」と記しています。全員で手分けをして島全体を調査した後、海が荒れて来たので92キロメートル先の日本人も多数居住している鬱陵島へ、その日の午後移動しました。鬱陵島は、1900年に竹嶼(ちくしょ)と石島との3島で鬱島郡という郡となりました。鬱陵島の道洞(トドン)に郡庁を置き、朝鮮本土から郡守(長官)が赴任していました。

ところで、この鬱島郡3島の内の「石島」が韓国では日本でいう「竹島」のこととされ、5年後の1905年に日本が略奪したとされています。しかし、韓国で当時発行されていた「皇城新聞」に、鬱島郡の範囲を東西、南北の距離で示した記事がありますが、それによると鬱陵島からわずかの海上までの距離で、92キロメートル離れた日本の竹島とはとても考えられません。私達は竹嶼の近くにある観音島のことだと考えていますが、石島とは固有の島名でなく観音島や周辺にある多数の岩礁を総称したものだという研究者もいます。

さて、島根県の視察団が鬱陵島を訪れた時の鬱島郡守は、沈興澤(シム・フンテク)という52歳の人物でした。翌日の3月28日、島根県視察団の10数人が代表して郡庁を訪問し、沈興澤に対面しました。沈興澤は白い衣類を身につけ、冠をかぶり、たばこを吸う時に用いる長い「きせる」を持ち座布団の上に座っていました。神西部長が島根県視察団の来訪の理由を説明し、竹島で捕獲したアシカ1頭をお土産として差し出すと、郡守は遠路の船旅の労をねぎらい、アシカの贈り物にお礼の言葉を述べました。ただ島の行政等の質問にはあいまいな回答しかしなかったと、奥原碧雲はその著書に書いています。

会談が終わると、訪問団と沈興澤等郡庁の関係者は記念の集合写真を撮っています。島根県視察団はその日の夕方鬱陵島を離れ、一路隠岐の西郷港を目指し翌29日午後4時頃帰着しました。

一方、沈興澤は島根県視察団が船で島を去ると、3月29日(陰暦3月5日)鬱島郡が所属する江原道(カンウォンド)の道庁に、いわゆる「沈興澤報告書」と呼ばれるものを提出しました。それには「本郡所属の独島(ドクト)は外洋にあり、100余里も離れているが、3月28日、日本の官人達がやって来て、独島がこの度日本領地に編入されたので視察に来たと言った。官人の代表は日本島根県隠岐島司東文輔、事務官神西由太郎、税務監督局長吉田平吾、分署長警部影山岩八郎等であった。彼等は鬱陵島の戸数、人口と土地の生産物の多少等について質問した。こうした状況に対して検討されることを願う。」というものでした。

これに対して議政府参政大臣朴斉純は「独島が日本領になったということは、全く根拠のないことであるが、さらに独島の状況と日本人の行動について報告すること。」という指示を出しています。注目すべきは、沈興澤や朴斉純が竹島のことを現在韓国で使われている「独島」という言葉で語っていることです。日本の文献では、明治37(1904)年9月に書かれた『軍艦新高(にいたか)戦時日誌』に、竹島に行った人の聞き取り情報として「リァンコルド岩を韓国人は独島と書し、日本の漁夫達は『リアンコ島』と呼称している」と書かれています。

独島の島名は公的機関から命名されたものではなく、恐らく日本人に雇われて鬱陵島から竹島に渡り漁業を手伝った朝鮮の人達が、遠い場所に位置する孤独な島のイメージを「独島」の言葉で表現し、それが定着して沈興澤のような郡守も用いる段階になっていたと想像されます。

また、沈興澤が独島を「本郡所属の外洋100余里も離れたところにある島」と表現していることから、石島のような本郡を構成する島でなく、鬱陵島の属島といった認識の島であったことが推定されます。

なお、最近韓国では竹島周辺の海底の堆(たい)、つまり「バンク」に竹島問題に重要な意味をもつ人の名前をつけて発表していますが、その1つに「沈興澤海山」と沈興澤の名前をつけたものがあります。

 M39鬱陵島郡庁前記念写真

写真:鬱陵島の鬱島郡庁前での竹島視察団記念写真(明治39年)〔島根県立図書館所蔵〕


(参考文献)

  • 『竹島(鬱陵島)をめぐる日朝関係史』内藤正中多賀出版平成3(2000)年
  • 宋炳基「日本のリヤンコ島(独島)領土編入と鬱島郡沈興沢報告書」『韓国近代史論集』ソウル知識産業社平成2(1990)年

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